こんにちは、エールの山田です。この番組は、エール代表の櫻井さんの書籍、『まず、ちゃんと聴く。』の内容を中心に、聴くや伝えるについて、ざっくばらんに対話しながら見ていこうというポッドキャストです。
前回に引き続きまして、稲葉さんをゲストに迎えまして、エールの櫻井さんと山田の3人でお送りします。 では、稲葉さん、櫻井さん、今回もよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
前半あっという間に終わってしまって、後半何にしようかといろんなテーマありましたが、櫻井さんが、あの、もやっとしてるやつをもやっと言ったら、そのまま出していただくのがいいかなと思ったので、
ちょっとその辺の感覚みたいな、問題意識みたいなことをぜひ、話すところから始められるとと思うんですが。
そうですね。なんか、稲葉さんとお話ししたい、このラジオでお話ししたいと思ったのは、
まあ、あの、稲葉さんの本が、僕は聴くってことが書いてある本に、読めてしまって、
まあ、そういう眼鏡で僕は、世の中のほとんどのものを今見るという役割をもらってるので、
その見方をすると、もう本当聴くってことをそのまま書いてくださってるぐらいの感じで読んでいたんですけど、
なんかその辺のニュアンスって多分伝わらないだろうなと思って、ちょっとなんか僕が気になるワードを出しながら、
稲葉さんにそこをつないでいただくわけじゃないんですけど、そこの話をしていただくとみんなが理解しやすいかなと思ったんですが、
なんかね、最初にね、あの、このさっきご紹介した、前編でご紹介した「いのちはのちのいのちへ」っていう本の「はじめに」のところに、
2020年コロナウイルスによる感染症が地球全体を巻き込みと書き始められているんですけど、この途中に書かれているのがですね、
「ウイルスや病を敵と見なして闘うのではなく、ウイルスや病ともいかに共生していくのか、
そして共存、共生していくための場や共同体、社会とはどのようなものかを一緒に考えたいのだ。
これは医療現場だけの問題ではない、この世界に生き延びていく上で、私たちの暮らしすべての面において一度立ち止まり、深呼吸をして、
まったく新しい価値観で考え直す必要性に迫られている」というふうに書かれているんです。
で、これあの、なんか本当に大きい話というよりは、あの、僕の、あの、なんていうのかな、
聴くっていうことで言うと、自分の声を聴くっていう時も、まさに病気になった時に、この病気が悪いものだから、
いかに早く治して、高熱が出たから、これを解熱剤でいかに早く抑えて、あの、元に戻るかっていうことを考えたりもすると思いますし、
これ病気じゃなくても、自分の気持ちや感情もそうで、怒りが出てきた時に、怒りってものをなんか良くないものだと捉えて、
どうこれをごまかしていくかとか、なくしていくかって考えるんだけど、いやなんかそれもすごく、なんていうのかな、
自分をより良くしていくものであるとか、まあ、えっと、まあ、社会にとってももしかしたら良いものであるかもしれないっていう捉え方で、
熱であったり怒りの感情みたいなものを扱っていくっていうのは聴くってことにおいてはすごく大事だなというふうに思ってたりするんですけど、
なんか、この辺の、あの、このはじめにのところに書かれた文章、もう何年も前に書かれてるんで、あれかもしれないんですけど、この辺のニュアンスのところをちょっと稲葉さんからお伺いしたいなと思ってました。
そうですね、あの、私はそれはなんていうか、主語、述語問題かなと思ってまして、
主語、述語問題。
あの、要は我々ってこう、常に私がっていう主語で物事を考えちゃうじゃないですか、
言葉を覚えたこととも関係があるんですけど、私がこう見えるとか、私はこう感じるっていうところで、みんなその、私ってもの主語にして生きてるんですけど、
相手とこう例えば対話するときっていうのは、結局相手がどう思ってるかっていうことを聴くって言うんだけれども、
それもあくまでも私が聴くっていうことでずっとやってる限り、なかなか相手の気持ちってわかんないと私は思ってるんですよ。
だから思い切ってもう、主語をひっくり返しちゃったほうが、私は相手が言ってることが聴きやすくなると思ってて、
つまり、私がじゃなくて、その人になっちゃうということですね。主語を変えちゃう。
そうするとその人はどういう気持ちで言ってるのかなっていうのが、自分ごととして感じられる。
例えばウイルスの気持ちは何なんだっていうこと、私が考えてもなかなかそれって、
私っていうフィルターの中で見てるんでなかなか聴こえないのが、
私はウイルスであると仮定したときに、ウイルスとしてはどう世界は見えてるのかって一回発想を変えてみたときに、
こういうふうに地球が見える、人間が見えるって考える。
そしてまた私っていう主語に戻ってきたときに、その言葉が聴こえてくるっていう現象が起きるのかなって私は思ってるんですね。
怒りっていうのも結構似てて、私が怒りっていう感情に圧倒されてるときにも、
自分自身の主語が怒りになったとして、怒りっていうふうに見たとき、この世界とか、
それこそ私っていう物質的な肉体はどう見えるのかなっていうふうに、
一回その立場に主語を変えてみると、そっちからまた違う風景が見えてきて、
また元に戻ったときに、それがあれの声、体の声が聴こえるとかっていう。
体の声って言っても、体もすごいディテールが分かれてるんで、
私としてはより具体的に、心臓とか腎臓とか、胸が痛いってなると一見心臓だけど、
いや違う肺だってこと、主語を変えるとそうじゃないらしいってことが分かるかもしれないし、
第三者的な足の裏とかつま先とか、そういうふうにむしろ主語にして考えてみると、
第三者的に体の声が聴こえてくることもあると思いますし、
そしてまた元に戻るってことですよね。
それはある種、演劇的でもありバーチャルリアリティ的でもあり、
そういう作業のような気もするんですけど、
そのことと聴くっていうことの不都合を感じてる人にヒントになるかなと思うのは、
そのあたりですかね。
私がっていう枠の中にとらわれてる限り、なかなかそこから抜け出せれなくて、
聴くっていうことができないっていうか。
聴こうとしてる時点で私がという主語がどんどん出てきちゃう。
特に強化されちゃう。強化されてしまう人がいる。
そこから出られなくなると、自分の都合で相手の言葉を切り取る、選び取るっていう作業に入っちゃって。
そうじゃなくてその人に一回役割としてなってみちゃう。
そのときにどういうふうに感じてるかを追体験してみて、もう一回自分に戻る。
だからそれって主語ってことだと思うんですね。
私が、私がで考えるんじゃなくて、Aさんがどう思うかっていうのは、
Aさんの気持ちにならないとなかなか本当の表現ができないし、
それは声を聴くことが難しくなる。
そういうことを私は常にぐるぐるぐるぐるやってるような気がしながら聴いてるなって感じがして、
ときにはそこの空間にある一輪の花の気持ちになった態度で、
場のやりとりを見るとまた違った様子に見えるし、
相手にもこっちの感情にも巻き込まれないふうにその風景が見えてくるし。
そこまでいくとかなり一見専門的な話のような気がしますけど、
でもなんとなく全てを受容的に受け入れて聴いてる人っていうのは、
空間全体の粒子になったような雰囲気であるとか、
そこにある一輪の花のような雰囲気であるとか、
そういう雰囲気を醸し出してくると思うんですけど、
それはその人がそういう状態にほぼ同化してるのかなと思うことはよくありますよ。
この話とつながりそうだなと思って、
もう一個本の中で興味深いなと思ったことをお伺いしたいんですけど、
病気学と健康学っていうことを書かれていて、
話を聴くっていうところで言うと、
細分化していって、原因を特定して、
これを解消すればうまくいくのであるっていうふうに、
わりとビジネスパーソンで考えがちだなというふうに思うんですよね。
何か問題があったときに、
過去に遡り、分解をして、何かが悪いから直そうという考え方をしがちなんですけど、
それが起きてる理由って、実は目的的に起きてることが結構あるなと思っていて、
何か原因があるからというよりは、
何かを得体から結果そうなっちゃっているという側面を見に行くことで解決することってあるなと思ったりしてるんですけど、
こういうことを思いながらこの辺を読んだんですけど、
ちょっとまた稲葉さんの解説というか。
そうですね。でも病気っていう捉え方も、私っていうものの捉え方じゃないですか。
私としては病気としか捉えられない。
忌まいましく避けたいものであるから病気っていうカテゴライズするわけですよね。
だけどじゃあ命とか体っていうところを主語にして考えてみたときに、
本当に好き好んでこんな状態になったのかって言うと、そうじゃないよって言ってくると思うんですよ、体的に。
あなたがこんだけめちゃくちゃなことやってたから、こうならざるを得なかった。
苦肉の策でこうなってるんだよっていうことを言いたいと思うんです。
それって健康になりたいと思って命はプロセスの中に病気を経ないと解毒できないっていう、
切羽詰まった事情があると私は思ってるし、
場合によってはそれはその人が与えられた寿命っていうものがもともとあったときに、
その寿命を生き切るプロセスの中で起きてることであると捉えるならば、
それは必ずしも別に私の都合では勝手に良い悪いって病気だとかって言ってるけれども、
それはもともとそういうものとして私の体が生まれてきているのであれば、
むしろそれに沿った生き方をしていくっていうことが大事なんじゃないですか。
だから病気学、健康学っていうのは視点の問題ではあると思いますね。
自分がどう見るかっていう、私が病気と見るのか、
身体としてはどうこれを実践しようと思ってこういう状況になってるのかっていう、
一回視点とか主語・述語を変えてみましょうっていう一つの提案でもあるのかなって思います。
ちょっと全然違う切り口言っていいですか。
前半の最後に聴きたかったことに結局今つながったんですけど、
例えば今の話って、病気ってものが起きたときに、
悪いものであるから基本的にはそこに対処して治しましょうっていう方向性で西洋医学とかは考えるじゃないですか。
で、違う医学の、東洋医学を含め違う医学のアプローチとか違う方法もあると思うんですけど、
両方大事だよねって思ったりするわけなんですけど、
いろんなカメラを見て俯瞰的に見ている稲葉さんとしての、
自分のスタンスの取り方ってどうされているのかなっていう、
経営者としての質問なんですけど、としての悩みというか、聴くっていうことというよりは、
何か両方大事だよねということを俯瞰的に見つつも、
自分としてはこうじゃないかとか、こっちのほうが好きだなとか、こっちの価値観のほうが自分は合ってるなって、
スタンスの取り方と発信の仕方とか、そことの付き合い方ってどうされてるのかなっていう。
そういうふうに客観的な立場でいろんなカメラを同時に見てるときに、
自分の頭の欲望的な感じじゃなくて、心の深いところから湧き起こってくる好奇心。
それは自分自身の体の声でもあると思うんですけど、
結局そういうところが向かいたい方に向かっていくっていうのが私のスタンスですね。
結局それって自分自身の声を聴いてないと、それこそ惑わされる。
多チャンネル時代の中で道に迷っちゃうんだけれども、
結局自分のこのワクワク感とか、抑えきれない愛に近いような感情が湧き起こってきたときに、
そっちの方向に向かっていくっていうふうにしてるんで、
そのときそのときで一回ちょっと冷静になって、
聴くっていうのとスタンスが近いかもしれませんけど、ちょっと待つっていう時間の中で、
そこの中で湧き起こってくるのを静かに待って、
こっちだねって私たちが進む方向はっていうふうに進んでいくっていうことが多いですね。
頭であんまり考えないっていうところですかね。頭というか理屈で合理的に。
一見コスパも悪いし、一見非合理的なように見えても、
そっちが、やっぱり体とかがワクワクして楽しくて、
ウキウキする方向に向かっていけば大体私は合ってるのかなって思うんですけどね。
山田さんちょっとそろそろ戻さないと僕、いけない時間な気がするので。
戻しはせずにまたあえて突っ込んだことでいくと、
最後になんか櫻井さんがよくたまにポロッと聴くって瞑想的な行為だと思うんですよね、みたいなこと言うじゃないですか。
なんかその自分のワクワクをちゃんと聴くみたいな最後の稲葉さんのお話もそうですけど、
そこの時の自分の状態みたいなことを櫻井さんはなんか瞑想的みたいな言い方をされるなっていうのが、
その感覚って、その言葉で聴くと言うと意外と伝わってないことが多いんじゃないかなって感じがしてるんですけど、
もうちょっと言うとどういう感覚なんですかねっていうのが、
稲葉さんと一緒に最後にちょっと話をしてみるといいなと思ったんですけど。
私は「意識と無意識のあわい」っていうふうに表現してるんですけど、
意識のさざ波と無意識のさざ波、だから海で言うと砂浜みたいな場所なんですけど、
陸地と海っていうものがふわーっと重なってきて、砂浜って海が満ちたり引いたりするじゃないですか。
だからそこで常に過変的に変化するんですけど、あるときは砂浜なんだけどあるときは海になって、
足首だけ海がつかつか入ってるみたいなね。
その程よい気持ちよさみたいな。
その感じが私の中で意識と無意識がわーっと重なってる感じで、
そこにずっとスタンスとして保つっていう、完全に陸地に上がるんじゃなくて、
完全に海の中に入水していくんじゃなくて、
その迫りくる波の行ったり来たりのあわいあたりをずーっと保ち続けるというスタンスが、
おっしゃった感覚に、私としては近いですね、瞑想的な感じと。
いやーすごくわかります。これ言語化するのすごいですね、これを言語化……
そうですね、さっきほど言った、聴いてるときって基本的には、
相手からは何が見えてるんだろう、相手は何を感じてるんだろう、何を考えてるんだろう、
っていうところに入りに行こうとするところからスタートする感じがするんですけど、
入ってると途中でめっちゃ自分側に降りてくることがあったり、
それは自分の思考なのか、相手に、なんかあやしい言葉を使うと、
チャネリングみたいなことの、イタコ的に降りてくるような時もあるし、
全然その2人とは別の俯瞰して何かを捉えて見てるような要素もあるし、
そういうところにいられる時間がすごく僕は聴くっていう時間な感じがしてて、
これって日常の生活の中ではなかなかない、すごくふわふわした、
眠る前、直前のまさに意識と無意識の間にいるときのような感覚があって、
すごく聴けたなっていうのはすごく自分主語ですけど、
っていう状態にあるときってその感覚に近いなっていうのがよく思うところだったりします。