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(BGM)
はい、ソレテツラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回はニーチェの続きということで、前回はニーチェのどっちかというと全体像ですね、どういったことを問題と捉えて、何を乗り越えようとしたのかというところで、
結局全部という話ではあったんですけど、キリスト教と道徳と真理、
高等の理と書いての真理の方、ということを乗り越えたんだ、結局全部じゃねえかという話だったんですけれども、
今日はそれぞれ一個ずつまた見ていこうというところでした。
そうですね、はい。ニーチェの言い方で言うと、ヨーロッパにおける人間的な価値の一切を乗り越えるぞ、みたいな感じの言い方になるんですけど、
今日はその中でもキリスト教を取り上げるんですけど、前回もお伝えした通り、ニーチェにキリスト教批判を取り上げようするんですけど、
僕らがキリスト教主義をネガティブに扱いたいとか、それと同じようにラジオは反キリスト教ですとかということは一切なく、
キリスト教もありだし、仏教もありだし、それ以外のものもありだし、宗教以外の思想もありだし、
ただ考えることとか哲学って面白いよね、ということを伝えていきたいと思っているんですけど、
キリスト教を今信じていらっしゃる方とか、これから信じようと思っていらっしゃる方とかも、
それ自体は大事にしてほしいなって思っています。
なんでここまで言うかというと、僕みたいなキリスト教を知らない人からすると、徹底的に、
あわき出している感じがするんだよね。「だから兄ちゃんキリスト教を乗り越えようとしたんだ」みたいなね。
当時のね。
そうなると、キリスト教いいよねって純粋に言えなくなる気持ちになっちゃう人もいるかなと思っていて。
なるほど。特に最近、中世暗黒時代のトマス・アキラス、キリスト教が付いているという部分もあるしね。
そう、そう、そう。やっぱり宗教って信じる力だったりもするから、それを疑うっていうのはすごく苦しいことだと思うのよ。
はいはいはい。
もしちょっとしんどいなとか思ったら、この回は飛ばしていただいても大丈夫なので、というのをぜひ最初にお伝えしておこうかなと思っていました。
そうだね。しかも別に二人ともキリスト教ではないから、そこは先に謝っておきますというか、
あくまで普通の超ライトな浄土真宗の中で育った、日本で育った、岩手の地方で育った兄弟二人っていう、めちゃくちゃ同じような価値観というかね、家庭で育った二人が話してます。
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確かに。そこがね、相対化できないからね、僕と兄貴ではね。同じ環境で育っているから。
だよね、とかになっちゃうけど、なんだかこう異神伝神的な部分が、しかも兄弟らしいっていう部分であっちゃうけれども、
宗教とか物事の考え方という話を扱っている以上、そこは確かに大切なところかも。
一方でニーチェが本当に正しかったら、今キリスト教ってもしかしたらなくなってたかもしれないけど、今でもキリスト教があるっていうことは、別にニーチェだけが正しいというわけでもないので、
そういう前提で聞いていただけたらなとは思っております。
まあ、こんだけヤバい批判にされされたも、全然生き残ってるよっていう力強さは全然、そこに既存されてないですよという価値に本質的なところだよね。
そうだね。ではね、早速ニーチェがどういうことを主張していたのかというのを見ていこうかなと思うんですけど。
めっちゃ長い前置きだったね。
いや、大事だよ。だって宗教の話だよ。
まあ、宗教の話はダメって言われるじゃん、世の中的に。
あと野球のね、スポーツの話ね。
ちょっと大事なところだと思い話してしまったんですけど、兄貴が言ってくれた通り、前回のキリスト教と道徳と真理、この3つっていうのは、実は人間が生きる意味を失っちゃうとか、何でもありとなっちゃうニヒリズムに繋がっちゃうよっていうのを確認しましたよね。
ニーチェから言わせると、その中でも最も根源的なものがキリスト教だみたいに言うのね。
はいはいはい。
当然2000年くらいの歴史があるので、1800年か当時だと。
じゃあニーチェは何を主張するかっていうと、当時これまで見てきたデカルト、カントヘゲとかで見てきたような、キリスト教の神様みたいな力が弱まったから、それを失った人間がニヒリズムに至るっていうのじゃなくて、実はキリスト教自身の本質がニヒリズムを生み出すもので、それが表面化しただけなんだよっていうふうに言いますと。
はいはい。ここではね、前回最後チラッと聞いたけど、そのキリスト教を信じない方の派閥が増えたとかじゃなくて、真面目にそれに従っていけばいくほどニヒリズムに至ってしまうんだよみたいなところってものすごく面白いなと思った。
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そうそうそう。それなんでなの?もっと言うと、宗教とか仏教とかも含めてだけど、人間の生き方をある種こういうのがいいことだよとかある種模範みたいなものになると思うんだけど、なんでそれがニヒリズムにつながっちゃうのっていうところが今日のポイントかなとは思ってます。
はいはいはい。
そこでどういうふうにニーチェが考えていくかっていうと、まずさっき僕も無意識的に言ったけど、良いとか悪いっていう善悪の問題っていうのをまず考えるんですよ。
うんうん。
これってある種社会的に生きる僕ら人間の一番シンプルなものじゃないですか。良いものは良い、悪いものは悪いっていうか、いろんな行動がこれも良いこれは悪いって評価されるわけなんですけど、
基本的には相手のためになる行動、例えば僕が兄貴が困った時に何か助けようってなったら、それって良いことじゃないですか。
はいはい。
つまり理責的な行動。
うん。
逆に相手を傷つけるとか害を与えるとか、あとは自分の利益だけを得ようとするっていうのは、なんとなく悪いこと。
はいはいはい。
まあこうやって今一緒にラジオやってるけど、僕だけが裏口で誰かからお金もらってて黙ってましたとかってなったら、なんか悪いやつじゃないですか。
はいはい、まさかね。
うん。
お前、あんなお金とかいらないとか言ってやがってみたいな感じに。
実は。
悪い行動ですと。
はいはい。
つまり利己的なことね。これっていうのはキリスト教的な考え方で言うと、いわゆる隣人愛。あなたの隣の人をあなた自身のように愛せよっていうような考え方に近いものがあります。
で、もちろん隣の人を愛するみたいな共同体、家族でもいいし、地域とか。自然に発生するものはまだ理解できるよねっていう風にするんだけども、ここから先に兄ちゃんマットをかけるんですよ。
逆に言うとここまではわかるよねっていうスタンスなんだ。
そうそう、そこまでは別にまあまあ自然な場合として仲良くなった人のためになりたいっていうのはあるよね、そういう欲求もあるよねって言うんだけど。
実はキリスト教がこれを徹底させるとどうなるかっていうと、その敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさいっていう言葉も出てくるのね。
はいはい、そこまで言ってるんだね。
そこまで言ってる。つまり隣人愛の隣人っていうのはただ仲良い人だけじゃなくて、異教徒とかキリスト教を批判する人も含むんだよね。
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そうなんだ。
そうじゃないとさ、要はあなたの隣人を愛せ、ただしあなたが嫌いな人を愛せなくていいみたいな宗教とか教えってちょっと雑じゃん。
まあね、でも結構異教徒を迫害するみたいな話とかも聞いてるから、結構そことは矛盾するかなって今思っちゃったけど。
あれは実は異教徒を殺すんじゃなくて、神の領土を復活させるだけだみたいなロジックがあるんだけど。
そこは違う話、また別の話ってことだね。別のとこに別のことを書いてるからこっちに基づいて行動してるんですよっていう風なロジックがそっちにはあるみたいな話か。
そうそうそう。根本的にはそういう自分の仲間だけじゃなくて、敵も愛しなさいみたいなのがあるんだけど、これを突き詰めていくとどうなるかっていうと、結局は他人のために祈る、宗教的に祈ったりとか願ったりすることはいいことなんだけど、
例えば敵を目の前にした時であろうと自分のために祈るっていうのは悪だみたいな、極端な禁欲主義というか、自己否定の精神が生まれてくるよねっていう風に言うよね。
そうなっちゃうと、神とか他人に尽くすっていうのが善、良いことで、自分の欲求とか快楽を持てるのは悪だ、持ってると神に近づいたら良くて離れることが悪いっていうキルケゴール的な人間感っていうのは出てくるんだけど、
これってニーチャーからすると、すごい不自然だよねっていう、なんかねじ曲がってる奇妙な価値観じゃないっていう風に言うよね。これってさ、すごく自然な感覚だと思う。
これは言われたらって感じか。それこそ聖書にはさ、さっき隣人を愛せよっていう時に、敵でも愛せよみたいなこと書いてるってことでしょ。
そうだね。
でも逆にさっき言った、敵が仮に目の前にいたとして自分を愛するのは悪であるとか自分のために祈るのは悪であるとは書いてないわけじゃん、おそらく。
そこまではね。
そこまでは書いてないでしょ。ただ、聖書は大事にしている一番大事な神様の言葉に書いてるってことは、それとはまあ、
違反することだよね。自分のために祈るみたいな。自分のためだけに祈るみたいな。自己中心的な考え方は悪であるとも言えるよねっていう風に、もうみんな解釈しちゃってるし、解釈するような、
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これは神も悪いんじゃなくて人間も悪いんじゃなくて、みたいな、もう、アトリックスがあった時の反対のブーム。そこももう審議になっちゃうよね、みたいな感じか。
そうそう。大愚、さっき「突き詰めると」って言ってたんだけど、敵を愛せっていうのをずっとやり続けようとすると、結局自分が敵を憎むっていうその気持ちが悪なんだとか、
あるいは貧しきものは栽培であるっていうと、富を蓄えるのは悪なんだとかね。 逆のパターンか。はいはいはいはい。貧しいっていうこと自体が自分が優れている証拠だみたいな、
そういうふうな考え方っていうのが出てきちゃいます。特にニーチェはプロテスタントだから、要は貧欲主義的な自分っていうものをある種どんどんどんどん小さくするというあれだけど、
守っていくっていうのは考え方の過程に生まれているっていうのもあるから。こういう時にニーチェはこの価値観の前提に、善悪の形式とかあり方の違いっていうのを見出すんだよね。
どういうことかっていうと、善悪っていうこの考え方のもう一方に、尊いとか、癒やしい、いわゆる毅然、身分の高い低いとか、そういうのを一回並べて考えるのね。
どういうことかっていうと、すごく素朴な、ニーチェは言語学的な研究をしてるんだけど、良いみたいなものの根源にはドイツ語では尊いとか身分が高いみたいなものがあるらしくて、
そういう尊い身分の存在も、それこそ貴族とか王族みたいな人たちが自分たちは優れていて、つまり良い存在であって、そういう属性を持たない人たちが悪いものだ、癒やしい存在だ、みたいな考え方と、
逆にその癒やしい存在、例えば身分の低い人が尊い存在、人たちっていうのは実は利己的な悪い存在で、癒やしい自分たちこそが良い存在だ、みたいなものが両方成立してくるのね。
実はこの後者の後ろの方の癒やしい存在の自分たちが実は良いんだ、みたいなものがキリスト教的な善悪の判断基準であって、それっていうのは実は恨みとか妬みとか嫉妬、
これを兄ちゃんにルサンチマンって言うんだけど、このルサンチマンから生じているんだっていうことをまず言うのね。
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はいはい、この善悪の判断基準がね、ちょっとねじれている。 天皇 善悪の判断基準が。さっき言ったみたいに貧しきものは栽培であるっていうのは普通は違うんだよね。
普通僕に考えたらお金があって豊かで困らない人の方がいいよねって言うんだけど。
さっきのあれだよね、一番最初に言ったその共同体で生活している時に仲間を助けるっていう感覚とは全然違うよねってことだよね。
そういう自然な感情とは違うんじゃないって話をしていると、このルサンチマンって。
そういう素朴じゃない自然じゃないものがヨーロッパ的な人間の理想像の根源にある。それはキリスト教の影響だっていうふうなのがニーチの着眼点なのね。
だからさっき貧しいものはって言ったけど、悲しむ人々は幸いであるってことも書いてるのね、聖書に。
そうするとこれ逆転させると、さっき言った豊かな人は不幸だとか、喜んでいる人は不幸だみたいな。
そういう精神というか価値観になっちゃうよね。
そう、なんかすごそう。 それがキリスト教的な人間の倒作というか、ひっくり返っているところじゃないかって言ってて。
ここだけであれば、いい着眼点だねなんだけど、ここで終わらないのがニーチのすごいところで。
そっからさらに、キリスト教的な罪とか、お嫁とか、両親のやましさとか。
道徳の次の話にも関わるんだけど、すげえ両親的な人ってちょっとうさんくさいとか、善意だけで接してくる人なんか怖いみたいなのってあるじゃない?
そうだね。 それがなんでだみたいなところにも繋がってくるんだけど、ここで両親っていうのは、もともとで言うと共同体的な考え方があるから、約束したことを守ろうとする責任みたいな。
自分自身のというよりは、例えば人と何かこれやってって言われて、うん、やるよって言って、それを守ろうとするっていうのが例えば両親で、それを守れないとか約束を果たせないことに対する感覚をお嫁っていう風にここでは言っているんだけど、
両親とお嫁っていうものをキリスト教の現在っていう考え方と照らし合わせると、すっごいややこしいことになるっていう風に言うよね。
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どういうことかっていうと、キルギゴールの時にもその現在の話ってしたと思うんだけど、人間っていうのはアダムの犯した罪を、未来永劫ずっと持っていて、神に対して罪を持つと。
キルギゴールは、その罪を人間が自分が持っているっていうことが、むしろ神に繋がるんだって話をするんだけど、お兄ちゃんはもうそんなのは素朴じゃないっていう風に、別にキルギゴール自体を批判してるわけじゃないけど、彼の考えで言うとそうなるから。
そもそも、一人一人の人間っていうのが、神に対して償い切れない罪を持つ、そういう存在なんだっていう風に仮定した場合に、本当の意味で両親、要は神との約束を果たそうっていうような人間としては向き合えないってことなんじゃない?
はいはい、まあそうだね。しかもその罪って償えないことが基本的には決まっているから、一生の追い目を追い続けながら生きなきゃいけないみたいな話だね。
そうなると結局は、自分自身の存在自体がやましいものとか、責任を果たせないものだっていう価値観が根底に植えつくられちゃいます。 まあ確かに現世では無理だね、そこから脱出するのね。
現世では無理。だからニーチェによると、実はこのヨーロッパのキリスト教っていうのは、自分は癒やしい、やましい存在だ。自分は尊い神に対して癒やしい、身分の低い存在だっていう概念を普遍化するものであって、
かつイエス・キリストは神が人間になって、イエス・キリストとして地上に降りて、十字架にかけられて人間の罪を償ったじゃない。
っていうことは、神が人間に代わって神自身の神を償うっていうよくわからないことが起きてるんだよね。だから人間は神に対してまずアダムの時に罪を犯したっていう話と、その罪を償う機会をキリストの登場によって一生奪われたっていう二重の責任を果たせなかったっていうことが起きてますと。
なるほどね。そこでキリストが十字架にかけられたことで、その罪が生産されたとは言ってないからってことはね。そこで生産されました、明太子明太子っていう風な教えになってればよかったのに、
今生きてる人たちも「現在を意識して生きなさい」なんて言われてるもんだから、どうすりゃいいんだってなっちゃうってことか。かわいそうだなそれ。かわいそうって言われてる。
キリストの罪を償ったから、ここから後の人は現在ないですよって言ってくれたらよかったんだけど、そうじゃないんだよね。ってなると、要は人間は神に対して二重の負債、追い目を負ってるわけよ。
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怖い。マッチポンプじゃないかそれ。 怖いでしょ。親子でしたら、例えば子供が大学行くとき借金して行ったけど、親に「あんたの借金私が返しておいたから払わなくていいよ」って言われたときに、
ラッキーって思いつつ、いいのかな?これでみたいな気持ち。 まあまあそうだね。 すっごい現実的な話で言うとね。 それで言うと、第三者に返してもらったけれども。 そうね。親だったらまだいいけどね。
でもなんか特に別にその、生産されたわけでもないし、でも返してとも言われないし、ただお前はその返してもらったんだぞとか、なんか二回出してもらったんだぞってお目を置きながら生きろって言われ続けてて、お金出しても受け取ってもらえないしみたいな。
恐ろしい話だね。 そうだからそんな感じ。結構きついじゃない?で、そうすると何が起きるかっていうと、じゃあ人間がその罪を犯す打罪、そういうきっかけになった人間の本能である欲望とか快楽とかっていうのは、
結局神に対する責任を果たせない存在としての悪魔的な属性だっていう風になっちゃって、結局人間のそういう本能っていうのは悪魔の領域のもので、人間の一丁、人生っていうものが仮初めのものだっていう価値観に生きることになっちゃいますと。
これは逆転すると、現在に生きる、こうやって地上に生きている僕らの価値っていうのを絶対的に無価値にするっていうような意味を持っていて、明らかに人間の自然的な方向を歪めてるよね。
だからこそキリスト教ってすごく人間にとって良いものとか、生き方を教えるものとか良いものっていう風に言われてるんだけど、そもそも自分の人生っていうものを絶対的に否定しようとする意思っていうのがキリスト教の中にあって、これこそがネヒリズムに繋がるよねっていう風に言うのね。
なるほど、なんかわかる気がするよね。こうやって説明されると、そのロジックは。
結構すごいこと言ってない?
いや、めちゃくちゃすごいこと言ってると思う。
まあいろんなね、これはちょっと気に口であるけれども。
もちろんね、これをちょっとさすがに素朴に言い過ぎじゃないとか、いやいや、キリスト教そんなもんじゃないよって言うことももちろんできると思っていて、でもケーキゴールからしたらうるせえ、なんか信仰こそが大事なんだって全然言えちゃうと思うし。
そうだね、言うてじゃあその兄ちゃんの言うことを仮にそっちを信じる?まああえてその言葉使うけれども、信じるみたいなスタンスでじゃあ生きた時に果たしてじゃあ人間、今生きてるだよ、目の前に生きている人間が本当に幸せになられるんですかっていう問いがあった時に、それもまた難しいもんね。
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だったら今現状はキリスト教信じといた方が絶対幸せになれますよっていう部分も多分それもまたその一つの正解ではあるだろうしねっていうのは思う。
だからやっぱりその一人一人のね、あの前回も言ってくれたけど、その一人一人の人間っていうレイヤーとやっぱ社会みたいなレイヤーではやっぱりちょっと事情が違うよねっていうのは兄ちゃんも言っていて。
例えばその自分の人生っていうのはね、その否定して生きるみたいなその価値っていうのもある種、現実的には意味があるんだよね。
要は自分が辛く苦しい時に、いやでもなんだろう、そういう自分っていうのは実は本当の意味だと精神的には尊い存在なんだとか、神に近づけるんだっていう思い自体はまあ意味を持つ力があるんだけど、
ただここに支配者が現れて貧しい者は栽培であるから見返りを持てるんですね。働いたり、使われたりせず教会に預けようって言い出すとおかしくなってくるんだよね。
はいはい、ここら辺も兄ちゃんが言ってるんだ。そこまで素朴な方はわかるけど、支配者層がそれを強制し始めたりルール化し始めるとおかしいことになるよねっていうのも兄ちゃんが言ってるの?
えっとね、それ自体は言ってないんだけど、そういう思法を持ってるんじゃないかっていう感じかな。
なるほど、方向かりはそういうふうなある意味フラットな覚悟は持ってるんじゃないかねっていうのは読んで取れると。
読んで取れる。なので、我々は自分で良き神のために尽くすみたいな思想を持つ人と、そういう人たちを拡大再生産して、そういう人たちの共同体を作ろうとか、組織を作ろうっていう風な方向がガッチリした時に、
悪いことが起きて、それっていうのが実はヨーロッパにおけるキリスト教会の支配なんだっていう風に分析はします。
はいはい、なるほどね。そうも確かに言えるかも。
だから、なぜキリスト教を批判するかっていうと、そういう人間の素朴な本能、もともとニーチェは人間の欲望とか欲求とかっていうのを大事にするから、それを歪ませた原因の根本っていうのがキリスト教にあるんじゃないかっていう風にやってるんだよね。
なるほど。どう?この話を聞いて。
そうだね、すごい話だよね。私、力強いし、これ話されてしまうと神足になとかってね、バーッと言われた時に、そうだそうだってならなくはないかなっていう、すごくロジック、頭では理解できるような話から言ってくれてるねっていう思う一方で、
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せっかくだから、もちろんこれすごい話だから、このままいぞいぞってもちろんなるっていう話もあるんだけれども、これはやっぱりニーチェが1800年から1900年っていう時代を生きていたからこその切り口観点だったなっていうのを一方で感じていて、
なぜかっていうと、ここにやっぱり人の素朴さみたいなもの、人間本来はこうだよねっていう話ってニーチェもしていると思うんだけれども、それを基づいてキリスト教が人間の本来の素朴なところをねじれさせているサンチマンっていう、ちょっと倒作した人々においめみたいなものだったりとか、
逆にその不幸は幸いであるっていうことは、その共同体から何か幸せだったりとか、何か止めるものが出てきた時、裕福になろうとした時に、あいつらはズルをしたからだとか、あいつらは罪深いっていうふうな、逆に足を引っ張るっていう、足を引っ張り合うような構造だよね。
ある意味その民衆がね、っていう構造っていうルールを作ったっていうふうに言えなくはないとは思うんだよね。だって2000年経って人間っていうものがめちゃくちゃ素朴な段階からもう理性っていうところまでいた人々がね、
いわゆるそのベースの、何ていうの、犠牲レベルみたいなものだったりとか、知性レベルみたいなもの、もしくはその世の中の認識レベルみたいなものが2000年かけてやっぱ上がってるわけだよね。世の中が、世界がどんどん小さくなってね、いろんな世界が入ってくるようになって。
その中で、改めてこの2000年経っているキースト教っていうものの構造、キースト教のルールっても見た時の、今表面化しているその欠陥というかね、みたいなものっていうのをニーチがビシッと指摘したっていう意味ではすごいと思うんだけれども、
その最初言った、とはいえっていう話で言うと、じゃあ2000年前どうだったの?っていう話だよね。2000年前のこう言っちゃうとあれだけど、民衆とか、非支配層みたいな人たちがどんぐらいのこう、分かんないの?全然分かんないんだけど、
例えば理性レベルだったりとか、知性レベルだったりとか、もしくは単純に生きるっていう意味での生産能力だよね。食料の、みたいなとこがあった時に、
じゃあこの1800年、1900年代と同じように人々がある程度、いや俺たちは実はみたいな話をしながら、人それぞれだよねなんて話し方をしてたら、多分みんなもう30歳とかで死んじゃうんだよね。
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もう生きるのが辛いみたいなことってあったかもしれない。これも完全に歴史を知らないものの想像なんだけど。っていう意味での、これはだからもちろんそういう、支配者層からするとすごく理にかなった、さっき言ったことあるじゃないですか、再生産する。
そういう自分はついに無可みたいな価値観を持った人を再生産して、共同体を大きくしていくっていうルール、仕組みで言えばすごく良かったのかもしれないけれども、本当そこがすごいところだよね。
これは今回思ったけど、これはその信じる側が本気で思えば思うほどニヒリズム化に至るよっていう話もあったんだけれども、多分これを運営する側、教会側とか、指導する側がもう同じく本気でみんなを救うんだとか、本気で罪深い民主を救うとか、みんなをちゃんと生きていこうねっていうふうに本気で思ったとしてもそっちに向かっていく。
逆にそれを悪用しようと思えばそういうふうに悪用もできる。多分どっかの段階でそれを気づいた人もいると思うんだよね。それを使う側からしても、民衆側からしても、信じる側からしても、その負の面みたいなね。
あれこれってなんかめっちゃ洗脳され、洗脳というかね。なんかおかしいみたいなことを気づいた人はいるはずなんだけれども、多分それをバシッと言語化して、それをみんなが理解できるように情報を発信して、みんながその情報をちゃんとそうだそうだみたいな。
ニーチェの場合はちょっと後から評価されたという話もあったから、その当時はね、みんなそうだそうだとはならなかったと思うんだけども、その種をしっかりと撒いていたみたいなっていう意味で、やっぱりこれは時代の話なのかなっていうね。
それこそね、これもいい悪い話だったりとか、ニーチェが正義でキリスト教が悪だみたいな話では全くないんだなっていうのをね、すごい感じたね。なんかやっぱ構造、ルールってすごいなと思うよね。
そうだね。本当にそういう構造があったから、ニーチェはそのキリスト教っていうものを根本原因として批判したっていうのもあるし、逆に前回も言った通りだから、キリスト教はそういう構造、人間のある種根源的なものに応える宗教だったからこそ、やっぱこれだけ続いて、多くの人が信仰してるっていうのもあるだろうし。
ただまあ、そうやってね、ほころびというかね、何かいろんなものを表明して、うまくいかないっていうなと思っている人が増えてきた時に、増えてき始めた時かな。ちょっとニーチェは早すぎたのかもしれないけど。
もしくはね、その中でプロテスタント、さっき支配者層に見返りを求めずに働き、安い賃金で18時間とか働かされて、賃金も少ないみたいなさ、そういう労働者が生まれ始めてるでしょ、多分1800年代も既にね。
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そういうのを目の当たりというか、話も聞いている。イギリスでそんな人が多いみたいなさ。物を見るからどんどん労働者が年にいって、労働者が増えている。ただそれはすごくその、労働は尊いものだから、賃金安くてもきちんと働くことが我々の務めだっていうふうなのって、
多分それこそ素朴に考えて、いやこれ辛すぎん?みたいな。今までに辛いんだけど、みたいな。そういう時代を捉える話として、ものすごく納得感もあるし、そういう人が増えているってことはやっぱりこれを支持して、後々だってもね。
当時は丸草だったのかもしれないけど、その後に生き方みたいな側面からすると精神的な支柱となるというか、ベースになるっていうのはなんかすごく納得できる感じもあるし、すごい味わい深い話だなと思った。
まさに今アキリーが言ってくれた通り、今キリスト教の話をしてるけれども、キリスト教の力がある種弱まってきた、ある種中世から近代になってきたっていうのが、例えば1600年くらいとした時に、それって21世代よりも200年前くらいの話なんだよね。
200年でデカレットに始まるような人間の理性とか知性みたいなものっていうのが、キリスト教が乗り越えて新しい価値観を作ったんだっけとか、理性って切り替わったから、キリスト教的な善悪の概念っていうのが乗り越えたんだっけっていうと、実はそうじゃないよっていうことがニーチャーの次の話だもんね。
はいはい、あーなるほど、この話をしたから、キリスト教さらに良くなった人が、はいダメでしたとかでもなく、特に解決はしてないみたいな話か。
そうそうそう。
だからそういう宗教的な、ある種ね、それこそまさに暗黒時代みたいな、暗黒時代じゃなかったねって話もしたけれども、そういうベルに覆われた時代でベルが晴れて人間良くなりましたかっていうと、実は全然そんなことは乗り越えてないっていうのが、次ちょっと話したい道徳の話だったりもするし、
あと、兄貴がさっき言ってくれた、教会の中にもそういう気づいてた人いるんじゃないとか、あるとは思うんだけど、ニーチャー自身が言ってるのは、ちょっとまた次の回答で言うと思うんですけど、善意の塊みたいな人を一番警戒しろっていう話をしてるのね。
つまり、本当に信じて、本当にキリスト教ってのは良いものだとか、本当に理性っていうのが最高だって言ってる人をこそ警戒しなさいって言ってるのね。
へー、そうなんだ。
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そう。それでそれはなんでなの?みたいな話もちょっと次回しながらですね、今キリスト教の話をしたので次は道徳の話。
おー、はいはい。
ニーチャーがどういうことを言ったのかっていう話も見ていただきたいなと思っております。
そうか、ごめん最後ちょっとバラバラと言っちゃったから、今回のまとめみたいな話も一回聞いていい?
ニーチャーはこれまでのヨーロッパの人間的な価値の一切を乗り越えるぞって話をして、今回はキリスト教にフォーカスしましたと。そもそもキリスト教にもあるとか仏教とか他の宗教にもある人のために尽くしましょうとか、ある種理多的な気持ちっていうのは当然良いものではあるんだけど、
それを行き過ぎて人のために考えられない人は悪だとか、自分のためだけに生きる人間は悪だってなっちゃうと、それは価値観がねじ曲がってるよね。人間の本来的なものじゃないよねっていうふうなことを言っていると。
キリスト教っていうのは結構そういう神っていうものに対する人間の追い目、やましさとか罪を償えないとか責任が果たせないっていうものを教えの中に根本的に持っちゃってるから、その意味でキリスト教っていうのはそういう人間の本来的なものをねじ曲げるものとか、そういう方向性っていうのを根っこに持ってるよね。
だからキリスト教っていうのはニヒリズムとかレサンチマンっていう恨み、妬みっていうものに人間を駆り立てる、あるいはそこに続いていく道になっちゃうんだよっていうのが今回ニイチが言ったことですね。
なるほどなるほど。ニイチ側によると、そういうねじれた、倒作した価値観を人間に植え付けてきたのがキリスト教だよねっていうふうに言っているってことはね。ちょっと強い言葉を使うと。
はいはい、わかりました。じゃあ次は道徳っていうものをどう捉えたかと。これすごいなニイチ。
そうね。
毎回こんな話をするんだ。
毎回こんな話をする。
うん、ちょっとすごいね。わかりました。じゃあ次は道徳ですね。話を聞いていきたいと思いますのでよろしくお願いします。
はいお願いします。今回も聞いていただいてありがとうございます。
はい。ありがとうございます。
はい。ありがとうございます。
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