石井筆子と滝の川学園の設立
精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。
この番組では、精神科医療を作った人々、現代のトピックスを精神科医が解説します。
精神科専門医30年、医学博士で、現在、開業医のマリモと、
その姉で、障害を持ちの方の就労支援事業所を経営していて、
最近、初孫が鼻の下を伸ばす顔を写真で送ってきてくれて大笑いした桜がお送りします。
日本初の知的障害がある方の施設を作った、石井筆子、両一の障害です。
この方たちは?
はい、ありがとうございます。
今回は、明治の時に、日本初の知的障害のある方の施設を作った、滝の川学園という、今もあるんですけど、
この施設を作った石井両一さんと、その妻の石井筆子さんの障害をたどろうかなと思います。
前回の続きからお送りします。
そんなことをして、野望村で啓発していくんですけれども、
昭和初期の経済的苦境
1932年ですよ、筆子さんが70歳の頃か、脳血管障害で倒れます。
身体的な歩行障害があって、車エストコンの時から使っていくということになるんですね。
もともとね、火事で杖を使って歩かれてたっていうから。
足が不自由になられるんですよ。
その2年後ですけれども、精神発着児愛護協会、現在の知的障害福祉協会の創立が、滝の川学園で開かれます。
石井両一さんが初代会長となりました。
第一任者ですからね。
設立時の8人の大半は、石井から直接指導を受けたりとか、あるいは滝の川学園の仕事に影響された人たちだったということですね。
日本的な教会も開かれたりはするんですけれども。
ただ、昭和に入ってからですね、滝の川学園というのは、試験的には結構辛くなります。
実際不景気だったっていうこともありますしね、ということなんですけど。
実況を見させてもらうとね、この表があるんですけど。
滝の川学園の収入とかですね、給金とかの推移が載っている表があるんですけど。
この収入全体で見たら、昭和7年がピークなんですよね。
9万円ぐらい年間あるんです。
この4万円、6万円、5万円、9万円とですね、どんどん右肩上がりに上がっているんですけれども。
これがピークにどんどん下がってくるんですよ。
昭和10年には2万円台になって、昭和11年にも同じく2万円台ということですね。
大正期と同じくらいまで落ち込んじゃうんですよ、2万円。
これ何が下がったのかなっていうことですけど、給金かなと思うんですけどね。
そうでしょうね。
給金が一番高い頃、昭和7年ぐらいっていうのは1万8千円ぐらい年間にあるんですけれども、
昭和11年には6千円ぐらいに減っていると。
そうですね。でもこれ7年が1万8千円だけど、8年次の年に半分になってますもんね、9千円に。
このですね、給金って、つまり昭和の初期って、日本自体が不景気だったのもあるし、
プラス欧米との関係が日本ちょっと不安定になってくるわけですよ。
そうですね。
つまり日本自体からその欧米へのちょっと敵というか、ということもありの、
これって逆方向も当然あるので、
割とキリスト教の教会等々からの支援って竹野学園は受けてたんですけどね。
そうですね。
だからさ、やっぱり日本人に対してのいろんな思いっていうのが当然欧米の方にも出てくるわけですよ。
そりゃそうですわ。今ちょっと見てたら満州に国を作った都市ですよね、昭和7年。
だからヨーロッパはそうですね。
欧米との関係が非常にこうよろしくなくなってくる時期なんですね。
本当だ。
プラス日本の仲間もですね、やっぱり不景気になってくるわけですよ。
だからこそ日本の政府はその満州とかね、南方とかに出て行ってっていうようなことを考えるんですけれども、
だから給付金がめっちゃ少なくなってきていると。
ただ給付金の少なさだけではこの収入源は説明つかなくって、
これ多分ですね、額費を払える人が少なくなっちゃったんですよ。
あ、そうか。
今まではお給料とか商売がうまくいってもリッチだった親御さんたちがですね、貧乏になってくるんですよね。
だから払えない払いたくてもということになって、
っていう苦境ですね。
なるほど。
実はもう一つ苦境というか、これはプラスなことなんですけどね。
これ日本の市町村とか国とかがですね、国はあんまりご自然かもわからないけれども、
この公費委託制制度っていうのを作ります。
つまりですね、この知的障害とかってある方を
面倒を見てくれる知的な学園とか、竹の川学園以外にもいくつもできてるんですね、この頃ってね。
だからそういった施設に知的障害のある方とかを、より面倒を見てもらおうよと。
で、それをそのためにはお金がね、もちろん問題なのはわかるから、この公費で出しますよと。
一見良さそうに聞こえるんですけれども、
でもさ、そのお金は決して高いもんじゃないんですよね。
分配されますもんね。
最低限だったりするわけですよ。
で、当初ですね、この公費委託制度を頑張って受け入れるというか、それをやる学園とかもできてくるんですね。
八幡学園とかっていう学園は、この公費委託制度をしっかり受け入れてやろうっていう施設もできたりもします。
だけどフロントランナーの竹の川学園はそうじゃなくて、その高い学費をもらいながら、なんかこういう上質な教育をやってる施設なわけですよね。
だからなかなかそれを受け入れるっていうことにもいかんわけですよ。
たらたりませんよね。
竹の川学園でやってる教育を公費受託制で受けさすわけにはいかんほどしかくれへんわけですわ。
公費委託費は月の15円って言われてて、15円っていうのは児童一人の生活費が17円の時代にそれにも及ばんぐらいなんですよ。
ほんまですね。
って言われてる感じだったので、なかなか難しいんですよね。
経営は大変ですね。
経営は難しい。ただやっぱり受け入れないっていうこともできなくて、昭和21年から受け入れることにもなってきたりして。
この数年後には受け入れが義務化されたりするんですよ。
っていうですね、ちょっとこの辛いところがあったりします。
ちなみにですね、この大正から昭和にかけてなんですけど、物価価値ってどうなってるかっていうことなんですけどね。
物価価値はあんまり変わりません。むしろデフレぐらいの感じっすわ。
だから大正の前半ぐらい、8年ぐらいの時に後継期になるんですよ。第一次大戦後の後継期になって。
この時にインフレが一時期起こるんですけど、その後からは物価はほぼ落ち着いてる感じ。
そんなに10年20年経っても起こらないんですね。
ようやく元の値段が上がり始めるのは戦争が終わる頃ですよ。
の頃に大きなインフレになるみたいなんですけれども、それまではお金の価値ってあんまり変わらんって感じですね。
お金の価値が変わらないんだけれども、給料も全然上がらない。むしろ下がっていってて。
非常に不景気な時代だったんですね。この戦争が始まる前っていうのは。
だから社会全体が貧しくなる中で、竹の川学園も金銭的にも苦境に陥ってきてたよってことですね。
石井筆子の最晩年と著作
ちょうどその頃に梁一さんが70歳で亡くなります。
うわー、小出子さんまたピンチ。
大ピンチなんですよね。この時の後退後、もっとも低迷高傲ですけれどもね。
施設も送ってくれたりとか、お金をくれたりとか、そのせいで祭壇を作ったりとかってするんですけれども。
まあでも厳しいのには違いない。
あ、そうです。
後継者どうするんだ問題が起こってきてて。
実はですね、その梁一さんの老いがついてくれる予定だったんですって。
渡辺の家のですね、方がついてくれる予定だったんで、その方亡くなっちゃってたんですよ、もう梁一さんが死んだ時には。
だから後継者いないっていう状態ね。
うわー。
で、2代目委員長には小出子さんが承認するということですよ、75歳。
人いませんよね、この時代ね。
75歳です。つまり誰も引き受け手がなかったんですよね。
ただでも子どもさんは30人程度いてるし、職員もいてるし、経済的には厳しいけれども、やっぱり自分が引き受けざるを得ないということで引き受けます。
75歳の小出子さん。
そこから小出子さんが亡くなるのは83歳までなんですけど。
うわー。それまでずっと。
すごいなー。
もう何とかしのいでいくということが正しいのかなと思いますね。
で、太平洋戦争も起こってね、1941年ですけれども。
そうですね。
その時の一人が軍に出兵せなあかんかったりとか、ずっと通ってる方も自宅から出兵されたりとか、いずれその人らが支援しするんですけども。
っていうですね、ちょっといろいろマイナスが多くなってきてるということですね。
で、小出子さんの81歳の頃ですね、ある本を出版します。
出版っていうのは、この小出子さん何個か4冊ぐらい本は出版してるんですけれど。
なんか童話を書いたりとかですね、古い物語を書いたりとか。
あるいはこの82歳に書いた本とかっていうのは、昔の留学した時の話ですね。
アメリカ旅行を津田嫁子と行った時の話とかを出すんですけど。
これね、元々は原稿とか書くのが好きな方で、いろんな原稿を書いてる方なんですけど。
出版するっていうのは、金銭的な目的もあったみたい。
そうですね。
出版をして、なんとか学園にプラスにしたいという思いがあったみたいですね。
うん、運営費ですよね。
その時の本、杉栞の日記っていう本を出すんですけれども。
その時の序文がですね、有名な歌を読んでるんですよ。
これちょっと言わせてもらいましたらですね。
茨城を知りて捧げし身にしあれば、いかでたわまん、たわむべきかな。
これ、現代語訳したら、苦難の道だと知った上で身を捧げた身なのだから、どうしてくじけることがあろうか。
いや、決してくじけない。
そういう決意の歌なんですね。
すごいな。
すごいな。
自分で自分、励ましてますよね。
80代ですよ、これね。
すごいな。
出版もするんだけれども、やっぱり双子さんは体が悪くなって、入院もしなくなったり、療養施策が起こったりするということですね。
1944年、昭和19年1月24日、少数の保護に見守られながら、双子さんは亡くなります。
83歳。
合意一生を送られたという双子さんになりました。
双子さんの一生、ちょっと後半戦は辛いのが多いんですよね。
辛いと言い方は悪いかもしれないけれども、大切な人を失って、責任も多かって、病気にも苦しんだりとかっていう生活ではあるんですよね。
それで亡くなった時の話とかって、ほぼ残してるんですけれども、あんまり見守られないと。
身内っていうのが、この時はいてないんですよね。
筆子さんの子供さん方は死んでいるし、旦那さんは亡くなっているしということです。
保護さんとか学園の方々っていうのは、もちろんお世話とかしてたので、職場で亡くなったということになると思うんですけどね。
この筆子さんの生涯ですね、初めに言ったんですけど、2000年代になるまであんまり注目されてないんですよ。
石井筆子の貢献
両市さんは割と福祉業界では竹の川学園を作った人ということで、福祉を先進的に進めた人ということで、その業界では知っている人も多かったんですけど、筆子さんの貢献というのはあんまり知られてなかったと言われてますね。
それが2000年代になって発見されたというか、わかるようになったということですね。
やっぱりこの竹の川学園とか両市さんの業績というのは筆子さんがないといけないというか、むしろ筆子さんが頑張ったのかなというところですね。
そんな気がします。だいぶ資金も集めたでしょうね、女学校時代の特急車を使って。
それはもう絶対よかったと思うし、実際学園の中でも筆子さんが活躍したと思いますね。
それは間違いないでしょう。
その後の竹の川学園というのはちょっと見ときたいなと思うんですけど、筆子さんが亡くなった後、すぐまだ戦中なんですけど、翌年に終戦になるんですけどね。
渡邉家の課長の方とかがついでいてきます。
渡邉家が理事長だったりとか園長だったりとかを引き継いでいくんですけれども、
その後、お医者さんとか大学の教授とかが学園を指揮していくことになります。
渡邉家が戦犯に問われたりとかしたこともあったみたいですね。
戦時中に養殖についてた人っていうのはやっぱりそういうことで問われたりすることもあったんでしょうかね。
そうですよね。責任をまとわれますよね。
ということで、お医者さんとか教授先生とかがリーダーになっていくということなんですよね。
ただ、昭和24年、1952年には社会福祉事業法というのができて、社会福祉法人竹の川学園ということで認可されます。
この公益法人としての経営基盤が安定していきますね。
国の方から福祉事業への支援というのがしっかり行われることになって、どんどん進展していくということですね。
70年には成人部が開かれたりとか、88年にはグループホームを開発されたりとか、
2000年代からは地域支援とかグループホームなど短期入所など多機能化が進んで、現在は利用者、従業員とも300名近い規模になっているというのが現在の竹の川学園ですね。
戦後の福祉法人の発展
という進展になるんですけれども、この黎明期、一番しんどい時期を支えた不採の話ということですね。
素晴らしいというか、ただちょっと思うんですけど、確かに外側からだけなぞると成人君子みたいな見え方をするんですけれども、実は起こられるかもわからないけど、きっと好きなことをしていたのかなと思うんですよ。
おっしゃる通りだとは思います。
そういった側面もあったかなと思うんですよね。
たぶんこの障害者のことを教えたりとか、進歩したりとか、人生が送れるようになるということにすっごいありがたいを感じたりとか、ということをやっぱりお二人とも感じていたのかなと。
だからこそ頑張れたのかなって、これは僕は想像ですけどね。
辛いことも多かったと思うけど、と思うんですよね。
そうそう、好きでないとこんな大変な時代を、たぶん家事もあって、だけどまた再建していって大変じゃないですか。そこを乗り越えてくるのはやっぱり好きっていうのは根底にはあると思いますね。
そういったところもあった。もちろんそれだけじゃなくて、いろんな使命感とかいろんな事情もあったと思うけれども、きっと好きっていうか、やってていいなっていう気持ちをずっと感じていたと。
と思います。日々はすごく幸せな時間が感じられる日々だったんやろうなと思いますね。
そう考えると、生涯を好きなことに費やすことができたっていう幸せな人生とも言える。
こういう人生いいですね。
めったにない人たちだなって思うんですよ。これだけ恵まれた境遇と能力と持ちながら、障害者の方への情熱を、実際、生涯かけてやったっていう立派な方かなと思いますね。
この生きていらっしゃる間にどれだけの人が理解してくれて支えてくれたかっていうところですけどね。
確かにそこはあったかもね。
もちろん資金的な援助はもちろんですけど。
いやでも本当に逆風も多かったやろうしね。
多いと思うな。時代が時代だけに。
日々そういうのを感じてたでしょうからね。だからそういうところも含めてなかなかできることじゃないなっていうところですね。
でももう踏み出してしまったら後に戻れないっていうのはきっとあるから、そこはもう何とか乗り切っていこうよっていうのはあったと思いますね。
だって目の前に子どもたちがいるわけで、やめるとは言えないよ。それが一番大きかったの違うかな。
なるほど。目の前の子どもたち。
目の前の子どもたち。
そう。子どもたちがね、もともとだって個人の子たちから始まって、障害もあってご家族から預けられた子どもたちで、
じゃあやめるのでって言って、ご家庭にみんなが戻れない。戻れるとは限らんしね、戻れない子もいたやろうし、戻ったら教育が途絶えるっていうのもわかってるし。
そうそうね。自分たちがおったらもっといろんなことができるようになるはずやのにって思ってたら、頑張らざるをえんか。
そうな気がする。やっぱりその子たちの存在が一番大きかったんちゃうかなって思いますね。
でもね、そういった仕事を見つけることができた方っていう意味で言うと本当にラッキーとも言えるかもしれないね。
うん。やっぱりある意味選ばれし方々なんだと思いますね。
そうですね。
まあね、そういった方があるから福祉施設ができてっていうこともあるかもしれないね。
そうですそうです。家事もあってこういうこともあるから、めくめくとそれが繰り返されるんだけど、
今のね、いろんな福祉の施設の消防法とか作るほうが大変なんですよ、ハードルが高くて。
そうですね。
これもしないといけない、これもしないといけない条件がすごく厳しいんですけど、
もうこういう痛い悲しい思いのもとに作られた決まりやからね。
ちゃんとしていかないとダメですね。
それはちょっと私、自分自身に変えりみてくださいね。
なるほど、よくわかりました。
こんなに細かいところまでいるっていう決まりがあるんですけど、
福祉の施設を認可もらうのにはすごい高いハードルがあるんですけど、
特に入所の人たち、生活する場所の規定ってすごく厳しいハードルなんですけど、
そりゃそうやわなって思いますね、こういう悲劇とかを見てると。
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