1. 名谷教会
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2025-07-06 29:40

2025/07/06:完全への招き

2025/07/06 32周年記念礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -48


サマリー

このエピソードでは、宮谷教会の32周年を祝い、神の愛に基づく完全さへの招きについて話されています。イエスの教えを通じて愛をどのように実践するかに特に焦点が当てられています。また、イエスが敵を愛し、愛における完全さを求める教えについても詳しく考察されています。神の愛が全ての人に及ぶことや、愛を通じて成長するプロセスが重要であることが強調されています。キリストの手を引いてもらいながら、互いに愛し合い、祈り始めることが求められています。宮谷教会の32周年に際し、互いを愛し、地域の教会とのつながりを大切にする必要があります。

教会の32周年の礼拝
それでは一言お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、
この暑い日が続く中ですが、
お一人一人を支えてくださり、また今日も、
あなたの御前へと集い、
礼拝ができます幸いを感謝いたします。
本当に主よ、この季節の中で私たちは、
体の弱さを覚える中にあります。
けれども、いくら私たちが弱ろうとも、
あなたの永遠のカイナはいつも、
私たちの下にあって、
倒れきることのないようにと、
支えていてくださることを覚えて、
ありがとうございます。
あなたは私たちを愛し抜いてくださいました。
その十字架の父よによって、
私たちの罪を許し、神のことし、
そして三神に甦えられた復活の命、
永遠の命を私たちに与え、
永遠なる人を結びつく、
共に生きる命を与えてくださいました。
あなたはもはや一人で立つのではない、
私と共に、私の恵みによって歩むのだと、
あなたの恵みの世界を私たちに教え、
あなたと共に御国を築く、
そのような使命へと私たちを
立ち上がらせてくださいました。
ありがとうございます。
主、今日は明太に教会の
32周年の礼拝を迎えております。
あなたが本当にこの教会を愛し、
そして教会の頭として
導き続けてくださった年月、
あなたの恵みと哀れみを
心から感謝をいたします。
そして同時に主よ、
あなたの器としてまたこの教会が
用いられるようにと願いながら、
今日も御言葉を聞いていきたいと思います。
どうか主御自身が御言葉を開いてくださり、
私たちに御声を聞かせてください。
ここに集う、ここに集いたくても集えない
お一人一人がいらっしゃることも覚えています。
御支度で礼拝を守らざるを得ない方、
心が離れてしまった方、
本当に施設でおられる方もおられますけれども、
主がどうかお一人一人とともにいてくださり、
あなたの恵みに生かしてくださいますように
お願いをいたします。
今日はまた三浦さんたちも来ることができました。
私さん御夫妻も来ることができました。
主よ、あなたが御声をかけてくださり、
招いてくださったことを感謝をいたします。
どうかお一人一人の上にも
あなたの恵みが豊かにありますように。
これからの時を御手に委ねます。
主が御言葉を開いてください。
やすさものお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
完全への招き
今朝は宮谷教会の32周年を祝う
礼拝の時をもっております。
周報にもお載せしましたけれども、
この教会は1993年平成5年の7月4日の正日より、
この宮谷教会の街道での礼拝が始まったと記録されております。
そういう本街道で礼拝が始まってから
32周年ということですね。
ただ、教会の歴史といいますのは
街道建築後から始まるものではありませんで、
記念史には1970年、昭和の45年の5月、
北相馬公園の野外集会から
この教会の歴史は記録されております。
調べたらもうちょっと古くからあるかもしれません。
ただ、そう考えれば実に
御言葉の種が撒かれてから
55年の歳月が経つわけであります。
そのような本当に長い期間をかけて、
しかしこのように教会が立ち、
私たちがここで主を礼拝しているということ次第が
私たちは生きておられるんだなということを
明かしする、そのようなものであると思います。
そのような32周年を迎える教会に
ふさわしい言葉だと思って
今朝続けて参上の説教の御言葉に
聞いていきたいと願っています。
特に御一緒に今朝覚えたい御言葉は
48節の御言葉であります。
48節。
これからあなた方の天の父が完全であるように
完全でありなさいという言葉であります。
天の父が完全であるように
完全でありなさい。
この御言葉はどうでしょうか。
人によってはとてもプレッシャーに感じる
そのような御言葉かもしれません。
特に信仰歴の長い方というのは
自分の罪深さをよく自覚されている方だと思います。
そういう方にとっては
いや、完全ということを言われてもしようと
そんなことは不可能ですと
私たちは言いたくなる
そういうものかもしれません。
ただですね
キリスト社の完全という本
有名な本ですが
キリスト社の完全という本を記しました
ジョン・ウェスレーという人がいます。
彼の時代にも
完全があるんだよと言った時に
多くの人たちが
いやいや、そんなことはありえない
人間にはそんなことは起きないんだと言った
その時代に
ウェスレーはこう言いました
いや、完全というのは
私たちの罪深さを見て
私が無理だとか
もしくは私にそれができそうかの問題ではない
完全という言葉から私たちが見なければならないのは
キリストは徹底的に私を救ってくださるという
キリストの力なんだと言ったんです
完全という言葉において
私たちが見なければならないことは
キリストは徹底的に
私を救ってくださるお方なんだという信仰です
そのことを覚えたい
どんな罪も歪みも憎しみも
人間はいろいろなものを抱えます
しかし主は私たちを解放し
救う力があるんだ
だから完全という言葉の前に
できませんではなくて
徹底したキリストの救いの力に
目を止めるということが大切である
それが32年目を刻む明太に教会で
愛の教え
特に共に覚えたいことだなと思っております
少し順にこの箇所に目を向けながら
キリストの言葉の意味を捉えていきたいと思っています
2つのポイントでお話をいたします
まず完全への招き
それは神の愛への招きであるということであります
神の愛への招きですね
参上の説教といいますのは
どういう説教かということを今までお話してきました
神様はイエス様を通してこの世界に
恵みのご支配ですね
神様の恵みをイエス様を通して表してこられました
その恵みの支配の中で
平和を築いていくというのはどういうことなのかということを
順に一つ一つ話していかれました
それが参上の説教です
そのような中でいろいろなテーマがあるわけです
前回は38節から見ましたが
これは報復についてのことを言っているわけですが
今朝43節から読んでいただきました
ここで取り扱われるテーマは
まさに愛についてであります
いわば私たちはどこまで愛するべきか
というそういう話ですね
43節の御言葉を読みしますと
こういうことが言われています
あなたの隣人を愛し
あなたの敵を憎めと言われていたのを
あなた方は聞いていますと
これは当時パリ裁判の人たちが
人々に教えた言葉でした
あなたの隣人を愛しなさいという言葉
これは旧約聖書のレビキの19章の18節の引用ですね
あなたの隣人を愛しなさい
ただレビキを見ていただいてもそうですが
それに続く言葉として
あなたの敵を憎めとは旧約聖書には書いていないんです
この言葉はおそらくですが
バビロン保守の後ですね
保守から帰ってきたユダヤの人たちは
そこでその地でまた生活を始めるんですが
いろいろな国の支配に合うんですね
ペルシャであったりギリシャであったりローマであったり
度重なる支配に彼らは合わされていきました
その中でこのユダヤの人々というのは
誰がユダヤ人で
誰がユダヤ人ではないかということを
ものすごく大事にするように歴史が発展していくんです
いわば誠の唯一の神を信じている本当のユダヤ人は私たちで
守れないあなた方はユダヤ人ではありません
というような線引きが明確に引かれるんですね
イエス様の時代もそうでしょう
安息日を守っているか
あなたは滑稽を受けていますか
あなたは食事をする時に誰と食事をしますか
それを通して当時の人たちは
ここはユダヤ人で
ここはユダヤ人じゃないですね
という線引きをしていたわけです
まさにそういう線引きは重要なものとして機能していました
おそらくその中で出てきた言葉なんです
あなたの敵は憎みなさい
そういう線引きというのは誤解を招くかもしれませんが
時に私たちの必要なことであります
私たちは自分を守らなければなりません
自分に不当な態度を取る人や
自分を傷つける人を
無理やりこの人は悪い人ではないと考えて
その人の悪に目をつぶるということが
私たちは時々あります
けれどもこれは不健全ですね
目を閉じても相手の悪が治るわけではありません
ですから自分を守るために
この人は敵とは言わないけど
私にとっては悪い人なんだという線を引くということは
私は大事だとお伝えいたします
ただですね
敵って言い過ぎると
今度は相手に対する想像力がなくなっていくんですね
ただただあいつは悪いやつという風にしか
私たちは見れなくなっていきます
大切なことは
自分もそして私自身もそうですが
限界のある一人の人間であるということを
認めなければならない
それをどこかで認めて
適切な距離から相手を見つめる
そういうことも大切なことでしょう
ただですね
敵を愛する教え
イエス様は今朝の歌詞を見ると
そこからもう一歩招かれるわけです
44節から45節
しかし私はあなた方に言います
自分の敵を愛し
自分を迫害する者のために祈りなさい
天におられるあなた方の父の子供になるためです
父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ
正しい者にも正しくない者にも
雨を降らせてくださるからですと
言われるのですね
自分の敵を愛し迫害する者のために祈れ
有名な言葉ですが
言い換えるならばこれは何を言っているのか
いや敵であろうともその線を越えていきなさい
ということを言っているわけです
あの人は敵だと線を引いている
あなたが引いているその線を越えていきなさい
敵と言いますのは
当時の人々にとっては自分たちを支配する違法人
いわばローマの兵隊だったでしょう
いえユデイ人同士の中でも例えば
種税人であったり
羊飼いであったり病人というのは
自分の仲間じゃなくて外だという風に見ている
そういう描写が聖書にはあります
境界線を引くのです
線を引いて自分の外に追いやって
あいつは敵なんだとみなして
だからどうなってもいいと言って
処理をしてきた存在がいる
しかしそれを越えなさいとイエス様はここで言われる
なぜならその根拠は45節の通りです
神というお方は
太陽も雨も
善人でも悪人でも
線引きをなさらずに
あなたにとっては味方の敵も
その両方にも太陽も雨も注がれる
言い換えるならば
神様はあなた自身も
そしてあなたが自分の外に追いやった
あの敵も愛しておられるお方だから
言い換えるならば
これは神の愛ということなんです
神の愛
隔てのない全ての人に
無条件で注がれる愛です
線を引いているでも線などない
神の愛ですね
そして私たちが招かれるのは
そのような愛と同じように生きなさいと
愛における完全さ
私たちは招かれるわけです
さあ何か重たくなってくるような気がいたします
二つ目のポイントです
だからこそ完全へ招くのですね
主は完全へと私たちを招かれる
48節に先ほど読みました言葉
ですからあなた方の天の父が完全であるように
完全でありなさいという言葉
完全という言葉だけを取るならば
私たちは何か罪を犯さない
完全人間になったイメージを持ちますが
文脈から見るならば
明らかにこれは愛における完全です
言い換えるならば
45節の神様の愛の姿に習いなさい
それと同じように生きなさいという招きです
さて果たして可能なのでしょうか
ことによってはもしくは人によっては
いやいやそんなことは絶対に無理です
と思われる方はいらっしゃってもおかしくないと思います
ただ今朝はキリストの徹底的な救いの力に信頼して
もう少しお一緒に話を聞いていただきたいと思うのです
一つ注目したい言葉があります
それはまさに完全という言葉であります
48節の完全という言葉です
これはギリシャ語ではテレイオスという単語なんです
その言葉の意味は
大人になるために必要なプロセスを一つ一つ経て
成熟していくという意味なんです
元の言葉は
大人としてのプロセスを一つ一つ経ながら
成熟していくというのが完全という言葉の意味です
ですから同じ単語を用いて新約聖書では成熟という言葉でも
この単語は使われます
私たちは完全と聞きますと
清明派の歴史においては
著しいそういう聖霊様の感化によって
自分の中の罪が全く根絶されて
自分が真っ白になる
自分が全く罪から解放される状態を
完全という言葉でイメージすることが多いですね
そういう見技がないとも私は思いません
それは主がなさることなので
あってもいいと思うんです
そしてただそのイメージだけが固定化してしまうと
そのためにいつまでも同じような罪が
自分の中で渦巻いている私自身は
自分の中にあるシミを取り除けない私自身は
ああ信仰が足りないんだ
ああ私は神に対する献身が足りないんだ
そういうことを表には出さずとも
自分の深いところで攻め続ける人はいますね
けれども完全というのはそういうことを言っているのではないんです
そういうことではない
先ほどジョン・ウェスレイの本を紹介いたしました
キリスト社の完全
この本の中で実はウェスレイが
神の救いの技によって
完全ってあるんだよって言った時に
いろんな人が周りに出てくるんですね
その中の一つは熱狂主義者という人たちです
彼らはこういうことを言いました
やあウェスレイ先生その通りです
精霊様の感化によって私は全く清められました
私は全く罪から解放されました
もう私は罪を犯すことがないでしょう
もはや経験のための修練も必要もないし
愛の労苦も考えずにただただイエス様を見つめるだけで私たちいいんですよね
ってことを言った人たちがいるんです
ただただイエス様を見つめるだけで
経験もそして愛の労苦も
愛するために苦しむことも私たちはする必要ないんですよ
ただただイエス様イエス様って家の中で一人やっておけばいい
この人々が熱狂主義となって
いやウェスレイの完全論は甘い
まだ罪を犯し得るとかいうウェスレイは甘いって言ったんです
そして自分たちこそが真実だと批判をいたしました
ただウェスレイはこれに対して明確に間違いだと言います
そんな理解は間違っている
なぜなら端的な事実として
あなたたちのうちに愛が見えない
愛が見えない
愛の労苦を捨ててしまったら
完全って何なのってことです
ウェスレイの有名な言葉に他者不在の清めなどありえない
そういう言葉がありますが
完全と言いますのは
自分と神様の間だけで
罪から離れたということを
喜んで完結することを意味するのではないのです
神に似るならば
いやキリストに似るならば
神が完全であるようにあなた方も完全であると言われるのであるならば
そこには必ず
相手を愛するという出来事が含まれていないとおかしいですよね
そのような愛することへの労苦のない完全は間違いであると
そうウェスレイは語りました
愛するというのは
私たちは互いに経験をいたしますが
苦闘ですね
愛するとは苦闘です
失敗や過ちを私たちはその中で繰り返します
しかしそうしながら
失敗や過ちを繰り返しながら
成熟への道
しかし私たちはそのような中で
自分の罪深さを知っていきますね
そして私たちはそのような中で相手を知っていくわけです
人間って何でこうなるんだということも知っていくわけです
でもそういうことを繰り返し繰り返ししていきながら
一つ一つのステップを追いながら
私たちは成熟していくわけですよね
愛することにおいて成熟していくわけですよね
完全とは
そのような一歩一歩
私たちが愛することを失敗したら諦めたくなりますよ
あいつは敵だと終わらせたくなります
でもその一歩一歩を踏み出し続けることの
勇気を失わないことです
完全とはそういうことです
愛する
神が壁を越えて愛された
私たちは現実はそう簡単には行かないでしょう
でもその壁を越えるための
一歩一歩を踏み出す勇気を失わない
パオロは完全という言葉を
彼は自身も使いながらこういう風に語りましたね
ちょっと別の歌詞を開いて申し訳ありません
ピリピビトへの手紙の3章です
ピリピビトへの手紙の3章の12節から16節をお読みしますと
こういう言葉ですね
ピリピビトへの手紙の3章の12節から16節
ピリピビトへの手紙の3章の12節から16節というのは
新約聖書398ページの下の段です
お読みします
私はすでに得たのでもなく
すでに完全にされているのでもありません
ただ捉えようとして追求しているのです
そしてそれを得るようにとキリストイエスが
私を捉えてくださったのです
兄弟たち
私は自分がすでに捉えたなどと考えてはいません
ただ一つのこと
すなわち後ろのものを忘れ
前のものに向かって身を伸ばし
キリストイエスに会って
神が上に召してくださるという
その賞をいただくために
目標を目指して走っているのです
ですから大人である人はみんなこのように考えましょう
もしもあなた方が何か違う考え方をしているなら
そのことも神があなた方に明らかにしてくださいます
ただし私たちは到達したところを基準にして
進むべきですと語ります
私はすでに完全に至っているのではない
パウロ自身が告白をいたします
ただ追い求めている
彼は何を追い求めているのでしょうか
それは前の10節11節ですね
私はキリストとその復活の力を知り
キリストの苦難にも預かって
キリストの死と同じ状態になり
何とかして死者の中から復活に達したい
パウロが追い求めるのは本当にキリストの姿なんです
キリストと共に苦しみ
キリストの重荷を負い
完全を目指す
でもキリストと共に復活に至りたい
そのために私はキリストを追い求めて
毎日毎日完全ではないなと思いながら
前を向いて全身を傾けて
走っていると彼は言います
そしてそのように
それを失敗しながらも追い求める私を
キリストイエスが捉えてくださっていると
彼はここで語るんですね
手を握ってくださっている
諦めるな
立ち止まるな
私たちの歩みを完全に至らせるのは
手を引くイエスキリストの言葉です
イエスキリストが
私たちを完全へと至らせてくださる
今朝の歌手に戻りますけれども
千を超える
いわば一度敵と見なした相手を
もう一度愛し
そのために祈る
どうでしょうね
それは私たちにとっては非常に不可能に近い
しかし
一歩を踏み出すことを諦めないことです
諦めないこと
全身を傾けて
今の私の最大限の心の広さで
相手を見つめるということ
可能ならどう祈っていいか分かりませんが
とにかく祈り始めるということ
精霊様の導きに委ねて
祈り始めてみるということ
イエス様が手を引いてくださって
私たちの祈りを導いてくださいますね
私たちはキリストが手を引いてくださり
キリストが徹底的に私をそこから一歩踏み出させる
その力を信じていただきたいのです
もう終わりますが今朝は
妙谷教会32周年の礼拝であります
私たちは一人一人
そして妙谷教会もまた
千を超え愛するということを招かれているように思います
私たちは兄弟姉妹を互いに愛し合いましょう
しかし神様は私たちのこの外の世界の人たちを愛しておられますね
そのことも覚えたいとも思いますし
妙谷教会のつながり
また教会単位で考えるならば
私たちは妙谷教会だけが大丈夫ならばいいや
ということを思いがちかもしれませんが
そういうことではないでしょう
私たちは第二ブロックの教会とつながっています
近隣の教会との協力であったり
個人的には西部教会とお近づきになれたらいいな
ということをとても思っております
妙谷教会の5周年の記念詩の中に
藤原博明先生がこう記しておられました
妙谷教会の設立後に関して
先生がこういうことを書いておられます
親教会である神戸西部教会も
大事な神徒が多く移動したこと
その後1995年に
思いもよらない大地震があったこと等で
勢いはダウンいたしましたが
主は見捨てられませんでした
今心から祝福されていることを心に覚えます
今後も何かと別々の行動が
多くなっていくことが多いと思いますが
やはり主に結ばれた絆は固いものがあります
お互いに声を掛け合いたいと思いますと
藤原先生が書いておられるんですね
実は役員会で今年
この32周年の記念礼拝の際に
西部教会のある神徒の方に
教会の設立に関する証をしていただこうと
企画をしていました
その方に依頼していいですかと
犬塚先生にお聞きしたところ
その方はもう施設に入られていて
しかしこの場に立つことは難しいということでありました
犬塚先生とのメールをいくつかやり取りする中で
こういう言葉がありました
32年前お元気で活動している方々は
施設に入所されている方
亡くなられた方々
自宅療養の方々が多く
もうスピードで教会は高齢化をしています
お祈りくださいと
3回メールのやり取りしましたが
犬塚先生にこの言葉を書いていました
宮谷教会も先生も同じです
ということを言いたくなりますが
全体を見渡すと宮谷教会元気なんですよ
まあこれはようなんですけどね
でも私たちは
1000を超えてと招かれるんですよ
1000を超えて
私だけが良かったらいいわけではない
この教会だけが良かったらいいわけではない
今朝私たちは
今朝週は私たちに語られます
父は自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ
正しいものにも正しくないものにも
雨を降らせて下さいます
私たちは善人も当然
しかし境界線の先ですよ
私たちにとっては
これは私の仲間なのかという線の先にいる人
ここまで私は手を出すべきなんですかと思っている
その線の先にいる人
しかしその人たちに
神様は太陽を昇らせ
雨を降らせておられるんです
そして主が招かれることは
私がそこに行って太陽を昇らせ
雨を降らせている
あなたも一緒にそれをしようと招かれるんです
あなたも一緒に太陽の輝きを昇らせ
雨を降らせようと
それが私の求める完全なんだよ
と言われるのですね
私たちは一歩一歩苦闘しながらですけれども
しかし主が私たちを引っ張って下さいますように
そして一歩を踏み出しながら
私たちができるこの明太に教会の32年目を
刻んでいきたいとそう願っております
一言お祈りをいたします
29:40

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