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精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。
この番組では、精神科医療を作った人々、現代のトピックスを精神科医が解説します。
精神科専門医30年、医学博士で、現在、開業医のマリモと──
その姉で、障害を持ちの方の就労支援事業所を経営していて、
最近、初孫が鼻の下を伸ばす顔を写真で送ってきてくれて大笑いした桜がお送りします。
石井良一の誕生と教育
日本初の知的障害がある方の施設を作った、石井輝子、亮一の障害、です。
この方たちは?
はい、ありがとうございます。
今回はですね、明治の時に日本最初の知的障害のある方の施設を作った、滝の川学園という、今もあるんですけど、
この施設を作った石井亮一さんと、その妻の石井輝子さんの障害をたどろうかなと思います。
今回、僕の録音ミスの設定のせいで、若干音質が悪くなっています。
今回は、はじめ石井亮一さんの人生をたどっていこうかなと思います。
はい。
石井亮一さんもですね、実は輝子さんと似たような感じなんですよね。
なんか非常に似ているのを感じますね。
えー。
石井亮一さんは、1867年ですね、輝子さんより6歳年下なんですけれども、
鍋島藩、佐賀県の名門の武士の一族の六男として出生します。
はい。
石井家で育ってね、おじいさんは家老だったみたいなんですけれども、お父さんは家老でした。
こちらも家老ですね。
でも石井家っていうのが、鍋島藩ではとても有名な一族らしくて、いろんなところに藩士もいてるし、
実はこの亮一さんと同じぐらいの年代、明治時期とかに同じ石井という名前を持っている有名な政府の要人であったりとか、学者さんもいてるんですよ。
で、亮一さんが幼少時期に、お父さんがですね、役宅として佐賀城内に屋敷を与えられて、そこに住んでたという記録もありました。
ほー。
だからもう普通の藩士さんっていうんじゃなくて、やっぱりエリートなんですよね、ここでもね。
そうですね。
で、亮一さんが16歳の時に藩士の給費で上京しますと。
はい。
これね、つまりさ、鍋島藩も母親戦争で勝った方の藩ですよね。
そうですね。
で、勝ち組なんですよね。
で、そこで藩士さんとかは東京とかに移ると思うんですけれども。
はい。
で、自分の藩士の中で優秀な師弟とかにお金を与えて上京させて、勉強させて、出世するというのが割とあるんですよ。
なるほど。
で、この藩士の給費で上京して大学受験するっていうのは、そこの藩ではエリートなんですよね。
そうですよね。藩のお金ですもんね。
藩のお金ですね。
実はこれ、プテ子さんの旦那さんの二十歳さんも同じなんですけどね。
そうですよね。
そうそう。だからこの辺りの地域で、地域の上流というか、その物資階級で選ばれた人たちは東京に行くことができるんですよ。
そこで勉強する方ができるということですよね。
奨学金ですね。
奨学金ですね。
この両一さんは都米したいんですよ。アメリカとかヨーロッパとかで勉強したいという思いがあって、で、工部大学校を受験します。
工部大学校っていうのは今の東京大学の工学部みたいな大学ですね。
ところがその対格試験で不合格になります。
対格試験ってあったんですね。
その当時はそういうのがあったみたいですね。何がどうなのかよく分からないんですけど。
16歳の頃ですね、両一さんがね。
東京に上がってきたのに不合格になっちゃって、翌年ですね、17歳の時に立教大学という私立の大学に入学することになります。
ここでもう留学しようとするんですけれども、健康診断で不合格になっちゃいました。
体がちょっと弱かったんでしょうか。
この当時弱かったんですかね。
でも両一さんは70歳まで特に大きな病気なくされますし、
この写真ですね、これサムネイルにあげるつもりなんですけれども、この8人写っている大学生じゃないですか。
これは両一さんが立教大学に入学した頃に学生で撮った写真なんですけど、
両一さんは後列の右から2人目なんですよ。
結構背も高いじゃないですか。
そうですね、別にめっちゃ痩せてるわけではなくて、みなさんね、他の学生さんとかと同じ感じなのでね、どこがどうだったんだろうとよくわかんないんですけれども。
本当ですね。
これが入学した頃ですね、10代後半から20歳頃だと思うんですけれども、
このですね、写真って割と有名というか大切なもので、
両一さんは両一さんなんですけど、この横にいるお歴々がですね、実はこの両一さんの右側にいる方っていうのが平安女子大学の校長さんになったりとか、
その2人、左側にいる眼鏡をかけた人が立教大学の学長になったりとか、
その前列の人たちっていうのが立教女子校の校長先生になったりとか、立教大学の教授になったりとか、
あるいは聖公会っていうキリスト教の一学派でね、両一さんが洗礼を受けるんですけども、そこの長老とかになるような方々なんですね。
だから学生時代の友達でみんな出世する人ですって。
この時代大学まで行く方々ですもんね。
これから2、30年後、同じメンバーで同じ姿勢で写真を撮ったっていうのがありました。
その写真はちょっと見当たらんかったけれども。
今もありますよね。
みんな活躍するメンバーでした。
両一さんのエピソード残ってないんですけど、寄宿生活に当初入るんだけれども、先輩とかとちょっと言い合ったりして、
で、月宿生活に移るとか。
あるいはね、この当時大学時代って、お雇い外国人の方の授業を受けるんですよね。
外国人の教授からの授業を受けるんですけれど、
やっぱり日本人でも学識持ってる先生がいてるので、そういう方にならいたいよ、そういう方を学長にすべきだよ、みたいなことを
この学生8人がですね、学長のとこに行って、
そういう学校改革も訴えたりしたりして、
すごいですね。
行動力もある方々でした。
実際それが認められたりするらしいんですけどね。
震災と女性支援
20歳で両一さんは洗礼を受けます。
この時代もね、武士だった一家ですから、みんなみんなキリスト教にではないと思うんですけれども、
でも理教大学っていうのはキリスト教の大学ですしね、周囲の方々っていうのはそういった方だったと思うので、両一さんはキリスト教に目覚めたということでしょうか。
なるほど。
大学卒業して23歳の頃に理教女子校の教師になって、いきなり女教徒というのになりますね。
優秀だったんでしょう。
そうですね、いきなりですよね。
優秀だっただけじゃなくて、志も優れてたのかなと思うんですけれども、
男尊女卑で弱い立場に女性っていうのはあったから、女性への教育に携わろうという決意をしてたと。
キリスト教の博愛の精神を強く持ったというふうにこの時に言われています。
それがいきなり発揮されるのがですね、
女教徒になったその都市ですよ。
10月にですね、納備大震災というマグニチュード8.4の地震が起こります。
岐阜県中心ですけれども愛知県にもありました。
あんまりね、僕ら知らないですけれども。
もちろんね、まだ生まれてないので。
でも結構大きな地震があって死者が7000人出たりとか、
子児が600人ぐらい出たというような大きな震災が起こるんですけれど、
この時にですね、援助に向かおうというふうに思って実際に援助に行くんですよ。
この女子校の先生が援助に行くっていうのはどういうことかっていうと、
この当時この子児というかですね、親兄弟を失った子どもたちっていうのが、
今やったらね、公的なものとかがいろいろ保護してくれたりとかっていう施設多いと思うんですけれども、
そういうのってないんですよね、この当時ってね。
だから民間の方が助けに行くしかない、助けるしかない。
ただ周囲の方もみんな傷ついてるから、日本中から集まってくるわけですよ。
そういう方がね。
だからこの岡山孤児院の石井隆治っていう方とか、
大阪博愛会の小橋勝之介さんとかという方と一緒に、この石井さんもこの子児の救済に当たります。
この身を入れのない女の方をですね、これを孤女と呼ぶんですけどね。
孤児って言うけど、この女の方を中心に集めたと。
これなんで女性かというと男性はですね、なんとかっていうのかな、
労働力として比較的いけるんですけど、女性のこういう孤児の方って、
例えばこう生産業とかに従事させられたりとか、
人身売買とかの対象になることがこの当時は当然あったので、
結構一番弱い立場にあったということが考えられてたらしい。
だから女性の方を引き取った。20名ほど引き受けたって言ってたよ。
すごいですね。20名多いですね。
これが彼女たちを救うことが自分のできることだということで、実際この引き受けてくるんですよ。
翌年に、10月に行ってその次の年なんですけども、
こじょ学園っていうのを設立しようと実際にしちゃいます。
すごいですね。いきなり行って20人連れてきて、
でもその次の年には学校を作っちゃう。
もちろんね、23歳の若者ですから自分だけではできないんですけれども、
でも親友の方とか多分キリスト教の支援を受けていると思うんですよ。
ただそれだけじゃなくて、おぎの銀子っていうお医者さんがいてるんですけど、
女性のお医者さんでね、おぎの式とかっていう否認法あるじゃないですか。
ありますね。
あれを発見した女医さんなんですけど。
そうなんですね。
その方の協力も得て、はじめこのおぎの院の一部を借りてこじょ学園というのを設立するんですね。
最初は借りるんですよね。
最初は借りるんですよ。
最初は借りるんですよ。
でもちょっとやっぱりいろいろ不便があるので、
石井良一自分の自宅を学園にするということになって、
一旦その教立女子校の教師も辞めるということになりますが、
その後また復帰するんですけどね。
こじょ学園の設立
でもこのこじょ学園というのを設立して、
この小児の方とかを教育しようということに情熱を燃やすことになります。
1892年の4月ですね。
震災が起こってから2年後ですけれどもね。
2年後ですね。
2年後に滝の川村という東京ですけれどものところに新校舎を建てます。
この土地とか建物が石井さんの志位だったというふうに書いてて。
すごいですね、23歳で。
23歳。
あれでは20年、この子4歳ですね。
24歳。
20歳になってたんですよね。
自分のお金で建てて、運営はもちろん学費とか取るわけにいかないじゃないですか。
寄付とかですね、キリスト教の教会とか、
あるいは学校とかからも支援いただいたということみたいですね。
なるほど、尽脈ですね。
どうもね、キリスト教のこの支援というのはさ、
キリスト教を信じる人の機会というか、
そういうお金でキリスト教というか教会って回ると思うんですけれど、
そうですね。
この当時さ、明治ってそんなに日本にキリスト教って流行ってないじゃないですか。
そうですよね。鎖国してましたからね。
そこからね、布教はされてると思うけれども、
今もキリスト教ってあるけどそんなにメインじゃないじゃないですか。
確かに。
じゃあこの金はどうなってたかという問題なんですけど、
たぶんね、これアメリカなんですよ、とかね、
世界なんですね、この成功会っていうのは世界中にある業界のもので、
日本でこのいうのを、義務とかを募ったときに、
この欧米からですね、一部たぶん回ってきてたのかなっていうことみたいですね。
なるほどです。
実際ね、この時のその古城学園のニュースとかがですね、
アメリカのこの成功会の新聞とかに載ってたみたい。
そうなんや。
こういう活動をしてます、それを支援してますよ、みたいなね。
そういうのがきっとあったんでしょうね。
すごいですね。つい近い都市まで鎖国してて、
外国と交易がなかった国ですけどね。
すごいな。
だからやっぱりその欧米のキリスト教の博愛精神を持っている方々っていうのは、
それまで鎖国してたような、後進国の国に学校を作ろうっていうことは、
大変こうなんていうかな、今でもあるじゃないですか。
ありますあります。協力しようっていうのがね。
そういうことだったと思うんですけどね。
で、領一さんはどう考えてたかっていうと、
結構ね、ちっちゃい子もいてたみたい。
で、中学校ぐらいの子までいてたみたいですね。
で、寄宿学校なので泊まってるんですよね。
泊まって、教えてて。
最終的にその方を、その子らをどうするかっていうと、
保母さんにしたりとか、教師にしたりとか、伝道師にしたりとか、
つまり教育して、手に職をつけて、
自分で自立できるようにしたいという希望で、
この学校を開いてるわけですよ。
知的障害教育の進展
だから教育っていうのは、その方を自立を目的にしたっていうところから始まるんですけどね。
そうですね。もともとそうですもんね、教育ってね。
だから困ってる人に食物を与えるんじゃなくて、
その食物を取り方を教えるというのをよく言うと思うんですけど、
そっちの方に大切だなって考えてたっていうことですよね。
よくある思いだと思うんですけど。
ところが、小児の中に知的障害児がいたことが契機となって、
知的障害の教育に取り組むことを始めます。
ワンエピソードがあるので、読んでみようかなと思うんですけどね。
はい、お願いします。
ある教師が、14歳の知的障害のある児童、徳洋さんという方らしいですけども、
小学校の普通の教授法、普通の教え方で根節丁寧に教えたけれども、
少しも進歩しなかったと。
その後、私がその子を引き受けて、一切の世話をするようになったと。
しかし、私が教えても何の進歩もなく、まだ冒頭せず、
叱ってもほとんど意に返さない。
その徳洋は食欲が旺盛であり、最も苦痛に感じる罰は、
食事時間を20分から30分引き伸ばすことであったと。
ある日、私は徳洋にその罰を宣告して続けて、
今日は私も食事はしませんと言った。
彼女はなぜかと聞いた。
私は、このように時間をかけてあなたを教えているが、
あなたは覚えようとしない。
これは私の教え方が下手であるゆえだ。
それを思うと、気分が良くなく、食欲が出ないのだと言った。
これを聞いた彼女は、肖然として涙を流して、
私が覚えないせいで、お父様がご飯を召し上がらないのに、
私だけ食べるわけにはいきませんと言い、心から謝った。
それ以降、少しずつ勉強に集中できるようになり、
留学と新たな出会い
複雑な知識も習得できるようになったと。
ワンエピソードですけれども、あるんですよね。
すごいです。ストーリーになりますね。
手探りな、教えている領域の姿が浮かぶかなと思うんですけども。
教育論としては、いろんな問題を含んでそうな話でもありますけれども。
途中、ところどころ思うところはありましたけどね。
僕というか、心を持って接していたというのが分かると思うんですけどね。
そうですね。基本のとこですよね。
どんなにかしようということでやってて。
そんなことをしている頃ですよ。
ふでこさんと両市が多分出会ったんだろうなと言われています。
このよく分からないんですよね。
ふでこさんと両市さんが出会った時期っていうのは、
多分その工場学園を作った頃だろうなということですけれども。
その頃にですね、この第1回女子書き大会。
ミッション系の女子大学の書き学校というかですね。
関東にあるミッション系の女子大学の皆さんが集まって書き講習みたいなのがあったんですかね。
その時にふでこさんが講師になって話してたりとか、
この工場学園から20名くらい参加っていうのもあったりとかして。
ああ、なるほど。
もしかしたらこういう時に出会ったのかなとか。
あるいは実際ふでこの自宅に工場学園から保保を派遣されたりとか。
ふでこの三女さんとか二女さんを工場学園に預けたりとかっていうことがあったりするので。
交流があったんだろうなっていうところですね。
多分その頃ですけれども1894年です。
両市が27歳でふでこが34歳の頃ですね。
工場学園の特別資金募集のホッキリの一人の名前にふでこさんの名前がありました。
募金というかですね、募る時にホッキリの名前として一人が入ってたということですね。
翌年の95年にはふでこさんが校長をしている青州女王学校ですね。
両市さんを講師として招いています。
交流があったっていうことが分かりますけどね。
多分親しくなってたんでしょうこの頃には。
志にいてますからね。
そうですね。
当時両市さんはこの頃、障害を持つ方への教育というのを持っていたので、
ふでこさんの子供さん方にもですね、やっぱりなめ方ならぬ関心というかどうないかしましょうということがあったと思うのでね。
そりゃそうですね。
その頃、翌年に両市が29歳の頃ですけれども、
ようやく希望、念願の留学を果たします。
ここまで留学できてないんですね。
できてないんですよ。
学園作ったりとかいろんなことしてたからね。
そうですね。
この時の留学の目的は知識障害の教育に関する知識と訓練の仕方とかを求めてアメリカに渡ります。
8ヶ月間アメリカに滞在して、いろんなミネスタとかマサチューセットとかニューヨークとかニュイドラジー各州の精神知的障害を持つ方の施設であったりとか、
ハーバード大学とかボストンの公立図書館とかでいろんな文献を読んだりとか勉強していたという記憶が残っていますが、
どうもその中でですね、ヘレン・ケラーに出会ったということもありました。
そんな時代なんや。
ヘレン・ケラーですよ。
30億って言われてましたけどね。
ヘレン・ケラーはこの子は当時16歳です。
サリバーン先生の指導を受けてですね、ヘレン・ケラーは勉強をどんどんその頃してた頃なんですよ。
ケンブリッジ女学院というところに入学した頃です。
すごいです。
ヘレン・ケラーもすごいんですけれども。
そうですそうです。
その頃に両一さんと会ってて、この後に後年ですね、両一さんはヘレン・ケラーとかサリバーン先生の出会いについても言ってますね。
ヘレン・ケラーっていうのは心が清くて楽天家であり理想家だったということとか、
サリバーン先生の才能と忍耐と努力は実に強大に値するという記載を残しています。
視力障害と聴力障害がない幼い児童を指導したという実例に出会ってですね、きっと自分も頑張ろうという思いになったんだろうなと思うんですけどね。
この後ヘレン・ケラーは3回くらい日本に来日することになるんですけどね。
ただ両一さんに会ったという記憶は見つけられませんでした。
なるほど。
わかんないけどね。
帰ってきてですね、両一さんが1897年ですね、両一さんは30歳になっていますが、
この工場学院というのを滝の川村にあったので滝の川学園と称して、知的障害のある子どもたちへの教育を中心に始めることにします。
男の子も受け入れるって感じですね。
男の子も数年後受け入れるということみたいですね。
数年後。
当初は12歳未満の女の方だけだったみたいですね。
なるほど。
初めの年は5名から始まったということですけれども、徐々に増えて、30名くらいに増えてはくるんですけどね。
翌年もう一回31歳のところにですね、もう一回渡米します。
この時にすでにですね、津田梅子と藤子さんがバンコク女性会に招かれて渡米してましたよね。
渡米してましたね。
そこで合流するんですよ。
そういうアメリカで出会うんだ。
出会うというか多分、もともと待ち合わせてたのかなとかと思うんですけどね。
連絡取り合ってたということですね。
連絡取り合ってて知ってた間柄だし、私たちはこういうことでアメリカに行きます。
結婚の決意と障害施設訪問
じゃあ私も留学するのでもし会いましょうということですよ。
なるほど。
当時すでに渡米していた筆子37歳と合流して、ここで結婚を決めちゃうんですよ、2人で。
アメリカの地で。
アメリカの地で。ニュージャージー州のフィルモンという町のある教会で結婚を決めたっていうのがあります。
この教会には、もともとですね、教律女子校の校長だから、つまり両一さんの上司ですよね。
上司の方が牧師さんとしていてた教会なんですかね。
そこで2人で結婚を決めたっていう記載が残っているので、訪れたんでしょうね、そこ行ってね。
そうですね。もう何か好き同士になってたかもしれないですね。
そうですね、もちろんそうだと思いますね。
そこでですね、というかそこでというか、そこの旅行でも非常に多くのですね、アメリカでのいろんな障害施設を見てきて、
この当時ですね、両一さんは竹丼学園を作っていますから、いろんな自分の思いというかですね、困難したいっていうのがあったと思うんですよね。
あとまずですね、たぶん筆子さんが帰国するんですよ。その後両一さんが帰国することになるんですよ。
翌年帰国するんですけどね、両一さんはね。
その後、学園での教育もするし、講演会とか論文書いたりとか本書いたりとか、っていうですね、頑張るんですよ。
筆子さんの方ですけども、両一さんと結婚の約束をして、2年後に家族女学校を辞めて、
その次の年の40歳の時に、自分が校長していたミッションスクールの土地とか建物とか生徒を津田生子さんの学塾、現在の津田塾大学に譲渡する。
つまり女子教育からちょっとずつ引退していくんですよね。
なるほど。
この時に父親とかに相談するわけですよ。
私の一生託すべき事業が見つかりましたと。
つまり知的障害児への献身とか福祉事業を両一さんと一緒にしたいということだと思うんですけどね。
これには非常に反対を受けたと言われています。
やっぱりそうなんですね。
結婚式と社会的反対
理解はなかなか急には得られなかったということですし、しかも結婚にも反対されたんじゃないかなと言われています。
この当時の風習というか、女性が離婚したというか夫が亡くなった女性がすぐに再婚するというのは、あんまり褒められたことじゃないと言われていたみたい。
そうですよ。私の時代こそなかったけど、白い毛布をみんな結婚の時に持って行くんですよね。知ってた?
毛布が白いんだ。
そうそうそう。もう潔白なまま未亡人を通しますみたいな考え方が昭和初期、昭和中頃まであったみたいですよ。
この当時また明治ですからね。
そうですそうです。岐阜に間見えずってやつですもんね。
あともう一個大きな障害と言われたのが年の差なんですって。
あ、そうか。6つ年上ですもんね。
年上ですね。この年上っていうのも結構反対された原因だったみたいです。
うろたらしいが起こるんですけど、
はい。
藤子さんのですね、戸籍をなんかちょっとごまかすんですって。
え?どうやってそんなことが起きるんですか?
これにはどうもですね、お父さんの渡辺清司さんは結婚には反対するのだが、渡辺昇さんっていうおじさんがいてるんですよね。
はい。
このおじさんもですね、家族になってたりとか、知事になってたりとか、お父さんと同じ感じですごく推薦してる人なんですけど、
この方が藤子さんの結婚を認めるというか、なんとかしてあげようよっていうようなことを言って協力してくれるんですって。
すごい、それはもうすごい心強いですね。
そういうこともあって、結婚に至るんですよ。
その石井家、あるじゃないですか、両一さんの家族だって、しっかりしてる家族なわけなので、
でも、実は6歳差じゃなくて2歳差ですよっていうふうにごまかして結婚するということが記憶に残っていました。
なるほど。
1903年に両一が36歳で船子が42歳の時に、神島市博愛協会にて結婚式をあげます。
この媒釈人が岡部永本さん、この時の東部知事。
知事さん?
知事さんです。
すごい人出てきますね。
だから、船子さんのお父さんはやっぱりVIPですからね、今この時はね。
そういう方になったりとかするんでしょうね。
津田梅子さんも立ち会いにしてくれたということですって。
で、結婚式をあげましたと。
続きは次回お送りします。