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皆さん、おはようございます。
今日も暑い中、またコロナの感染の恐れがある中で、礼拝においてくださって、本当に心から感謝いたします。
注意すべきことは注意しながら、でも信仰を持って、神様を礼拝することをね、全身全霊で礼拝をして捧げてまいりたいと思います。
今、イエス様のたとえ話、私たちへの問いかけのシリーズのメッセージをしてまいりました。
今日が10回目になります。タイトルは、花婿を出迎える十人の娘、です。
私たちは今まで、このマタイの福音書をメインにして、イエス様のたとえ話をね、ここまで調べて学んできました。
だから、25章までですね、マタイの福音書に書かれているイエス様のたとえ話は、ほとんどね、学んできたと思います。
またね、他のマルコとかルカとかヨハネの福音書にだけ出てくるたとえ話は、またこの後にね、また続けていきたいと思います。
ところが、皆さんも大体お気づきだと思いますけれども、神様はこのマタイという人を通して、
特にイスラエルの人々、ユダヤ人に対して、イエス様のたとえ話は、ほとんどが何に関するたとえ話だったですか?
天の御国についてのたとえ話がほとんどだったんです。
というのは、簡単に言ってですね、イエス様の関心は天の御国にあったと言えるでしょう。
だからそれを教え続けてこられた。
それをみんなに知ってほしかったわけなんですよね。
今日も一節、皆さんご覧ください。一節だけですね、一緒に声を出して読みたいと思います。一節だけです。
そこで天の御国は、たとえて言えば、それぞれが灯火をもって花向こうで迎える十人の娘のようです。
今日も最初が天の御国はと始まっています。
天の御国は、それぞれが灯火をもって花向こうで迎える十人の娘のようだと話をしています。
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そしてこのたとえ話はですね、興味深くですね、二節を読むと、そのうち五人は愚かで、五人は賢かったと最初に言い切っています。
だからこのたとえ話をよく読むと、十人がいた。
そして結果を見たら、五人は愚かだった。五人は賢かった。ではなく、もう最初から愚かなもの五人、賢いもの五人で、ある意味で決まっていたと言えるかもしれません。
だからね、そこにですね、このお話の不思議な焦点があるのではないかと思います。
皆さん、愚かな五人はなぜ灯火は持っていたが、油は持っておかなかったんでしょうか。愚かだからなんです。当たり前ですけどね。
また、五人の賢い娘たちは灯火と共に十分な油を用意していたんでしょうか。賢いからでしょう。
さあ、ところがですね、花婿がなかなか来ないんです。
この十人はですね、当時の風習から言いますと、いわゆる花嫁さんの付き添いをする人々ですね。付き添い人とも言いましょうか。
人々がいてですね、友達かもしれませんし、その家の女中のような、そういった人々かもしれませんし。
だいたい友達が多かったという記録がありましたけれども、彼らの役割は何なのかというとですね、いつ来るかわからない花婿を迎える、出迎える役割がこの十人の役割なんです。
だからね、これも今から二千年前ですから、今のように携帯で電話して、あと十分で着きますよ、そんなことはできないわけですね。
いつ来るかわからないんです。だから、いつ花婿が来ても喜びをもって出迎えることができるように用意しておくのが十人の役割。
ところがですね、なかなか来なかったので、どうでしたか。
実は十人ともみんな弟、寝ていたんです。眠りこけていたんですね。五節ばらまです。
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花婿が来るのが遅れたので、十人みんな弟していたんです。
ところがどうですか。六節、ところが夜中になって、空花婿だ、迎えに出ようという叫ぶ声がしたんです。
それでみんな起きました。みんな起きてですね、十人みんな愚かな者も賢い者も灯火は持っていたんですね。
ところが、どこで別れますか。油を用意していたかいなかったか。
花婿が来て、それが明らかにされるという話になります。
それでですね、もう十分準備しておいたこの賢い娘たちは容器もあって、多分壺でしょう。油を準備していたので、それで明るくしてね、花婿を出迎えることができたわけなんです。
ところが愚かな者の五人は灯火は持っていたんだけど、油は用意していなかった。
もう足らない、消えそう。それでですね、賢い五人にですね、ちょっと油を分けてください、少し分けてくださいとね。
ところが賢い娘たちは、いいえ、あなた方に分けてあげるには到底足りません。それよりももう店に行って自分のを買った方がいいでしょう。
それでもう急いでですね、多分買いに行ったと思うんですよ、五人はね。いやーしまったな、大変。
ところがそのうちに花婿はつきまして、そしてその賢い油を用意していた五人と一緒に家に入って、そして十節の最後に戸が閉められたとありますね。
閉められました。そのうちに愚かな五人は帰ってきました。それでですね、どんどんどんどん、保身様、保身様も帰ってきたんだから開けてくださいとね、言ったんですね。
ところがどうでしょうか、十二節の御言葉はある意味でショックなんですよ。しかし彼は答えた。
確かなところ、私はあなた方を知りませんと言った。
そしてこのたとえ話の天皇みくにはこういうものですよと話をされて、イエス様はこのたとえ話の結論をね、イエス様が話されたんですね。
さあ十三節一緒に読みたいと思います。十三節よろしいですか。
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はい、だから目を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないからです。
だから皆さん、この少なくとも今日のたとえ話、天皇みくには花向こうで迎える十人の娘のようだと言われましたけれども、
この今日の天皇みくにのたとえ話のゴールは、目的は何でしょうか。
イエス様の再臨、そしてその再臨に備える信仰、そこに目的があるわけです。
イエス様がもうご自分から解釈してですね、解説を最後に結論をね、教えてくださって。
だから目を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないからですと話されました。
よくですね、このたとえ話を話をするときに、この油が何なのかね、あまりにもこの油にね、こうもうこだわってですね、油はこれであれだね、そういうような解釈がたくさんあります。
ところがよく読むと皆さん、イエス様は油はこれですよとイエス様は、イエス様ご自身から何の話もしてない、触れてない。
大事なのは目を覚ましていること、花向こうなるイエス・キリストが再臨なさるんだけれど、その日、その時が知らないから目を覚ましていなさい、ここにポイントがあるわけなんです。
だからある意味でですね、油は後で話をしますが、包括的に、広い意味で理解すればよかろうと思います。
もう一度ですね、このたとえ話をよく理解するために、簡単にですね、当時のこの結婚式の風習をちょっと短くね、話をしたいと思います。
当時ですね、ちょっとお金があれば結婚式は1週間ほど、もっとお金があればもう10日間パーティーをする風習があったそうです。
でも普通の庶民だったらですね、3日とか4日、5日くらいは普通にあったみたいですね。
それにごによりますが、私の友人のフィリピンの選挙主によると、フィリピンもですね、結婚式をすると、都会は分かりませんが、田舎の方は3日くらいはするみたいですね。
でも夜中ですね、飲んで歌って飲んで、そこはですね、家があって庭があるでしょう。
そうしたらでっかいスピーカーでですね、田舎でもですね、もうカラオケをするんですよ。
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だから街中が響いても誰から苦情しない。
そういう意味としてね、フィリピンで選挙したらいいかもしれないなと思うんですけどね。
それも3日ほどですね、宴会をするらしいです。
イスラエルもですね、そういう風習がありました。
で、そのうちに進路の方が家が遠かったら、ちょっとお金があったらロバとか、もっとお金があったらオマとかに乗って来るわけなんですよね。
で、歩いて来る場合もあるかもしれません。
ところが遠ければね、いつ来るか分からないんです。
夜来るかもしれないので、このような付き添い人が油を用意して、ちゃんと出迎える仕事をしなければならないということであります。
こういう風習があったわけなんです。
ところがですね、今日の話の先もお話ししましたように、
イエス様は天皇ミクにはこういうものですよと話されて、最後に結露だから、結露なんですね。
目を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないからですと結露の教えてくださいました。
今日のこの例え話のフォーカスは、イエス様の祭輪、そしてそれを備える信仰にフォーカスを当てて、ちょっとまとめて話したいと思います。
1番、イエス様を信じると言っている人々は、表面的には、上辺には、見れば似ていると思うんですよ。
住人の娘たちのように、今はわからないんですね。みんな月そいんで、今も油はあるかもしれない。灯火も持っているかもしれない。
ところがどうですか。いつそれが明らかにされますか。
花向こうなるイエス様が、神露が来た時に用意していたのかどうかが明らかにされる。
そして、残念ながら賢い油を用意していた5人は、宴会に入れてもらった。
しかし、用意できなかった5人は、最初はみんな他の5人と楽しくおしゃべりして、宴会だから色々やって楽しんでいたと思う。わからないんです。
しかし、花向こうが来た時には、その5人は宴会に入ることができなかった。
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最初は、神露が花向こうが来るまでは一緒、同じなんです。わからないんです。
ある意味で、この10人というものは、当時の街道の生息数、そして完全数を意味します。
この10人をもし、教会の中にいる私たちとするならば、みんな同じく教会に来て、聖書を持って、主の祈りをして、賛美して、説教を聞いていて、礼拝に来て、座っている面から見れば、みんな一緒、同じなんです。
しかし、サイリンが来たら、そこまではわからない。
また、これは同時に神様の恵みでもあります。
もし、この愚かな5人がもっと早く気がついて、気づいて、脂が足りない、危ない、もう前向きで準備しようと、準備しておいたら、この5人も入ることができたでしょう。
でも、用意する気がない。準備しないんですよ。関心がないんですよ。あるいは、自分の役割が何なのかわからないんですね。
しかし、花向くが来るまでは、みんなに同じチャンスが与えられていた。
恵みに預かることができる、救われる、宴会に入れてもらえる、そのチャンスはみんなに提供されていたということなんです。
チャンスをもらっていない人は誰もいない。
教会の中にいる私たちにも、教会の外にいる人々にも、みんな救われる花向くを出迎えて、宴会に入れるチャンスはみんなに与えられているんだという、その意味もあるでしょう。
しかし2番目、少し触れましたように、それは表面的には一緒なんだけれども、そこには根本的な違いがあった。
聖書に、ヨハネの黙示録を皆さんお読みになってお分かりになると思いますけれども、花向くの宴会は天皇御国であって、それは私たちが二横言う天国であって、祝いの世界でありますね。
とすると、この婚礼の宴会に、祝宴に入れなかった5人は、もっとわかりやすく探偵的に言うならば、救われなかった者たちということになります。
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つまり、救われるものと、そうではないものが明らかにされるという話になりますね。
そしてそれは、花向くが来たらわかるように、私たちにも、イエス様が再び来られるならば、来られたら、すべてが明らかにされるんです。
10人、このお娘たちは10人みんな、灯火はみんな持っていたんですね。愚かな者も賢い者もみんな持っていたんですよ。
また油を入れる容器も多分壺だと思うんですけど、それはみんな持っていました。
ここでちょっと絞って話をするならば、この灯火あるいは油を入れる容器は、何かの形式、宗教、形と言えると思うんです。
みんな形、形式は持っているかもしれない。少なくともクリスチャンと言われる私たち。
世界のすべてのクリスチャン、教会に通っている人々、みんなが教会に来て、みんなが礼拝に来て、座っていて3秒経って法師をするかもしれません。
同じ宗教活動をしているかもしれません。灯火や器を持っているかもしれません。そこまではみんな一緒ですね。一緒です。
しかし、今は分かりませんか。決定的な違いが明らかにされる。その日が来る。それがいつですか。
イス様の祭りの時。すべては明らかにされる。油を用意しておいたかどうか。花向こうを迎える準備をしていたかどうかが明らかにされる。
その日が来るという話なんですね。結局ですね、この愚かな5人はですね、表面的ではクリチャンと言われる人かもしれません。
教会に通っている人かもしれません。聖書も持っているかもしれませんし、何十年も教会に来ている人かもしれません。
しかし、祭りの時になったら、椅子は用意していないものだった。花向こうの婚礼の祝宴に入ることができなかった。
しかも花向こうは確かなところ、私はあなた方を知りません。この私はあなた方を知りませんというこのお話は、聖書のほかにも出てくるわけなんです。
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3番目。ところが、イエス様の初臨と再臨の話を少し触れたいと思います。
イエス様がお生まれた時、それが初臨なんですね。初めて来られたこと。それは既に起きた出来事ですね。だいたい2000年前です。
しかし、私たちはみんなその再臨を待っております。待ち望んでおります。備えているでしょう。しかしどうですか。その日がいつなのかは分からないんですね。
もう数かもしれませんし、また2000年待たなくならないかもしれませんし、私たちは誰も知らないからです。
だからどうしたらいいんですか。もう一度13節ご覧ください。
だから目を覚ましていなさい。だから目を覚ましていなさい。だから目を覚ましていなさい。その日、その時を知らないからです。
この後ですね、また英国文章26章27章を読むと、世の終わり、再臨が近づくと現れる前兆についてイエス様は話されますね。
その流れは確かな流れが意味があると思うんです。今のように本当になかなかまだワクチンも開発されていないコロナの問題もありますし、
コロナを制覇したとしても、これから全然伝染病は起こらないとは誰も言えないでしょう。
またCOVID-19が20、30がまた出てくるかもしれませんし、もちろん来てほしくないんですけどね。
地震があり豪雨があり、戦争があり、さまざまなことが起きている中で。
私たちは本当に目を覚まして、神を礼拝するために歩んでいかなければならないと思うんです。
皆さん、私たちは今日この礼拝に何のために来ているんですか?
神様のために私たちは礼拝するんです。
私たちが生きる目的も、礼拝する第一の目的は自分ではないんです。
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自分の満足、自分の慰め、自分の癒し、自分の話を聞いてほしい、私のことをわかってほしい、私を慰めてほしい。
それは第二、第三、第四の目的になるかもしれませんが、私たちが礼拝する第一の目的は神様のためなんです。
神の皆のために礼拝が存在して、私たちはそのためにここに集まっているんです。
その目的が変わったら、どの時代になっても、人間はどこにいても満足しきれないんです。
礼拝は神のためにありますし、私たちの人生も主の栄光を表すための人生であります。
そうすると、ある意味で自分自身のことは、ある意味でどうでもいいかもしれません。
人が自分の話に意味を傾けてくれたら嬉しいんだけれども、くれなくてもなぜでしょうか。
イエス様がおられるから。
イエス様に出会った人は、イエス様が私の話を聞いてくださるし、イエス様が私を騙されてくださるし、
イエス様が私の友になってくださるから、もうイエス様お一人で私は満足しきれるんですよ。
そこに私たちは行かなければならないんですけれども、イエス様に行ってないんだから、
結果的にイエス様からいただくことじゃなくて、人からそれをもらおうとするから、きりがないんです。
皆さん覚えていてください。
人から得られる慰めは、励ましは消えるものですよ。
一瞬のものですよ。
だから私たちはイエス様の十字架に行って、イエス様に出会って、本当にイエス様に出会って、
イエス様が私の友となる、イエス様が私の花の子になる、イエス様が私を慰めて、癒して、私の話を聞いて、
イエス様に自分の心を打ち明けていくならばですね、ある意味で人からはそれをもらえない。
もらえたら嬉しいんでしょうけれども、もらわなくても全然何の問題もないんです。
皆さんはイエス様に心を打ち明けていらっしゃいますか?
十字架のイエス様と本当に深い意味で交わりを持っているのでしょうか?
今日も神のために礼拝に来ていらっしゃるのでしょうか?
これが大事な話なんです。
だから皆さん目を覚ましていなさい。
まあね、こういう話をしてもですね。
さあ、4番に行きましょう。
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ここにですね、十人みんな眠って、おとおとしている時なんですね。
その時に六節一緒に読みたいと思います。
六節。
ところが夜中になって、空、花の子だ、迎えに出ようと叫ぶ声がした。
はい。
皆さん、空、花の子だ、迎えに出ようとね、声がしたんです。
つまり、4番目。
主のサイリンは突然来るんですが、みんなが見ることができ、聞くことができるという話になります。
その日が来ると、その日になると、空、花の子だ、迎えに出ようというこの声を、このような声をみんな聞ける、みんな見れるという話になります。
いや、私は聞いてないんだけれども、いつイエス様が来たの?とかね。
いや、私は見てないんですよ、と否めないということなんです。
その日は、全世界に、たぶんね、実際があるかどうなるか、それはもう興味深いですけどね。
すべての人が、その時に生きている人々は、みんな、空、花の子だという声をみんな聞くことができる。
聞くことになる。
知ることになる。見るようになるという話なんです。
明らかになるんですよ。ぼやけていない。
そして、本当にイエス様が再臨なさったことを、誰も否めることはできないということになるでしょう。
だから、ある意味でですね、今もよくこの遺談の話の中にですね、私が再臨のイエスだとね、
実は再臨したんだけど、まだわからない者たちがいるだけだというね、そういう遺談の偽りがあるんだけど、本当にそれは偽りに過ぎないんです。
花の子なるイエス様が来たら、もうそれを気づいていない者は誰もいないんです。みんなわかるんです。
5番目ところが、ここにね、油を分けることはできなかったんですね。
というのは、再臨に備えること、それは分けることはできない。
それぞれ自分自身が、一人一人が備えておかなければならないということになります。
愚かな者5人がですね、もう灯火が消えそうだから、ちょっとね、ごめんね、油ちょっと分けてくださいねとね、頼んだんですね。
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しかし、分けてあげるには到底足りませんと言いました。
皆さん、救いの中にいるか外にいるか、それはね、人が私の代わりにしてくれる、そういうものではありません。
それぞれ各自が灯火と油を用意して、花の子なるイエスキリストを待っていなければならないんです。
その油が信仰であろうが、精霊であろうが、恵みであろうがね、それぞれがね、準備して各自、それぞれイエスキリストを待っていなければならない。
再臨なさるイエス様を出迎えることは、私とイエス様との一対一関係において決まるということなんです。
人が用意してくれた人の油、あるいはこの油をね、信仰とかと言うならば、人の信仰が私を救ってくれるわけではありません。
人が積み重ねておいた祈り、人の悔い改め、人の救いが私、それによって私が救われるわけではない。
もちろんね、互いに支えあったり、助けあったりすることは大事でしょう。
しかしですね、私がイエスキリストに出会って、私が罪を悔い改めて、私が救われなければならない。
再臨のイエス様、その方を待ち望むこと、備えることに関してはですね、救いに関しては、キリスト教は徹底的に個人主義なんです。個人的なんです。
団体で救われることはありません。
みんな救われたら、私もそこにね、殿場できるものではないんです。私の救いをすすわけできるものではないんです。
もちろん他の人々のために、本当に家族のために、この人々がね、もう救われるように、本当にイエス様になって、形ばかりのクリスチャンではなくて、本当の神に出会う人になるように、祈って涙をするでしょう。
しかし、結局のところは、その本人がイエス様に出会って、その本人が罪を悔い改めて、その本人が十字架のイエスキリストに出会わなければ、百年教会に来て座っていても、その人は救われないでしょう。
決して人の救いの列車に便乗することはできません。
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救いをすすわけすることもできません。私がキリストに出会って、救いをいただかなければならないんです。
6番目、この愚かな者たちが油を用意に行って、そのうちに花吹は来て、戸は閉められました。そしてどうですか、二度と開けられませんでした。
戸が閉められたら、それで終わりなんです。チャンスもそこまでということになります。
だから皆さん、これを再臨に関して話をしますと、人は救われるチャンスは生きているうちにだけですね。そして生きていて、イエス様が再臨なさるならば、再臨までなんです。
亡くなった人に、イエス様が再臨なさった後からは、戸は開けられません。
第二のチャンスはありません。戸は一度閉められたら、二度と開けられないんです。
だから私たちは生きているうちに、今教会に来ているうちに油を備えて、本当の信仰を持って花吹を準備しなければならないんです。
私がイエス様に出会って、私が罪を悔えられたのであって、私がイエス様を救いのぞして受け入れて、私が神様に出会った人だけが、本音の救いに入れていただけるんです。
救いに関しては、第二のチャンスは完全に全くありません。
もし、私の親が未信者で亡くなったとしましょう。
そして、残念ながら私は天国に行くのに親はいけないんだから、私が亡くなった私のために一生懸命祈ろう、一生懸命祈ろう。
百年祈って、もう祈りが到達して神様が亡くなった未信者だった私の父を天国に入れてくれることはありません。
聖書にはそういう真理はどこにも書かれていないんです。
戸が閉められたら二度と開けられることはありません。
そういうふうに教えることがあるならば、そこはいたんです。
教会の中でそんな話をする人がいるならば、それを正してもらわなければならないんです。
チャンスはこの地上に生きているうちにイエス様が再臨するまでだけなんです。
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彼と一緒に婚礼の祝縁に行き、戸が閉められた。
戸が閉められるんですよ、皆さん。
最後になりますが、だから私たちは目を覚ましていなければなりません。
あなた方はその日、その時を知らないからです。
ここに目を覚ましていなさいは、目を覚ます。
これを起きているという意味よりは、用意をする。
英語ではkeep watchですけどね。
よく目を覚ましていて、今何が起きているのかをよくキープして見ていてくださいね。
用意していなさいね。だから眠ってはいけないんですよ、皆さん。
だから目を覚ましていて、本当に昼に来るか朝に来るか、夜中に来るか、
花向こう、天向こう、用意をするのが、この10人の娘たちの役割であるように私たちの使命であります。
だから皆さん、みんなはイエス様の再臨に会うでしょう。
亡くなった人も生きている人もみんなイエス様の再臨に会います。
しかし、その時に彼と一緒に懇願の宿縁に入る人がありますし、入れない人があるということは聖書が教える事実です。
そしてそれは、教会の中にいれば、確かな信仰を持っていれば、彼と一緒に入れますが、
ただの名ばかりのクリスチャン、ただの教会にいるだけで、懇願の宿縁に入れるか、それは分かりません。
メッセージを終わりたいと思います。
だから目を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないからです。
大事なのは、花向こうなるイエス・キリストに出迎える用意をしているか、信仰を持っているか、
イエス・キリストの十字架に出会っているのだろうか、本当に生まれ変わった新しくされた信者なのかどうか、
それは今は私たちは分かりません。しかし、イエス様が再臨なされるとその日に明らかにされるでしょう。
しかし私たちは願わくば、彼と一緒に懇願の宿縁に入った、こういうものになりたいですね。
灯火と油を用意する賢い娘たちが、私たちがこの娘たちのようになりたいです。
39:09
皆さん、目を覚ましていて、本当の信仰を持って、十字架のイエス・キリストに出会って、
主の再臨に備える私たちでありましょう。お祈りします。