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2025-11-07 18:52

「見えない子どもたち」に光を灯す:石井亮一・筆子夫妻の挑戦

光の届かぬ場所に、小さな灯をともした夫婦がいました。明治の教育制度から排除されていた知的障害児に、学びの場を開いた石井亮一と筆子。二人が運営した滝乃川学園は、教育・看護・労働を一体化した革新的な施設でした。偏見と闘いながらも、信仰と理想を支えに歩み続けたその軌跡は、日本の障害児教育と福祉の原点となりました。

 

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サマリー

石井亮一さんと筆子さん夫妻は、日本初の知的障害者施設である滝の川学園を設立し、障害児教育の重要性を広めています。彼らは教育制度から除外されていた障害児のために、支援と教育環境を整えた功績があります。「見えない子どもたち」に光を灯すというテーマのもと、夫婦が滝の川学園を設立し、障害児教育に情熱を注いでいる姿が描かれています。夫婦は互いに支え合いながら教育の現場で困難に立ち向かっています。

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精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。
この番組では、精神科医療を作った人々、現代のトピックスを精神科医が解説します。
精神科専門医30年、医学博士で、現在開業医のマリモと、
その姉で、障害を持ちの方の就労支援事業所を経営していて、
最近、初孫が鼻の下を伸ばす顔を写真で送ってきてくれて大笑いした桜がお送りします。
滝の川学園の設立
日本初の知的障害がある方の施設を作った、石井筆子・亮一の障害、です。
この方たちは?
はい、ありがとうございます。
今回はですね、明治の時に日本最初の知的障害のある方の施設を作った、
滝の川学園という、今もあるんですけど、
この施設を作った石井亮一さんと、その妻の石井筆子さんの障害をたどろうかなと思います。
前回の続きからお送りします。
この滝の川学園は、この2人で運営していることになるんですけどね。
主にこの当時の滝の川学園は、障害児教育と保母育成部というのもあったみたい。
つまり障害児。保母育成部。
普通の障害がない。
保母さんね。
保母さんですね、いてたんですよ。
この孤児を集めてたっていうのが残ってたのもあるんでしょうね。
なので、障害児教育は亮一さんが担当して、保母育成とかは筆子さんが受け持ったりしてた。
あとプラス筆子さんは、学園のためのバザーとかも主催してですね、財政面でも支えたというようなことが書いています。
この2人でずっと滝の川学園を今後支えていくということになりました。
2人がメインだけど、他にも先生とかいらっしゃったんでしょうね。
もちろんいてました。
保母さんとか保母さんが主で、教師はね、たぶんこの2人がメインだったんじゃないかな。
2人だけ?
30数名ですからね。
主にお世話をする方々っていうのはいてたりとかしたのかなと思います。
教えるということはたぶんこの2人がメインだったんじゃないかなと思うんですけどね。
教育環境の整備
1904年に両市さんが日本で初めての障害児教育の本を出版します。
1904年が初めてなんですね。
明治期ですね。
それまで知的障害っていう認識なかったってことですよね。
なかったというか、なかったかもわからないけれども、それがどないかしなければならないと思っている人はあんまりいなかったんでしょうか。
いなかったね。
教育に結びついてないってことですかね。
非常な差別だったりとかがあったんでしょうね。
怠けてるだけだとか、ちょっとマガマガしい、いろんな言い伝えとかのせいでなったのと違うかとか考えられてたんだと思いますね。
明治期にですね、例えば教育制度っていうのを確立するんですよ。義務教育ね。
もちろん高等教育も含めてですけれども、義務教育の中から障害児っていうのは除外されるんですよ。
これは戦後までずっとそうなんですけど、教育制度、一般の日本の教育制度から障害児教育というのは全然変えられてないんですね。
という中での、両市さんたちが初めて作った学園ということです。
戦犬の名があるという。
この写真があるじゃないですか。
これが初めの写ってますね。小さい方からね。学生さんが写ってる写真ね。
これがアメリカの性公開っていう教育の雑誌に載ってた写真ですって。
これ全部で40人か50人ぐらいいますよね。
子供さんが32人いてるらしい。
ほぼさんとかそういう教える人たちも写ってるのかな。
後ろが大人が写ってるんですね。
って言われています。
主に知的障害の方の教育をするんですけれども、
ほぼさんとか看護さんも訓練したいということで、障害児ケアに特化した看護の訓練課程も作ったと言われています。
1936年に滝の川学園は菅野村に移転します。
どこやねんっていうことですけれども。
東京と菅野っていうところが今も実はありますが、
今は東京と菅野っていうと山手線にちょっとかかってる町なんですよね。
便利なところにあるところですよね。
便利なところですね。
北川かな。
山手線の一番北川ぐらいにあるのが菅野っていう町だと思うんですけれども、そこに移転します。
もともとだったら滝の川村付近に陸軍の基地ができて、
うるさかったりとか教育環境として問題だなっていうことで、
菅野村に移転するということですって。
ここで生活空間とか教育とか労働とか医療とか研究とかできるような、一体一体の学園を作るんです。
でもあれですよね、最初は両市さんが私肥で滝の川学園を建ててるじゃないですか。
でもそれを置いて次のところを探してパッと行くのすごいですよね。
この辺の財政面ってよくわかんないんですけども、
たぶんですね、やっぱり寄附等々の支援が大きかったのかな。
いろんなところから支援を受けたりとかってしたのかなっていうことと、
あとまた後から言うんですけど、
預かる方々っていう障害児は、たぶんですね、とってもお金持ちの方々なんですよ、これ。
なるほど、親御さんがね。
そう、だからそういうことも含めての一番いい教育を行ってたんじゃないかなって。
ちゃんと書いてないですけどね、まだね。書いてないけれども、たぶんそうだろうなって思うんですよ。
ただまあ、とはいえめちゃめちゃ大きいわけじゃないですよ。
今の滝の川学園は300名ぐらいいらっしゃいますけれども、この当時は30人ですから。
一つの教室ぐらいですよね、小学校の教室ぐらいの人数を手厚く教えるものを始めたと。
小さいと言えば小さい一歩ではあるんやけれども、これは日本で初めてのことだったっていうことですよね。
社会的認知と影響
そういうのを発表したりとかしている中で、知的教育、第一人者として領域さんは社会的に認められていきます。
で、後々ですね、後々というか、その滝の川学園だけじゃなくて、いろんなところに同じような塾とか学園が成立されることになるんですよ。
京都にある白川学園とか大阪の大和塾とかいうところがですね、またできてくる、東京にもいくつかもできてくるんですけれども、
そういうことを同じようなことを考える人たちの、教えてくださいって言うに来たりとか、あるいは教えに行ったりとかですね、そういう支援にも当たるんですね。
領域さんはあくまでもフロントランナーとして走りながら、いろんな更新への指導も行うということですね。
領域さんが49歳で、ふでこさんが55歳になった頃ですね、ランジュ法書というですね、法書を受けることになります。
軍書、領域さんが?
軍書、領域さんがね、この時代のですね、この法書の意味がちょっといまいちよくわからないんですけれども、
今でいうところのランジュ法書っていうのは、校長先生とかを務めたような方々、社会福祉とか公共事業に貢献のあった方々が、引退後80代ぐらいで受けるっていうのがランジュ法書なんですけれども、
竹の川学園をちゃんと作って立派やるよということを国が認めたっていうことだったんだろうなと思うんですけどね。
少なく認められているということ、国からもね。
ここにも不幸がまた起こるんですけれども、長女さん、ふでこさんの長女さんですね、さちこさんというんですけれども、30歳でこの子を亡くなりになります。
亡くなられるんですか。
そうなんですよね。
だいぶ悲しんだというような記載がありました。
この須賀門村に移って、ただ2人というか、竹の川学園をゆっくり進めておるんですよね。
両市さんってすごく真面目な方?
そりゃそうでしょうね。
あんまりその打ち所がないというか、あんまりそういう余計なエピソード残ってないんですよね。
真面目はわかりますね。やってきたことを見ていると。
でね、自分のことあんまり書けへんかった人みたい。
その学術的な論文とか書くんですけれども、自分のことはあんまりですね、書かないというか残さないとかっていう感じみたいですね。
だからあんまり人間的なエピソードってあんまり残ってないんですけど。
一つ有名値があるのがね、マルゼンっていう本屋さんあるじゃないですか。
ありますあります。
東京とか大阪にね。
ありますね。
大きなのありますけれども。
マルゼンと両市さんっていうのは結構交流があったよっていうようなことも残っています。
この両市さんはですね、とても勉強家ですので、膨大な量の文献とか専門図書を購入するんですよ。
そうでしょうね。
つまりマルゼンはその当時用書のですね、輸入専門店だったんですよね。
最初そうかそうか。輸入の本からですもんね。
マルゼンさんは。
そうだ。用書すごいですもんね。
東京都に行った時はね、マルゼン行ったらいろんな本が売ってるなとかと思うんですけども。
両市さんはその当時最大の顧客の一人だったらしいですね。
なるほどね。
で、初めに出した本もマルゼンから出版したみたい、両市さんは。
あとまたこの日本橋のマルゼン書店にあった風月堂っていう喫茶部があるらしいんですけれども。
その設置をですね、そのマルゼンの社長に勧めたのが両市さんだったみたいな話が伝わっています。
今スターバックスとか入ってますもんね。
そうですね。本屋さんにいろんな本屋さん、あの喫茶店入ってるの多いと思うんですけど。
喫茶店がね。
明治の時期に言ったらしいですよ。
すごいね。一日本屋さんにいた人ですよね。きっと。
多分そうでしょうね。
あと両市さんが使ってたタイプライターも、アメリカのローヤル社製のタイプライターを使ってたんですけれども、
このローヤル社製のタイプライターの輸入総代理店がマルゼンだっただろうから、マルゼンから買ったのかなとかって言われてたりとか。
そうなんや。
私の時代ってまだパソコンが出始めかまだ出てないかだったんです。私が大学生の頃。
で、マルゼンってあったんですね。私が大学行ってた町に。そこにタイプライター売ってましたよ。
その頃。
本屋さんですね。
秘書検定とか、そうそうそう、私も受けたんですけど、そこのそういう練習の資料とか買いに行きましたもん。
タイプライターってのがあったんですよね。
そうですよ。今あったら何ですか、それっていう。打ち直しができないやつですよ。
で、ガーってまた左側へ押して戻さないと、次の業に開業できないとか。知ってる?マリモ先生は知ってる?
えっとね、さくらさんが練習したのを知ってる。
なんかチーンって音があるんですよね、あれ。
そうそうそうそう。
タイプライターの音とかね。
秘書検定取るときにね、そうなんですよ。練習するんですよ。
でもまあそれだけですけどね、タイプライター知ってるのは。僕が大学生ぐらいになったらパソコンになってたね。
でしょ、多分その過渡期ですよね。最終の多分年代だと思います。
そうですね、その頃ですね。70年代半ば、80年代半ばか。
80年代そうですね。
80年始めのくらいですね。
はいはい、まあそういうタイプライター。
へー、そうか。
っていう話で、一旦ねここでちょっとまとめようかなと思うんですけれども。
はい。
滝の川学園の設立
その両市さんとふでこさんがですね、滝の川学園をつくって、世間から認められてるっていうのが中盤というか一つのことかなと思うんですけど。
はい。
で、ふでこさんはですね、女子教育から障害児教育の方に視点を移すと。
まあその両市さんと結婚するということも含めてですね、まあそういうところに移していくと。
で、二人三脚でその事業を進めていくということになります。
はい。
えっと、この初期の前半ですね、ふでこさんの20代の子と思うと、この30代以降のですね、滝の川学園での働きってもちろんすごく慢心されて熱意を持ってされるんですけれども。
まあ世間的に見たらキラキラしなくなるんですよね。
確かにそうですよ。どっちかというと差別を受ける方ですもんね。
うん。そこの方にグッと献身していくと。もちろん自分の子供さんのということもあったと思うんですけど。
はい。
っていうね、大きな転機を受けて、でもまあすごく頑張っているという様子ですね。
うん。
夫妻の支え合い
で、両市さんはふでこさんで伴侶を得てすごくうまくいっているというか、うまく進んでいるということですかね。
ね。二人三脚で歩んでくれるパートナーですもんね。
そうそう。かけがえのない二人だったんやろうなと思うんですけどね。
うん。
っていうのがまあ、一回これで区切りをつけようかなと思います。
どうです?この辺りのお二人の様子などなどを考えてみるにつけ。
それまでの二人が出会うまでの人生と、出会ってからやっぱりだいぶ大きく変わっていくんやなっていうのは、何となく想像しているんですけど。
ただでもお二人やっぱりすごいのは、アメリカやこの時代に留学してたりとか、環境的にはやっぱり恵まれた環境の方たちなんだな。
だけど目を向けるのは一番弱い方、弱者の方に目を向けられる人。こういう人が時代を切り開いて作っていくんですよね。
そうですよね。たぶんこの時代、多くの方々は保障を得たっていうのもあるけど、でも実は多くの方は理解していいんじゃないかと思うんですけどね。
このお二人の周りにいらっしゃる方々とはだいぶ目線が違ってきてるんだろうなとは思いますね。
ですよね。
理解はなかなか得られてないやろうなと思います。
ですよね。
たぶん藤子さんの同級生とかからしたら、あの人なんであんなことするんやろうってきっと思われてたんじゃないかなと思ったりとか。
ほんまにそうですね。今の現代の言葉で言うと、本当にそうやと思います。
両市さんの方は元々キリスト教に入信されたりとか、教育者として頑張ろうということで学園を作るというのを筋取ってるような気もするんですけど。
それにしてもご両親としてはいろいろ心配やってるなと思うんですけど。
本人はやりたいことやってるけど、周りはやっぱりなんであんなことするんやろうってやったでしょうしね。両市さんの方もね。
思いますけどね。
でも一人だったらね、そういうのはやっぱり耳にも入ってくるし、ダメよって言われて辛い思いもするけど、二人一緒やからね。
確かに。理想は結構重なったんでしょうね。
そうやと思います。
だからそれで余計に二人は近くなるし、一緒にやっていこうってなっていくんでしょうね。
そうですよね。やっぱり知的にもすごく高いお二人ですし、同じ教会にも入っててそういうのも共通してたりとか。
実家がすごく成功してるというのも多分ダブって。
そうそう。お互いにすごい良い理解者同士やったんじゃないかなと思います。
そうですね。辛いところもお互いよく分かる感じだったんでしょうね。
そうそう。
そういう二人でしたね。
はい。
この二人のそういうあんまりややこしい話は全然出てこないんですよ。
はい。知りたいですよね。
知りたいですよね。
ちょっとだけ喧嘩なしでこんな後出てくるんですけど、ほんとちょっとです。
楽しみです。
基本的には非常に仲が良いご夫妻のままということになりますね。
はい。
以上で終わりましょうかね。
はい。
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