00:01
それでは一言、お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
私たちをまた主の御前へと招いてくださって、
あなたの前にひざまずき、あなたからの御言葉をいただき、主をお語りください。
しもべは聞きますと、その姿をもって、あなたの前にいられることを心から感謝をいたします。
神様、あなたは私たちのことを限りなく愛し抜いてくださいました。
巫女イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして、あの十字架に捧げてくださいました。
その流された血潮によって、私たちの罪を完全に許してくださり、
それだけではなく、三日目によみがえられた命、復活の命、永遠の命を、
主を信じる私たち一人一人に、あなたが与えてくださって、
永遠なる神と共に生きる命を与えてくださったことをありがとうございます。
あなたはもはや自分の足ではない、私の恵みによって歩みなさいと、
主と共に歩む人生をあなたは私たちに開いてくださいました。
どうか主よ、私たち一人一人、いろいろなものを抱えてこのところに来ておりますけれども、
主の身元にそれを下ろすことができますように、
あなたの命の言葉によって私たちを励ましてくださり、
私たちが本当にここからまた主を仰いで、
勇気を持って立ち上がって出ていくことができるよう、
私たちを導いてください。お願いいたします。
祈られたように、全世界に置かれている教会は様々な白街の中にあります。
私たちがこの世に集い、主を当たり前のように仰げていることは、
決して当たり前のことではないことを覚えます。
どうか神様、世界において今なお戦争のうちに、白街のうちにある教会を主が仰いでくださいますように、
同じ兄弟姉妹が主を仰ぎ、同じように主を礼拝することができるように、
何の隔たりもないように、主を仰ぐことができるように、
神様が導いてください。お願いいたします。
御言葉を開いてください。語る者の唇を清め、どうかあなたの御言葉を取り継ぐことができますように。
また、ここに集いたくても集えない兄弟姉妹も、
どうか主がお一人一人を知っていてくださいますから、
慰めてくださり、励ましてくださり、また共に集うことができるよう、
帰りに来てください。お願いいたします。
これからの一時を御手に委ねます。主が語ってください。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。アーメン。
今朝から主の祈りについて入っていきたいと願っております。
03:07
少しだけ思い出話から始めさせていただくのですが、
実は私は関西聖書神学校を卒業して今で10年ほどになるのですけれども、
神学校1年生のときにお世話になった実習教会が、
兵庫教区の東ハリマ中央教会という教会でした。
当時は藤森真紀夫先生がご奉仕をなさっていたのですが、
1年間とてもお世話になりました。
その実習の中でとても印象に残っているのは、
先生はその教会の皆さんの信仰をある種励ますために、
距離問答を用いて教会で教えておられたのです。
横文字にするとカテキズムというやつです。
あまりちょっと清め派とか福音派ではなじみがないかもしれませんが、
ルーテル派だとか改革派だとか長老派では今でも使われるのですが、
要は一つの問いかけに対してこう答えるのですよという、
一問一答形式で私たちが何を信じているのかということを整理していく、
そのような学びの方法でありますし、信仰告白なのですが、
先生はそれを子どもたちの礼拝でも同じようにされておられたのです。
子ども向けのカテキズムを使って。
とても印象に残っているのは先生が言われたのですが、
この子ども向けのカテキズムの第一問はこういう問いかけなんだと。
皆さんもちょっと一緒に考えてみていただきたいのですが、
その問いかけは、あなたは誰ですかという問いなんです。
あなたは誰ですか。
皆さんはどのようにお答えになられるでしょうか。
あなたは誰ですか。
同じように私も先生に問われました。
加藤くん、あなたは誰ですか。
先生すみません、私の名前は加藤光と申します。
それは君の名前だろうと。
あなたは誰ですか。
先生すみません、新学生をちょっとやらせていただいていまして。
それは君の立場だろうと。
あなたは誰ですか。
何度かそのやりとりをして、返す言葉がなくなっていったのです。
そのときに先生が最後に私に言われたのは、
先生は、いいかい加藤くん、この問いの答えはこうだと言われました。
それは、私は神の子です。
私は神の子ですと先生に言われました。
いいかい、どれだけ子どもたちに聖書の話を伝えることができたとしても、
最終的にこの問いかけに対して、あなたは誰ですかという問いに対して、
06:03
私は神の子ですと答えさせることができないならば、
僕たちの働きに意味はないんだよということを教えられたことがあります。
私はそのやりとりをとても印象的に覚えています。
私はこれを聞いてとても嬉しかったんですよね。
私の名前であったり、私の生まれであったり、私の立場であったり、
しかしそういうものよりもまず先んじて言える、
私は何者なのかということがある。
人生の良いも悪いもを築き上げてきたあらゆるものを背負っている私たちですけれども、
しかしそれらすべてに先んじて言えることがある。
それは、私は神の子なのだということです。
何にも先んじて、私は神の子である。
それが私、私たちですけれども、私たちを規定する第一のものなのだと。
そう言っていいのだ、それを聞いて私はとても安心をしました。
なぜこんな話をするかと言いますと、
実は今朝から主の祈りの言葉を一つずつ味わっていきたいと願っています。
最初にご一緒にお聞きしたいのは、
このマタエの福音書の6章の9節を読んでいただきましたが、
祈り出しの最初の言葉です。
天にいます私たちの父よと、
天にいます私たちの父よという言葉を
ご一緒に聞きたいと願っています。
この祈りの呼びかけは、ある種どれほど咀嚼をしても
味わいきれない豊かさがある言葉だなと思わされます。
天にいます私たちの父よ、
イエス様はまず神様をそのように呼びかけなさいと
私たちに教えられたわけです。
ここから私は今朝皆さんとご一緒に
ここから二つのことをまた注目をしていきたいと思っています。
それは一つは、イエス様は神様のことを
天にいます父と呼びなさいと教えられたということです。
天にいます父と呼びなさいと教えられたということです。
そしてもう一つ、これも大事なのですが、
イエス様は神様に祈るときに
私たちの父と呼びなさいと言われたということです。
私たちの父と呼びなさいと言われたということです。
一つずつ少しまた見ていきたいと願っていますが、
まず注目をしたいのは、イエス様は
天にいます父、天のお父さんと呼ぶように
教えられたということです。
09:02
神のことをされた者は、天のお父さんと呼んでいいわけです。
ただちょっとだけ想像しますと、
当時の弟子たちがこのイエス様のお話を聞いて
最初どんな反応をしたかなと想像するときに
きっと驚いたのではないかなと思うのです。
この一言目で驚いたのだと思うのです。
私たちも神様のことを天のお父さんと呼んでいいのですかということです。
私たちも先生呼んでもいいのですか。
そうだと思うんですね。
ちょっとだけマタイの福音書を今日開いているので
マタイの福音書のことに注目をしますと、
実はマタイの福音書では
イエス様はいたるところで神の子と呼ばれているのです。
悪霊たちがイエス様のことを神の子だと呼びましたね。
それだけではなくて、嵐を沈めるイエス様
そしてペテロの信仰告白がありますけれども
そのところでもあなたはいける神の子キリストですと
そのように弟子たちが言う言葉があります。
十字架形の裁判で大祭司がイエス様に問うた言葉も
お前は神の子キリストなのかと問いましたね。
そしてマタイの福音書の一つ、クライマックスだと思いますが
十字架でイエス様がこときれた後に
ローマの百人大長がこのようなことを言うわけです。
この方は本当に神の子であったと。
明らかにわかることは
マタイの福音書において神の子というのは
とても重要な言葉であります。
そして何よりも神の子という言葉が使われているのは
イエス様を指して言われているわけですね。
多くはイエス様に向けて言われている。
なんとなくわかるわけです。
イエス様は神の子ですから
イエス様が神様のことを天皇、お父様と呼ぶことは
よくわかるわけです。
ただしここでイエス様がお祈りの始めに言われたことは
いや私が天の父と呼ぶだけではない
私と同じようにあなた方も天におられる神様を
父と呼んでもいいのだということをここで言われているわけです。
この一言で私たちは招き入れておられるのです。
この一言があるから私たちは
天の父なる神様と呼ぶことができるわけです。
ただもうちょっと注目していきますと
この天にいます父という言葉には
何か距離感が違う二つの言葉が混ざっていると思うんです。
12:03
それは何かと言いますと
天におられる神というのと
父という言葉の近さです。
天という遠さと父という近さです。
先ほどお祈りにもありましたが
本当に天上におられる神様は全くその通りだと思うのです。
聖書の世界の中では
天という場所はどういう場所であるかというと
簡単に言いますと
天というのは神様が支配されて
神様が住まわれる領域なんです。
それは私たちが生きているこの地上の世界の連続線上にはないのです。
区別されている世界である
神だけが住まわれる世界である
私たちの世界のどこに行っても
宇宙の果てを探しても
そこと天というのはつながっていない。
だからことごとく遠いところにおられる神様ですよね。
しかしながら聖書を読んでいくと
その天におられる神様が
地上に入ってくるということがあるわけです。
面白いことに
神様は地上に住まわれる
私たちの世界に入って
天と地が重なり合うという時が
聖書の中にいくつも記されます。
私が印象深いのは
ヤコブのはしごって有名ですよね。
ヤコブが寝ている枕元に
天からのはしごが立った。
それだけではなくて
後でも見ますが
イエス様がヨルダン川で
洗礼を受けられた時に
天が開けて
精霊が鳩のように下ってきたという言葉があります。
天が開けて
そのようなつながりがあります。
ただしかしながら
やはり天におられる神様は遠いんです。
当然です。
神は神です。
人は神ではありませんし
神が人になることはありません。
神様は神様であり
人は人です。
それは混ざり合いませんし
言い方を変えるなら
どこまでも遠い存在と言える
それが神様というお方です。
しかしこの祈りのインパクトは
どこにあるかと言いますと
そのような神であるにもかかわらず
そのような神であるにもかかわらず
この世界を創造された神であるにもかかわらず
神はご自身が作られた
小さな小さな
私たち一人一人に目を止められて
私たち一人一人に
父と呼ばれたがっているということなんです。
父と呼ばれることを望んでおられるということなんです。
むしろここに書かれている言葉を
15:01
ちょっと広く見るならば
神様はもっと近い関係で呼んでほしいと思っておられるのかなと思いますね。
父という言葉よりももっともっと近しいかもしれません。
きっとこの中には
神様をお父様と呼びますということを聞いて
ローマ人へのパウロの言葉がつながった方もいらっしゃるかもしれません。
ローマ人への手紙の8章の15節というところに
パウロがこのように語っている見言葉があります。
ちょっとだけお読みしますと
ローマ人への手紙の8章の15節というところです。
こういうことが書かれてあるんですね。
ゆっくり読みますが
あなた方は人を再び恐怖に陥れる奴隷の霊を受けたのではなく
ことする見たまを受けたのです。
この見たまによって私たちは
あば父と叫びますと
ローマ人への手紙の8章の15節に書かれてあります。
パウロは精霊様を受けたことによって
私たちは神様をあば父と呼ぶことができると語っています。
このあばという言葉は
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが
これは簡単に言うとパパなんですね。
あばというのはパパなんです。
それは現在でもそうですが
ヘブル語を話している子供たちが
お父ちゃんというニュアンスで使っている言葉なんです。
お父ちゃん、お父ちゃん。
子供が親に対して一番何の遠慮もなくあるし
呼びかける言葉があばなんですよね。
パウロは精霊なる神様によって
あの偉大な神様を
どこまでも本当は遠いはずで
私たちと全く違うはずの
私たちが呼びかけても決して聞かなそうなその神様が
神はあなた方にあばと呼ばれたがっている。
あばと呼んでよいのだということを
パウロはここで語っているわけです。
そこまで親しく、どこまでも近く
神を父と呼んでいいんだと。
実際クリスチャンの私の友達でも
一緒にお祈りしたときに
天皇お父ちゃんと呼びかけて祈る人に会ったことがありますよ。
いいなあと思います、私。
そういう祈りは祈ってもよいわけです。
そしてまた興味深いことに
パウロはここでこの見たまによってと書いているんですね。
これは聖霊なる神様のことですけれども
興味深いんですよね。
さっきちょっとお話ししましたが
マタイの福音書の3章の16節というところでは
18:02
まさにイエス様がヨルダン川で洗礼を授けられたときに
天が開けて
その聖霊様が鳩のように下ってきたという箇所がありました。
マタイの3章の16節にこのように書かれています。
天が開け、神の御霊が鳩のように
ご自分の上に下ってこられるのをご覧になったのです。
そしてそのように
聖霊様がイエス様にお下りになられたときに
天からこのような声をイエス様をお聞きしました。
それは、これは私の愛する子
私はこれを喜ぶという言葉です。
これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。
ちょっとこのイエス様のもとに天が開けて
聖霊様が鳩のような形になって下ってきたという光景と
似た光景を私たちはどこかで見たことがあるんじゃないかなと思うんです。
それは私はおそらく使徒原稿録、使徒の働きの2章なんですね。
天から大きな風が轟くような音がし
そこから炎の下が分かれて一人一人の上に下ってきた。
彼らはそこからまさにいろいろな諸国の言葉で
宣教し始めたということが書いてあります。
何が言われているかと言いますと
あのイエス様が聖霊様を下されたように
使徒原稿、使徒の働きでは
弟子たちに対しても神様は天を開き
聖霊様を下らせてくださった。
いいと言うならばそれは
救われている私たち一人一人にもまた
神様は聖霊様を下してくださっているということです。
これはしっかりと覚えなければならないことだと思うのですが
私たちは聖霊様をいただいているお互いなんです。
こうしなければくだらないという
何かそういうことが一時期語られたことがありますが
違います。
私たち一人一人が神様をイエスを主と告白し
神様の子とされ
私たち一人一人に聖霊様はともにいてくださるんです。
それであるのであれば
私はこうも言うべきなのだと思っているのです。
それは聖霊なる神様に支えられつつ
私たちもまた天におられる全能なる神様を
お父ちゃんと呼びかけることができ
そしてその呼びかけに対し
天のお父様は私たちをイエス様と同じように
あなたは私の愛する子
21:00
私はあなたを喜んでいる
そのような語り語られるものと
私たちはなっているということなんです。
私たちは天のお父ちゃんと呼ぶことができ
その声に神様は
あなたは私の愛する子
私はあなたを喜んでいると
私たち一人一人に語っておられるということです。
いいえ、さらにもう少し進んで
こう言うべきなのかもしれません。
お父ちゃんと私たちが神様を呼び
あなたは私の愛する子
私はあなたを喜んでいるという
そのように続く交わりの中にこそ
私たちが一体何者であるかということの
全てが含まれているんです。
私たちは一体何者であるのか
神を父と呼びかけ
神から私の愛する子と呼びかけられるものである
それは私たちの名前よりも
私たちの生まれよりも
私たちの立場よりも先んじて
私たちを規定するものである
そのように言えると思うのです。
父なる神様と神の子である私たち
そのような父と子の関係に関する
聖書の言葉というのは
実は聖書の中にはたくさん出てきます。
今日はちょっと長くなるので
これ以上触れないんですけれども
例えばルカの福音書の
十五章の宝刀息子の話なんかは
ぜひじっくり触れていただいて
いいのではないかなと思うのです。
父は弟息子の過ちや問題を
裁く前に走り寄って
抱きしめる父親でした。
父は兄息子に寄り添って
私のものは全部お前のものだという
父親がいました。
実はこのようなお方が
私たちがお父ちゃんと呼びかけている
お方なんですね。
ちょっとだけ話の側面を
変えるかもしれませんが
時折このようなお話を聞きます。
教会で天のお父様と
天の父なる神様と呼ぶことが
つらいという方の言葉を
時々聞くことがあります。
それは何かといいますと
ちょっとだけ突っ込んだ話をしますと
自分のお父さんとの関係に
すごく傷ついている方って
いらっしゃるんですよね。
自分のお父さんがすごく厳しくて
自分をすごく傷つけたという経験が
ある方が仮にいらっしゃるとするならば
その人が教会に来て
神様はあなたのお父ちゃんなんだよ
ということを聞くと
ものすごくつらくなるという話を
伺ったことがあります。
父なる神様というときに
その怖いお父さんが出てくるからです。
24:02
でも覚えていただきたいのは
神様はそのような怖いお方や
厳しいお方ではないんです。
私たちはむしろ
この父を知り続ける
ということが大事なんですね。
父なる神様
父と呼んでいる神様は
どのようなお方であるのか
そのような姿を知り続ける中にこそ
私たちはそのような
お父さんとの関わりに関しても
回復と癒しというものが
私はあるのだと思っております。
神は地上の父親とは
異なる天の父である。
豊かに知り続けることは
私たちはできるんですね。
聖書にはそのような神様の姿が
豊かな姿が記され続けているのです。
一つだけ
このお父さんとの
天皇お父様と祈る祈りについて
一つご紹介したいお祈りがあります。
ちょっと出していただくことができるでしょうか。
ちょっと前に写させていただきましたが
実は八木十吉という
詩人の祈りなんです。
皆さんご存知でしょうか。
八木十吉というクリスチャンの詩人が
明治から大正にかけて
その時代に活動いたしました。
ただこの方は
29歳で亡くなられるんですね。
若くして。
しかも肺結核で亡くなられるんです。
多くの死を残されるのですけれども
最後、病床に伏して
本当にそのような中で
ある種、結核ですからね。
呼吸をしながら
呼吸することがつらいという
そういう状況の中で
残した祈りが一つあります。
お読みしますと
こういうお祈りなんですね。
おんちちうえさま
おんちちうえさまと
となうるなり
てんにいます
おんちちうえをよびて
おんちちうえさま
おんちちうえさまと
となえまつる
いずるいきによび
いりきたるいきによび
たてまつる
われは
みなをよぶばかりのものにて
ありという
そのような祈りが
残されております。
結核の中で呼吸はつらいものだったでしょう。
しかし
その痛む呼吸の中で
呼吸を出すときに
入れるときに
おんちちうえさま
おんちちうえさま
ただそれだけを
呼ぶばかりのものになったんだ
ということを
祈っている祈りです。
彼は
この祈りのメモに
タイトルかどうか分かりませんが
メモを書き添えているんです。
上に書きましたが
われはまことに一つの
よみがえりなりという
27:01
そういうメモを添えているんです。
まさに
いろいろなことができなくなっていく中
命の最後
おんちちうえさまと呼ぶことしか
できないことがある。
でも
それは
絶望なのか
いや
そうではないんですね。
むしろ
なおも私たちにある
希望は
いや
最後まで私が
どういう状態になったとしても
私は
おんちちうえさまと呼ぶことが
できるものなんだ
ということなんです。
私はそう呼んでよいのだ
ということです。
なぜなら
どうなっても
神の子であることは
変わらないからですね。
天の父なる神さま
おんちちうえさま
その呼びかけの中に
読み取りきれない豊かさがあり
呼びかけるときに
確かに
神さまから語りかけられている
言葉も聞いているのです。
あなたは私の愛する子
私はあなたを喜んでいる
もう私は
よみがえりの命なのだと
八木十吉は
祈ったのではないでしょうか。
この祈りは
絶望ではなく
そのことへの希望を
生かすことができるのです。
いつまでも
どんなときまでも
私たちは父よと呼んでよい
呼ぶことができる
なぜなら私たちは
確かに神の子だからです。
私たち一人一人が
神の子とされているからです。
さて
天にいます父よ
ということを見てまいりました。
もう一つのことを見て
今朝の説教を終えたいと思いますが
もう一つ
目を向けたい
言葉、目を向けたい内容があります。
それは
イエス様は
天にいます
私たちの父よと
祈るように教えられた
ということです。
私の父よじゃないんですね。
私の父よではなくて
私たちの父よと
祈るように教えられた。
ここに
示されているのは
イエス様をお祈りをなさるときに
私たちつまり
兄弟姉妹と
共に祈るようにと
私たちを招いておられる
ということです。
これはとても大事なことだと
思うんですね。
祈るときに私たちは
よく神様と
私という関係で祈る。
これは間違ってないんですよ。
私と神様との関係でまさに狭い
部屋で祈るわけですから
いいんです。
でもそれだけではないんですね。
私たちが
一緒に祈るということを
30:01
イエス様は願っておられる。
主の祈りにならう
私たちは私たちの父と
祈るように教えられている以上
共に祈るということから
目をそらすことが
できないとも
言えるのです。
このことについて
興味深いお話を以前伺ったことがあります。
この中にも
参加された方もいらっしゃるかもしれませんが
数年前に
塩屋政会がありまして
神戸中央教会が
会場だったかと思いますが
そのときの講師として
西宮のキリスト兄弟団で
御奉仕をなさっている
小平牧夫先生という先生が
主講師で立たれたことが
ありました。
私もつながりがあって
素晴らしい先生だと思いますが
そこで政会の中で
先生はまさに
このマタイの6章9節の
この言葉を開いて
メッセージをされたときに
このようなことをおっしゃっていたんですね。
これは自問の言葉でしたけれども
私は礼拝において
天に増します
我らの父よと祈るとき
この
我らとは一体
誰のことを指しているのかと
いつも問われているのですと
我ら
それは私にとって
都合のいい人たち
私と相性のいい人たちが
我らと呼び
そして
仲互いする人
あの人さえいなければいいのに
という思う人を
我らと呼ぶ祈りから
排除してはいないだろうか
という
そのような問いかけでした。
このように
申し上げました。
私は自分の中で
この我らの父よと祈るときに
我らを
広げることに
私は苦闘をしているのですと
私は我らと祈るときに
我らはどこまでなのか
それを広げることに
苦闘を私はし続けているのですと
私はとても
真摯な内容だなと思って
本当に心に残っております。
私は自分の中で
この我らを広げることに
苦闘をしている。
教会と言いますのはいえ
もっと広く言えば
誰かとともに生きていく
ということは
この我らを広げる苦闘から
ある種逃れられない
ということなのだと思うのです。
なぜなら
イエス様はともに祈るように
ともに生きるように
と私たちを招かれ続けるからです。
ただしそれが
簡単ではないということも
私たちは重々経験のうちに
知っているのかもしれません。
実はきょう
33:01
主の祈りとは別の歌詞を
もう一歌詞を読んでいただきました。
ピリピリという手紙の2章の
1節から11節というところです。
初期の教会
一番最初の教会と言いますのも
さまざまな
教会の中には実は
ともに生きることに対する
問題がありました。至るところで
教会ではまさに
教会の交わりということに
問題が噴出していました。
きょう読んでいただいた
ピリピリという手紙の
2章の1節から11節では
とても興味深いのは
イエス様は
教会の私たちが
ともに祈る
ともに生きるというときに
何を模範とするべきか。
それはまさに
イエス・キリストを
模範としなければならないんだよということを
パウロはそのように
語っているわけです。
特に5節は
有名な言葉ですよね。
2章の5節をお読みしますと
こういう言葉です。
キリスト・イエスのうちにある
この思いを
あなた方の間でも
抱きなさい。
これは
文語訳をご存知の方は
汝らキリスト・イエスの心を
心とせよという
そのような言葉であったと思います。
いいですよね。
キリスト・イエスの心を
心としなさい。
キリスト・イエスの心とは
どういうものだったのでしょうか。
ここではそれが6節から11節に
記されております。
簡単に言いますと
イエス・キリストは神であるにも
かかわらず
神であることを捨てられないと思わないで
低いところまで
下って行かれた
福音書を読むならば
かいばおけの暗闇の中にまで
下って行き
いいえ、それだけではなくて
十字架の死にまでも
イエス・キリストは
下って行かれました。
なぜでしょうか。
福音書を見れば分かりますが
暗闇の中にいる
一人一人を
慰めるために
一人一人と寄り添うために
一人一人をそのような
滅びから生かすために
イエス・キリストは
神であることを捨てて下られた
下られたということがここで
すごく書いてあるわけです。
そのような歩みこそ
まさに神様に認められ
後に高く上げられるものとなった
そのような歩みをなさった
主だからこそ
全地がイエスを主と褒めたたえている
そのような光景があります。
神様がまさにパウロを通して
進めているのは
イエス様がここまで
低くなられたのだから
その心を同じくして
あなた方も
低くなりなさい
という進めなわけです。
36:01
それを具体的に言うならば
3節4節に書いてある
通りなんです。
何事も利己的な思いや
虚栄からするのではなく
へり下って
互いに人を
自分より優れたものと思いなさい
それぞれ
自分のことだけでなく
他の人のことも
顧みなさいと
利己的な思いというのは
神くだいて言うならば
それは自分のことばかり考える
ということでしょう。
虚栄という言葉は
言い換えれば
空っぽの栄光にしがみつく
ということでしょう。
自分こそが偉く
自分こそ人よりも優れていると
傲慢になってしまうと
言いますかね。
そういうことを言う。
これは読んでいただいて
わかる通り
キリストイエスの心とは
真逆に当たるんですね。
キリストイエスの心を
心とするというのは
イエス様が
低くなられたように
へり下って
実際に人を自分より優れたものと
思いなさいという
そういう歩みである。
言い方を変えるならば
謙遜ということですよね。
謙遜に生きなさいということです。
そのような生き方はまさに
それぞれ自分のことだけでなく
他の人のことも変えりみる
生き方ですから
まさに共に生きるということが
ここで成立をするということです。
このことを
言われることはすごくわかるのですが
しかし
私自身この歌詞を
自分自身に当てはめながら読むと
本当に苦闘をします。
すくずく難しいなと思わされます。
私自身
今なお人を
自分より優れたものと思いなさい
という言葉に
自分はどうだろうかと
素直に問われる思いがいたします。
ただ
少しだけ厳しいことを言うと
イエス様が
私たちの父と
祈るように招かれる以上
私たちは
共に生きるお互いから
目を背けることはできないということです。
そしてそうであれば同時に
共にこの御言葉からも
目を背けることが
できないということでもあります。
キリストイエスの心を
心とせよ
何事も利己的な思いや
虚栄からするのではなく
へり下って互いに
自分より優れたものと思いなさい
それぞれ
自分のことだけでなく
他の人のことも
帰り見なさいと
これは自戒を込めて
あえて厳しい表現をさせていただきますが
39:01
私たちが
どれほど聖霊様に
清めの確信をいただこうとも
あるんです。聖霊様はそのように
私たちを満たしてくださるんです。
癒してくださるんです。そういうことあるんです。
でもどれほど深い
表現をしたとしても
へり下り、互いに
人を自分より優れたものと
私たちがそこで思えないのであれば
厳しいですが
それは清められていないんです。
少なくともキリストイエスの
心を心としているとは
決して言うことができないんです。
清めというのは
ジョン・ウェスレイが言いましたが
常に他者との関係で問われます。
たった一人の清めなんか存在しないんです。
他者との
関係の中で私たちは問われている。
そういうことを言っている私自身が
とても清められ
問われる気がいたします。
私たちの
父よと祈るときに
私たちは
まさに私たちを広げることに
苦闘をいたします。
その中で
私もそうですけれども
互いに私たちは悔い改めて
いくわけです。悔い改めと
祈りが重要というのはまさにその通りです。
ただ
考えなければならない悔い改めというのは
神様ごめんなさいだけじゃないんです。
悔い改めというのは
方向転換ということを意味するんです。
まさに
罪という的外れの状態
本来の神様の願いと
神様が創造された
神の形から的を外して
自由に生きていて
神様との関係
隣人との関係
それに著しく痛みを持っていて
歪んでいて
そのように的を外している私たちが
悔い改めるというのは
方向修正していくということなんです。
方向修正をしていく。
じゃあどこに方向修正をしていくんでしょうか。
イエス様にです。
イエスキリストという
神の二姿に
神の完全な現れである神の形である
イエスキリストに
私たちは方向修正を
していく。
それが私たち自身にとっても
本来の神の形に
戻っていくという作業ですから
実は悔い改めれば
悔い改めるほど私たちは
癒されていくはずなんです。
悔い改めれば悔い改めるほど
本当に自分の歪みを
手放して
主よあなたはそうだったんですね
ということに気づいて
自分自身の在り方をまた見つめ直していくとき
自分の歩みが変えられていくとき
私たちは
癒されていくし
回復していくというのが
悔い改めということなんですね。
そしてそのような
自分の罪であったり
自分の的外れを
ある種示してくれるのは
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自分一人では無理なんです。
私たちという
共に生きる交わりの中でしか
私たちは自分の
的外れ具合に気づくことが
できない。
私たちの父よと祈るときに
私たちは
私たちを広げることに
苦闘するように招かれます。
これは苦闘へと招かれるんです。
いや、そんな
私はそんな人間じゃありません。
開き直ることには招かれていない。
イエス様はこのように
私たちに祈ることを
教えられたからです。
この言葉はある種私たちに本当に
天皇お父様と呼ぶことができ
私の愛する子と呼ばれることに
すごく慰めを得ながら
ある種私たちにも問いかける
言葉なんです。
あなたの私たちは誰ですか。
あなたの私たちは誰ですか。
主の恵みを受けつつ、また
主の前に取り扱われつつ
私たちはこの祈りの
言葉を祈りたいと思うのです。
天にいます私たちの
父よと
天にいます私たちの
父よと一言お祈りをして
メッセージを終わります。