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2018-11-04 29:51

2018/11/04:ヨハネの福音書講解説教(47)私たちは世から選び出された者です

2018/11/04 聖日礼拝 尹善鎬牧師 ヨハネの福音書 -27

00:01
私たちは世から選び出された者です、というタイトルにして、説教をさせていただきます。
それでは改めて皆さん、おはようございます。
メッセージの前に、ありがとうと挨拶しましょうか。
よく来ていらっしゃいました。ありがとうございます。
一言お祈りいたします。
もしあなた方がこの世のものであったなら、
世は自分のものを愛したでしょう。
しかし、あなた方は世のものではなく、
かえって、私が世からあなた方を選び出したのです。
それで、世はあなた方を憎むのです。
私たちを世から選び出してくださって、
また改めてこの世の中に私たちを使わす神様、感謝いたします。
主に選び出され、またこの世に使わされた者として、
主と共に歩み、また救い、
様々な神の恵みと愛を、光を、命を、この世に紹介し与えるために、
どうか私たちをも整えてみだして申し入ってくださいますように、お願いをいたします。
今日来られた巨大姉妹たち一人一人を覚えて、
どうか主が豊かに祝してくださいますように。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーレン。
はい、感謝します。
私たちは世から選び出されたものです、というメッセージであります。
その後、そして改めて使わされたものですと、
そしたら長くなりましたので、前半だけ書かせていただきました。
皆さん、私たちが生きていく中で、
誰かに選ばれるということは、とても幸せなことだと思います。
しかも、私を選んでくれた人が、私は大好きな人だとか、
とても尊敬している人から選ばれたならば、とても嬉しく思うのではないでしょうか。
03:11
例えば、若い時に、あるいは若い人が大好きな彼氏から、彼女から選ばれて結婚ができたとか、
あるいは自分がもう本当に入りたい、入りたい、
もうそういうとても素晴らしい会社が自分を選んでくれた。
だいたい悪いことを除いて、選ばれるということは、とても幸せなことだと思うんですね。
今日の御言葉にイエス様は、私たちを選び出してくださった。
この選び出すという言葉を、聖書はただ選びじゃなくて、選び出したという言葉を使って訳しています。
私たちが本当に大好きなイエス様が、私たち一人一人名を呼んで、そして選び出してくださったということです。
大好きなイエス様に私たちは選ばれたんですよ、皆さん。
アメですか、皆さん。
この選びを実感しながら、皆さん、嬉しくて嬉しくて、そういうふうに喰らっていらっしゃるんでしょうか。
よく考えていただきたいんですね。
神なるイエスキリストが、なぜ私のようなものを選んでくださったのか。
イエス様が、私みたいなものを選ばなければならない何の理由もないんじゃないでしょうか。
選ばなければならない何の理由もないのに、ただ恵みと憐れみによって私たちを選び出してくださったんです。
実は選ばれなくても、いや選ばれずに永遠に死ぬべき存在でしたけれども、そんなものでしたけれどもにもかかわらず、
イエス様がご自身の死を代価として払ってくださって、イエス様が神様にお願いしたんです。
神様、あの人、この人を選んでくださいと、イエス様が自分の命を払って、頼んでくださったわけなんですね。
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そのイエス様のお願いがありましたから、イエス様の日がありましたから、それで神様はその身に怒りがなだめられて、私たちは神に選び出されたんです。
何と大きな恵みで感謝のことなんでしょうか。
だから皆さん、普段の生活、暮らしの中で、この恵み、選び、憐れみ、許しを忘れてはいけないんですよね。
いつも覚えて感謝して、何という恵みなんでしょうか。
私のようなものを選んでくださって、作ってくださった。
ああ恵み、ああ恵み、というふうに愛のべきではないでしょうか。
そしてそのお選びによって、私たちが選ばれた、選び出されたものとはどんなものなのかを、
今日の十九節において、イエス様は大事な教えをくださいました。
改めて十九節を一緒に、もう一度読みたいと思います。
十九節、一緒にこれを合わせて読みましょう。
もし、あなた方がこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。
しかし、あなた方は世のものではなく、かえって私が、よかが、あなた方を選び出したのです。
それで、世はあなた方を憎むのです。
久しぶりにあなたの声が聞こえて、生きている感じがしまして、うれしいです。
ここにイエス様が、あなた方は世のものではなく、とあります。
つまり、あなた方は世のものではありませんよ、と。
これを小訳聖書という聖書がありますね。
そこでは、面白くわかりやすく、こういうふうに訳しています。
もはや世と一つではありません、と訳して。
この世のものではないというのは、ちょっと私的には地味な訳だなと思いますけどね。
もはや世と一つではない。
他の聖書では、あなた方は世に属していないという意味なんです。
世のものでは、世と一つではない、世に属していないということ。
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ここにですね、実は私たちの救いと信仰と人生の大事な真理を教えてくれている御言葉、この数なんです。
皆さん、深く掘り下げていきたいと思いますけれども、
世のものではない、世と一つではない、世に属していないということを一緒に考えていきたいですが、
まず、このイエス様が日本語訳に訳されている世、この世というものは何でしょうか。
それは、ただこの普通の世界、この世ではないんです。
ここで言われる世、この世というものは、神様を信じないで、
いや、むしろ神を敵対している人々、集団、あるいは国家、
そして、それらが持っているやり方、人生観、価値観、文化、風習、そういったものをまとめてこの世と言われている。
皆さん、考えてみると、私たちは神にお会いして救われる前には、神のことをされる前には、
皆、世と一つでした。世に属していました。世のものでした。そうでしたか、皆さん。そうです。
つまり、神のことをされる前には、私たちは世と一つでしたから、
神に立ち向かう神に敵対する、そういう人々、集団のように語り、行い、
同じ考え方、同じ生き方、同じ価値観、同じ風習を持って、その中で生きていた。
ですから、その影響を受けていて、いわゆる支配されていたということであります。
そして、それがもう当然であると思って生きていました。
しかも、それは何も間違っていないと、そういう風に信じ込んで生きていたのが、救われる前の私たちなんです。
ところが、イエス様ははっきりと語ってくださいました。
あなた方は世のものではなく、かえって私が世からあなた方を選び出したのです。
どういうふうにしようか。
もはや、世と一つではない、違う。
もはや、その世の価値観や風習や生き方、文化、考え方、やり方に属していない一つではないということで、
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それがフリシャンの生徒のアイデンティティなんです。
生きざまなんです。
世のものではない、属していないという言葉は、簡単に言って二つです。
一つは、もはや影響を受けない。
もう一つ、それによって自分の人生はどんな拘束もされないという意味なんです。
私たちは日本の中に住んでいます。
皆さんは、ある方は80年、ある方は60年、ある方は50年、ある方は20何年の日本の中で住んでいます。
我が家は10年住んでおります。
その中で、もう普通に当たり前のように思っている、ある価値観、ある考え方、ある風習、ある生き方が、実はこの世のものであるということなんです。
そこまで意識しますと、もう目線なくなりますので。
その世的な価値観や風習や生き方、言葉、行いに影響をもはや受けない。
一つでないですからね。
それに、どんな拘束もされないという意味が、世のものではないという意味なんです。
3、神のことされるということ。
聖徒、なんでしょうか、聖徒、そのまま、漢字そのまますると、清い仲間という意味なんですよね。清い仲間。
聖徒、クリシャンであることを救われるということはどういうことでしょうか。
誤解しないで聞いてほしいんですけれども、
ただ、洗礼を受けて教会に来て、必要な文を研修して、他の人も放出しているから自分も放出して、
そういうふうに生きること、もちろんそれは間違いではありませんが、それだけなんでしょうか。
そうではありません。
聖徒というものは、この世に属していない。世のものではない。
どんな影響も拘束もされない。
でもですね、本当に誤解してはいけないことは、
だから言って、みんなこの世からもう出て行って、あのどこかの六皇さんの高いところに村を作って、そこでね、来週から世田谷教会が共同生活をしますから、皆さん、前次大臣さんを持って来てください。
話ではありません。
あるいは、もうね、絶対に世の人々はもう付き合ってもしてはいけませんし、喋ってもいけませんし、そういう意味ではないんです。
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むしろ、選び出されたものとして、改めてこの世の中に私たちは入っていかなければならない。
ところが、入っていくときに、自分が誰なのかというはっきりとしたアイデンティティを持って、この世の中に入らなければならない。
私は世のものではない。
もはやこの世からどんな影響も拘束も受けない。
仕方がなく触れても、そこから私は穢れない。
私はこの世から選び出されたものなんだ、というアイデンティティ。
そして、謙遜さを持つべきではないでしょう。
それは、言い換えますと、私たちの普段の暮らしに、生活に、あらゆる自分自身の全人格に、イエス・キリストによる変化が起こることなんです。
それは清めと言っていいでしょう。
新しく晴れることです。
変えられることなんです。
皆さん、イエス・キリストを信じて、変えられたでしょうか。
イエス・キリストを信じて、信仰生活をしてこられながら、皆さんの顔色が変わって、皆さんの普段の言葉が変えられて、
皆さんの考え方がこの世とは違って変えられて、
皆さんのお金の使い方が変えられて、生きる目的が変えられて、趣味が変えられて、皆さんの楽しみが変えられたのでしょうか。
イエス・キリスト様のように。
こういった意味として、私たちは改品、イエス・キリスト様を信じて変えられる改品ということに、同時に二つを考えていきたいと思います。
一つ大事なのは、改新そのものが重要であり必要なんです。
イエス・キリスト様をまことの救い主として信じて受け入れて、自分は罪ととかによって死んでいた罪人であること、どうしようもなかった自分を神様が作ってくださった。
その神を唯一の神として、オークの神々があって、ヤオロズの神々があって、その他の一つ。
そういうふうに選んだのではなくて、他は全部神ではない。唯一の神はサンみたいな神、他にはありませんと信じて、この世の生き方や全てとも決別してする改新の出来事が大事なんです。
そしてそれともう一つ同じく大事なことは、その改新したものとしての生き様なんです。
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改新したものには共通点があります。それは変えられた生き方なんです。生き様は変えられる。価値観が変わるんです。
皆さんよくご存知の一人でしょうけれども、新生化の233番、驚くばかりの作詞者は誰ですか、皆さん。ジョン・ミュートンですね。
大体ご存知でしょうけれども、ジョン・ミュートン。大体17世紀、18世紀、彼はものすごいケチな奴隷商人でした。
そのアフリカにイギリスが、大帝国イギリスがアフリカに行って、黒人をどれみたいに、そのイカですね、家畜みたいにですね、大きな船に何百人も乗り込ませて、そういう風にしてそれをヨーロッパに売る商売をしていました。
ところが彼は神を信じてはいたんです。ところが30歳頃になって、本当の意味で戒心をした。
そして、自分が今までやってきたあの奴隷商、その商売は、もう最悪の腹膜の罪であることを徹底的に悔やかめて、あの船の船長を辞めて、進学を拒いて、そしてその後はもう一人何人か仲間がいましたけれども、
あのイギリスに対して、この奴隷制度は間違っている、罪である、これはもうやめなければならないと叫んで訴えてきた人が、あのイギリスのど真ん中でそれを叫んできたクリティアムが、ジョン・ニュートンなんです。
ヨーロッパ全体なんですよ。イギリスだけではなく、フランスもドイツもあの時のヨーロッパは黒人がみんな奴隷みたいにされていたんだから。
そんな中でですね、もう本当に少数の何人かの仲間ともに、あれは罪ですと、神に喜ばれることではありませんと、やめようではないでしょうかと叫び続けてきた。
そして彼の後に、ウィリアム・ウィルバー・フォースというイギリスの国家議員がいるんですけれども、彼はこのジョン・ニュートンから影響を受けて真実なクリスタルでしたけれども、彼は50年間から30年間、イギリスの国家に対してそれを戦いをやり続けました。
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奴隷制度を廃止したために。そして彼がすぐ亡くなる直前も、イギリス政府は1年以内にこの奴隷をすべて解放することが法的に決まった。その知らせを聞いて、私が知っている資料では、翌日、ウィリアム・ウィルバー・フォースは亡くなった。
映画もありますけどね。そういう素晴らしい、もう本当に極少数の中で、自分の人生を変えられて福音を語る、喋る、伝える人がいたから、この世は変えられてきた。
皆さん、日本にもですね、実はこういうクリスタルが起こされなければならないんです。いつまでも隠れクリスタルであってはいけないんじゃないでしょうか。皆さん、改品は何でしょうか。世のものではない、世から選び出されたものとは何でしょうか。
人生は、イエス様のように変えられることから始まることなんです。以前は、世の楽しみを、快楽を楽しんでいたものが、それを捨てて、イエス様を喜ぶ人に変えられる。自分しか知らなかった人々が、イエス様に出会って、生きる目的が変えられることです。
以前は、性格も人生も、本当に悪魔みたいだったものが、天使みたいに愛のなくて冷たいものが、愛に偉大なものに変えられることです。
怒りばかり、怒りばかりのものが、イエス様に出会って、入話のものに、いつも抽象して、素知りをしていたものが、変えられて、人に使えるものに変えられることなんです。その変化が起こるはずなんです。それが改品なんです。
だから改品、私は、例えばですよ、1950何年、何月何日に私は救われた。それは素晴らしいことです。ところが、その改品にふさわしい生き方が伴われているかどうかが、実はそれほど大事なことなんです。
ちょっと面白い話をします。ある選挙地が、アメリカのインディアンがいるあの時代に、原住民の村で選挙活動をしていました。ところが、ある日が、その村の原住民のインディアンの州長の誕生日だった。
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誰もお祝いしてくれない。それで選挙としてはおかしいなと思って、その州長に聞いて、今日があなたの誕生日と思うんだけれども、誰もなんでお祝いしてくれないんですか。あなたはこの村のリーダーだし、チョロなのに誰もなんでお祝いしてくれないんですかと聞いた。
そしたら、州長がこういうふうに答えてくれました。なんで誕生日をお祝いするんですか。お祝いというものは、祝うべき何かがあるときにすることなのに、年を取るということはなんて特別なことなんでしょうか。
年を取るには何も努力しなくても、ただ年が変わったら自然に年を取るんじゃないでしょうかと言ったんですね。そして、そこで選挙をしていた。そうなんですね。そしたら、いつお祝いするんですかと聞いた。
インディアンの州長はこういうふうに答えました。名言でした。それは、何かが良くなったときに祝うことですよ。前より今が、去年より今年が良くなっていて、もっと新しくなって、もっとかっこよくなった人、そういうふうになったら、そのときにお祝いをするんですよと。
それで選挙主は、なるほどとね、そういう話がありました。これ実際のことがあります。十字会の福音に出会ったならば、内住の精霊の恵みを受けているならば、その人は必ず変えられるはずです。必ず変えられます。
どんどんどんどん、もっともっと清くなり、もっともっとニュアなものになり、もっともっとイエス様のように変えられる。皆さん、例えば皆さん、シングルだったときに結婚したら、家庭生活が変わるんじゃないでしょうか。またそこに赤ちゃんが生まれてきたら、変わるんです。
誰かが自分の人生に入ってきたならば、自分の人生のど真ん中にイエス様が入ってきたならば、もう必ず変わるんです。
自分が住み人であることを悟って、イエス様の十字会の愛と喜びを体験して、神様の創造の説理を知って、内住の精霊様を告白して信じている神徒であるならば、その人は必ず変えられない人は誰もいないんです。
私たちがイエス様を信じていながらも、報酬していながらも、教会に来ていながらも、実はその人々と生き様も、考え方も、風習も、習慣も、行いも、言葉も、人生も変わっていない。
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もうひとつである人ならば、実はその人はイエス様を受け入れていない人なんです。イエス様を信じる人ではないかもしれません。
なぜなら、イエス様を自分の人生のど真ん中に受け入れて生きているならば、必ずイエス様のように変えられるんです。
皆さん、いかがでしょうか。皆さんのお顔で、皆さんの普段の言葉において、皆さんの行いにおいて、考え方において、価値観において、家庭において、職場において、皆さんの財布の中において、お金において、そこにイエス様のお顔が現れているんでしょうか。
イエス様のお顔が現れているんでしょうか。それが、世から選び出されたものなんです。メッセージを送りたいと思います。
イエス様は、私たちをこの世から選び出してくださいました。
この世と性別された生き方をもって、救いと永遠の命、希望をもって、改めてこの世の中に私たちは使わされたものなんです。
皆さん、私たちは世に属していません。天に属しているんです。パオルはそれを、我々人間は天にあると言っていました。
未国の市民なんです。そうしたら、未国の市民らしく、未国の市民というその名前にふさわしく生きるべきではないでしょうか。
未国の市民らしく、美しい人生と豊かな恵みを体験する。そして、性別された者として、改めてこの世に使わされて、そこで希望と命と救いをもって伝えるものとさせていただきたいと願います。お祈りします。
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