00:01
アーメン、ありがとうございました。
みなさん、おはようございます。
おはようございました。
それでは、今日も見事会に入る前に、隣の方から挨拶をしませんか。
はい、よくいらっしゃいました。
ありがとうございました。
はい、えっと、先ほど三菱教材の祈りの中にありましたけれども、
先週の金曜日に、私は修行期でした。
一年間ですね、科目としては、そもそもは、もっと多く学ばなかったのではなかったのですけれども、
いろいろ配慮していただいて、四つの科目を勉強させていただきました。
また、火曜日に行って、夕食から始まって、定例期とか、また朝の争点、
また時には水曜日の朝とか、木曜日に行って、土曜日に行って、科目を勉強させていただきました。
私としては、何と言いましょうか、いくつかを学んだ、とても良いチャンスだったと思うんですね。
その中の一つは、謙遜を、謙遜と言いましょうか、謙遜を学んだ、
短いですね、謙遜でしたけれども、そういう時だったと思うんですね。
と言いますのは、自分なりに、日本選挙のために、日本に使わされるまで、15年があったわけですから、
15年間、自分なりに、たくさんの、さまざまな勉強をしたり、日本語から日本文化や教科や、
さまざまなことを勉強してきたものでしたけれども、自分なりに結構知っていると、そういうふうに思っておったものですが、
また、短い期間でしたけれども、しにゃこで研修を受けながら、勉強しながら、先生方と触れながら、また進学者たちと暮らしながら、
自分が結構知っていないんじゃないか、そうですね、考えさせられて、また本当に、僕会社は天に召される島で、
さまざまなことを学びながら、そういうことを学んだことでした。
自分としてはですね、教団の背景も違いますし、進学というものも違いますし、そういう違いから、さまざまな自分の幅がですね、
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強くなった、広げられた、そういう恵みの時だかと思うんですね。
みなさんの一年間のお祈りと協力を心から感謝したい、一言お祈りしたい。
愛する千葉にしさま、きょうは、ヨハネオペカミン大師から、四書の御言葉から、神の愛について教えていただきたいと切に願っております。
そしてあたらしがどんな愛をもって歩むべきなのか、どうぞあなたが示してください。
聖霊さま、どうぞ独り独りの魂の心の中に、あなたの御言葉を教えよ、教訓を教えてくださいますようにお願いいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日のメッセージのタイトルは、「境界線のない愛」と言いたいです。
神様は愛です。
神様のことを最もおさわしく、よくあらわした言葉は、愛だと思うんですね。
その神様の愛を、私たちは今日の説教の題のように、「境界線のない愛」という視点から、観点から見ていきたいと思うんです。
よくよく、皆さんが祈られる時とか、生徒に神様の愛を指して、「計り知れない愛」あるいは、「限りなき愛」とか言われるんですけれども、
もうちょっと違った角度から、「境界線のない愛」と表して、共に考えて、そして教えていただきたいと、そう願っております。
実は今日のメッセージは、自分の失敗談も話させていただきたいと思っておりますけれども、
今も瑞穂ですが、今日度今年で新学校復旧して、実は韓国で復旧して11年目になりますけれども、
この短い11年間の僕会社の生活を振り返ってみましたら、たくさんの失敗をやってしまいました。
神様からほんとに砕かれたこともたくさんありました。
あるいは自分の信仰の足りなさのゆえに、自分の人格の弱さのゆえに、家族や周りの人々に傷つけたことも、失敗をさせたこともたくさんあったかと思います。
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その中で様々な僕会をしながら、いろんな人と接しながら砕かれたり、伝えられたり、あるいは言達されたことの中の一つが、この愛の広さということです。
愛の幅の広さということです。
もっと多くの人々を委託、愛の豊かな僕氏にならなければならないのに、家様のようにどんな人をも委託ことができる、どんな人をも受け入れることができる、受け入れる愛の僕会社にならなければならないのに、
自分の愛の器の幅は、あまりにも小さすぎて、多くの人を委託ことができなかったことも、いまだに小さいなと思うんですね。
例えば、今日の新学生たちにもそういう経験をさせられたと思うんですが、私も今このときに、一年生、二年生のときには、四人で一部屋で利用生活をしました。
でも、現在は学生がもう千人以上ですから、みんなと仲良くするのはもうできないわけですね。
でも、少なくとも同じ部屋の四人が一緒に暮らすわけです。でも、それぞれ違うんですよ。ある人は、散らかしてばかりして、ある人は、朝ですね、アラームを設定して、いくら鳴っても起きないんです。
そういう人もいるし、早く寝る人もいるんですけど、夜中2時、3時まで明かりをつけて勉強している人がいるんですね。
四人で暮らしながら、私その中でいい経験なりに、ときにない経験なりに、そのときに、そういったとき、あるいは自分のライフスタイルと言いましょうか、
あるいは、従わない人とか、あるいは自分の気にいらない人とか、何とか会わない人とか、そういった人々を抱くことができなかったことが多くありました。
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そんなときごとにですね、神様から問われたことがありました。
それは、お前の愛の幅はそれぐらいか、お前の愛の広さはたったそれしかできていないのか、そんな広さで魂を救うことのぼっかりさになれないのか、と問われたことがたくさんありました。
ときには、人をさばいたり、何で我慢するの、ちゃんと片付ければいいのに、ちゃんと掃除すればいいのに、アラームが鳴ったら起きて切ったらいいのにとかですね、
夜早く寝て授業に起きておればいいのに、授業に寝て夜勉強する、何でそんなに無駄なことをするとかですね、
そんなときに神様が、ときには神様から問われました。あなたの愛の幅はそれぐらいなのか、そんなときたびに神様に私は悔やかされて祈りました。
私は、私には愛がありません。ありません。許してください。
ときには、自分好きな人ばっかり、好んだり、こういう人はこうだから、ああいう人はああだからといって、線を引いて拒んだり、そうしたことがたくさんありました。
愛のない福祉でした。分けたり、境界線を引いたり、そうしたものでした、とですね、悔やかなことがたくさんありました。
自己自分的な愛でした、と悔やかなことがたくさんありました。
そうしてですね、神様から鍛えられ、伝達されながら、ほんの少しですか、少しずつ、愛の幅が広げられてきたな、と思うわけなんですね。
でもまだまだ、自分の愛の幅がまだまだ狭すぎるな、と、ついつい思わされるときがたくさんあるわけでございます。
みなさん、神様の愛は、ジェス様の愛は、分けない、境界線のない、区別しない愛なんです。
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どんな人をも抱くことができる愛なんです。どんな人をも受け入れることができる愛。
聖書一箇所ですね、一緒に見てみたいと思います。
ルカノフクイン教第5章、27節です。
ルカノフクイン教第5章。
私は27から29節まで読みますので、みなさんは30節をお読みください。
その後、イエスは出て行き、主税所に座っているデビという主税人に目をとめて、私について来なさいと言われた。
すると、デビは何をかもして立ち上がってイエスに従った。
そこでデビは自分の家でイエスのために大振舞いをしたが、主税人たちや他に大勢の人たちが食卓についていた。
すると、バリサイ人やその他の立法学者たちがイエスの弟子たちに向かって呟いていた。
なぜあなた方は主税人や罪人ととも一緒に飲み食いするのですか。
みなさん、当時は女性、罪人、主税人という人々は一般の他の人々と隔離されたような、疎開されたような分けられて、
だから一般の人々と一緒に飲んだり食事をしたりすることはできなかったわけです。
その境界線がはっきりした区分が、区別が、差別が、境界線があったんです。
ところがイエス様は、その差別という境界線を、イエス様はそれを越して、いやそれを破って、
なんと主税人のまたいを、ただ一度食事をしただけではなく彼を弟子に迎えたんです。
これはありえないことなんです。
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三十世にわかると言うように、パリサイ人、その当時の立法学者たちの目から見れば、これはとんでもないことなんです。
イエス様はそれを、境界線を、差別という線を越えてですね、弟子に受け入れてくださった。
ただ二十九世と言いますと、他の主税人も、たぶんですね、礼儀の仲間だったと思うんですね。
どこどこのJ館とか、どこどこの城の門にですね、そこでそういう主税人たち。
そういう時々一緒にですね、食事をして待ち合いをしていた。
その時に、いつも区別して、分けて、そして境界線を引いていったパリサイ人たち、立法学者たちはですね、
つづいてとですね、なぜあなた方は主税人や住民と共に一緒に飲み食いするんですかと、
イエス様の愛は、この後イエス様の愛を深くですね、共に吟味して、噛みしめて、考えていただきたいと思います。
イエス様の愛は、区別しない愛。
境界線のない、どんな人も抱いた。
どんな人をも許した。
皆さんにはそんなことはなかろうかと思いますが、私はまだまだ未熟ですから、妻とたまにトラブルをする時がある。
その時に神様から問われることはこんなことです。
お前はたった妻一人も愛しきれないのに、どうやって多くの羊の群れを愛することができるんだろうか。
お前は妻一人、たった一人さえも抱くことができないのに、どうやって多くの羊の群れを抱くことができるんだろうか。
私を見習いなさい。
私の愛を見習いなさい。
私のこの境界線のない愛を見習いなさい。
何度も神様から示されたことがあります。
その時に私の見舞いに来て、胸を裂く心を持って、心を痛めながら悔やめて祈るんですね。
18:18
主よ、私を憐れてください。
私には愛がないのです。
私には憐れみがないのです。
私は涙を持って祈る時がよくよくあります。
もう一度申しますが、皆さん。
私たちの神様、イエス様、精霊様の愛は境界線のない愛なんです。
イエス様は、適応も愛しなさいとおっしゃったんですね。
私たちは人間は、自分とちょっと違ったら線を引こうとする気持ち、本性があるのではないかと思うんですね。
私のものとあなたのものを区別する。
そして侵害されることを好まない。
小さい子供もそうなんですね。
私、いまだに覚えている一つのハプニングがありましたけど。
小学校1年生の時に女の子と一緒に座るんですね。
一つの机を一緒に使うんです。
ちょっと幅が広い。
でもみんな真ん中に線を引くんですよ。
それも消さないように肩でこうするんですね。
そして適応がこうしたら、それを取られるんですよ。
これは私のもの。
こうしたら取られるよって。
それでちょっと喧嘩して、私のものがいったから、それを取ろうとしたら、女の子が肩でこうして怪我していたことが、その傷がいまだに少し残っているんですね。
あのことを覚えたら、人間は小さい時から罪の正義が心の中にあるわけですから、
自分のもの、他人のもの、境界線をはっきりと引いて、
そして私は私、あなたはあなた。
ちょっと通じないところがあれば、阻断してしまう。
そういう傾向が我々人間にはあるのではないでしょうか。
ところが皆さん、先ほども見ましたように、また今日の見言葉にもありますように、
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神の愛は区分しない、区別しない、差別しない、線を引かない愛なんです。
もう一箇所、その次のルカノン福音書6章です。
そのところをもう一度見てみたいと思います。
ルカノン福音書第6章です。
6章32節から120ページ。
ルカノン福音書第6章、32節から35節まで読みたいと思います。
私が32節、皆さんで33節。2節、私と皆さんで交互で読みたいと思います。
32節は確か読みますね。
自分を愛する者を愛したからといって、あなた方に何の良いところがあるでしょう。
罪人たちでさえ自分を愛する者を愛しています。
自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなた方に何の良いところがあるでしょう。
罪人たちでさえ罪人たちでさえ罪人たちでさえ同じことをしています。
返してもらうつもりで人に返してやったからといって、あなた方に何の良いところがあるでしょう。
返した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ罪人たちに返しています。
ただ自分の敵を愛しなさい。
彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに返しなさい。
そうすれば、あなた方の受ける報いは素晴らしく、あなた方は意図高き方の子供になれます。
なぜなら、意図高き方は恩知らずの悪人にも憐み深いからです。
皆さん、見言葉通りに私たちも、イエス様のように境界線のない愛、線を引かない愛を持つ神のものになりたいです。
自分を愛するものを愛したからといって、あなた方に何の良いところがあるでしょう。
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罪人たちでさえ自分を愛するものを愛しています。
これは神様を信じようが信じないものです。
普通の人ならみんなこうするんです。
ところが私たちは十字架の愛を私たちに施してくださった。
境界線のない愛、線を引かない愛を私たちに教えて示してくださった。
その身を持って身がかかれるほど血を流されるほどのその愛を持って、私たちに本物の愛を教えてくださったのではないでしょうか。
であるならば、私たちはその愛を見習うものでなければならないのではないでしょうか。
三十五節、ただ自分の敵を愛します。
ここまで私たちの愛が成長したいのです。成長したい。
私が武山に五年いる間、
御医師のチョンケト先生からたくさんの仏会の室のような宝のような教えをたくさん教えていただきました。
それを本にしたものが今も持っているのですが、全部合わせて約600ページの本。
その多くの中のこの愛に関することを一つ分かって考えていただきたいと願っておりますが、
教会の愛の広さは、牧師の愛の広さくらいになる。
牧師の愛の広さが広ければ広いほど、教会線もなく限りのないほど広ければ、教会の愛の広さも同じくなるだろう。
しかし、牧師の愛の幅が狭くて小さくて、あるいは線を引いたりあるいは壁があったりしたら、教会の愛も同じくなる。
ですから、教会の人たちの愛の足りなさ、あるいは愛の幅が狭くて、
だからといって、そのために悩むのではなく、自分自身の愛の広さがどれくらいなのか。
どんな人をも抱くことができるほどの愛を持つ牧師なのか。
27:05
どんな人をも喜んで受け入れることができる愛の牧師なのか。
自分のために悩んで、自分のために祈って呼ばれなさい。
そして牧師の愛の幅が広くなればなるほど、教会の愛の幅も器の幅も広くなるでしょう、という教えです。
私は皆さんから見られるように、完璧でもありませんし、まだまだ愛の幅の狭い牧師でございます。
突撃で選手たちが、今からは皆さんが見られる立場に立ちます、とおっしゃっています。
僕はいつも見られるんですね。講談でも見られる。皆さんと話し合っているときの話も見られる。
皆さんにどうするか、子供にどうするか、教会にどうするか、一つ一つのすべてが見られるわけなんです。
ですから、ここでないんですね。
自分は本当に今日の御言葉のように、教会船のない、本当に広い広い広い家様のような、本当に広すぎる愛の牧師でなければならないのに、
まだまだ愛の広さが狭すぎて、自分のことを故に悩んでですね、もがいてですね、祈るときがたくさんあります。
どうぞ皆さん、未熟で足りない牧師ですけれども、この者のためにどうぞ祈っていただければ、と願っております。
また皆さんに申し上げたい、またお願いしたいと思うことは、皆さんお一人お一人も、家様のように教会船のない愛の生徒になっていただきたい。
今気があって好んでいる方々だけではなく、こんな新しい人が教会に来ても、あるいは今ある人であっても、抱くことができる。
30:15
愛することができる。出れることができる。そのように愛することができる教会になれば、
明らかに教会が本当に何の船も何の教会船も何の区分も訳もない教会になれば、もっと幅広い愛を持つ教会になれば、神様がそのようになったら、神様がより多くの魂を贈ってくださるでしょう。
なぜでしょうか。
明らかに教会に魂を聖霊様が贈ってくださったら、阻害されない、差別されない、どんな人も受け入れてくれるから、愛してくれるから、抱いてくれるから、
自分と合わないといってはね返すことはないから、聖霊様が安心して魂を贈ってくださる。
ところがもし、牧師も愛の幅が狭すぎて、神徒さんも愛の幅が狭すぎて、そうしたらですね、日本語にですね、
馬は馬ずれ、こういう言葉ありますよね。馬は馬ずれ。馬は馬、牛は牛、羊は羊、レースにはレース。こういうんですね。
好きな人ばかり集まって食べて味わってしまって、線を見えないんだけど、自分があえて引いてはいないんだけども、そんなことをしていませんよと言われるかもしれませんけど、何らか見たら線がこういう風に引かれてしまう。
そうしたら、百年が経っても、どこの教会であっても聖書はできません。マジでしょうか。聖霊様が安心して魂を預けることができないんです。
働き、こんなですね、例えば本当にミスを立てて何もできなくて弱い人を預けてもですね、受け入れてくれない、抱いてくれない。そうしたらですね、魂を失われるんですね。
そうすると聖霊様がその魂を受け入れてくれる教会に魂を聖霊様が送ってくださるんです。
皆さんよく考えていただきたいことは、神様は全く聖なるお方です。聖なるお方です。何の罪もまだっていない。穢れも何もない。
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ですから神様が罪人と一緒にいること、できないことです。しないことです。一分一秒も共にいられないかからし、聖なるお方ですから。
そしてその方が、そのイエス様が私たちを受け入れてくれる。皆さんよく考えていただきたいと思うんですが、私たちが完璧に清められて教会に通い始めた人は誰ともいません。
みんな汚れて穢れて足りないところはあるんですけれども、主は受け入れてくださいます。喜んで受け入れてくださいます。その愛の白さを私自身が見習わせられないと強く思わされるところです。
決して絶対に罪と一緒にいられない、その賛美に耐える神様が、そのイエス様が時には死神たち、時には罪人たち、時には関与した者たちと救えてきたり、間違えたり、そんな人々をレースに入れてくださいます。
なんと大きな幅広い愛でしょうか。イエス様はイエス様のことを知りませんといなんで逃げてしまったペテロ。弟子らしくない弟子なんですね彼は、あの時まではですね。
そんなペテロをですね、イエス様が自らご自分で彼のところに行ってですね、出会ってくださったんですよ。食事は一緒にしてくださった。ペテロはですね、させないといけないから、いやもう嫌な奴がやってきたなって。それでですね、もう嫌だけども一緒に食事をしたわけじゃないんですね。
イエス様は喜んで自ら訪ねていて共にいらっしゃいました。イエス様の愛こそ本当に境界線のない愛そのものです。イエス様は良いとも悪いとも分けない愛です。イエス様は好きな人嫌な人を分けない愛でした。イエス様は罪人自身を分けないイエス様の愛でした。
ですから皆さん私たちに互いに愛し合いなさいという愛は、どんな人をも抱くことができる愛。どんな人をも受け入れることができる愛。どんな罪人をも許すことができる愛。どんなに悪い悪人であっても喜んで抱くことができる愛。
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その愛をもって愛しなさいというあらぺの愛なんですね。あらぺの愛なんです。境界線のない愛。
最近改めて教えられた二言葉が一つありますが、そのところ一緒に見てみたいと思います。
コリント人への手紙第一十三章一節二節です。皆さんご存知の聖書箇所ですが、新約聖書336ページです。第一コリント十三章一節二節だけ一緒に読みたいと思います。新約聖書336ページです。
では一節と二節を一緒に読みたいと思います。
皆さん、もしですね、私のことですけど、実はそうではないですが、
もし私がとても恵まれて多数弁であって、本当にすごく恵まれる説教家だといっても、もし今日の説教題を借りていますと、
境界線のない愛を持っていないならば、いくら多数弁であっても、聖書を知り尽くして語っていても、そのイエス様の境界線の限りなき愛を持っていないなら、その説教はうるさいヤカマヒドラやうるさいシンバルと同じ。
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私がいくら知識を持っていても、何でも教えることができたとしても、賜物があって才能があったとしても、山を動かすほどができる信仰を持っていたとしても、この限りなき愛、境界線のない愛を持っていないなら、それは何の値打ちもありませんとおっしゃるんですね。
もし、実はそうではないんですけれども、もし明太人教会にいくら良い能力を持っていて、いくら良い賜物を持っていて、そういう人さんが多くいていて、だとしてもその中に愛がないならば、それはヤカマヒドラやうるさいシンバルと一緒なんです。
もし、教部に何十人のオーケストラやコラボレーションがあったとしましょう。素晴らしい賛美を毎週演奏するとしましょう。もしそこにイエス様の境界線のない愛、限りなき愛が持っていないならば、その賛美は何の値打ちもありません。
イエス様の愛はまさに境界線のない愛です。分けない愛です。すべての壁を崩して、すべての障壁を崩して、罪人を受け入れて、崩された愛なんです。
メッセージを終わりたいと思います。イエス様の愛は境界線のない限りなき愛です。
もし皆さん、イエス様が今でもイエス様の清さという基準を持って境界線を惹かれるならば、ここにいられる人は誰一人でもいないでしょう。
主は誰をも受け入れてください。その愛をこの朝教えていただきました。イエス様の愛に身なのではありませんか。お祈りいたします。