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2022-06-12 28:39

2022/06/12:慰めは神から

2022/06/12 聖日礼拝

光田隆代師

マタイの福音書 5:1-12


00:00
おはようございます。
3回目になりました。
今日は、花の日、子どもの日ということで、先月からご連絡をいただいておりましたが、
子どもさんたちを中継にお話をするわけには、ちょっといかなくなってしまいまして、申し訳ないです。
でも、できるだけお伝えしたいと思います。
憎みを下さることは、世界の中には様々な痛みや混乱が満ち溢れています。
しかし、私たちは、あなたの見前に出て、すべての嘆きを見前に投げ出して、
あなたをひたすら待ち望む時が与えられることをありがとうございます。
すべてのものを支配され、また、永遠まで導いておられる神様ご自身を、
今日も、見上げることができるように、私たちの信仰を引き上げて下さいますように、お願いをいたします。
どうぞ、この中で、新しくあなたとお出会いし、あなたの礼拝をすることができるように、
4節を中心にお話をしていきます。
今日は花の日、子。
27シーズンではないので、6月の花といえば、
アジサイぐらいで、あと一体何が咲くのかなと
よく思っていました。
今は少しコロナの影響で、
礼拝の後、花をいろんな病院とか、いろんな
学校とか消防署とかですね、届けることができなくなって
来ていると思うんですけれども、
アジサイを持ってくる人がとても多かったんですね。
03:03
アジサイは割と水切りが難しくて、
礼拝が済む頃には食って、
この週、駅、電車を使う機会が何回かあったので、
駅の周りには割とクチナシの花が今、
よく咲いていまして、白い、たくさんの花びらを
つけた花が咲いて、いい香り、とにかく、
目でクチナシを探すよりも、香りで気が付くという
そういう花であるわけです。
この花の日、教会の礼拝堂に花を飾って、
そして子どもたちの祝福を祈るということであるわけですけれども、
自然は私たちに、神様のことをいろいろ思い出させてくれます。
花はいろいろな形があり、いろいろな色があり、
いろいろな香りを備えていて、
それぞれの個性で輝いているわけですね。
しかし彼らは、自分で動くわけにはいかない、
言えられたところで咲いているわけですけれども、
それぞれの個性をもって輝いています。
ですので、私たちの周りにいる幼子たちも、
命に満ちあふれていて本当に元気ですけれども、
一人一人の個性と能力といろんなものが抑え付けられずに、
満開になっていく、
清教をすることを本当にお祈りいたします。
そして一人一人が喜んで生きて、
そして花を咲かせて、
実を結ばせて、次へ繋いでいくというような、
前回の営みと重なるような良い人生を歩んでいけるように、
心からお祈りしたいと思います。
話が前後しますけれども、
昔は花を持って病院にも訪問に行ったりしましたけれども、
最近は花粉症のことで花粉が嫌われて、
花は要りませんというような状況になってきたり、
昔こうしていたということがそのまま今には通じない状況にはなってきています。
しかし捧げられた花をせっかくだからどこかにお届けしましょうという発想ですね。
何か自分が置かれている状況でこうなっているから、
こういうことで人を助けたり慰めたりしましょうという心の働きというものは、
とても大切にするべきことだなと思っています。
それで今日も本文に入っていきます。
06:04
皆様はこのマタイの福音書の五章をよくお読みになりますでしょうか。
私はもう何度も何度もこのところに帰ってきては初心に帰るような思いがいつもさせられる場所です。
先ほどの四節は、悲しむものは幸いです。
その人たちは慰められるからですと言いますが、
旧約聖書を読むと幸いですというこの言葉が使われている詩編などを見ていると、
例えば有名な詩編の1編であるとか2編であるとかを読んでいて、
その中に三つ四つの幸いですという言葉があるのを見て、
たくさん幸いが歌われているんだなと改めて思わせられました。
それらを一つずつ見て、皆様の聖書にも印象箇所があったりすると思いますので、
そういうところを見ていただくと、そして開いてみると見えてきます。
それは幸いな人は結局、神様に信頼を置く人が幸いだと言っているのに、
どれも行き着くような感じです。
ですから、この幸いは神様抜きの幸いではなくて、
そこに神様への信頼、信仰があってこそ生まれてくる幸いであるということを受け取ることができます。
あと有名な幸いといえば、
ザビレが歌った「悔い改めの詩編」の52編に、
その罪が赦され、祖母が追い帰される人ということがありますように、
やはりそこの祭売も神様との関係が回復されて、
神様が仲直りできる状態になった人の祭売を歌っています。
ですから繰り返しになりますが、
私たちの幸いを神様抜きで考え分けにはいかないということを、
聖子はずっと旧約の時代から私たちに教えてくれています。
そこで、今日の悲しむものということを見ていくんですけれども、
悲しむという悲しみとか、そして嘆きという言葉に訳される言葉です。
09:00
私たちの日常生活に悲しみどうでしょうか。
皆さん多いと思われますでしょうか。
自分の生活を振り返って悲しみ、嘆きが多いなと思われていますでしょうか。
それとも、案外喜んでいることが多いかなと思われていれば幸いです。
しかし、悲しんでいる人にも幸いがあるということを聖子は語るわけですね。
私たちの悲しみというものには、何かを失ってしまうとか、期待が外れるとか、いろいろなものがあります。
家族関係の中で悩み、病気になって悩み、いろんな思いがけない出来事、そして自分が思う通りにはいかないということで、悲しい思いをすることは度々あります。
そして今、先にも言い習えたように、この中でいろんな経済的にも悲しみを覚えたり、
世界中が対立している、わがままを言い合って対立しているような状況に、私たちの心は悲しみを覚えざるを得ないわけなんですね。
先ほどここの聖書が言う幸いは、神様との関係の中でこそ得られる幸いということですので、
神様抜きの幸いはありません。
新約聖書のコリントビカイの第2の手紙の7章10節というところに、この有名な御言葉があります。
神様の御心に沿った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
ここに悲しみに二つあるという小僧が言われています。
神様の御心に沿った悲しみというものは、救いに至るんですけれども、もう一つの悲しみ。
この世の悲しみは死を来たらせるということが言われています。
ですから、間違ってもこの世の悲しみの方にとらわれてしまわないということが大切になります。
先ほども言いましたように、この世の悲しみはいろいろあります。
死に至らせる悲しみというものの出だしはどういうところから始まるかわかりませんけれども、
なんでこの家に生まれたのか、なんで私の身長はあと5センチ高くなかったのかとかですね、
12:04
あの学校に入れなかったのが悲しいとか、私の育った家と環境が悪かったんだとかいう悲しみを抱く人は、
多いですし、私たちももしかしたら、もうちょっとお金があったらよかったのにとか、いろんなことを思いがけだったり嘆いたりする可能性はあります。
しかし、それらのこの世の悲しみはやはり結局そこばっかりに、そこの方向を向いてしまうとですね、
自分の願いと現実が違うことに対する悲しみですから、結局自暴自棄になって、ある方は荒れてしまった生活に行き、
またある方は直端に言えば死を選んでしまうような生き方へと到達してしまうということが言えると思います。
しかし、そういう悲しみを、私たちがそういう悲しみ方をしないように、神様は私たちを導いてくださっています。
この悲しむものは幸いですという言葉だけを見て、いつも悲しんでいる、悲惨に暮れて悲しい思う地で生活しているのが素晴らしいと言っているわけではないわけですね。
だから勘違いをしたらですね、いつも喜んでいるのではなくて、悲しみの沈んだ面持ちで真剣な顔して生きているのがとても尊い生き方であるように、
勘違いする方ももしかしたらあるかもしれませんが、神様は決してそのようなことは思ってはいらっしゃらないわけですね。
神様の言われるところの悲しみは、神の御心に沿った悲しみということですから、
自分の内面に光が当てられて、自分はこういう神様に喜ばれない、また神様に背を向けようとする、またそれてしまおうとする自分がいるということに気が付く人、
そういう心の悲しみを持っている人には、国のない救いの道が用意されていると聖書は私たちに教えてくれているわけです。
ですからいつまでも自分の考えだけの一方通行で言うならば、私たちの魂はもう救いようがないわけですけれども、
その目を神様の方に向けていくならば、私たちにはその人たちは慰められるからですとありますように、
15:05
神の方向、私たちを作られて、そして私たちを限りなく大切に、何があっても、私たちがいくら失敗してダメであっても、大切にされる神様の方向をちゃんと向き直すことができれば、私たちは必ず慰められるということがここに記されています。
信仰生活の長い方が多いと思いますので、先週テンテコステ、聖霊降臨の記念日をお祝いしましたけれども、聖霊というのはギリシャ語でパラクレートフというのだというのをお聞きになっていると思います。
私はギリシャ語もできませんけれども、パラパレオという動詞ですね、片腹に呼ばれたものという動詞から生まれているのがパラクレートフという、聖霊という名詞なんですけれども、ここで使われている慰められるという受け身の形の言葉は、将来、これから慰められるということが約束されています。
その、聖霊である神様は助け主と呼ばれたり、慰め主と呼ばれたり、また援助者と呼ばれるとか、いろんな意味が含まれていることを私たちは聞いています。
そして、この聖霊である神様は、私たちのために、私たちに尋ねて聞いてくださって、私たちの内なるものが沈み込んでしまわないように激しく立ち上がらせる力を持っておられる、そういうお方です。
その方を、その聖霊の神様との働きが、その人たちは慰められるからです、ということと多分関わっているんだと思うんですね。
未来系の形で抱えてあるので、おそらくこの時点から後に、イエス様の十字架と復活の後に、聖霊がおいでになって、一人一人が満たされる時代になって、その慰めというものが現実になってきているのだと思います。
ですから、聖書から言うと、神様の方に悲しんでいる人が、聖霊の慰めと助けと励ましと、そういうものがたくさん備えられている中に生きることができるということを見出すのではないかと思います。
18:03
今日の賛美を選ぶときにどうしようかなと思った一つの歌があるんですけれども、よく昔、ビリー・グラハムという人の伝道集会の最後の招きのときによく歌われていた、イサオナキワレオという賛美が231番があります。
これを作詞したシャーロッテ・エリオットという方は、早くクリスチャンになって大変な病気になられて精神的にも弱っていたときに、どうしたら神様をしっかりと知ることができるのかということを悩んで、牧師先生に説明されたそうです。
そのときにありのまま、そのまま神様のもとへ行けばいいんですよということを教えられて、この歌が出来上がったということがあるものに書かれてありました。
心の痛でに悩めるこの身を、イエス癒やしたもう、身もとに我行く。頼り行く者に救いと命を、イエス誓いたもう、身もとに我行く。
ちょっと前後しますが、
疑いの波も恐れの嵐も、イエス静めたもう、身もとに我行く。
悲しんでいるまま、つらいまま、そのままでイエス様のもとに行けばいいということを、自分が体験してこの歌を作ったと言われています。
同様に私たちも悲しみと嘆きの場面に遇っても、ありのまま何とかなってから神様の前に行くのではなくて、もう嘆きと憂いのそのままで神様は呼んでいて下さるということを私たちは教えられます。
この今、慰められると聖霊のお話をしていますけれども、
ヨハネの福音書の14章はここもよく皆様がご存知のこと、26節と27節を少しお読みいたします。
聖霊に関してイエス様がおっしゃった約束の言葉です。
ヨハネの福音書14章26節と27節をお読みします。
21:06
しかし、助け主、すなわち父が私の名によって骨幹子になる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、私があなた方に話したすべてのことを思い起こさせて下さいます。
私はあなた方に平安を残します。私の平安を与えます。私は世が与えるのと同じようには与えません。あなた方はここを騒がせてはなりません。
イエス様が与えてくださるものはこの世が与えるものとは違いますと言っておられます。
そしてイエス様が聖霊によって私たちにくださるのは平安、神様との調和、一致、そういうものを与えてくださると約束しています。
ですので、この悲しみ、悲しむものが幸いであると言われるときに、悲しみそれ自体が幸いであるというのではなくて、その悲しみに出会ったことで私たちが神様に近づくことができる、神様に呼ばれている、
この聖霊は私たちの傍に傍りに来られていますけれども、私たちは聖霊に呼ばれているものです。そしてもっと私に委ねるように、また尋ねるように、求めるように、
聖霊のある神様の方が私たちに訴えてきてくださるということをまだ知ることができると思います。
それで、毎日の生活で私たちはこのように神様から招き招かれ続けて生きているわけですね。
それで、慰めということは、不安とか恐れとか悲しみが平和になるという大切な一面と、もう一つ先の慰めを考えるときに、
私たちは、もう一度イエス様が来られること、そして永遠の御振りが備えられて、私たちはそこへ招かれているという最終的な慰めですね。
それがあることを忘れてはならないわけです。この治療で確かに悲しみが多くて、戦いも多いわけです。
そしてすべてが解決するわけではないんですけれども、永遠という御国を用意されたイエス様は、そこで私たちのすべての涙を拭い、
そしてすべてのことに対して報いを用意してくださるというこの約束が私たちにあるということ、
その最終的な慰めを私たちはしっかりと見つめ直す必要があるのではないかと思っています。
24:10
この世で確かにいろんな貧困がなくなったり、戦いがなくなったりすることは珍しいことですけれども、
なぜかそういうふうにはならないような流れに私たちは生かされています。
しかしこの人の手紙の中には、この一時的な観難はそれと比べ物にならないほどの重い永遠の栄光をもたらしますとありましたように、
この世の観難は本当に一時的で、永遠のものはもっと重い栄光を私たちにもたらすことを約束。
先週、日本福音同盟の総会に初めて出席させていただきました。
私の隣でお話をしていらっしゃった先生は、岩手県の森岡から来られていた。
なぜ福音同盟に加入されたかというと、十数年前までは加入していなかったんですね。
でも東日本の大震災が起こった時に、自分たちのグループはバクテスト関係の団体でしたけれども、
全然JAとは関係のない枠の外にあったんですけれども、
しかしその震災が起こった時に、そのグループに同盟に入っていない自分たちのグループを非常に助けてくれたということで、
よく皆さんご存知の岩手県の助けられて、それからあまり関係のない私たちを助けてくれたということから、
きっかけでJAに加入されて、今は交わりを始められているということでした。
そのところで、震災は本当に今も大変なことでは、キリスト教会にとっては震災を通して新しい交わりが生まれたということが語られていました。
27:07
ですから一つの悲しい出来事が起こっても、そこから何か新しい生き方を見出すというか、
互いの関係を作っていく、その道が開かれていく時に、私たちは決してそれは悲しみで終わらないで、新しい希望が生み出されるんだということをその時にも感じた。
神様を見上げて生きていく中の悲しみには希望ではなくて慰めがありますし、
またそこで神様が励まして暮らされる中に生きているならば、それを乗り越えていく力も必ず与えられるということを知るのではないかと思いました。
そして最初と最後だけに今は小さい人たちもこれからいろんな生き方を信頼することを家庭で学ばれて、そしてどんなことがあっても神様に慰められて立ち上がっていく、一人一人として成長していくことができるように、共にお祈りをさせていただきたいとお祈りを申します。
28:39

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