1. 小松正史『耳の保養』
  2. 僕が音楽の道を選んだ理由③〜..
2024-08-13 21:48

僕が音楽の道を選んだ理由③〜音を学術と表現から究めまくった大学院時代と奇跡の就職

音の調査を究めることと、音楽表現を磨くチャンスに恵まれた話をしました。これは選べる類いのものではない気がします。足跡を辿ってはじめて分かることばかりでした。偶然の重なり合いが、後で振り返ると必然の道となるのですね。
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/627e0afcfd1be6fc466131c8
00:01
みなさん、こんにちは。作曲家で大学教員の小松正史です。
この放送は、音や音楽についての話題を1日1つずつお伝えしております。
今日はですね、第3回目になります。
小松が音楽の道を選んだ理由ということで、自分のライフヒストリーをですね、かなりセキュララに喋る特集となっておりますが、
今日はですね、大学院生の頃から、あと就職する辺りぐらいまでかな、そんな話をね、ここからしたいなと思います。
選んだ理由というよりもね、薄々みなさんね、ずっと聞いていただいている方はわかると思うんだけど、
選んだ、勝手に選んだのかな、自分が選んだ記憶があんまないような気がしてきたんですけども、
その辺りちょっと深掘りして本題へといきましょう。
それでね、大学院、僕は正確に言うと大学院に3つ行ってるんですよね。
京都市芸の修士課程、そして、その前に明治大学の修士課程、農学研究科ですね。
そして最後、藩大の大学院なんですけれども、
昨日の話ではですね、京都芸大の大学院がね、今までで一番学生時代の中で面白かったっていうのはね、ちょっと喋ったと思うんですね。
そのきっかけで、昨日は割とフィールドワークのことかな、鳩間島というところに行って、
そこで音のフィールドワークをしたっていうような、深い深い音の気づきとか、聞こえ方ですよね。
すごくそれを、ほんと3ヶ月、ぼっとうしてやったなあっていうのがあるんですね。
03:01
その後なんですけど、大学にまた戻ってきて、最後、修士論文を書くあたりになったりですね。
昨日も喋ったんですが、京都市立芸術大学っていうのは、演奏者も大学院に在籍していることが多くて、
それでクラスメイトがものすごく演奏したりとか、特殊なというかね、日本でも稀有な、稀な演奏技術を持っていたりとかね、
そういうカリスマ的な人が結構いらっしゃったんですね。今もいらっしゃいますが。
その中の一人のクラスメイトというか後輩なのかな、その子と一緒にピアノを連弾をするっていう、
これ偶然なんですけど、遊びで連弾しようかっていうふうな、そこから始まった連弾の表現がですね、
人に聴かせるっていうよりも、お互い演奏しながら即興で全部弾くみたいな、
そういう音遊びですね。相手はクラシックの、本当にバリッバリ弾けるようなカリスマ的な人だったんですけど、
その子と一緒に、僕は右手で適当に今でこそ即興演奏を弾きますけれども、その辺りの原型みたいなものをそこで見出したんですよね。
研究をするっていうことと並行して、表現と研究って僕は全くそこでは結びつけてなかったんですよ。
ただ音を弾く、しかも一人で弾く音じゃなくて、一台のピアノで演奏するから、
相手は左手といいますか伴奏側に回っているわけなんですけど、主導権がどっちが握ってるかって言ったら、
およそ相手だと思うんですけど、それに僕は合わせてこの高音部分を演奏したというか、
そういう感じで、それでも本番というか演奏する機会がいくつかあって、4,5回ぐらい人前で弾いたですかね。
なのでその辺りで短期間だったんですけど、ものすごく音を紡ぐ、自ら湧き出るように紡ぐっていうことを、
即興のデュオというか連弾の活動の中から得たっていうのがあって、
まあよかったですね。芸大では研究の一番根幹部分の弾き出しを開けたっていうことと、
演奏することがこんなに面白い。自分でもこれできるんだっていうね。
これ僕自分で、これ皆さんもそうかもしれないけど、自分の才能ってわかんないんですよ。自分であんまり。
本当に。それが人が弾き出してくれて気づくことって結構あって、
それを体験できたのが京都芸大の一番よかったところかなと思うんですね。
本当にもう旅みたいなもんですよ。旅してるといろんな人とか風景に出会うでしょ。
06:03
それと近いもので、やっぱり学生時代に出会ったことあまりにも多かったなっていう、
その経験が大学院の京都芸大で得たことですね。
その後、僕は大阪大学の大学院の博士課程に行くんですね。
そこに振り切った理由としては、研究を深掘っていく。
しかも今までは自分の好きな研究かな。そういうのにだんだん振っていったんですけど、
将来のことをちょっと考えるわけですよね。大学修了したらどうなるのかっていうか。
働かないと生活できないですから、そのあたりは僕も自分なりに深刻に考えていたわけなんですよ。
その一つに消極的な選択かもしれないし、最初に大学に入って研究が面白いなっていうことを教えてくださった
農業工学というか、景観工学の先生が藤沢和先生っていうんですけど、その先生のもとでの楽しさもあるんだけど、
やっぱり僕は大学の教員になろうかなと思ったんですね。
しかしながら大学教員というのは、なりたいからできるものじゃないんですよね。
もう本当にこれはね、もう運とか縁とかたまたまのご縁ですかね、この職はつけないんですよ。
もう数万分の一ぐらいの確率かもしれないですね、ひょっとして。
ただ僕はそこに賭けたんですよね。
なのでそこで逆算していって、じゃあそのためには何がいるのかな。
あっ、博士号がいるんだなと。
博士論文書いたりとか、そのあたりをやってっていうことなので、今までの大学院の話って修士なんですよね。
マスターっていう。
マスターではそこで縁があって入れる大学は確かにあるかもしれないけど、やっぱり少ないんですよ。
博士取らないとこの世界は学歴ですからね。
そういうこともあって、やや戦略的に、これ僕の特徴だと思います。
好きをずっとやってるというよりも、周りからはそう見られないかもしれないけど、割と戦略的ですね。
かなり冷静な自分を見つめる視点があって、それを博士取って、どっかの大学に公募で受けるしかないなと思ったので、博士課程に行きました。
博士もですね、いくつか大学受けて受かってたんですよ。
ただですね、近畿にいますので、実家が近畿なので、近畿地方に近い大学っていうことと、より専門性の高いところということを考えると大阪大学に行くことに決めたんですけどね。
その後縁もね、僕の活動を見ていて、共感というか理解いただいている方から、研究室こんなのあるよということで紹介いただいてですね、そこで訪問したというのが最初のことだったんですね。
09:11
そういうふうな導きによって、ありがたくですね、大阪大学の工学研究科というところの環境工学専攻というところに行ったんですね。
そこで何したかというと、僕もともと理系なので、それをね、サウンドスケープというと割と文系とかフィールドワークであると社会科学になりますけども、もう一度こう自然科学の方に前振りしてですね、工学的に人と音との関係性を調べていくっていう、そういう研究をやったんですね。
なのでね、大学院の博士課程の大阪大学の方ではですね、まあ趣味でやるというよりもほとんどもうお仕事としてやっていたというね、朝帝国に研究室に行って、そして様々な研究とか活動とかね、先生方のお手伝いもたくさんしましたし、それで帝国に帰っていくということを月から金曜日までずっと3年間やったっていうことをね、しまして。
サラリーマンに近い形なのかもしれないですけども、本当にそこで社会のね、様々なことをそこで習った先生からですね、すごく社会としてどう生きていくかっていうこともね、教わったような気がしまして、そこでありがたくね、3年間で博士号を取ることができました。
内容的にはね、道路景観、道路の交通音の不快感を緑の葉のすり合う音でどう提言できるかというような心理学、もっと言えば実験心理学なんですよ。視覚と聴覚の相互作用というような、そういう抽象的な研究をですね、具体的な話で言うと、視覚情報とですね、あと音の情報。
音は車の音とか、あとあの葉のすり合う音とか、その辺りの組み合わせによってどれだけその音っていうのが視覚に引っ張られるのか、あるいは視覚が音にどう影響していくのかっていうことをね、めちゃくちゃ細かく実験したり調査したり。
葉のすり合う音から録音、そこはフィールドワーク班大の近くでかなり1年半とか2年ぐらいかかってやったんですけど、そこを併せた博士論文をありがたく書くことができまして、博士号を準備することができたんですね。
その頃と併せて、どういうふうに就職していこうかっていうことがね、やっぱり目の前にあったわけなんですね。その辺りちょっと次のチャプターで伝えていきましょう。
どういうふうに行くか。もうそれはね、コネクションとか全く他の大学にないので、もう僕、公募しかないんですよ。公募っていうのはね、今の就活と近いですよ。エントリーシートみたいなものを書いてね、これエントリーシートっていうのは行籍書と、あとは履歴書と、そこで自分が今まで書いてきた論文とか書籍みたいな、それを入れてまずは大学に送るっていう。
12:22
送ってきて、それで一時審査通った場合は面接しますよっていうところで面談に行って、それで面談して、OKだとそこの大学に就職するっていうことなんですけど、これがね、そんな一筋縄ではいかないというかね、デキレースが多いんですよ、はっきり言って。
デキレースって何かというと決まってる採用の人がいるんだけど、とりあえずエビデンス作るために他の人も一応公募っていう形で審査しましたっていうね、そういうコマの一つでしか過ぎないというとんでもないことがまだ大学でわりと起こってますからね。
それも加味していったわけなんですけど、いくつ受けたかな、これはちょっと申し訳ない、伝えられないんですけども、受けたところの一つが京都政科大学の人文学部だったんですね。
で、そこでね、どんな科目があるかというと視聴覚記録法演習っていう文系のフィールドワークで視覚と聴覚の記録をどうするか、そしてそれをもとにどういうフィールドワークの民族誌とかね、成果物を作っていくかっていうような、僕の今の音の根幹をなすような、そういう授業なんですけど、
その先生が実はおそらく非常勤の先生だったんですよね。それを専任で取り入れようということで、工房、成果がなさったんだと思いますけども、それで一次が通りまして、二次の面談、面接を複数の先生方の前で喋ったことを未だに覚えてますけれども、そこで何やりたいんだと、やっぱり音の研究をしたいっていうふうに言いましたね。
その時には全然表現とかピアノをやってますって一言も言わなかったんですよね。それは趣味ですからね。そんなことをやって、ありがたく通った、何百倍の中で当たったっていう感じなんですけどもね。
そういうふうにして2001年の4月から京都成果大学の勤務ですね。専任講師としてありがたくお給料をいただきながらという今の基盤がそこで導き出されるという、そういうことになったんですね。
ちなみに、班大の時に自分がピアノ演奏をしているかどうかっていうことを伝えてなかったんですけどね。それちょっと言いますとですね、その即興の連談の相手は海外の留学で、もう日本を離れてしまったので、一緒に演奏するっていうことはそれ以降なかったんですけれども。
それとは別にですね、その班大で教えてもらってる先生の知り合いがですね、映像を作る学生さんがいらっしゃったんですね。助手さんかな、当時助手さんかもしれないね。
15:15
そこの先生のつながりで、映画音楽を入れて欲しいという要望があって、小松君行って欲しいと言われて行ったんですね。映像を見せてもらって、そこにどんな音を入れていくかっていう。
それで初めてですね、そんな依頼というか、僕できるかどうかわかんないんですけど、とにかくやることが面白いな、実験的だなと思ってやった曲がですね、マヒナというアルバムの中のソラキという曲があるんですけれども、それが林悠希さんという映像作家さんです。
今は大手文学院大学の先生なんですけども、そこの卒業制作か何かで僕の曲を合わせて作ったっていうのがありまして、それで音楽って自分が好きかって作るんじゃなくてね、いろいろな媒体とかそういうものに合わせて作ることができるんだなっていうことをね、そこで知ったわけなんですよ。
今の話もやっぱりご縁ですよね。自分が狙って言ってるというよりも、なんとなくやってるときに、その今の今というかね、反対の先生からそういうふうに言われたっていうのがあるので、ピアノちょっと趣味でやってるってことはね、周りに伝えているので、小松君はピアノ弾くんだな、曲作るんだなという曲は作れないけど、なんかやるなっていうことはやっぱりうすうす皆さん気づいてたようですね。
それがあって、反対の研究バリバリの中でも、ちょこっとはずっとピアノは弾き続けてましたね。明治大学に入ったときに購入した電子ピアノがあったので、それで気分転換な感じでちらほらと弾いてたかなと、そんな感じで演奏は続けてました。
それで、今日ちょっと全部伝えられるかどうかわからないんですけども、聖火大学入ってですね、まず授業があって、他の大学、僕はあんまり当時知らなかったんですけど、この聖火大学ってちょっと得意な大学だなと思うんですけどね。
一人一人の個性が強いし、自由度が高いし、自由自治という看板があるように、なんかね、良くも悪くも自分たちで世界を作っていくとか、何かこうDIYのようにね、手作りでこしらえていくっていう文化がすごくあったんですね。
なので教員とか学生とかっていう、もちろんその歴然たる役割の違いはあるんですけど、まあ距離が近いんで、小松さんとかね、なんかちょっと面白いことやってよとか言われたりね、よくそんなことをされました。最初ね、もう当時30歳ですよ、入ったのね。
18:19
だから学生がいると19とか20とか21、2だから、10歳離れてない人に対して僕は喋ってたから、やっぱり今よりかはかなり距離感が近かったのかなという感じなんですね。
それである日ですね、あれはいつだったかな、6月とか5月今頃だったかな、かなり夕日がよく入るね、今は潰れてしまった教室があってですね、段々となってる教室ですよ。そこに不思議とグランドピアノがあってですね、授業が終わって、その後ですね、なんか学生と喋ってたのかな。
ずっと学生がそこにね、気持ちいいから、夕方だったと思うんだよね。夕方の時間帯でそこで夕日が差し込んでいてですね、ピアノだけがあったみたいな。それで小松さんなんか音楽、音好きだからなんか弾けるのとか言われて、弾けるよっていう、そんな感じの会話して、じゃあだったら弾いてみてよって言われてですね。
で、そのピアノを開けて、蓋を開けて、鍵盤出して、それで弾き始めた即興があったんですよね。即興の部分って、デュオですごく磨かれたりしましたので、そんな空気感で、今度は一人で弾いてたんですね、弾き始めて。
で、なんかね、沖縄の感覚もあったんですよ。なんかこう、魂を下ろすというか、何かが降りてくるっていう感覚がすごく僕はあるので、そこと相まってですね、まあ本当に録音をしときゃよかったなと思うんですけど、すごい演奏をしたみたいです。あんまり記憶ないんですけど、2曲ぐらい弾いた後で学生がね、本当にあの感情豊かにね、喜怒哀楽を示してですね。
これすごいみたいな。ちょっともう6月に学園祭があるから弾いてって言われてですね、まあ実際に弾いたんですけどね、それを元にして。とにかく学生が僕の音を求めてたっていうのが当時あってですね、これも自分が人前で弾きたい、自分の演奏を見て聞いてじゃないんですよね。相手が求めて僕が動くっていう。
これまさに僕の体質、良くも悪くもそういう体質なので、憑依するっていう。自分は何かしたいことないからねっていうね。うん、こんなことないだろうと言われるかもしれないけど、僕はあんまないんですよね、全く。ない時でそれで波に乗っかった方がね、結果いいんですよ。僕も向こうも。
まあ、そんな感じで乗っかって、自分はこんだけ演奏できるんだっていうことを知ったというか、気づかせてくれたのはやっぱり学生。そこに関して聖火大学にすごくね、僕は感謝したいな。よく入らせていただいたなと思うんですけど。まあ、それがあって、次のあれは何祭っていうのかな。
21:15
サツキ祭っていうのが6月にあって、なぜかね。研究室の下の方にですね、琉球館っていう建物があって、その下にちょっと空洞みたいなね、変なアングラ的な空間があって、そこをね、幕をね、閉めて。それであの、当時はお酒が飲めましたからね。お酒飲みながらみんなでこう、あの音を聞きまくるって、夜中中聞くっていうような、今ではちょっとできないようなね、そんなアングラなとこでね。
演奏したっていうことをちょっと思い出しました。
21:48

コメント

スクロール