1. 歴史から学ぶ精神科ラジオ
  2. 炎に包まれた希望:石井筆子・..
2025-11-14 33:00

炎に包まれた希望:石井筆子・亮一が守った命と信念

燃えさかる炎の中、子どもを救うために身を投げた一人の女性がいました——石井筆子。

第27回「歴史から学ぶ精神科ラジオ」では、日本初の知的障害児施設「滝野川学園」を支えた石井亮一・筆子夫妻の後半生を描きます。火災の悲劇、貞明皇后と渋沢栄一の支援、そして富裕層が支えた教育現場の現実。教育への情熱と「恵みをもらっている」という哲学が、いかに絶望の中で学園を再生へと導いたのかを紐解きます。

 

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サマリー

石井筆子氏と亮一氏は、明治時代に日本初の知的障害者施設である滝野川学園を創設しています。この施設は、知的障害のある方々への教育と自立を促進する重要な役割を果たしており、火災による悲劇を経て、障害者支援における新たな課題を浮き彫りにしています。このエピソードでは、石井筆子氏と亮一氏が、火災の悲劇を受けた後も希望を持ち続け、教育機関の存続に向けた努力について語っています。彼らの信念や支援者の存在が、滝野川学園の運営にどのような影響を与えているかが綴られています。また、石井筆子氏と亮一氏が運営する滝野川学園の設立背景や取り組みについても語られ、移転先での農業事業の困難や、互いを支え合う中での気づきについても触れられています。

00:07
精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。
この番組では、精神科医療を作った人々、現代のトピックスを精神科医が解説します。
精神科専門医30年、医学博士で、現在開業医のマリモと、
その姉で、障害を持ちの方の就労支援事業所を経営していて、
最近、初孫が鼻の下を伸ばす顔を写真で送ってきてくれて大笑いした桜がお送りします。
滝野川学園の設立
日本初の知的障害がある方の施設を作った、石井筆子・亮一の障害、です。
この方たちは?
はい、ありがとうございます。
今回はですね、明治の時に日本最初の知的障害のある方の施設を作った、
滝野川学園という、今もあるんですけど、
この施設を作った石井亮一さんと、その妻の石井筆子さんの障害を辿ろうかなと思います。
前回の続きからお送りします。
まずもうちょっと大きな話からすると、
知的障害がある方の学校とか施設とかっていうのが、
歴史的に見てどんな風になるかっていうことなんですけどね。
欧米で、19世紀の半ばぐらいから、
やっぱり障害児の方っていうのはしっかり教育しないとダメですよねっていうことがわかり始めて、
学校のシステムに、障害児の方の教育っていうのがしないとダメだよっていうのがわかってくるんですよ。
そういったことを例えば亮一さんとかは勉強したりしているわけですね。
なるほど。
20世紀に入ったら、学校で学ぶだけと違って、その後大規模な施設とかで、
生活の面倒も見ていく方が縁と違うかっていう考え方になっていきます。
大規模隔離施設とかって言われたりもするんですけど、
つまり一般の社会とはちょっと隔離政策みたいなね。
ちょっとリンクしてくるような感じになってくるんですよ。20世紀の初めぐらいって。
そうですね。
大きな施設の中に入ってくるっていうことですね。
それが走りですね。
ところがその中でですね、施設の中でいい生活を送るように考えましょうよっていう考え方ですかね。
それはそれでアリなのかもわかんないけれども、今から考えると隔離に見えるのでということですけれども、
その当時はそれが正しいことだとされてた。
ただ20世紀の半分ぐらいになると、やっぱり就労で自立するというのが障害を持つ方でも大切なので、
全部施設で閉じ込めていくというのはどうなんだろうな。
リハビリ施設とかがあった方がいいのと違うかなっていうのが考えられたりとか。
21世紀になると地域の共生っていうのが大切ですよねっていうことで、
地域に開かれているという順番になってくると思うんですけど。
この領一さんとかが勉強し始めた時代っていうのが、この大規模隔離施設っていうのが、
多くのアメリカの都市とかにできてくる時代なんですよ。
収容というか、そこで生活する方が多いというような学園を、領一さんとか筆子さんとかは見学してたわけですね。
一つそれが理想だったとは思うんですよ、当時のね。
滝の川学園というのが、菅野村にその当時移転して、
滝の川学園というのは66名まで増えました。結構増えました。
ただこれが実は最高ぐらいで。
倍になりましたね。
ここから30名になったりとか、これ以上あまり実は増えないんですけどね。
それにはやっぱり事情があったんやろうなと思うんですけども。
菅野村に移転した頃が、滝の川学園の利用者っていうのは66名で、知的障害の方が55名で、
普通の教育を受けてた方が11名ぐらいやったと言われています。
この時の写真が残ってるんですけどね。
割と立派な建物ですよね。
立派な木造の建物ですよね。
もう1棟ぐらいあったりするらしいんですけど、
割とちゃんとしたものがあったりして。
この中で生徒さんとかはどんなことをしてたかっていうことなんですけど、
スケジュールが一応残ってるんですよ、日課がね。
日課が、はい。
だいたい6時ぐらいに起きますと、冬の場合は6時半やったらしいんですけどね。
離床の兼ねがなって、着替えをして洗顔をして洗髪をして朝の礼拝をすると。
6時半から7時半に朝食をします。
お味噌汁、漬物付き合わせ、煮豆、海苔、ケーラン等を1週間内に代わり代わり出すと。
食事指導もすると。
午前中の9時から11時半までは授業を受けるんですよね。
勉強をすると。
11時半から12時半までは昼ご飯ですよと。
昼ご飯が主となる食事だったらしくて、肉とか魚が出たりとか、
野菜の煮物が出たり、汁物が出たり、漬物が出たりとか。
っていうようなメインの食事がお昼にあって。
その後、お昼は家業って言って技術系とか体育みたいなことですかね。
そういうのを行うみたいですね。
2時半から3時にはおやつを食べると。
おやつっていうのは児童とかには結構好きだったと。
いいですね、この時代のおやつって。
たぶんね。
楽しみやったでしょうね。
やったでしょうね。
おやつってあります?桜さんの施設では。
うちの施設は15時に終わるんですよ、仕事が。
なるほど、なるほど。
15分ほどささっとお掃除して、そこから草芸でみんな帰るんです。
だからおやつはないんですけど、うちは祝日開くんですよ。
月曜日から金曜日をずっと5日間は同じパターンで生活リズムを整えたいっていうのがあるので、
うちは祝日開くんです、基本。
祝日、でも家族は休みでしょ。
だからご家族と一緒に過ごしたいっていう子は休むんですね。
休んでいいんです、そこは。ご家族の時間だし。
だけどご家族はお休みだけど、僕は行く、私は行くって出てきてくれる子っていうのがいてて、
生活リズムを整えるためにね。
その祝日とかたまに開く土曜日、同じ理由で開けるんですけど、
そんな時は私ね、時々皆さんにシュークリームを買ってきてプレゼントするんですよ。
おやつ。
ちょっと特別な日なんですね。
世間は祝日でお休みなんだけど、うちの事業所の人はたまたま一緒に給食を食べて、
午後からの仕事に備えましょうとか。
お昼までで終わるときは給食を食べて、おやつを食べて、解散になるんですけど、
このシュークリーム1個なんだけど、今の時代、みんなで食べるおやつがね、
食後のデザートになるんですけど、結構盛り上がるんです。
これを楽しみに、わざわざ出てきてくれる子もいるんですよ。
ちょっと普段とは違うっていう。
またこの滝の川学園のおやつとはちょっと意味合いが違うんですけど、
こういう食事じゃないおやつをみんなで食べるっていうのは、やっぱり人間楽しいよ。
そうね。
すごくこういうの大事だと思います。
これ精神科の病院とかもあるんですか?入院してる方とかは。
おやつの時間。
昔あった。昔あったような気がしてきた。
昔あったん?
昔というか、今はない。今は全然ないです。
だって自分で自分のものは管理しないとダメなんですけれども、
持てる人は自分のおやつとか持ち込みもできるんですけども、
自由にできるからね。
僕らが研修医の頃ですね、平成の初めぐらいって割と精神科病棟とかも厳しいんですよね。
持ち物とかほとんど自分の手持ちがなくて、
おやつとかをとても持ってるとかできなかった時代に、おやつっていう時間がありましたね。
でもおやつって病院が出すんじゃなくて、自分が持ってるおやつを食べるということなんですけど、
そういう時間っていうのがあった気がした。
なるほど。みんな一斉に違うもんだけど、おやつの時間っていうのがね。
今は全然ないですよ。
はいはい、なるほどね。
そういうおやつの時間があった時の科学園にもね。
3時頃にはおやつを食べて、夕方は自由時間、運動とかリクエストして夕食を食べると。
夕食は消化の良いものを食べて、夕方の7時ぐらいまでは音楽とか復習したりとか礼拝したりとかっていうようなこともあって、
夜の7時、8時、9時頃に順次寝ていくと。
年齢によって違う。
障害の程度というか、発達段階に落ちた教育とか日常生活を送ってたということみたいですね。
明治43年って書いてますね。
この頃ね、今までというか今の教育とかとね、多分大きく変わりなくされてたんだろうなと思うんですけどね。
勉強する機会がこういう障害がある方にも恵まれてたわけですよ。
竹の子学園がなかったら、たとえどんな教具で生まれた、つまりお金を持ってる家の子であっても知的障害を持ってたら、
教育を受ける機会ってなかったわけですよ。
そうでしょうね、普通の学校に行けませんでしたね。
教え方ってみんな分かれへんので、つまりその方の能力が解析化する可能性っていうのがもうなかったわけですよね。
この学校に行ってたからこそ、いろんなことができるようになったっていうことはあったと思いますね。
当時ですね、知的障害になられる方とかっていうのは全て遺伝のせいでそうなるんだっていうふうに考えられてるのが割と主流だったみたい。
現実のところは一部確かに、ごく少ない例ですけれども、遺伝で知的障害になられる方もあるんですけれども、
多くの場合は特にいわゆる遺伝とは関係なくて、多くの因子が関係していると言われています。
そんなふうに領事さんも考えてたりとか、教育をすることで軽くするというか、能力を発揮できるというのを考えてたってことですね。
これが素晴らしいですよね。一番最初の方もね。
手探りですもんね。
それを頑張ってたんですよ。
ところがということですね。
悲劇の火災
ところが大きな悲劇に襲われます。
これが1920年の3月に滝の川学園が火事になります。
この時、領事さんは53歳で、ふてこさんは59歳になっております。
断止流で園児の火遊びが原因で、39人の園児のうち6人が消失するということに至ります。
わあ、6名はつらいな。
この1920年、大正9年の3月24日の夜ですね。園児の火遊びが原因で火災が発生します。
ふてこさんは炎の中に飛び込んで、取り残された園児を救出しようとしました。
ふてこさんはそこで足に負傷して、この後障害杖歩行となりました。
ふてこさんは燃え上がる炎を前に、まだ子供が2階に残っている。
早く出してあげて、蔵も落ちてもいい。
一人でも子供が残っているうちは、死なものに手をつけてはならないと絶叫したという記録が残っています。
つらかてるな。
この焼死した園児たちは、恐怖のあまり逃げることを知らず、
玩具や造理を抱いたままの状態で、焼け死んだと言われています。
火災によって6人の園児が亡くなって、障害施設の避難誘導に大きな課題があったということをこの火災で考えられています。
葬儀の翌日、ほぼさんたちは、印刷所に勤めている男子職員に止められた危険を犯して救出しなかったということを後悔して、
ふてこさんに涙をしてわびたみたいな記録が残っていたり。
ふてこさんは、このけっしの救出作業に感謝しているのですが、
止めた印刷所の職員に対して、わが身が危険であっても、まずは救出のために全力を尽くすべきではなかったのか、
ということを述べたりして、一部職員のためらいに憤慨したという記録も残っています。
火災の悲劇とその影響
悲しいと怒りといろんな気持ちがもちろん出てくるんでしょうね。
もってきばのない気持ちですもんね。
同じ年の5月に、ひかげという6人の亡くなった園児さんたちに、鎮魂の言葉の本音で出版されました。
そこに6人の方々へのいろんな言葉が残っているのですが、
3人だけ現代語訳をして抜き出そうと思うのですが、
よければさくらさんと呼んでいただいていいですか?
はい。
わかりました。
鎮魂の言葉。
横村ゆうたろうさん。
6人のうち最年少ですが、入園の順では4番目です。
大正3年頃の入学だったと覚えています。
三浦博士が13歳まで生き延びられるかどうかと心配されたほど、体が虚弱だったそうですが、
入園後は健康を取り戻し、去年夏には超チフスにかかったものの乗り切り、その後は以前にも増して元気になりました。
路像は崩れ、建物も焼け落ちました。
品物は一つも持ち出さなくてよい、ただただ子どもを救え、と絶叫したのはこの少年のためでした。
消防隊の手でも救い出せなかったと聞いた時は、この悲痛に耐える苦しさに身も心も砕ける思いでした。
つらいね。
弱かった子がね、いろいろ乗り切って元気に頑張ってたんですけどね。
溝口あきらさん。
3年ほど前に入園しました。
廊下などで出会うと、顔を背けたり引き返したりして人を避けるような癖があり、当初はつき添いのほぼも、なかなか扱いが難しいお子さんです、と困っていました。
ところが最近では朝に会うと、「おはよう。」と笑顔で挨拶してくれ、「あれ、あきらさんが声を出されたよ。」と皆が驚くほどになりました。
このお子さんは一人っ子で、母気味はご病気がちのため、親戚への養子の話もあったとか。
母気味は深く愛情を注ぎ、毎月上京しては2,3日泊りで連れて行かれました。
今、どれほど寂しいことでしょう。
まだこれからの伸びしろが大きい方だっただけに、悔しくてなりません。
お母さんも出てきましたね。つらいですよね。
これ、両市さんと筆子さん、こういう亡くなられた方の親御さんへも説明をして、申し訳ありませんというのを伝えてらっしゃるんですけど、つらかったでしょうね。
まあまあ、お母さんもね、このお母さんもつらかったでしょうしね。
やっぱり子供なくすって一番つらいよね。
一番つらいです。それはもう何よりつらい。
山口常夫さん。この子は朝日さんより半年ほど遅れて入院しました。
小学校に通っていたくらいですから文字もかなり読み書きでき、性格は温厚で悪い癖もなく、いつもニコニコしていました。
ただ、身振りだけは威勢が良く、肩を怒らせて歩くので、
どうしてそんなに威張って歩くの?と尋ねると、
偉く見えるでしょう?と答える、本当に愛嬌のある子でした。
いつも本やおもちゃを嬉しそうに持ち歩いていましたが、火事にあった時も絵本とおもちゃを大事そうに抱きしめたまま、息を引き取ったそうです。
消防隊の人たちはその姿を見て、私たちでもこのけなげな姿は直視できませんと言って、顔を背けて涙したと聞きました。
はい、ありがとうございます。
はい、つらいなあ。
生前のこの方も愛すべきご性格というのも感じられていて、それで亡くなったというのが、本当に悲劇ですね。
この絵本とおもちゃを抱きしめたままというのが、またちょっと一層つらいですね。
本当に無力の方がどうしようもないことで亡くなったということなんですけど、
支持と再出発
こんな悲劇を受けてですね、両一さんと藤子さんは平縁しようという思いをちょっと固めた時期もあったようです。
なんとなく理解できるような気がします。
大きな損害もあったでしょうし、何よりこの気持ちがですね、立ち直られへんかなと思います。これだけ大きなことがあればね。
ものすごい責任を感じてらっしゃったと思いますしね。
本当にね、自分さえこの学園を開けへんかったなとかって思ったでしょうからね。
こんなことにはならんかったって思ったと思うしね。
いろんなこの消化のことだったりとか、その後の対応だったりとか、本当に大変だったと思うんですけど。
絵も考えるのがやまないかなと思うんですけど。
ここでですね、この定名後号からの特殊一家派遣されるというのがあるんですよ。
筆子さんの教え子さんですもんね。
そうですね。この当時大正時代ですから、後号陛下ですよ。お使いが来てですね。
いっそこの道のために尽力せよという励ましの言葉、金一風が送られると。
頑張ってほしいという思いをですね、例えば定名後号が伝えてきたりとか、周囲からの支援もあったんですよね。
大変やけれども何とか頑張ってほしいよっていう周囲の方からも言われてた。
それで一時期は平穏を持ったけれども、やっぱり頑張ろうということで筆子さんと両一さんはもう一回立ち直ろうとするんですね。
筆子は学園を存続させるために家族上学校時代の友人とか教え子たちに協力を求めて、
それに応じて多くの家族夫人たちが筆子のバザーを開発するんですけど、それに応じてくれました。
学園の財政と運営
収益金はすべて寄付として寄せられて、その金額は3833円、38000円だったと残っています。
今のいくらぐらいなんでしょうかね。
この年度の総収入の3分の1を占める金額であったと言われてますね。
結構ご寄付で集まったってことですね。
竹の川学園はもともとこういう寄付で成り立っているところもあるんですけれども、
こういう悲劇が起こった後により頑張ったってことでしょうかね。
こうしたバザーを続ける一方で、教育費とか生活費を切り詰めたりとか、職員への給与を抑制したりとかという努力もした。
でもそれだけではなかなか改善もしないということもあって、
渋沢栄一が登場するんですよ。
1万円札ですね。
多くの事業を明治時期に銀行だったりとか鉄道会社だったりとか、大きな工業を起こした方ですけれども、
渋沢栄一が理事長に就任してくれます。
そこを繋がっていたんですね。
どこで繋がっていたかというと、渋沢栄一さんは筆子さんのお父さんですね。
渡辺清志さんと旧地だったとかね。
なるほど。
そういう知り合いだったということとか、渡辺清志さんというのは福岡県知事だったりとか、福島県基地になったりとか、貴族院議員になったりとかする方ですしね。
渋沢さんとも交流があった方だったり、
あとこの渋沢栄一の長女さんで、穂積宇多子さんというのがいてるんですけれども、
この方と筆子さんというのが東京女子高時代の同級生だったりしたみたいですね。
同級生だったんだ。
お父さんですね。
その婦人会活動とかも穂積宇多子さんというのはされたりとかして、
その婦人会活動に筆子さんも参加していた時期があるんですね。
いろいろ知ってたっていうこともあって、渋沢栄一が法人理事長になって、
なんとかそこから聞き入れるっていうことではなくて、いろんな知恵とかを与えてもらって、資金的にも改善しつつあるんかなって言われてますね。
実際どんなものなのかって、この当時の学園の資金面を見てみたいなと思うんですけど、
大正10年ですね。1921年の決算というのが残っています。
この表を見ていただいたら分かるんですけれどもね。
表のところで資質と収入というのが予算表あるじゃないですか。
大正10年度の資質の総金額が22,800円。803円ですね。
つまり22,000円ぐらいなわけですよ。資質も収入もね。
その割合で見ると、資質の方は給与ですよね。給与が半分ぐらい。
27%が食費とか水持費とかね。生活費ですね。
それ以外はトントンということですね。人件費が半分ぐらい占めているような資質の割合と。
そうですね。
収入はどうやったかというと、収入は学費というのが55%占めていますね。
それ以外に印刷費とか手芸とか農園とかっていうのが35%。
事業部って書いてます。実業部って書いてますけれども。
これだから学園で印刷を引き受けたりとか手芸品を売ったりとか農園をしたりとかっていう
そこからの利益っていうのは35%だったわけですね。
自分たちでも稼いでたってことですね。
学園の中でそういう産業というか、お金を稼ぐようなこともしてたってことですね。
賃貸料って書いてあるから、その火事の時におった印刷屋さんに貸してたんですね。
そこでも働いてたんだと思うんですよ。学園の人たちもね。
事業もこうしつつ、でもこの収入で気になるのが50%の学費、障害を持つ方の学費ってどんなもんなんかなっていうことで見ると
月ですね、これ30円ですって。30円の28人でこの50%くらいになるんですって。
月30円はどんなもんなんだろうっていうことなんですけれども。
この時の給料を見ていただくとわかるんですけど、園長の月の給料っていうのがだいたい300円。
1人だけですけどね。これ多分両一さんやと思うんですけど。
職員の方っていうのが3人いてますけれども、これが月で64円。
ほぼさんっていうのが29円ですよ。
つまり一般の職員さんは64円で、ほぼさんが30円なんですよ、月の給料。
で、この学費が月30円なんですよ。
つまりほぼさんと同じくらいの給料が学費だったっていうことなんですよね。
つまりそれぐらいの学費を払える指定がこの武之川学園には言ってたということなんですよ。
そういうことですね。
そこの親御さんのですね、職業などを調べたのも残ってるんですよね。
会社員の方ですって、保険会社の支配人とか銀行で勤めていただいたりする人が30人のうちの13人。
自営業の方が8人。
事主が2人で、教師が4人で、医者が3人等々ですね。
つまり割とお金を稼いでる人たちですね。
そうですね。この会社員も重役とかありますもんね。支配人とかね。
で、月収で見てもね、もう一つ別の表があるんですけど、月収300円以上って、この園長の給料300円ですよね。
この武之川学園の。
で、それと同じ以上もらっている保護者の方っていうのが、大体30名とか26名なんですよ。
6名。すごい。
ですからとっても給料をたくさんもらっているというか、豊かな人たちの指定が武之川学園のだったという側面が伺えますね。
まあこういう問題って貧困問題とは切っては切れないと当然思うんですけどね。
貧困だからこそっていうのもあるし、逆にこういう障害を持たれる方の家庭の方っていうのが人手を取られて貧困になっていくっていうこともあると思うので、
貧困問題っていうのは大きな問題があったと思うんですよ。
でもこの武之川学園はそこにはですね、もちろんできないんですよね。
まあね、一番スタートアップの会社ですからね。
そうなんです。この始まりなんですよ。この始まりでできるっていうのはこの豊かな方の、素敵な方の教育をまずすると。
そこから始めていこうという作戦だったと思うんですよね。
そこからいろんなところに。
教育にも熱心ですしね。
そこだったらうまいこといく日本で始めるんだったらここの領域のここから始めようということで、
学園の設立と移転
武之川学園はそれでスタートしたんですよね。
っていうことを何とか軌道に乗せつつあったということなんですよ。
で、まあ石部沢栄一の力も借りてちょっとずつ軌道には乗ってですね。
で、そこから1928年ですね。昭和3年になって。
はい、いよいよ昭和ですね。
野望村っていうね、今の国立市のところに移転します。
八千坪の広大な土地も仕入れて、広大な学園を作ろうと試みるわけですよ。
これはね、イメージですね。
アメリカとかでね、やってた大きな施設を作って、そこで多くの方を受け入れてですね、どうかしたいということもあったと思うし。
もう一個この当時あった話があるんですけど、
この事業費ってあったじゃないですか。
この事業で農業とかを頑張りたいと。
それで立ち入り業務にしたいと。
いうことも考えてたみたいな。
すごいなあ。
っていう作戦もあって、領一さんはこの国立市の方に移転するんですよね。
国立市って結構東京からすると遠いところっすね。
割と畑が多いらしいですね。
畑が多い。この当時は大分と田舎です。
中央線ってわかります?東京の直線の山手線から直線に延べる線ってあるじゃないですか。
はい。黄色の線ですよね。
最後の直線の辺りっていうのが立川市とかなんですけど、あの辺りなんですよね。
当時は昭和の初期っていうのは非常にこう、村、何もない土地だったみたいですよ。
なのでそこに広大な土地を仕入れて農業をしようという作戦で行ったんですけれども。
でも実はこの須賀物の土地を売り払って野暮に移りたいということだったんですけれども、
須賀物の土地が全部売れなくてみたいな、ちょっとそういう計算違いもあったみたい。
で、農業も実はあんまりうまいこといかなくて。
最初からはね。
回収するまでにはあんまりいかなかったっていうことみたいですね。
この当時に野暮村に移ったあたり、領一さんが言った言葉が残ってるんですけど、
やりがいとかですね。
学園を運営するにつけて職員とかに語った言葉みたいなんですけど、
人は誰かを支えている時には自分のことばかり考えるけれども、
実は相手からどれだけ恵みをもらっているかは気づかないものだよって言う言葉が残ってるんですね。
やってる、やってあげてると思ってるけれども、
実は相手から恵みをもらってるんですよっていうことに気づかへんもんですよねって。
すごくよくわかるなと思うんですけどね。
ほんとそうですね。日々にちょっと振り返ってしまう言葉ですよね。
実はこっちが恵みをもらってるんですよっていうことになかなか気づかへんもんですねっていうことも残ってて。
互いを支える関係
人を支援するってこういうことってありますよねって思ってますけどね。
この当時の保保さんからの証言が残っています。
何の証言でしょう。
筆子さんが亡くなった後に保保さんからこの当時のことを聞いたっていうですね。
歴史家の方が聞いたという話があるんですけど、このお二人の様子です。
筆子さんと領事さんの様子なんですけどね。
お二人はとっても仲間しくお互いに理解し合いながら、
二人の姿は光合しいほどで、割にお二人の意見がくちがうことがありました。
おそらく吸気の問題であったようです。
そんな時筆子先生は台所に来て、
ちょいと貸しておくれと鰹干しを手にして、
気の沈まるまで削っていたそうです。
なるほど。
ちょっとした。
そういう時もあったんですね。
それはね、いつもいつも仲良くなくて、
たまにはそれは喧嘩する時もあるのが普通だろうなと思うんですけど。
こういったエピソード。
この寄付金の運営費の問題というのは本当に辛いですからね。
大変だからそうなりますよね。
仲良さそうな写真ですね。
これはですね、AIに作っていただきました。
そうなんや。
お二人が並んでいるというか、別々の写真があるんですけれども、
並んだ写真を作って、絵を描いてということで作っていただきました。
いいですね。今時ですね。
作ってるんですけれども、
たぶんこんな感じだったんやろうなと思うんですよね。
想像ですけれども。
続きは次回お送りします。
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