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2025-07-08 27:39

vol.34 稲葉俊郎さん(後編) 「意識と無意識のあわい」の砂浜で

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稲葉さんと櫻井さんの会話の後半は、さらに聴くことと対話について、様々な角度から深まっていきます。

怒りという表現のうしろに深い悲しみが隠れていることがあるように、その人がなかなか言葉にしきれない一番深い本当の表現、そこには聴いてくれる「相手」がいないとなかなか近づけない、と稲葉さんは言います。

その相手としてさまざまな画像を俯瞰しながら、稲葉さんのスタンスはどのように決まっていくのか? そんな問いからたどり着いたのは、「意識と無意識のあわい」にある砂浜のような場所ーーそこで「迫りくる波の行ったり来たりのあわいあたりを保ち続ける」稲葉さんと櫻井さんの体感が伝わってくる、まさに瞑想的な対話となりました。

 

■プロフィール

稲葉俊郎(いなば・としろう)

1979年熊本生まれ。医師、医学博士、産業医、作家。慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科(SDM) 特任教授。「いのちを呼びさます場」として、湯治、芸術、音楽、物語、対話などが融合したwell-beingの場の研究と実践に関わる。

西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修め、医療と芸術、福祉など、他分野と橋を架ける活動に従事している。著書に

いのちを呼びさますもの —ひとのこころとからだ(アノニマ・スタジオ)

いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―(アノニマ・スタジオ)

ことばのくすり~感性を磨き、不安を和らげる33篇 (大和書房)

山のメディスン―弱さをゆるし、生きる力をつむぐ―(ライフサイエンス出版)ほか

https://www.toshiroinaba.com/about-me

サマリー

このエピソードでは、櫻井さんと稲葉さんが『まず、ちゃんと聴く。』を基に、聴くことの重要性や主語を変えることによる心の理解について探求しています。また、感情の取り扱いや共感のプロセスについて議論しています。さらに、感情の表現における悲しみと怒りの関係を探り、心理カウンセリングの重要性が語られています。病気や健康に関する考え方、西洋医学と東洋医学のアプローチの違いについても述べられています。今回のエピソードでは、対話や聴くことの重要性と、それが人間関係や社会に与える影響について深く掘り下げており、特にコミュニケーションにおける信頼の重要性が強調されています。

『いのちは のちの いのちへ』の始めのところで
こんにちは、エールの山田です。この番組は、エール代表の櫻井さんの書籍、『まず、ちゃんと聴く。』の内容を中心に、聴くや伝えるについて、ざっくばらんに対話しながら見ていこうというポッドキャストです。
前回に引き続きまして、稲葉さんをゲストに迎えまして、エールの櫻井さんと山田の3人でお送りします。 では、稲葉さん、櫻井さん、今回もよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
前半あっという間に終わってしまって、後半何にしようかといろんなテーマありましたが、櫻井さんが、あの、もやっとしてるやつをもやっと言ったら、そのまま出していただくのがいいかなと思ったので、
ちょっとその辺の感覚みたいな、問題意識みたいなことをぜひ、話すところから始められるとと思うんですが。
そうですね。なんか、稲葉さんとお話ししたい、このラジオでお話ししたいと思ったのは、
まあ、あの、稲葉さんの本が、僕は聴くってことが書いてある本に、読めてしまって、
まあ、そういう眼鏡で僕は、世の中のほとんどのものを今見るという役割をもらってるので、
その見方をすると、もう本当聴くってことをそのまま書いてくださってるぐらいの感じで読んでいたんですけど、
なんかその辺のニュアンスって多分伝わらないだろうなと思って、ちょっとなんか僕が気になるワードを出しながら、
稲葉さんにそこをつないでいただくわけじゃないんですけど、そこの話をしていただくとみんなが理解しやすいかなと思ったんですが、
なんかね、最初にね、あの、このさっきご紹介した、前編でご紹介した「いのちはのちのいのちへ」っていう本の「はじめに」のところに、
2020年コロナウイルスによる感染症が地球全体を巻き込みと書き始められているんですけど、この途中に書かれているのがですね、
「ウイルスや病を敵と見なして闘うのではなく、ウイルスや病ともいかに共生していくのか、
そして共存、共生していくための場や共同体、社会とはどのようなものかを一緒に考えたいのだ。
これは医療現場だけの問題ではない、この世界に生き延びていく上で、私たちの暮らしすべての面において一度立ち止まり、深呼吸をして、
まったく新しい価値観で考え直す必要性に迫られている」というふうに書かれているんです。
で、これあの、なんか本当に大きい話というよりは、あの、僕の、あの、なんていうのかな、
聴くっていうことで言うと、自分の声を聴くっていう時も、まさに病気になった時に、この病気が悪いものだから、
いかに早く治して、高熱が出たから、これを解熱剤でいかに早く抑えて、あの、元に戻るかっていうことを考えたりもすると思いますし、
これ病気じゃなくても、自分の気持ちや感情もそうで、怒りが出てきた時に、怒りってものをなんか良くないものだと捉えて、
どうこれをごまかしていくかとか、なくしていくかって考えるんだけど、いやなんかそれもすごく、なんていうのかな、
自分をより良くしていくものであるとか、まあ、えっと、まあ、社会にとってももしかしたら良いものであるかもしれないっていう捉え方で、
熱であったり怒りの感情みたいなものを扱っていくっていうのは聴くってことにおいてはすごく大事だなというふうに思ってたりするんですけど、
なんか、この辺の、あの、このはじめにのところに書かれた文章、もう何年も前に書かれてるんで、あれかもしれないんですけど、この辺のニュアンスのところをちょっと稲葉さんからお伺いしたいなと思ってました。
「私が」という主語をひっくり返す
そうですね、あの、私はそれはなんていうか、主語、述語問題かなと思ってまして、
主語、述語問題。
あの、要は我々ってこう、常に私がっていう主語で物事を考えちゃうじゃないですか、
言葉を覚えたこととも関係があるんですけど、私がこう見えるとか、私はこう感じるっていうところで、みんなその、私ってもの主語にして生きてるんですけど、
相手とこう例えば対話するときっていうのは、結局相手がどう思ってるかっていうことを聴くって言うんだけれども、
それもあくまでも私が聴くっていうことでずっとやってる限り、なかなか相手の気持ちってわかんないと私は思ってるんですよ。
だから思い切ってもう、主語をひっくり返しちゃったほうが、私は相手が言ってることが聴きやすくなると思ってて、
つまり、私がじゃなくて、その人になっちゃうということですね。主語を変えちゃう。
そうするとその人はどういう気持ちで言ってるのかなっていうのが、自分ごととして感じられる。
例えばウイルスの気持ちは何なんだっていうこと、私が考えてもなかなかそれって、
私っていうフィルターの中で見てるんでなかなか聴こえないのが、
私はウイルスであると仮定したときに、ウイルスとしてはどう世界は見えてるのかって一回発想を変えてみたときに、
こういうふうに地球が見える、人間が見えるって考える。
そしてまた私っていう主語に戻ってきたときに、その言葉が聴こえてくるっていう現象が起きるのかなって私は思ってるんですね。
怒りっていうのも結構似てて、私が怒りっていう感情に圧倒されてるときにも、
自分自身の主語が怒りになったとして、怒りっていうふうに見たとき、この世界とか、
それこそ私っていう物質的な肉体はどう見えるのかなっていうふうに、
一回その立場に主語を変えてみると、そっちからまた違う風景が見えてきて、
また元に戻ったときに、それがあれの声、体の声が聴こえるとかっていう。
体の声って言っても、体もすごいディテールが分かれてるんで、
私としてはより具体的に、心臓とか腎臓とか、胸が痛いってなると一見心臓だけど、
いや違う肺だってこと、主語を変えるとそうじゃないらしいってことが分かるかもしれないし、
第三者的な足の裏とかつま先とか、そういうふうにむしろ主語にして考えてみると、
第三者的に体の声が聴こえてくることもあると思いますし、
そしてまた元に戻るってことですよね。
それはある種、演劇的でもありバーチャルリアリティ的でもあり、
そういう作業のような気もするんですけど、
そのことと聴くっていうことの不都合を感じてる人にヒントになるかなと思うのは、
そのあたりですかね。
私がっていう枠の中にとらわれてる限り、なかなかそこから抜け出せれなくて、
聴くっていうことができないっていうか。
聴こうとしてる時点で私がという主語がどんどん出てきちゃう。
特に強化されちゃう。強化されてしまう人がいる。
そこから出られなくなると、自分の都合で相手の言葉を切り取る、選び取るっていう作業に入っちゃって。
そうじゃなくてその人に一回役割としてなってみちゃう。
そのときにどういうふうに感じてるかを追体験してみて、もう一回自分に戻る。
だからそれって主語ってことだと思うんですね。
私が、私がで考えるんじゃなくて、Aさんがどう思うかっていうのは、
Aさんの気持ちにならないとなかなか本当の表現ができないし、
それは声を聴くことが難しくなる。
そういうことを私は常にぐるぐるぐるぐるやってるような気がしながら聴いてるなって感じがして、
ときにはそこの空間にある一輪の花の気持ちになった態度で、
場のやりとりを見るとまた違った様子に見えるし、
相手にもこっちの感情にも巻き込まれないふうにその風景が見えてくるし。
そこまでいくとかなり一見専門的な話のような気がしますけど、
でもなんとなく全てを受容的に受け入れて聴いてる人っていうのは、
空間全体の粒子になったような雰囲気であるとか、
そこにある一輪の花のような雰囲気であるとか、
そういう雰囲気を醸し出してくると思うんですけど、
それはその人がそういう状態にほぼ同化してるのかなと思うことはよくありますよ。
怒りの代役を買って出るってことがあります
あの、聴く仕事をしてたり聴くということを考えてる人のヒントになったらいいなという意味で聴くんですけど、患者さんが来るじゃないですか。
いろんなモニターの情報が入っている。
その人は主観的に、
どういうストーリーがあって、
どういうことを感じてるんだろうって、
その人に入るってことはすると思うんですけど。
例えばその人がお腹が痛いって言ったときに、
そのお腹にまで入っていく感じがあるのか。
それ本人は入れなかったりするじゃないですか。
例えば、僕たちのもうちょっと、なんていうのかな
僕たち物理的な病気はあまり扱えないんで、
心の話でいくと怒りみたいな話になってて、
その怒りに入っていくっていう感覚って、
そんなにできる人多くないなっていう感じがするんですけど、
でも怒りに入っていくって感覚がわかるような気もしていて、
そこまで稲葉さんとして、
相手の思考っぽいところとか目線っぽいところじゃないところまで入っていくってことをやられるのか、
それともあくまでその人の思考、
その人が主観的なところに入っていくっていう感覚に留まるのか。
いろんなパターンがあるんですけど、
私としては結構怒りの代役を買って出るってことがありますね。
つまりその人が怒ってるとするじゃないですか。
私がその怒りっていう人の怒りさんと名前をつけたと。
私があなたの怒りさんの代役をしてあげましょうっていう、演劇的に。
ちょっと対話をしてみましょうっていうことが時々あります。
それで私は怒りさんとして、そこで登場して主語が変わるわけです。
そこで対話をしてもらうわけですよ。
そうすると感情は感情なりの理屈があってそれを出してくるわけですよね。
それを私がある意味代弁することで、
本人は怒りっていう濁流の中に巻き込まれて、それこそその声が聴こえなくなって、
なぜこれが出てこないといけなかったのかっていうのを、
私がある種演劇的にしてあげることで収めることができるっていうことはあります。
それは相手のためにやります。
そこがもう圧倒されちゃって見えなくなる。
でも本当に一般的に私が怒りっていうのを相手の代わりに体験して思うときに、
相当のパターンであるのはやっぱり悲しみだなっていうのはすごくある。
とにかく悲しいっていう感情ってすごくやっぱり難しくて、
相手の「一番深い本当の表現」のところまで聴き取る
悲しみの表現としての怒りっていうのはとってもあるんで、
やっぱりそこにちょっと一回いきましょうっていう感じに持っていくことはすごく多いと思います。
何を結局悲しいから怒ってるのかっていうことですよね。
でもほとんど悲しみと怒りってその人の分離できてないから、
怒りが前面に出てきちゃうわけじゃないですか。
だけど私が代わりに、あなたの怒りとして登場してあげたときに、
実は悲しみっていう人がいましてね、みたいな話になって。
この悲しみくんがうまく表現できないから怒りさんがこれだけ代弁してるようですね、っていうふうになっていきますね。
でもそれは別に私が誘導していくわけではなくて、
やっぱり相手がそこに気づいてきますよね、実際。
インサイドヘッドのような。
インサイドヘッド的なものは一つのストーリーですけど、
自分にとってのこれは何なんだっていうのは、
やっぱり相手がいないとそれって近づいていけないですよね。
距離が、映画とかテレビとかネットで見ててもある種安全地帯にいるんでね。
医者としての役割の以上、私はそれをかって出てるっていう。
だけどあんまりそこに自分も同一視しちゃうと、
相手の怒りとか悲しみに本当に自分も同化しちゃうんで、
だからやっぱりある程度モニターで見てるぐらいの距離感で自分はちょっと距離をとってるっていうのは、
自分のためにもありますよね。
心理カウンセリング講座のようになってきましたね。
でもちゃんと聴くっていうのは、ほぼそのへんに到達してますよね。
私も相手の話を普通に聴くっていうところをやっていくと、
どんどん相手が吐き出したいものが出てこようとしてることがわかってきて、
たぶん友人関係で、私が役割が必要だったらもちろんそこまで膿み出しに手伝いしますけど、
そこまでしないこともありますし、
でも病院っていう場だとそういうことを切羽詰まって求めてる方もいるから、
私はそういうところまで、本人の一番深い本当の表現のところまで聴き取ることで、
それが全部表現されて、次のステップに進めるのかなと思うんでね。
ビジネスもどうなんでしょうね。
そこまでは重荷を背負わないのかもしれないけど、
でもそういうのが思わず出てくることっていくらでもあるのかなって。
しっかり聴いてると。
病気も、体的には苦肉の策だと言いたいと思うんです
この話とつながりそうだなと思って、
もう一個本の中で興味深いなと思ったことをお伺いしたいんですけど、
病気学と健康学っていうことを書かれていて、
話を聴くっていうところで言うと、
細分化していって、原因を特定して、
これを解消すればうまくいくのであるっていうふうに、
わりとビジネスパーソンで考えがちだなというふうに思うんですよね。
何か問題があったときに、
過去に遡り、分解をして、何かが悪いから直そうという考え方をしがちなんですけど、
それが起きてる理由って、実は目的的に起きてることが結構あるなと思っていて、
何か原因があるからというよりは、
何かを得体から結果そうなっちゃっているという側面を見に行くことで解決することってあるなと思ったりしてるんですけど、
こういうことを思いながらこの辺を読んだんですけど、
ちょっとまた稲葉さんの解説というか。
そうですね。でも病気っていう捉え方も、私っていうものの捉え方じゃないですか。
私としては病気としか捉えられない。
忌まいましく避けたいものであるから病気っていうカテゴライズするわけですよね。
だけどじゃあ命とか体っていうところを主語にして考えてみたときに、
本当に好き好んでこんな状態になったのかって言うと、そうじゃないよって言ってくると思うんですよ、体的に。
あなたがこんだけめちゃくちゃなことやってたから、こうならざるを得なかった。
苦肉の策でこうなってるんだよっていうことを言いたいと思うんです。
それって健康になりたいと思って命はプロセスの中に病気を経ないと解毒できないっていう、
切羽詰まった事情があると私は思ってるし、
場合によってはそれはその人が与えられた寿命っていうものがもともとあったときに、
その寿命を生き切るプロセスの中で起きてることであると捉えるならば、
それは必ずしも別に私の都合では勝手に良い悪いって病気だとかって言ってるけれども、
それはもともとそういうものとして私の体が生まれてきているのであれば、
むしろそれに沿った生き方をしていくっていうことが大事なんじゃないですか。
だから病気学、健康学っていうのは視点の問題ではあると思いますね。
自分がどう見るかっていう、私が病気と見るのか、
身体としてはどうこれを実践しようと思ってこういう状況になってるのかっていう、
一回視点とか主語・述語を変えてみましょうっていう一つの提案でもあるのかなって思います。
「意識と無意識のあわい」あたりをずっと保つ
ちょっと全然違う切り口言っていいですか。
前半の最後に聴きたかったことに結局今つながったんですけど、
例えば今の話って、病気ってものが起きたときに、
悪いものであるから基本的にはそこに対処して治しましょうっていう方向性で西洋医学とかは考えるじゃないですか。
で、違う医学の、東洋医学を含め違う医学のアプローチとか違う方法もあると思うんですけど、
両方大事だよねって思ったりするわけなんですけど、
いろんなカメラを見て俯瞰的に見ている稲葉さんとしての、
自分のスタンスの取り方ってどうされているのかなっていう、
経営者としての質問なんですけど、としての悩みというか、聴くっていうことというよりは、
何か両方大事だよねということを俯瞰的に見つつも、
自分としてはこうじゃないかとか、こっちのほうが好きだなとか、こっちの価値観のほうが自分は合ってるなって、
スタンスの取り方と発信の仕方とか、そことの付き合い方ってどうされてるのかなっていう。
そういうふうに客観的な立場でいろんなカメラを同時に見てるときに、
自分の頭の欲望的な感じじゃなくて、心の深いところから湧き起こってくる好奇心。
それは自分自身の体の声でもあると思うんですけど、
結局そういうところが向かいたい方に向かっていくっていうのが私のスタンスですね。
結局それって自分自身の声を聴いてないと、それこそ惑わされる。
多チャンネル時代の中で道に迷っちゃうんだけれども、
結局自分のこのワクワク感とか、抑えきれない愛に近いような感情が湧き起こってきたときに、
そっちの方向に向かっていくっていうふうにしてるんで、
そのときそのときで一回ちょっと冷静になって、
聴くっていうのとスタンスが近いかもしれませんけど、ちょっと待つっていう時間の中で、
そこの中で湧き起こってくるのを静かに待って、
こっちだねって私たちが進む方向はっていうふうに進んでいくっていうことが多いですね。
頭であんまり考えないっていうところですかね。頭というか理屈で合理的に。
一見コスパも悪いし、一見非合理的なように見えても、
そっちが、やっぱり体とかがワクワクして楽しくて、
ウキウキする方向に向かっていけば大体私は合ってるのかなって思うんですけどね。
山田さんちょっとそろそろ戻さないと僕、いけない時間な気がするので。
戻しはせずにまたあえて突っ込んだことでいくと、
最後になんか櫻井さんがよくたまにポロッと聴くって瞑想的な行為だと思うんですよね、みたいなこと言うじゃないですか。
なんかその自分のワクワクをちゃんと聴くみたいな最後の稲葉さんのお話もそうですけど、
そこの時の自分の状態みたいなことを櫻井さんはなんか瞑想的みたいな言い方をされるなっていうのが、
その感覚って、その言葉で聴くと言うと意外と伝わってないことが多いんじゃないかなって感じがしてるんですけど、
もうちょっと言うとどういう感覚なんですかねっていうのが、
稲葉さんと一緒に最後にちょっと話をしてみるといいなと思ったんですけど。
私は「意識と無意識のあわい」っていうふうに表現してるんですけど、
意識のさざ波と無意識のさざ波、だから海で言うと砂浜みたいな場所なんですけど、
陸地と海っていうものがふわーっと重なってきて、砂浜って海が満ちたり引いたりするじゃないですか。
だからそこで常に過変的に変化するんですけど、あるときは砂浜なんだけどあるときは海になって、
足首だけ海がつかつか入ってるみたいなね。
その程よい気持ちよさみたいな。
その感じが私の中で意識と無意識がわーっと重なってる感じで、
そこにずっとスタンスとして保つっていう、完全に陸地に上がるんじゃなくて、
完全に海の中に入水していくんじゃなくて、
その迫りくる波の行ったり来たりのあわいあたりをずーっと保ち続けるというスタンスが、
おっしゃった感覚に、私としては近いですね、瞑想的な感じと。
いやーすごくわかります。これ言語化するのすごいですね、これを言語化……
そうですね、さっきほど言った、聴いてるときって基本的には、
相手からは何が見えてるんだろう、相手は何を感じてるんだろう、何を考えてるんだろう、
っていうところに入りに行こうとするところからスタートする感じがするんですけど、
入ってると途中でめっちゃ自分側に降りてくることがあったり、
それは自分の思考なのか、相手に、なんかあやしい言葉を使うと、
チャネリングみたいなことの、イタコ的に降りてくるような時もあるし、
全然その2人とは別の俯瞰して何かを捉えて見てるような要素もあるし、
そういうところにいられる時間がすごく僕は聴くっていう時間な感じがしてて、
これって日常の生活の中ではなかなかない、すごくふわふわした、
眠る前、直前のまさに意識と無意識の間にいるときのような感覚があって、
すごく聴けたなっていうのはすごく自分主語ですけど、
っていう状態にあるときってその感覚に近いなっていうのがよく思うところだったりします。
「さざ波」がやってきた体験だけでも結構大事で
やっぱりそれがまた対人関係であるってことも大事ですよね。
たぶん1人の狭い、例えば瞑想ルームで瞑想してるっていう状況と、
やっぱりその目の前に人がいて、しかもその人は何か、
もともと言葉で表現しようとしていたっていうところの空間の中にも一対一でそういう関係が生まれてると、
話そうとしてた人も意識でずっと組み立ててた理屈みたいなところから
一回ちょっと自由になって、海の無意識からふわーっとより上がってきた本当の気持ちみたいなのが、
言葉にできなくても出ようとするっていうだけでも結構大事で、
そのときに必ずしも答えが出なくても、
そういうさざ波みたいなのがやってきたっていう体験だけでも、
また1週間とか1ヶ月したときにそれがまたぶわーっと表に出てきたりすることがある。
その辺が結構私も真髄だと思ってますし、
あんまりそこで焦らず、無理やり引っ張って引きずり出すみたいなことっていうのはあんまりお互いにとって良くなくて、
相手を信頼してちょっと委ねて待つみたいな。
そういうことなんでしょうね。
出ようとするだけで大事ってすごい感覚的に大事ですよね。
これを話して聴いてって分けるわけじゃないですけど、
出そうとしてる側もそれへの信頼が必要だし、
それを受け取ろうとする側もさっき言った通り無理やり引っ張り出そうとするってことなく、
出ようとしてるということでも十分だったりするというか、
そこにお互い信頼を持ってい続けるっていう関係ができるとすごくいい時間になるような。
そう、そう思います。
「対話」は誰でも、友人関係から平和活動まで応用できる
ということで、いくらでも話が続きそうな感じはあるんですけれども、残念ながらいい時間になってきてしまっているんですが、
最後に稲葉さん、前回今回含めてお話しさせていただいた中で、どんなご印象、ご感想でしたかってお伺いしてもいいですか。
そうですね、やっぱり奥が深いというかですね、ものだなっていうのをすぐ私も感じましたし、
この対話っていうのは、私はもちろん臨床の医療の現場の切実な問題から自分で探求せざるを得なかった手間だったんですけど、入り口は。
ただでもこういうことってすごくどんな人にでも開かれているし、別に医療的職業者じゃなくても誰でもやっぱりこういうことをしっかり深めて、
それは友人関係とか家族関係とかいろんな仕事でももちろん応用ができるもので、私は本当に平和活動というかですね、戦争とか争いが起きるのも結局こういうところの不一致から、
力を持っている人がよしとか、力で脅してやるぞみたいな方向に出ることが戦争だと思っていて、
そういうことが基礎教養になって一般的になっていくってことが大事かなと思ってますんで、ぜひ私も今後も深めていきたいですし、ぜひいろいろ学ばせていただきたいなと思ってます。ありがとうございます。
さくらいさんいかがでしたか?
いや楽しかったですし、ちょっとなんだろうな、学びたいなっていう欲がすごく湧いてきたというか、知識的にというよりは、最後長くなっちゃいそうなんですけど、
自分自身も稲葉さんほどではないんですけど、その聴くってこと自分ですごくやってた時期があって、でもこれをビジネスにして経営者をやったときにやっぱり聴くという現場からはすごく離れる、
でもまあそこには役割があるんでそれやってるんですけど、なんか自分自身がもう一回聴くってところにちょっと戻りたい感覚がちょっと自分の中にあるなっていうのを少し感じてました。
はい、ありがとうございます。ということで今回は稲葉さんをお迎えしまして、さくらいさんと3人でお送りしてきました。稲葉さん、さくらいさんどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
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