1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/02/08:愛の執りなし
2015-02-08 43:36

2015/02/08:愛の執りなし

2015/02/08 聖日礼拝

斎藤亘師

ピレモンへの手紙 8-19


00:02
おはようございます。
今朝こうして、ご一緒に礼拝と、
また、久しぶりに名谷教会でのご奉仕のできること、大変感謝しております。
いつものように、お互いそこで、お隣、向こう三元、両隣でありますけれども、
ご挨拶をして、そして、礼拝を進めてまいりましょう。
おはようございます。
それでは、一言お祈りをお捧げいたします。
恵み深い、御在県の地なる神様、
この2月の寒さも厳しい日が続いておりますけれども、
今朝もこうして、共に見舞いに集い、
礼拝をあなたにお捧げできるようにしていただきました、この恵みと、
また、このような与えられた特権のゆえに、
衆佑を心から感謝いたします。
どうぞ、良い言葉を開き、私たちに聖霊がそれぞれにお語り下さるとともに、
また、このところから、新たにされていれることができるように、
私たち一人一人を備えてください。
主耶族キリストの皆によって一言、見舞いにこの祈りをお下げいたします。
アーメン。
だいぶ前の話ですが、
大阪で約100人ほどの牧師が出席しました教会成長研修会というのがございまして、
その時にアメリカのフランシン学大学のほか、
神学校からウィン・アンという先生が講師としてお見舞いになりました。
その講師が皆さん方に質問をしたいと。
皆さん方のうち、どういうきっかけで教会に行くようになったのか、
イエス様を信ずるきっかけをお持ちなさったのか。
例えば、ベンハという映画を見たのがきっかけで教会に行くようになりましたとか。
あるいは音楽を聴いて、こういう音楽の背景にそういう信仰があるならば、
私も一度教会に行ってみようという。
そういうことで教会に行ったとか。
いろいろケースケースがあろうかと思います。
皆さん方も知っていらっしゃると思いますが、
伝道隊の選挙をしてきております。
格話のほうで伝道なさっている、何て言いましたかね。
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今、名前が突然思い出したもんですから。
彼はね、私は刑務所でイエス様のことを初めて聞きました。
そしてそれはベンハという映画で非常に感銘を受けて、
それから服役し終わってから教会に行くようになりました。
そしてそういうところから、やがて日本に選挙主として
おもにが与えられてきましたという証をされたんですね。
この先生は、当時アイリランドといろいろありました中での
今問題になっております、テロ活動をしておりましてね。
それこそ、お兄ちゃんと二人で入っていたそうですけれども、
襲われて、両足を打たれて、もう身動きできない。
ただ命だけが助かったという、そういうところを終えて
彼は、普通一般にはあまり考えられないようなケースでしたけれども、
この刑務所に入り、そしてそこでもって申し上げたような
映画が一つのきっかけになって、イエス様を求めるようになったという。
そういうケースもある。
あるいは三浦彩子さんの塩刈り峠であるとか、
そういう書物を通して教会に行くきっかけを得たという。
みんなありますね。
その都度、そういう導かれ方をした方、何人いらっしゃいますかと手を挙げるんですね。
そうすると、二、三人パラパラと手を挙げるんですね。
じゃあ、もう一つ最後にお尋ねしたい。
皆さん方は、誰かによって自分が教会に行くきっかけをつかんで、そして教会に行った。
家族であったり、奥さんであったり、ご親であったり、
あるいは子供であったり、親であったり、あるいは友達であったり。
誰かそういう関係で教会に行くきっかけがあって、そして今日に至っている。
そういう方はどのくらいいらっしゃいますかと聞いたら、ほとんどの人がね。
手を挙げてくださいましたが、ほとんどの人がね、そこで私も手を挙げましたよ。
私もそういう友達がおって、そして教会に誘われて、そして行ったそういうものですから。
ですから私も手を挙げてほとんど見たら、ほとんどがそうです。
つまり、誰かによって教会に行くきっかけ、あるいはイエス様にお信じするそういう導きを得て、そして行くようになった。
赤城一丸教会で最後の奉仕をしておりました時に、金田陽介というですね、彼が伝道師として一丸教会に来て、
そこでもって一緒にこの奉仕をする機会が1年ほどありました。
私はその金田陽介先生、今熊本に赴任してきましたけれども、彼のおじさんというそういう方。
この方と学年は向こうが2級ほど上なんですけれども、私が教会に行った時に、行くきっかけは友達がおりました。
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行ってから、陽介先生のおじさんが、当時高校生でしたから、いろいろ仲間に入って、そして教えられますし、
そしてまたいろんな点で足取り手取りでもって教えてもらって、そして教会生活というものがどういうものか、信仰生活がどういうものかということを教えられたんですね。
ただ、惜しむらくは、その方が大学を卒業して、そして千葉の方で高校の先生をしている時に、突然滅されたという。
本当に私はですから、もうショックでしたけどね。
けれども、当時Aちゃん、Aちゃん言ってたんですけれども、またAちゃんと会えるからいいやという、そういうことで、自分なりの信仰の中でも受け止めております。
私にとってはですから、教会に連れて行ってくれたその友人もそうですが、教会に行ってからそういうふうにして、いろいろと教えてくれた、導いてくれたという、そういう人がおって、
そして今にあるんだなと、いつもそのことを、二人のことを思い出すんですね。
私を直接導いてくれた、教会に誘ってくれたのは私と同い年ですが、
ところが今はもう、この首から下が気のしない車いすの生活でおりますけれども、しかし口は達者ですから、時には電話でもって話すこともありましたけれども、
しかし本当に思いもしないような、そういう山を得て、そしてそういう中にあります。
けれども、首にあってのね、それはもうずっと、それから、ですから彼とはもう苗字を呼び捨てでもってね、こうやるぐらいの中で来ておりますよ。
今もそういう友達が県債であるということを大変感謝しております。
私はこの、前回もこのピレモン書からね、信頼っていうことのどんなに素晴らしいかということをお話ししましたけれども、
改めてここを読み返しながら、言うならば、パウロがピレモンに書いたこの手紙の内容をこう読んでいきますと、
ここでこの二人が、一人の人のために、二人が本当に心を寄せて、そしてパウロはお願いし、またピレモンはそれを受け止めるという、そういう関係で、
ここに初めて登場してきた、このオネジノという一人のこの青年。
彼がこういう二人の手によって導かれていく、その内容というものがここに記されているわけですね。
ピレモンを信頼し、そしてまた彼を信頼しておればこそ、こういう内容の手紙を書いて、そして再びオネジノをピレモンのもとに託すというか、
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そういう関係がここで描かれて記されております。
その時のこのパウロのオネジモに対するこの気持ちというのがね、私はもう何度読んでも、ああイエス様は私をちょうどオネジモを思うパウロのように、
言うならばそれ以上の思いでもって、この私という一人の人間のこの救いのために、どんなに心配し、また思いを尽くし、そして虜しながら、そして導いてくださっているかということをこう思うんですね。
そこでこの、読んでいただきましたこの8節以下を見ますと、ここで改めてパウロはピレモンに私のお願いしたいこと。
言うならばここからのことがこの手紙の本論に入るわけですね。
そしてそこで彼は初めてオネジモのことを口にするわけです。
実はその背景がありましてね、オネジモはピレモンのもとでもって、彼は奴隷としてそれをうかがわせるような言葉がこの16節ですね。
ピレモンのもとでもって彼はかわれて、そしてこの奴隷としてやってくる。
その若いオネジモは、これ奴隷ですから障がいそこでもってずっと過ごすわけですけれども、まだ私の知らない世界があるんじゃないかと。
一度やってみたい、行ってみたい、試してみたいという、若い時代というのはそういう思いというのが募ってきてね。
親のもとさえ離れれば、なんかそこはもう新しい別世界があって、そこでいろんなことがやれるんじゃないかなというのはそういう思いを持つんですね。
私もそうでしたよ。
ですから私はその18歳、高校を卒業して、そしてある一つの教会に託されて、そこで修養戦みたいにして新学校に入るための準備をしなさいと言われて。
私は最初はね、もう全く知らないところでのその教会生活なんですけれども、もう本当に気持ちいっぱいで持ってそこに行きました。
1週間持たなかったですね。
持たないというか、いつの間にかね、その町の駅まで来てるんですよ。
それで、何分の電車に乗ったら帰れるなとかね、こういう道で行ったら帰れるのになと思いながら、駅へ向かうそういうこの足っていうんでしょうかね。
言うならホームシックですよ。
もう1週間も経たないでやられちゃって。
それまではもういつ、もう明日か、明後日かっていうぐらいにして、親のもとを出て、そして晴れて自由の身になってなんていうのは、そんな思いを持って。
ですから私は何となく、この尾根下のことを想像しますとね、こう相通じるものを感じるんですね。
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ピレン桃本で、彼は尾根下はこの奴隷ですから、そこでしょうがない。
自分の趣味を、自分のやりたいことなんかそんなことは全く通じない世界で、彼は、言うならとろわれ人のような立場で持っておった。
そこへ彼はあるとき、ふっと、まあよく言う間が察したっていう言葉でしょうかね。
尾根下はピレモンのところから何がしかのこのお金を盗んで。
で、お金さえあれば、自分はこの奴隷の身から解放されて、そしてまた知らないとこ行けんじゃないかということで、どうもそういう不埒なことをやってしまって。
そして飛び出した。
で、行った先がローマなんですね。
当時の世界の中心はローマですから、ちょうど大阪を憧れるように、あるいは東京を憧れるように、若い人たちのそういう思い出持って、彼はローマだーって言ったんでしょう。
どれだけのお金を持って、そして盗んでいったのかわかりませんけども、しかしS37はすぐなくなってしまう。
それも自分は、それこそ奴隷ですから、もし捕まったならば死罪なんですよ。
当時のこの奴隷の置かれている立場っていうのは、そういう厳しい一面があって。
ですからもう生涯そこで費やさなくてはならないわけですから。
彼はですから、もうそれこそ命を懸けて、そして飛び出してローマに行った。
けれども何もなくなってしまって。
この頼る当てもないという中で、彼がふっと耳にしたのが、自分がピレモンさんの元でもって奴隷をしていた時に、
よくピレモンさんの教会に来て、そして我々に聖書の話をしてくれた、その方の名前が入ってきたんですよ。
パオロですよね。
ですから彼は、誰も知らないようなそういう未知の世界でもって、ふっとそういう勝手聞いた名前を知ったならば、えぇっと思って。
それで彼はそのパオロの元を訪ねたんですね。
そしたらパオロはローマ兵に守られて、護衛されて、そして軟禁状態ではありましたけれども、そういう境遇になって。
パオロの元に来ましたこのピレモンは、そういうパオロだから自分のことは何もかも知っているだろうと思いつつ、不安な気持ちでもって、
パオロの元でもって、それこそ手になり足になって、そしていろいろと世話をするようになっていた。
ピレモンの元でもってパオロに出会い、そしてパオロを通して話を聞いた時にはさっぱりとわからなかったんでしょうね。
だからとんでもないことをやって、そしてローマに出て行っちゃったわけですよ。
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しかし改めて自分は今はピレモンからそういうとんでもないことをやって、そしてローマに来ている、
そういう中でもって彼はパオロの元でもって、一緒に生活したわけではない身の回りの世話をしながら、
パオロがローマの兵隊たちに話すその話を聞きながら、
私も本当にここでもってイエス様を信じたいという気持ちがだんだん募ってきて、
そして彼はそのことをパオロに。
パオロはいつもオネシゴのことを気にしながらローマの兵隊たちにもイエス様のこと、聖書のことを話したでしょう。
そういう中でもってこのオネシゴが本当にイエス様を信じた。
そして余計彼は、オネシゴはパオロに心から本心から使えるようになった。
誰もいないから仕方がない、パオロ先生知ってたから、じゃあというのじゃないんです。
もう真心からパオロの愛心としてパオロに使えるようになって、そして一生懸命使い出した。
パオロは、しかしオネシゴは一生懸命自分のためにやってくれるんだけども、
それでいいのか。
それはもともとオネシモの所有者ですよね。それはピレモンですから。
それをピレモンに黙ってオネシモが一生懸命やってくれることをいいことにして、
そしてその関係でもってオネシモを使うということはどうだろうか。
そういうところから、彼はピレモンにオネシモの行き立つを書きながらここでもって、
彼は虜をするわけです。
その時私は、パオロがどういう気持ちでもってこのオネシモのことを口にしたか、
この9節を見ますと、むしろ愛によってあなたにお願いしたいと思います。
年老いて、今はまたキリストイエスの囚人となっている私パオロ、
オネシモを取り成すために死とパオロという、そういう立場は関係ない。
確かにその前の、こう見てまいりますとね、ピレモンさんとの関係から言うならば、
私はあなたに明示することもできるかもしれないけども、そういうことじゃなくて、
愛によってお願いしたいんだ。
しかも、実際囚人というこのパオロに置かれている身はそうですから、
ですからそれは間違いないんですけども、
あえてこのオネシモのことを考えると、死とパオロ、そしてピレモンに対して私はあなたの牧者だ、
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けどもそうではなくて、
一囚人としてこのオネシモのことをあなたに改めてお願いしたいんだ、という書き出しですよ。
言うならば、オネシモと自分は、
装備においてはこの法的な面では違うかわからないけども、しかし、
イエス様の前においては、同じ囚人であり奴隷であり、
そして何がそこには区別もなければ差別もない。
これがクリシャンの世界なんですよね。
牧師と神徒というのは立場が違うだけで、責任が違うだけで、
イエス様を信ずるということにおいては、みんな一緒なんです。
どっちが偉くて、どっちがその舌で持ってという関係ではないんだということを、
パオロはここでも案に言っているんじゃないでしょうかね。
そして彼は、ここでこういう言葉を使った。
牧獣で産んだ我が子オネシモ。
文面科のだけだったならば、いつの間にパオロ先生自分の子を持っていたんだろうかな、
そんなこと聞いたこともないし、というようなことになりかねないようなそういうことですけれども、
しかしこれを読んだこのピレモはすぐ察したでしょう。
自分のところからとんでもないことをやって、そして逃げ出したそのオネシモが、
なんとこともあろうにパオロ先生のもとにおった。
しかも俺だけじゃない、彼はパオロ先生のもとでもって、
本当にクリスチャンとして新しく生まれたんだな、というそういう関係ですよ。
そしてパオロは続ける。
確かに彼はね、ピレモンさんにとっては無益な存在だったかもしれない。
けれども今はその名前の通り、オネシモ、本当のオネシモになった。
有益なものになった、という、そういうこの紹介論です。
オネシモに対する、それですよね。
17番ピレモンの手紙の一番中心的なこの言葉かもわかりませんが、
彼は前にはあなたにとっては役に立たないもの、存在ばっかり与えていった、という。
しかし今はあなたにとっても私にとっても役に立つものとなったんだ、
ここがクリスチャンの一つの境目、というんでしょうか。
私はイエス様を信じるまではこうだった、
けど信じてからは本当にこうなった、という、それが証なんですね。
私は前にも申し上げたことがありますけれども、あんまり家族には証にならないような、
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教会に行った時は一応それらしい顔と一生懸命やっている姿を見て、
皆さんにも一生懸命やっているわ、なんて思われていたんじゃないかな、と思いますけれども。
家に帰っちゃったときなんですね。
もうそれこそ母親の前でも父親の前でも。
ただそういう中でこの父親がね、私のルスの時に私を教会に連れて行ってくれた彼が誘いに寄ったんでしょう。
あえにく私がその時ルスだった。
で、その時にお前の親父がこう言ってた。
私も最近はちゃんとお釣りを返すようになった。
本当かって言って。
まあお釣りのやりとりじゃありませんけどもね。
というのが私にはその時イエス様を信じてから少し変わったところからならば、
ちゃんと何か買って、頼まれて、そしてお金を預かって行って、お釣りは全然返したことがない。
まあその辺りが支配するならば、教会に行ったらちょっと変わってきたんだなというような、
まあそんなところしかないんですよね。
もう家での私の証なんて、その程度なんですね。
けどもその両親が、今の白川栄光教会ですが、そこは宣教師のそういう群れから独立した時に場所がない。
たまたま私の家の2階が空いとったもんですから、
じゃあそこでどうだって言って、そして両親に話したらいいよって言ってね。
ですから一応のそのキリスト教に対する理解とか、そういったものがだんだんとこうできていったのかなと。
ただこの両親も私がクリスチャンになった頃はですね、別に反対するわけではなかった。
何でも三日坊主っていうそういう言葉がありますけども、長すぎしないってことを知ってますから。
ですから教会に、あ、そりゃいいって。
まあそのうちまた変わるだろうからっていう、まあそういう寛容さっていうんでしょうか、なんかわかりませんけども。
とにかくそんなんでね、あの話がちょっとずれちゃいましたけども、
まあそういう中でもって、このお値下を取り成すこのパウルのこの気持ちっていうのが、そこに表されてきている。
しかも、ただ我々にとって、まあ今度は役に立つから大丈夫だっていう、そういうだけじゃないです。
これが素晴らしいですよね。
彼は私の心そのものだ、なんとなく流行歌手にあったような内容じゃないかなと初めて読んだときに思いましたけどね。
あの人は私の心ですっていうのは、そういう歌詞が、なんかの歌に、演歌か何かにあったんじゃないかなと思いますけども。
まああまり知りませんからその程度ですけども。
しかしそんなんじゃないですよ。
私の心だっていうことは、私のもう全部だっていう意味合いでしょう。
ラブレターでそんな書かれたらもう撒いちゃいますよね。
24:04
あなたは私の心だ。
まあこれはもう殺し文句みたいなことになるかわかりませんけども、一回書いてみたいなと思ったけども、書く機会はありませんでしたがね。
ぜひね、そういうことでもって書いてあげたならば、相手は喜ぶと思いますよ。
しかしそんな平易なこの表現じゃない。
パウロにとっては、オネシモは今本当に特別な存在。
私の全部だっていうぐらいの気持ちでもって彼はオネシモをあなたのもとに送り返します。
なぜなら彼は私そのもの、私の心なんだ。
そのあとは、このオネシモとパウロのその関係のことがそこに記されておりますけども、
今改めてそのオネシモをあなたのもとに送り返したい。
本当に一生懸命やってくれたけども、しかしただ一つ私の心に引っかかってたのは、黙ってね。
ピレモンさんあなたに黙って彼を自分のもとに送ってのはどうかなとずっと思ってきた。
そこで改めて彼をあなたのもとに送り返すんだけども、
ただそこでは私がお願いしたいのは、私の心そのものまでなった、そこまで変わった、整えられたこのオネシモ。
今度はね、奴隷というだけじゃない。
奴隷以上のもの、という言葉が先ほど読んだこの十六節。
そしてパウロはここで改めて使った言葉は、愛する兄弟として彼を受けてみてほしいんだ。
もうここに至っては、パウロとオネシモがどういう関係にまでなっていたかということは、もうピレモンもよくわかったと。
そしてわかっただけではない。
そこまでパウロはオネシモのことを思い、そして私のもとに送り返す。
そして送り返すけれども、どうぞお願いしたいそれは、愛する兄弟としてそのことをお願いしたいんだ。
そしてさらにこの十七節。
ですからもしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。
27:04
と彼はそこで持ってピレモンに託すわけですね。
それまでどれだけピレモンに迎えられて、パウロはその家庭集会を、家の教会の集会をしてきたことか。
そしてパウロとこのピレモンの関係は、そういうことも含めて本当に表裏一体となって、そして一緒にやってきた。
何一つ隠すこともないし、また隠したとする必要もないし。
ピレモンもまた本当にこの自分を慕って、そしていろいろと自分にこの依頼もし、そしてまた託すこともあった。
パウロは、私はピレモンとの関係においては、この彼の働きによってどれだけパウロ自身の働きが支えられたことかということを思うんですね。
こういうピレモンのような、そういう彼の働きをサポートする人がおったればこそ、
彼は人パウロとしての働きをいろんなところで持って進めることができたぐらいに、ピレモンの存在は大きかった。
私は50年のこの牧師としてのそれを振り返りますと、いくつかの教会ずっと転勤してきましたけれども、
どこの教会でも、特に皆さんよくやってくださっている中でも、特にいろんな点で私の助け手になった人が神様を備えてくださって、
その人のおかげでもって自分は今日まで来れたなという思いがその思いの中にあるんですね。
その時はあの人を追ってくれた。あそこでは少々きついことを言われたけれども、
その人を追って言ってくれたから私は守られたんだなということを思ってみたり、
もっと若い時代は面と向かって喧嘩をやっちゃったことがあるんですけれども、
しかしそのことがあった今こそ、その後は本当にいろいろとやる神徒と牧師という枠を超えて、
もう家族でこのお付き合いもさせてもらうぐらいに慣れたという、その教会の中でもってその家族その人の存在というのが私に大きかったですね。
考えてみると、パウルの働きを支えたこのピレモンということを考えますとね、
私はパウルにとってピレモンの存在がどんなに大きいか、
だから彼はね、オネシモのことについては、もう自分の思いの洗いざらいをそこで持って、
そこに記しながら、あなたとの関係において私を迎えてくれたように、私を支えてくれたように、
今度はオネシモを同じようにしてほしいんだと、そしてそこで持って言ってるんですね。
30:00
しかもそれだけじゃないんですよ。
まあ確かにオネシモはとんでもないことをやってますから、大きな負債をピレモンに対して持っているわけです。
逃げたっていう、それだけでも大きい。
しかもその上にですね、どれだけのお金を盗むのか私はわかりませんけれども、しかしそういうものを持ち出してそして逃げたわけですから。
けれどもパオールは改めてここでね、オネシモがあなたのもとにおいて、大きな負債を抱えただろう、負わせただろう。
彼の負うべき負債は、私が負います。私に請求してください。
別にこのピレモンの、それを見込んでそうして言ってるわけではないと思う。
まあここまで言ったらピレモンはきっと聞いてくれるに違いないという、彼の計算があってのことじゃなくて。
本当にオネシモはピレモンのもとにもってとんでもないことをやってるわけですから。
実際私のもとにもっては、本当に役立つようになった。クリスチャンになったんだ。
けれどもそれとこれとは別だ。
だからあなたに対して、あなたに負わせてしまったその負債は、今は私の負債として、私が全部これを負うから。
だからその請求は全部私のもとによこしてください。
こうして私は実際に参与しますと言って、そう書いてるんでしょう。
その請求は私にしてください。この手紙は私の、私パオールの実質です。
今までの手紙はだいたい断出が多いんですよ。
けどことここに至ってのパオールのこの気持ちは、このことを私自身がここにサインします。
そう言ってここにこう書いてる。そして私がそれを支払います。
この関係を見ていきますとね。
おねちごという一人の青年のためにピレモンと交わす内容ではありますけれどもね。
申し上げたように、こう、イエス様が私たちを取り成すために、どんな思いでもって私たちをその救いに至らせ、
そして私ということのためにですね、取り成しを今もしてくださっているか。
ということがそこでもって容易にわかります。
ですから私はこの、言うならばピレモンとパオール、そしてその取り成されているこのおねちごという三者の関係をこう思うとね、
他人事じゃないんです。
私にとってもイエス様はパオロ以上の思いを持ってね、今も取り成してくださっているというのがよくわかります。
33:11
あの、一箇所ちょっと開きましょうか。
このヨハネ第一の手紙、ヨハネ第一の手紙、もう最後の方ですが、この二章の一節を読みますとここに、
465ページですね。
二章の一節、私の子供たち、私がこれらのことを書き送るのは、あなた方が罪を犯さないようになるためです。
もし誰かが罪を犯すことがあれば、私たちには御父の前で弁護する方がいます。
ギナルイエスキリストです。
私はこの言葉を読んだ時に、何かほっとした思いがあったことを忘れられないですね。
クリスチャンがありました。あまり証のできないような人間でしたけれども、
何とか罪を犯す前としてこうやった、しかし罪を犯してしまうということがしばしばあって、
言葉の上でやってみたり、態度でもたらしてみたり、いろんなのがありましたよ。
だから私はもう、本当に底を突かれたならば、せっかくイエス様を信じたのに、やっぱり私はダメなケースですというね。
どうにもなりませんというのはそんなんですね。
そういうね、もう落ち込んだ中でもって、この読んだ一つはこの二章の一節。
もし、まあ私の場合はもしというのはもうないんですけれどもね、
しょっちゅう罪を犯すんですけれども、
けれども罪を犯すことがあったならば、私たちのために、ここに道の前で弁護する方がいます。
やるイエス様だ。
イエス様が十字架についてくださったあの手の身傷は、
今も私たちのその全ての罪をね、私は本当にとんでもないことをやる、危なっかしい人間。
けれどもイエス様はその十字架についてくださった、その時に受けなさったその身傷を父なる神に示しながら、
父よ、彼の罪を私が全部負いました。
あの十字架で受けなさったその傷跡をそこに示しながら、今も取り出してくださっている。
そしてもう一箇所を開きましょうか。
それと関連してこの開くその言葉は、このルカニオル福音書の方ですかね。
36:04
新約聖書のルカニオル福音書。
ルカニオル福音書の二十二章。
ここはペテロがイエス様に対して裏切り行為をする、そこですね。
で、そこでもってね、この三十一節に、「諮問諮問みなさい。
サタンがあなた方を麦のように古いにかけることを願って聞き届けられました。
しかし私はあなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。
だからあなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。」
私はこれはもう伝道者になってから、やっぱり過ちを犯して、そしてもう私はもうだめじゃないかなというような中におったときに、
一人の人を通して、「斎藤さんこういう言葉があるのよ。」って言って呼んでくれた。
それは知ってた言葉なんですよね。
けれども自分がそういう中に立たされて、心見られておればこそ初めてそこで気がついたような言葉なんです。
けれども本当に忘れられない。
イエス様は今も私のために、勝手ペテロに対してそうであったように、今も私のために取り成してくださっている。
あなたの信仰がなくならないように。
このときペテロは分からなかった。
私も最初のときはそうと呼んでしまって分からなかった。
けれども実際彼がとんでもない過ちを犯した中で、彼はこのことを知っていくわけですよ。
それをペテロはペテロ第一の手紙の御書でしたからそこに書いてますよ。
神様、あなた方のために本当に恩ばかりくださっている。
誰よりもあなた方のことを信頼してくださっている。
これはこの辺りのペテロの経験から、そのペテロ第一の手紙の御書でしたから、その言葉が生まれかかれたと思いますよ。
ペテロほど大きな失敗をした人はいないかも分かりません。
39:00
お前は失敗をするかもしれないよ。
いや失敗する。
けど失敗の中であなたの信仰は無くならぬように祈ったから立ち直ることができる。
そして立ち直った時には他の人たちを励ましてあげなさいというそういう言葉。
全く彼はこの時は通過しちゃった。
しかしその後彼がそれこそサタンのフルにかけられるようにしてイエス様を裏切っていくわけです。
この大きな大きな裏切りの中でもって彼はこの言葉を直に自分のものとして彼を思い出したでしょう。
思い出しただけじゃない。
実際そういうことを持って悩んでいる人たちに対してね。
あなたが一人本当に心の中でもってあるいは罪を犯してしまったら落ち込んでいるかも分からない。
けどあなたのために取り出してくださる方がいらっしゃる。
あなたのことのために一番心配してくださっている方がいらっしゃる。
その方にいられなさい。
ペトロはそういう風にして当時のこの教会に書き送っている一文に彼はそのことを書いている。
自分の体験に基づいたその一文を書いています。
私はペトロとイエス様との関係もそうですが、
ペトロとイエス様の関係においても、彼は本当にそのことがよく分かって、
そして彼はシトパウロとして立っていくわけですけれども、
言うならばオネシモという、確かにそこに一人の精霊存在があるけれども、
ここでペトロはね、オネシモのことを引き合いに出しながら、結局自分がそうなんだ。
自分もオネシモのように取り出してくださる方がおられればこそ、
私も同じ救いに扱って今あることができるんだという、
そういう思いが彼の中にはしっかりと、一言言うならば彼はイエス様を知って救われたという、
そういうのがベースにあればこそ、
たんでもないことをやってしまったこのオネシモ、彼の問題じゃない。
そういう問題を起こしたけれども、彼のためにもね、
イエス様は今も取り出しとして全く道を歩むことができるように今も立っていらっしゃる。
そういうピレモンとオネシモとパウロというこの関係を通して、
私は本当に今もイエス様と私の関係において、
イエス様が私のためにどんなに思いやりを持って、今さらに導こうとされているか。
だから私は本当にこういうことが分かっていたらこそ、
42:01
分かったから、ここに来れたわけではないですけれどもね、
クリスチャンとして60年近く、このことが分かって教えられて、
そして今々に来たということにおいて、
本当に自分がクリスチャンであるということに今改めて感謝していますよ。
ですからぜひね、本当にこの恵みを、この大きなイエス様の取り出しを受け止めて、
そして一緒にクリスチャンとして歩んでいきたいですね。
お祈りいたしましょう。
今それぞれ、この聖書の言葉から何らかの光が与えられたかと思います。
どうぞその光に立って、ご自分の言葉として、祈りとして、
そしてこういう取り出しの中に置かれる自分の存在とともに、
しっかりとイエス様を捉えて歩むことができるように、
ご一緒にお祈りいたしましょう。
そして最後に一言短くお祈りをいたします。
ではご一緒にどうぞ。
恵み深い一代の神様となる文化に沈める、
パウロの思いの中に、今私ともおいていなさい。
どうぞ、あなたの恵み、あなたの一世を、記憶の中に。
43:36

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