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アーメン、ありがとうございました。
皆さん、改めておはようございます。
今日も礼拝にお越しになりました。
主に支えられて、守られて、この世に共に礼拝できることは、
本当に全て主の恵みです。
神様に本当に感謝いたします。
先週から続きまして、イエス様のたとえ話、
私たちへの問いかけのシリーズメッセージに入っています。
今日は2回目でして、タイトルは
麦と毒麦のたとえ、麦と毒麦のたとえになります。
皆さんの中でですね、お家の庭とか、
どうかの畑を借りてとか、
あるいは幼稚園生とかの時にですね、
どうかの畑でですね、大根とか豆とか芋とか、
あるいはネギとかね、あるいは綺麗なお花とかですね、
種をまいたり苗を植えたりしてですね、
育ってたことがあるという方が、この中にいらっしゃると思うんですけれども、
自分が植えたわけではありませんが、
そこによく雑草の草がね、
はげたり出てきたりするんですよね。
それでそのままほったらかしたら、
もう雑草が茂ってですね、大変なことになって、
私が栄養とした豆とかね、大根とか、
それはもう代々しになってしまうことがあるかなと思います。
今日、不思議にイエス様は、
当時のイスラエルの人々によく馴染んでいる、
カネの話でね、
未国のこと、また世の終わりのことについて、
イエス様はたとえで話をされました。
今日は簡単にね、これを麦と毒麦のたとえと、
タイトルをさせていただきましたけれども、
結論からまずね、簡単に申しますと、
二つの意味があると思うんですよ。
もうすでにイエス様がですね、
38節からもう丁寧に解説もね、
イエス様はしてくださったんですけれども、
その確信は二つ。
一つは、この世界には麦と毒麦が一緒にあること、
育っているということなんですね。
もう一つは、しかし世の終わり、
収穫の時が必ず来て、
そして栄光に輝く救いには麦の方に、
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そしてね、火の燃える牢に投げ込まれて、
剥ぎしりをする永遠の滅びは、
毒麦の方にあるということが、
イエス様がね、結論として教えてくださったわけです。
さあ、まず一つ目のことを、
もうちょっと掘り下げてね、
一緒に考えていきたいと思います。
まず、たとえの話を少しだけね、
子供もいますから話をすると、
24節、ご覧くださいね、3行目から見ると、
天の御国は、とありますね。
先週に続いてイエス様は今、
天の御国の話をね、されているわけなんです。
天の御国はこういう人に例えることができます。
ある人が自分の畑に良い種をまきます。
もう種をまく人は神様ですね、イエス様なんです。
種は、それが麦になるわけですね。
それでその麦は神の人たち、
私たち救われた生徒たちのことなんです。
しかしですね、25節を見るとですね、
ところが人々の眠っている間に、知らずうちにですね、
彼の敵が、敵はサタン悪魔なんですね。
そのサタンが来て、麦の中に毒麦をまいていったとあるんです。
そしてそれが26節を見るとですね、
麦が芽生えやがって実ったとき、毒麦も現れた。
それで27節ですね、その家の主人の姉妹たちが来て言った。
ご主人、畑に良い実をまかれたではありませんか。
どうして毒麦が出たのでしょう。
主人は言った。
敵のやったことです。
もうイエス様ははっきりと言われましたね。
これはサタンの仕業なんだ。
姉妹たちは言った。
では私たちが言って、それをもう抜き始めましょうか。
そしてですね、イエス様は、主人はイエス様神様だったですね。
いやいや、毒麦を抜き集めるうちに、麦も一緒に抜き取るかもしれない。
だから収穫まで、借り取るまで、世の終わりまでね、
イエス様が来られる祭輪の時まで、両方とも育つままにしておきなさい。
両方とも世の終わりまで、麦も毒麦も神の人もサタンの子たちも一緒にいるということになるんですね。
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しかしそのままで終わりじゃない。
必ず収穫の時が来る。
そしてどうなりますか。
三儒説に見るとね、収穫の時期になったら、私が狩る人たちにまず毒麦を集め、焼くために束にします。
麦の方は集めて、私の蔵に納めなさいと言われました。
最初は皆さん、麦と毒麦が何が何なのか分からないということなんです。
麦を、この世界にいる神を信じる人々というならば、
毒麦は人を指すというより、悪魔サタンの仕業、彼らの強烈なもしさまたげる働き、誘惑、
罪、闇という全てをまとまるという意味だと思うんです。
そしてその毒麦は何をするか。
雑草か、大根とか豆とか、栄養を吸い取ってしまうように邪魔するわけなんですね。
それを四十一節に、イエス様はこのように丁寧に解説してくださいました。
四十一節をご覧ください。
ここを見ると、四十一節、人の子はその見つかりたちを使わします。
彼らはつまづきを与える者や不法を行う者たち、これが毒麦なんですね。
それがサタンが撒いてしまったあの毒麦なんです。
彼らはどんなことをするんでしょうか。
つまづきを与える、つまづかせる、人々をつまづかせるんですね。
そして不法を行うんです。
つまづきを与える、つまづかせるという意味は、信仰を失わせるということなんです。
私たちが神を礼拝すること、主に祈ること、主に従うこと、福音通りに歩もうとする様々な我々の信仰を、
悪魔、サタンは巧妙に、時には甘く、時には見ていいもののように私たちを誘惑して、
つまづかせて、失わせて、誘惑させて、そしてダメにしようとするということなんです。
それがサタンの仕業であります。
それがこの世界にイエス様が来られるその日まで、それがあるんだということなんです。
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そして彼らはまた不法を行う者たちと言いました。
不法は神の御言葉を行わないことですね。
神の御言葉を侵してしまうことなんですね。
つまりこれは、天の御国を妨げるあらゆる働きということであります。
ですからイエス様は、ここにね、この例えが簡単なお話のように見えても、とても深いね、奥行きのあるお話だと思うんですよ。
つまりこの世界には、無儀と独無儀のように、義人と白人がいるということなんです。
エペソビトの手紙2章2節を見ると、
その頃は、それらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として、今も不従順のコラの中に働いている例に従って歩んでいました。
ここにね、空中の権威を持つ支配者として、今も不従順のコラの中に働いている例、この働いている例という言葉が、この例は聖霊様じゃないですね。
この例はサタンの例なんです。
ここで働くという言葉は、もともとの意味は、とても強いパワーやエネルギーを与えて働かせるという意味があるんです。
だから皆さん、この世界に悪魔サタンの例は、ただ遊んでいるわけじゃないんです。
神の人たちとお茶しているわけではないんです。
彼らに持っているすごいパワーやエネルギーを与えて、そして私たちを躓かせる、信仰を失わせる、盲目にさせる、迷わせる、何が何なのか見分けることができなくする、そういうふうに働く例が、サタンの例、不従順のコラの例なんです。
それが、なければいいんですけどね、世の終わりまであるんだ。
しかも彼らは強烈に働いているということなんです。
だから皆さん、私たちは目を覚ましていなければなりません。
皆さん、今も目を開けてください。目を開ける時なんですよ。
サタンのコラは、サタンのしもべらはね、本当に巧妙に強くて眩しくて、あるいはもう良さそうなパワーを持ってですね、天の御国を邪魔させるんです。
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我々の信仰を引き落とそうとするんです。
私たちはそれを見抜いて知らなければならないんです。
霊の目でこれを分別できるクリエイチャンとならなければならないんです。
そうする時に私たちは、そのサタンの邪魔する、失わせをする、その彼らの働き、彼らのパワー、彼らの契約を分別できて、彼らの堅い人を破壊することができるんです。
イエス様の時代も、今日の時代も、イエス様の弟子として生きるということは、そう容易なものではないんですね。
特にこの日本の中では激しいね、もう本当に人を殺せるような、そういった迫害はないとしても、
むしろ、もっと甘い、もっと陥りやすい誘惑はもっと多くあると思う。苦しみも当然多くあるでしょう。
皆さん、今このようなコロナのことで、いろんな世界がくるっと変わっています。
一方の教会では、さらに強まる教会がありますし、一方の教会では、もうこのコロナだけで半年だけでも衰弱して病院のような教会になってしまう教会もあります。
様々な試練の中に、その人や教会や、あるいは国や組織の本当の力が現れるんですね。
行けば行くほど、信仰生活をするには、もっと難しい時代に、患難の時代になると思うんです。
昔にはなかった病気ができてしまうんじゃないですか。
昔はなかったもう犯罪や罪や思想や、もういろんな団体、宗教、反キリスト教的な思想などがあふれているんです。
前もお話したことがありますけれども、月に3つ、4つ、5つぐらいの異端だと思うんですけどね。
そんな団体から教会にいろんな手紙やら、本やらが届くんですよ。
諦めないんですね。毎月送ってくれるところもあります。
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定期公読しているわけではないのに、毎月丁寧に送ってくれるんです。
多分それがですね、全国の教会にあるいろんな人々の家に送られていると思うんですね。
いろんな人々を誘惑している、この毒麦のように。つまずかせる、信仰を失わせる。
でもね、そういう悪魔サタンは、そういった、もう見て明らかな、これはもうサタンだみたいなものじゃなくてね。
サタンは何でも用いることができるわけですから。
時には私たちの家族、友人、知人、あるいは私が慣れている何かの、目に見えない何かを通して、
私たちの信仰生活を救いよう、それを落ち込ませる、失わせる、邪魔する、まきだわしくさせる、
そういうことがこれからもっと明るしく起こると思うんですよ。
今も既にそうなんですけどね。
だから私たちは、礼的に見分けることのできる力を持つために、目を覚まして見なければならない。
ところが、私たちには、私たちを守ってくださる神様がおられる。
ローマ書8章18節ご覧ください。
聖書をお持ちの方、ちょっと開きましょうか。
ローマ書8章18節、一緒に開きましょう。
ローマ書8章18節、私がお読みいたします。
私がお読みいたします。
今も時のいろいろな苦しみは、将来私たちに掲示されようとしている栄光に比べれば、
取るに足りないものと私は考えます。
パオロ先生が、私たちは励ましてくださるんですね、神様が。
パオロ先生の時代も、今の時代も、いろんな苦しみがあります。
いろんな誘惑があります。
しかしどうでしょうか、その苦しみは。
その苦しみに負けていいですよ、その話じゃないんですね。
その苦しみの中に、誘惑の中に、絶え忍びつつ、時には倒れても勝利しつつ、
歩む人、神に従おうとする人々への話なんですね。
将来私たちに掲示されようとしている、示される、現れる神の栄光、
その栄光が私たちに照らされるわけなんですね。
その栄光に比べれば、今の苦しみには、もう何ものでもない。
だから皆さん、今はいろんな苦しみが、誘惑があるんだけれども、
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そこを、死と共に、精霊さんと共に、それを通り抜けて、歩み通しましょう、という話なんです。
だから私たちは、いつも目を覚まして、以上ではないでしょうか。
眠っていてはいけないんです。
イエス様が、十人の娘の例えで話をしたでしょう。
心脳を迎える十人の娘。
歯ブラを、おもしびを持っているか持っていないか。
五人は眠り受けていたわけなんです。
私たちクリスチャンは、私はすっかりなんだから。
私は長い間信仰生活をしたんだから、と言って、眠ってもいい人は誰もいないんです。
眠っていたら、盲目になっていたら、祈りを休んでいたら、礼拝を休んでいたら、
誰でも誘惑をされやすいんです。
誰でも罪を犯しやすいんです。
誰でも神の栄光を妨げることがあり得るということを、私は知らなければならない。
アメリカの上空でですね、クリスチャンの中で、最も危険なクリスチャンがいるらしいですよ。
どんなクリスチャンか知っていますか?
私は大丈夫、大丈夫病気にかかった人が、一番危険なクリスチャンらしいです。
大丈夫、私は大丈夫、もう祈らなくても大丈夫、これぐらいは大丈夫。
大丈夫病気にかかった人、一番危険なんです。
例的に、眠っていても大丈夫な人はいません。
祈らなくても大丈夫な人は一人もいません。
礼拝を一回、二回、三回、四回休んでもいい人は誰もいないんです。
神様を遠ざけてもいい人は誰もいないんです。
礼の中に、複雑な思いで汚れていても大丈夫な人は誰もいないんです。
私はいつも目を覚ましていて、
ああ、私も眠りかける可能性がある、ある弱いものなんだ。
目を覚まさなきゃ、起きていなきゃとね。
そういう意味で、清廉に力づけられてですね、目を覚まして歩んでいこうではないでしょうか。
そのためには、私たちは信仰生活においては、
消極的な道もありますが、積極的に私たちが何かを取らなければならないこともあると思うんです。
目を覚ましていて、神の道と悪の道が何なのか、
もう明確にそれを分別して積極的に、
理の道を選ばなければならない、選択することなんです。
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積極的に神を礼拝することを選択する。
神を愛して人を愛することを選択する。
主に捧げて、主に従うことを選択する。
犠牲することを選択する。
今日も清い人生を、生活をすることを選択する。
今日選択したならば、明日も選択。
明後日も、来週も、来月も、来年も続けて、
その道を選び取って生きることが大事なんです。
そしてこれはね、人が自分の代わりに、
代わりにやってもらえるものじゃないんですよね。
そういうことじゃないんです。
自分が自分で精霊の力をいただいて、
自分が信仰の道を、義の道を、それを選択して、
自分が戦って、自分が勝って、自分で歩かなければならない。
もちろん、主が守ってくださいますし、
私たちの鳥なしを通して、主は弱い人々を支えてくださるんです。
でもその鳥なしの人も、誰かに支えられなければならないわけなんですよね。
だからお互いに支え合うということになります。
しかし、結局は、自分で選択しなければならない。
ピリピリという手紙2章12節には、こういう言葉があります。
ピリピリ2章12節、私が読み出します。
そういうわけですから、愛する人たち、
いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、
私のいない今は、なおさら恐れおののいて、
自分の救いの達成に努めなさい。
これを本当にわかりやすい言葉で言うならば、
自分の救いの達成のために、それを目指して歩み続けましょう、
ということであります。
2番目の話をしたいと思います。
今日の麦と毒麦の話には、
自分の救いの達成に努めなさい、
ということであります。
今日の麦と毒麦の話には、
収穫という言葉が出てきました。
借り入れる。
つまり、この例え話のもう一つの意味には、
この世界には終わりが必ず来るということなんですよね。
今日の聖書の41節からご覧ください。
41節、42節、43節でご覧ください。
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41節をさっき読みましたけれども、
42節を見ると、
火の燃える炉に投げ込みます。
彼らはそこで泣いて吐きしりするのです。
43、その時正しい者たちは、
彼らの父の御国で太陽のように輝きます。
耳のある者は聞きなさい、とあります。
皆さん、さっきも申しましたように、
今この世界には、
義と悪、善と悪、神とサタン、
信仰と不信の礼儀的な戦いが
常にあるということなんですね。
戦われているということなんです。
そして、残念ながら、
世の終わりまで、
いつも、神の方が、義が、善が、
簡単に勝てる戦いではないんです。
これは本当に粘り強く戦い続けていかなければならないんです。
しかし、それは永遠に続くわけではない。
必ず終わりが来るという話なんです。
今この世界に、義と毒無義が一緒にありますけれども、
刈り入れの時が必ず来る。
今はこれが、義なのか毒無義なのか分からない。
もう全部、義のように見える。
しかし、後々になったら、
明らかに、義と毒無義が分けられるということなんですね。
そして、刈り入れが始まるということなんです。
そのことについて、義様がどうおっしゃられたか。
さっき読みましたように、41節、42節を見ると、
まずね、その毒無義の方を取り集めるんですね。
そして、その毒無義を火の燃える炉に投げ込む。
彼らは投げ込まれて、そこで泣いて吐き捨てをする。
永遠の滅びの苦しみに陥るということなんですね。
そして、神の人は無義なんですね。
神の人は、父の御国で太陽のように輝くということ。
私たちの未来は、私たちの終わりはですね、悲しみではないんです。
私たちのゴールはですね、
私たちのゴールはですね、父の御国で太陽のように輝くその日が待っているんですよ。
皆さん、信じますか?
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二人信じますね。
父の御国で太陽のように輝くその日が待っているんです。
しかし、しかし、言いづらい話なんですけれども、
もしもこのままイエス様が来られるんだったら、
私たちの家族、親戚、友人、父の中に神を拒否している人々、
信じようとしない人々、
神はいないと神も聖書も信仰もクリチャーもバカにする人々、
あるいは積極的に神でない偶像を巻き散らしている様々なサタンの下ベラ、
彼らは火の燃える牢、他の聖書を見るとイエス様はこの火は消えないと言いますね。
消えない火の燃える牢の中で、
苦しみも終わらない苦しみが続く、永遠に続くその地獄の中で、
吐き出をする、それが待っているという、
このイエス様の警告のメッセージを私たちは聞かなければならない。
イエス様の福音にははっきりと天の御国と滅び、地獄ははっきりと書かれているわけなんです。
曖昧じゃないんです。
だから私たちは目を覚まして、
このイエス・キリストの福音を、十字架の福音を、救いを述べ伝えなければならないんです。
伝導して伝導していかなければならないんです。
家族に、親戚に、友人自身に、あなたをイエス様を信じて救わなければならないんだと、
もう泣いてでも伝えなければならないんです。
皆さん、私たちがたまに、まずはよくしてあげないといけないんですね。
たまにそれは確かにそうかもしれませんが、
皆さん、でもよく考えると、人々によくしてあげて、
それが本当にそれで人が救われたら感謝のことなんだけれども、
それを必ずしもよくしてあげて、親切にするだけで人々が救われたら、
もう日本は99%クリスタルの国にならなきゃならないと思うんです。
世界で日本のように親切で人々によくしてくれる人々がどこにいるんでしょうか。
日本ではないと思うんですよ。
ただ、親切にすること、よくしてあげることは、
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キリスト十字架の福音を変わることはできないんです。
福音を変わることはできないんです。
もちろんそれが入り口として、最初の接点としてはいいでしょう。
しかし、それは親切があるいはよくしてくれること、
それが究極の福音ではないんです。
ただ、入り口の道具にすぎない。
だから私たちは、最初はよくして、親切にして、それはいいでしょう。
しかし、何かの時には、
時には、イエス・キリストを、福音を、御国を、十字架を伝えなければならないんです。
その口を、詩を開かせてください。
私に福音を語らせてくださいと、皆さん、祈ろうではないでしょうか。
十字架の福音を語ろうではないでしょうか。
メッセージをあげたいと思います。
世界の世の終わりは必ず来ます。
今は無意と独無意の世界に私たちは生きているわけなんですね。
誰が無意なのか、誰が独無意なのか、紛らわしことも確かにあります。
しかし、いろんな苦しみ、疑惑、患難も多くありますけれども、
精霊の力をいただきながら、
大へ忍びつつ、主の再臨の日を望みつつ、生きていけば、
栄光に輝く神の懐に居たかれるその日か、
人と共に、神の人々と共に、永遠に主を礼拝するその日が必ず来ること。
また、この無意と独無意の例え話に、その希望のメッセージもあるわけなんですよね。
その希望のメッセージをよく聞いて、そして、ああ、主は本当にそうです。
私がずっと無意として、
イエス様が言われましたように、この父の御国で太陽のように輝くその日か、
私に来ますように、主よ、私を守ってください。
そして、私を通して、キリストの十字架の復讐を語らせてくださいと、
祈り求めて、そして、この地上での私たちの生涯が、
自分だけではなく、神の復讐を、天の御国を付け知らせ、
述べ伝えるものとして用いられて、主のもとに行こうではないでしょうか。
お祈りします。