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それでは、雲博士より、「悲しむものは幸いだ」と題してメッセージを語っていただきます。
皆さん、おはようございます。
そしたらいつものように隣の方々と挨拶をしませんか。
ようこそいらっしゃいました。
それでは一言お祈りいたします。
悲しむものは幸いです。もう人たちは慰められるから。
神様、あなたの御言葉を待ち望みます。
どうかこの群れに、今日でなければ退くことができない、あなたの御言葉を我々に伝えて下さい。
私たちは、へり下り、砕かれた心、悔いた心をもって、主の御言葉をお聞きしましょう。
そして、月に伝える力の上から、私たちに注いで下さい。
このもの隠して、神様だけが、あなたの御言葉だけ、あなたの御様様だけが、このところに現されますように。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
今日は、サンズ・スイ君の二回目のメッセージでございます。
今日は、四節の悲しむものは幸いです。その人たちは慰められるから、という御言葉からともに、神様の御言葉をお聞きしたいと思います。
私だけですね、普段聖書を読むときに、聖書には時々ですね、私たち人間の思いと全く反対のような、あるいはずれているような、あるいは理解し難いという御言葉が出てきたりするんですよね。
ところが、そのような御言葉にこそ、人生の真理が、そこにある深い意味が隠されているのではないでしょうか。
今日の四節もですね、そもそも一つではないかと思います。
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もう一度、四節だけ御一緒にお読みしましょうか。四節だけ御一緒にお読みしたいと思います。
悲しむものは幸いです。その人たちは慰められるから。
悲しみというものは、私たちは普段普通にですね、不幸、できれば悲しみなんて避けたいと思うのが、ごく必然の人間の感情だと思います。
でもですね、イエス様は、御国の民たちに悲しむものは幸いです。その人たちは慰められるからと仰ったんですね。
この御言葉は何度もですね、読んでも不思議だなと、そう思いませんでしょうか。
皆さんがこの御言葉をですね、もしですよ、大人になってですね、初めてこの四節を読ませた時になるほどすぐ分かった方いらっしゃるでしょうか。
なんとなく分かりにくいなとですね、思われたかもしれません。
私たち人間は富や貴や名誉やあるいは健康、あるいは愛する家族や友人などを失うときに、悲しみの感情を覚えるのです。
また、あるいは信じていた仲間とかにですね、裏切られたり、あるいは人間関係がこじれてしまったときにも、悲しみの感情がこみ上げてくるんですよね。
私たち人間はですから、すべてがですね、順調にうまくいってですね、自分の思い通りにことが運んでいるときは、みんな得意になって、ますます自分の力を貸しやすくなるのではないかなと。
しかし、思いがけないことが起こってですね、壁にドンとですね、突き当たって行き詰まるとき。
そのとき始めて、私たちは自らの弱さを認め、人の助けの必要を感じるのではないでしょうか。
悲しみの中にある人は、失望しており、孤独なんですね。そして、口では口先では言っていないかもしれませんけれども、心のそこからは慰めを求めている。
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そして、そのときこそ、まことの慰め主なる、本当に良き主なる神様に触れるチャンスではないでしょう。
確かにですね、悲しいときに、あるいは落ち込んでいるときに、どうしようもないときに、信徒の仲間から慰めを受けたら、たくさんにそれは大きな慰めになります。
ですが、神様から来る慰めは、人の慰めとは異なって、まことに心のそこから与えられる慰めなのです。
ここで聖書をもう一箇所ですね、一緒に開きたいと思いますが、コリント・ビトエの第2の手紙、1章4節です。第2コリント・ビトエの手紙、1章4節。新約聖書345ページです。
神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めて下さいます。こうして私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも、慰めることができるのです。
またもう一箇所、同じ第2コリントの7章10節です。7章10節。353ページです。7の10。一緒に読みましょうか。
3回、神の御心に沿った悲しみは、悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
このようにありますように、悲しみを受け止める心にも二種類があるということがわかります。
ですから、ただ悲しいな、悪いなと感じるだけで終わるのではなく、悲しみの淵に立って、静かに今までの自分の人生を変えにみる、そういった砕けた魂が神様の御心に触れるチャンスが悲しみのときではないでしょうか。
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聖書の中には、悲しんでいる人がイエス様にお会いして、イエス様からの誠の慰めを受ける場面がよくあるんですね。
お開きにならなくてもいいと思いますが、ルカの横に来た長足を見ますと、ナインという町にヤムメが一人いて、自分の一人息子ですよ。たった一人の息子が亡くなりました。
そして、葬儀が終わりました。出館をするでしょう。出館の途中で、イエス様と弟子たちの一行にお会いしました。巡り合いました。
そして、イエス様は、一人息子に避け出された彼女を見て、深く同情をされました。
そして、イエス様は彼女にこのように言われました。
泣かなくてもいい。泣かなくてもいい。
そして、それだけではなく続いて、亡くなった死んだ息子に向かって、青年を新たに置きなさいと言いますと、その青年は生き返って、棺から出てきたのではないでしょうか。
悲しみの時にイエス様にお会いして、そこで彼女は大きな大きな慰めを受けることができました。
ですから皆さん、イエス様こそ、人からは得ることのできない慰めを与えることができるお母様であります。
ですから皆さん、私たちもこのような慰め主なるイエス様に私たちも日々お会いしたいのです。
では手を開きましょう。伝道者の書7章です。旧約聖書ですが、伝道者の書7章。新言の次が2節3節ですから、旧約聖書の1108ページでございます。
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それではこの7章の2節と3節を一緒に読みたいと思います。
これはソロモンの知恵書なんです。ここにですね、悲しみは笑いに勝るとあるんですね。ところが今の現代はどうでしょうか。
現代においては多くの人々は快楽や笑いを求め、どうしたら愉快に過ごすことができるのだろうかと考え、求めて生きているのではないかと思います。
しかし聖書は悲しみは笑いに勝る。なぜでしょうか。それは悲しみは私たちの心より、その悲しみを通してきっかけになって、心のけがれと言いましょうか、あるいは不純物を取り除く効果があるからだと思います。
例えばですよ、葬儀に行きますと、私たちは自分の人生に対して静まって立ち止まって考えさせられるようになるでしょう。
例えばですよ、私は葬儀に行きますと、よくこう思うんですね。自分は果たしてどのような日を迎えるんだろうか。人々は自分の日を見て、自分に対して何と言われるんだろうかと考えられたり、教えられたり、そういう時となるんですよね。
まあ、あえてこう考えましょうとですね、そうしようとしなくても、そう感じられるんですね。
人は皆一度死にます。その死を前にして、自分は本当に幸せだったなと言える人はどんな人なんでしょうか。誰がそのように言えるのでしょうか。
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だから聖書は福縁の家に行くよりは、墓中の家に行く方が良いと言っているんです。葬儀において人間は必ず死の時を迎えなければならないという厳粛な事実を教えられるからでしょう。
このように私たちの人生の最も悲しい時が、実は最も有益な時となることがあるのです。
一般的にですね、星は、空の星は、長く暗い冬の夜にこそ最も輝くそうです。あるいは男性も女性も好きなダイヤモンドはですね、熱と巨大な岩の圧力によって生じると言われています。
あるいはですね、見事な月祭の冬季は高いですね、幸運も炎の中で焼き上げられてこそ生まれるのですね。
天路斎の章7章14節にはこうありました。
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは持ちのことを人にわからせないためである。
ですから皆さん私たちは、いつもですね、順境ばかりの人生ではないと思います。
逆境の時、追い風じゃなくて向かい風が吹いてくる時があるでしょう。
そのような逆境の時には、我々人間はですね、反省するようになる。
ですから皆さん、悲しみとか逆境とかは、私たちの人生のあちこちに散りばめられている宝石のようなものではないでしょう。
今日の御言葉をもうちょっと掘り下げて共に考えてみたいと思います。
イエス様は、今日の四節を、悲しむものは幸いです、と前回に申し上げたように巻き張りをする。
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幸いなものよ、とですね、最初ポンと宣言なさっているんですね。
理由を説明していないんです、実は。
こうこうこうだから、悲しものこうこうだから、慰められますよ、幸いですよ、とかですね、説明はしていません。
宣言なんです。
ところが皆さん私たちは、それぞれが時々悲しみを抱えたり、その私たち一人一人に向かってイエス様は、悲しむものは幸いです、と宣言なさっているんですね。
ですから、この宣言の御言葉によって、イエス様が悲しんでいる私たちの現実のただの中に、私たち自分自身がじゃなくですよ。
自分自身ではなく、イエス様が幸いを作り出そうとしておられる、それを受け止めさせていただく、これが信仰なのではないでしょう。
そのプライドは何でしょうか。
前半で申し上げたように、それは人たちは慰められるということです。それが幸いです。
悲しむ人々には慰めが与えられる。そこに悲しむ人々の幸いがある、とイエス様が言われました。
それですね、慰めというものは一体何なのかを共に考えていきたいと思います。
慰め、それはその悲しみの、痛みの原因の解決とか、それは亡くなるとか消えるとか対象と考えならば、その通りであるかもしれません。
しかし、ここでおっしゃる、慰められるの、慰めとは問題の解決や解消ではなく、悲しみの中で、そのただ中で、その重みを背負って生きていく力を与えられるということです。
ですから、慰められることによって、もちろんですね、悲しみが痛みがなくなることもありますよ。
神様それを取り除いてくださることも確かにあります。しかし、いつもそうであるには限られない。
むしろ悲しみがなくなるのではなく、悲しみを背負って生きていく、生きていける力がですね、神様から与えられるということです。
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その慰めるという言葉は、励ます、進める。
しかも、ヨハネの訓示を見ましたら、聖霊様をさせて助け主とありますね。
その助け主のパラクレイトスという自立者ごと、この慰められるとは同じ語源なんです。
そして、その元の意味は、傍らに呼ぶ、傍に呼ぶという意味がここにあります。
ですから皆さん、慰めは、傍らに呼んでくださる方がおられるところに、そこに与えられる。
私たちを傍に呼んで、慰めと励ますと進めを与えてくださるのは誰でしょうか。
イエス・キリスト。
その人たちは慰められるとは、イエス様ご主人が悲しんでいる私たちを傍に呼んでくださいます。
そして、優しく丁寧に慰めを与えてくださるという宣言、約束なんです。
では、どこで私たちは慰めを受けることができるんですか。
私たちはどこでイエス様の傍に呼ばれるのでしょうか。
それは、礼拝のときでしょう。祈りのときでしょう。
人生の戦いからちょっとの間離れて、まるでスポーツの試合のときに、
監督が試合の途中にタイムをかけて、選手たちを呼ぶように、
そういうイエス様の傍に呼ばれて、慰められ、励まされ、進められるのでしょうか。
しかし、人生には実は途中のタイムというものはないです。
ですから、ある意味では私たちは、自分の喜びも悲しみも、あるいはもどかしさも、
全て使えたまま、礼拝に集うでしょう。
そこで、非常にイエス様の傍に呼ばれることが、そのときに起こるのです。
礼拝のとき、祈りのときに、あるいは賛美のときに。
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でも皆さん、それは実は、イエス様の方が悲しんでいる私たちの傍に来てくださり、
優しく丁寧に語りかけてくださるということです。
私たちが呼ばれるというよりは、イエス様が私たちの傍に来てくださるということです。
それが、イエス様が天の御座をしていて、この世にお生まれになったことに、そういう意味があるのではないでしょう。
私たちは、イエス様の傍に呼ばれるのではなくて、
主イエス様御自身が私たちの傍にまで降りて来てくださって、悲しんでいる私たちの傍に立っていてくださる。
ですから私たちは、いつもではないでしょうけれども、
時々は悲しみに押しつぶされそうになっている身を引きずるようにして、
私たちは礼拝に集まることが、たまにあるいは時々あるかもしれません。
そしてそこで、私たちのために苦しみと死を引き受けてくださったイエス様が、
自分の一人一人の傍にいて、私があなたの傍にいるんだよと、私たちを担って支えてくださることを示してくださるのです。
そしてそこで私たちは、慰めを受けるのです。
このように皆さん、私たちの心の現実を見ますと、
いつもではありませんけれども、時々、悲しみはなお変わることなく、
私たちの傍に落ちて、そのまま残っている時があるのではないでしょうか。
ゼロになって、全くなくなったらいいんだけれども、そのまま残っている時が、
もちろん皆の中でも、先生、私はなかなか悲しみなんて感じていないんですよと言われ方がおられるかもしれません。
そもそもものすごく楽天的な方で、それでよいでしょう。
ところが、たまにでも時々悲しみを覚える時があるのではないでしょうか。
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結果とお開きしたいと思います。旧約聖書の伊沢書63章9節です。旧約聖書1229ページ。
伊沢書63章9節を一緒に読みたいと思います。
これはですね、今日の第六日号書の4節と本当に繋がっている見事だと思うんですね。よろしいでしょうか。
ご一緒にお読みしましょう。3回。
彼らが苦しむ時にはいつも主も苦しみ、御自身の使いが彼らを救った。
その愛と憐れみによって主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、抱いてこられた。アーメン。
皆さん、この見言葉をこの朝、心に留めていこうではありませんか。
昔からずっとですよ、昔からずっと。
あなたが私が苦しんでいる時に、悲しんでいる時に、主は私たちを一人一人を背負ってくださっている。
抱いてここまでこられるということなんですね。
なんという励ましになる、なぞさめになる見事なんでしょうか。
このように悲しみの森の下にある私たちが、そばに共にいてくださるイエス様とのお出会いによって、
主イエス様が悲しむ私たちを担ってくださることによって、悲しみに押しつぶされることなく、
それを背負って立ち上がり、新しい一歩を踏み出していく力が、上からイエス様から与えられるということなんです。
それを日々味わいながら歩んでいくことが信仰の道ではないでしょうか。
ところが皆さん、その力は私たちの中にあるものでもありますが、主はイエス様がくださる力は異なります。
イエス様によって、父なる神様が私たちをご自分のものとしてそばに置いてからまる。
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そして、そして孤独にはしない。離れることはない。見捨てることもなさらないと、主はおっしゃってくださいました。
もう一つ掘り下げて考えてみますと、悲しむ人々は幸いであるというこの教えは、悲しみそれ自体が幸いであったり、あるいは悲しみそれ自体が価値があったりするわけではありません。
悲しみをですね、無理に幸いと思わなければならないというものでもあります。
私たちのために、十二神の苦しみと死を受けてくださったイエス様。
その方がそばにいてくださることによって、悲しみは私たちが慰められる。
そしてその慰めをいただきながら歩むときに、私たちの悲しみは主が共にいて共に歩んでくださるからそこに意味があるものです。
それから進んで人の悲しみに共感する同情心と言いましょうか、あるいは憐れみの心と言いましょうか、それがまた与えられていくということもその一つです。
そしてなお私たちは自分の罪を、過ちを悲しみ苦しみ、あるいは悔やかねることによって主イエス様によって慰めの中でこそ私たちはその主の慰めをいただけるのです。
そして人の罪を悲しみ、それを責めるのではなく、共に泣き、共に悲しみ、共に悔やかねると至るということもイエス様による慰めの恵みではないでしょう。
だからイエス様は悲しむものは幸いですとおっしゃったからです。
ところが皆さん、たまにプリさんは教会に来ていたら、いつもニコニコ喜んでいなければならない。
辛い顔をしてはいけない。人に心配をさせるから、辛くても笑顔でいようというふうに過ごしている人たちに会えることがしばしばありますが、
そのような脅迫関連に捉えられる必要はあります。
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イエス様は私たちにこのように丁寧に優しく語りあげてください。
あなた方は悲しんでいいんだよ。泣いていいんだよ。
ただ忘れないでほしい。その悲しんでいるあなたのそばに私がいる。
泣いているあなたのそばに私がいて慰めを与えようとしているというイエス様の見声があるのでして。
ですから皆さん、教会に、家庭でもそうですけれども、教会に来て悲しい時には悲しくいられていいでしょう。
辛い時には辛い気持ちでいていいでしょう。
そのイエス様の見舞いに出て、私たちは仮面と言いましょうか、お面と言いましょうか、マスクをかぶっていなくていいんじゃないでしょうか。
第二ササロニケ五の十六節に、いつも喜んでいなさいというのは、悲しみなどがないかのようにあっても推し隠して生きようということではないんですよね。
この慰めに支えられているから、悲しみがまだちょっとだけ残っているかもしれませんけれども、でもこの悲しみを背負って歩みなさい。
私がそばにいるから、力を私が与えるからという言い声を聞いて歩むことではないです。
皆さんイエス様は、私たちの痛みも悲しみも辛さもすべてでおられるおばかりです。
皆さんはどうでしょうか。
最近何か悲しみや、あるいは痛み、あるいはもどかしさを感じられたことはないでしょうか。
ある意味で私は、最近非常に辛い日々を送って、心の中に痛みや悲しみ、もどかしさを覚える日々であります。
自分が歩んできたこの道が果たして間違ったんだろうかと、など深い悲しみの川の中に沈みそうな気持ちでいます。
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だから皆さんに憐れんでほしいという、そういうお声ではあります。
最近はですね、かなり弱気というより、自分は無理でないかな、僕になってはいけないものが僕になってしまったのかな、
日本に来てはいけないものは来てしまったのかな、そういうところまで桜で考えさせられる日々を送っております。
私たちが悲しみに沈む時、悲しみの方であられるイエス・キリストは近くにおられます。
そしてその時こそイエス様の恵み深い愛に触れることができるんです。
では、そして私たちの悲しみをその悲しみのままに終わらせる方では、私たちが悲しみと孤独の中にある時、私たちは決して一人ではないということを皆さん知っていてほしいんです。
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新約聖書500ページです。4節ご一緒にお見せしたいと思います。
3、彼らの目の涙をすっかり拭いとってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったがらである。
皆さん、私がもう一度読みますね。
彼らの目の涙をすっかり拭いとってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったがらである。
その日が必ず来るということなんですね。その日にだけではなく、今も死は生きておられ、私たちが悲しんでいる時に、苦しんでいる時に、つらい時にですね、死は私たちをご自身のかたわらに呼んでくださる。
いや、私たちのかたわらに来ていてくださって、共にいてくださる。そして、私を見てね、私の目を見上げさせてくださって、死を見上げさせられるように呼んでくださる人がおられるということではないでしょうか。
だから、悲しむものは幸いなんです。結論を申し上げますと、悲しむものは幸いです。その人は慰められるからとおっしゃいましたけれども、
皆さんこれは、イエス様が私たちに何か慰めになりそうなものをお与えになるから、私たちがやっとゲットした、もらえた、それで幸いというわけではない。
イエス様ご自身が慰めながらしい。慰め主なんですね、主。聖霊様ご自身が慰めながらしい。
ですから、私はイエス様から来る何か良いもの、プレゼントを欲しがるクリエイターであるというより、イエス様ご自身が私たちのかたわらにいてくださる。これこそ、私たちにとって最も大きな慰めなのではないでしょうか。これを心に届け出す、この一週間を歩んでやります。お祈り致します。