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2025-06-06 28:21

アメリカ精神医学の父 ベンジャミン・ラッシュの生涯 #4

アメリカ精神医学の父とされるベンジャミン・ラッシュ。今回は彼の生涯と精神医療への革新的な貢献を辿ります。

 

18世紀末、ラッシュは清潔で人道的な治療環境を重視し、アメリカ初の精神科病棟を設立。読書を勧め、過去に寄り添う温かなケアを実践しました。

一方で、精神疾患を抱えた息子の存在を公にし、偏見の打破に努めた姿からは、個人的苦悩と社会的使命の交錯が見えてきます。独立戦争、奴隷制廃止運動にも関わった“建国の父”ラッシュの全体像を、精神医学の視点から読み解きます。

 

Note.

https://note.com/quiet_bison8697/n/n20875e5a4e64

番組へのお便り

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サマリー

このエピソードでは、ベンジャミン・ラッシュの生涯を通して、アメリカ精神医学の父と呼ばれる彼の業績や社会活動について詳しく学びます。彼の教育的な背景や医師としての成就、そして奴隷制度廃止への関与が掘り下げられています。ラッシュはアメリカ精神医学の父として知られ、精神疾患の治療に人道的なアプローチを導入します。彼はペンシルベニア病院で精神科病棟を創設し、患者との対話を通じて治療を行い、精神科における倫理的な環境を大切にします。ラッシュの生涯を通して、精神疾患に対する偏見や人権問題が浮き彫りになります。彼は自身の息子の精神疾患を公にし、社会の理解と支援を呼びかけます。

精神医学の基礎と父
精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。
この番組では、精神医学を作った人々、現在のトピックスを精神科医が解説します。
精神科専門医30年、医学博士で現在、開業医のマリモと、
その姉で、障害をお持ちの方の就労支援事業所を経営していて、
つい先日生まれた初孫、生まれた日からミルクだけでどんどん大きくなる写真を楽しんでいる、
さくらがお送りします。
フィリップ・ピネルが鎖を取る物語。
これを4回に分け、その第3回として、ベンジャミン・ラッシュの強制医術。
19世紀初めの精神科医療、です。
強制医術って何?
ありがとうございます。
強制医術って、僕も知らないんですよ。見たことないですし、
博物館みたいなところに行ったら見れるらしいし、
サムネイルに画像をあげるので、また見ていただきたいんですけどね。
それを象徴としたような、19世紀初めの精神科の医療のことを学びたいなと思っています。
初めに、ベンジャミン・ラッシュさんというのが、アメリカで有名な精神科医というか、
アメリカ精神医学の知事と言われる有名な人なので、
この人の話を、実は日本の精神科医も詳しくないんですけど、
勉強してみましたということで言いますね。
精神科だけじゃないと思うんですけど、
学問が始まるときって、こういう父みたいな人ができるんですよ。
つまり、その人のお弟子さんとかが、どんどん学問を作っていくんですね。
だから、その人を祭りあげるみたいな文化があるんですよ。
最初の切り口の人ね。
そうなんですよ。日本にもそんな人がいてたりとか、東大の教授先生でいてたりとか、
いまだにそれは語りつかれてたりする。
教育と早熟な才能
例えば、このベンザビン・ラッシュさんというのは、アメリカ合衆国ではきっと、
精神学の中ではそういう方なんやろうなって思うんですけどね。
なるほど。何々の父ってあるもんね、よくね。
そうなんですよね。確かに新しい学問とか、そういうのを導入した人、作った人っていうのはやっぱり、
その後お弟子さんがどんどんできるから、尊敬されるのかなと思うんですけどね。
立派な方には間違いないですね。
そうです。この人は実はとても立派な方だと思います。
ベンザビン・ラッシュさんの話ちょっと言いますね。
ベンザビン・ラッシュさんですけども、この人は前回話したバティーさんよりも、
だいたい43歳くらい年下になります。
でもちょっと重なってるんや。
ちょっと重なってますね。
重なってるけど、18世紀の1746年にペンシルベニア州のフィラデルフィア、アメリカ合衆国で生まれました。
この時はアメリカ合衆国ではなくて、イギリスの植民地のフィラデルフィアで生まれました。
牧師さんの家だったみたいですね。
この方も牧師さんの家なんですね。
そうらしいです。
お父さんが早くに亡くなって、お母さんに育てられて、おじさんも牧師さんで、その方で正式な教育を受けたという記録が残っています。
この人は中寮階級の例ですよね。
ところがやっぱりこの人も優秀なんですよ。
すごいですね。
14歳でニュージャージー大学、現在のプリンストン大学に、アメリカの大学ですけどね、入学して、
偏差値高い学校ですよね。
この当時も多分そうだったと思うんですけど、1年後の15歳で卒業すると。文学士を取ったっていうことがあるので。
14歳で入って、1年で卒業ですか、大学を。
すごい賢いよねっていう人で。
この人は本当に頭良かったんやろうなって思うんですけどね。
22歳でスコットランドのエジンバラ大学というところで医学博士を取得というのが残っています。
この期間の10代をどこで過ごされたのかっていうのはちょっと記録にないんですけど、
多分アメリカのそういう学術的なところで行って、留学しようかということで、スコットランド、イギリスに留学して、
エジンバラ大学で勉強してて、医学博士を取ったんだろうなって思います。
すごいですね。
その時が22歳。
22歳。
22歳で医学博士を取っているということで、やっぱり賢い人。
優秀ですね。
社会活動と精神科病棟の設立
優秀ですね。
この時、この人が専攻したのが神経障害の理論とか疾患の分類の勉強などなどです。
精神疾患にも興味を持たれていたということで、精神科の勉強もされたんだろうなと思うんですけどね。
なるほど。
この1768年が取得した、22歳でエジンバラで医学博士を取得したんですけど、
この時には、例えばバッティーさんとかはセントルーク病院を作っていて、
先進的なイギリスの精神医学っていうのはあったというか、今時はこんな風になってるんですよねっていうのをきっとベンジャミン・ラッシュは勉強したと思う。
イギリスのロンドンとかではこんな風になってるんだっていうことはきっと勉強していたと思われます。
そりゃそうですね。
翌年にはフィラデルフィアに戻って、ペンシルベニア病院というところで勤務して、
プラスフィラデルフィア大学と現在のペンシルベニア大学の医学部の化学・化け学の教授にもなったと。
23歳でですよ。
すごいですね。
教授って言ってる。
相当やっぱり頭が賢かったということですし、医者としても働いてたということでした。
青年の医師プラス、新進教授先生ということをやっている中で、
27歳で、奴隷貿易とかが結構この当時はあったようなんですよね。
アメリカとかにね。
イギリスの植民地としてアメリカがあったので、そこに黒人の方が奴隷貿易というか、
お金で買られて売られてくるというようなことが日常的にあったようなんですけど、
やっぱりそれは人道的に問題ですよねっていう動きもあった。
ということで、奴隷廃止についての小冊子を出版したり、27歳の時に出版したりとか。
このベンジャミン・ラッシュさんが?
はい。
すごいですね。
この人すごいんですよ。色々やるんですね。
医者だけじゃなくて、教育者でもあり、社会的な活動もされるんですね。
この人はそこがすごいところかなというか、本当に多才な方かなと思うんですけどね。
いずれ40歳にはペンシルベニア奴隷制度廃止協会の設立者の一人に加わります。
設立までするんですか。すごいですね。
はい。色んなことします。
30歳の時にジュリア・ストックトンという方と結婚して、結果13人の子供を設けるということもすごいなと思うんですけど。
一人の奥さんで13人ですか。
はい、そうなんですよ。
すごいな。逆に奥様すごいです。
すごいです。
このジュリア・ストックトンさんっていうのは、ストックトン家っていうのがまたメーカーらしいですね。
アメリカの政治家で、弁護士で政治家のお父さんがいて、それの娘さんと結婚したんですよね。
だからこういう得所のお嬢さんと結婚するような感じになって、ずっと子供さんを仲良く、そんなにも子供さんを設けたんでしょうね。
で、同い年にアメリカ独立宣言の署名をしたということです。
そういう年代なんや。
そうなんです。30歳の時にね。その後独立戦争にも駐軍したりすると、軍医としてですね、この人はね。
そうなんや。
この独立宣言の署名って何本のもんじゃいっていうか、よくわかんないんですけど、僕らには。
多分アメリカの人らはこの辺詳しいんやと思うんですけど、調べるところによると結構リスクのある行為でもあったようなんですよ。
そうでしょうね。植民地からの独立ですもんね。
そうそうそうなんですよ。そこにね、だから署名をするっていうことなんで、明らかに反逆行為なんですよね。
その当時の政府というか、保守派からしたら。
その当時の政府に署名をしたということで、実はこのジュリア・ストックトンの嫁のお父さんも、奥さんのお父さんも署名しています。
そうなんや。
だからそういう一派だったんでしょうね。
なるほどです。すごいです。でも奴隷制度の廃止協会だったり、独立宣言の署名だったり。
そうなんです。そういうとても進歩的なその当時の考えをお持ちだったと言われてますね。
戦争にも従軍して、このいわゆる独立を勝ち取った英雄っていうのが、例えばワシントンさんとかって有名ですけどね。
そういう方々と仲間なんですよ。このベンジャミン・ラッシュさんっていうのは。
優秀な方ですもんね。
そう、優秀な方で、アメリカ外集国を初期に作った人たちの仲間というか、この人も一緒に作っているという感じの方なんですね。
それが政治的な活動でされるんですけども、それが30歳の頃なんですけどね。
本業の方の医者の方はどうかというと、37歳の時にアメリカ初の精神科病棟を設立すると言われてて、
このペンシルメニア病院内、この人が働いている病院で精神科の病棟を作ったと。
すごいですね。病院改革もしているわけですね。
病院改革ですね。もちろんあったようなんですよね。そもそも精神科の人たちを収容するような施設っていうのは、
当然ここにもあったようなんですが、そこを病棟として、人道的な病院として作りましょうということで作ったということです。
46歳の時には、このペンシルメニア大学での医学の教授にもなられて、臨床診察の教授にもなったと。
これ46歳の頃ですね。
46歳でも教授って早いですもんね。
そうですね。もう臨床の教授ですからね。優秀な人ですよ。
それで、政治的なことで1個この人があるんですけど、50歳代ですね。
ラッシュの生涯と業績
50歳代の頃に第2代大統領、ジョン・アダムスさんというのともともと交流があったんですけど、
その時は第2代がジョン・アダムスさんとベンジャー・ミラッシュさんというのは友達だったんですけど、
その時ジョン・アダムスさんは、次の大統領でジャパーソン大統領というのに負けるらしいんですよ。
このジョン・アダムスさんというのと、前大統領と現在のこのジャパーソン大統領と第3代大統領というのは結構対立して、
国が割り、結構分裂の危機というかなんとなったらしいですね。
このジョン・アダムスさんという前大統領と現在の大統領ジャパーソンさんとの和解を図ったのも、ベンジャー・ミラッシュさんと言われてて。
すごい歴史作ってますやん。
まさにそうなんですよ。前大統領と現大統領の仲を取り持つとかね、ようなこともできる人だって。
66歳でアメリカ初の精神科の教科書を出版して、ずっと教えてたんですけどね。
それの教科書を作って翌年に亡くなると。67歳でフィラデルピアで亡くなります。
アメリカ医学の父とか、アメリカ精神医学の父とか。
アメリカ精神医学会、APAというのが今もあるんですけどね。
DSM-5とか4とかって聞いたことあります?
耳にしたことはあります。意味は分かりません。
今割と世界的に使われている精神疾患の分類制度があるんですよ。
DSMっていうのがあって、それによって精神科の病気って分類していくんですけどね。
それを作っている協会がAPAっていうところで、アメリカ精神医学協会っていうことがあるんですけど、そこの公式の印象っていうか、マークに彼の肖像が入っているらしいです。
じゃあこの医学会も作ったような感じなんでしょうかね。
そうですね。まさになかったんちゃいますか、このまだベンジャミン・ラッシュが言ってた頃は。
という偉大なアメリカの建国の父、精神医学の父。
この人の治療とか、いろんな出来事を話す中で、この当時のアメリカとかヨーロッパの精神医学のことを、ちょっと身近に感じていきたいなと思うんですけどね。
じゃあこの人が37歳の時に、このペンシルベニア病院で精神科病棟を作った時の話っていうのをちょっと言おうかなと思うんですけどね。
このペンシルベニア病院っていうのは、一般的な総合病院だったんですけど、精神疾患のある方も受け入れてたと。
ただやっぱり犯罪者と同じような収容所みたいなところで扱われてて、手錠かけられたりとか、暗い独房に閉じ込められてたりとか、特に治療もされずにいてたと。
収容されてたっていうだけのことだったんですけど、これはやっぱりこれ良くないと。病棟として設置しましょうということで。
ラッシュさんは、精神疾患はやっぱり病気ですよ、心身という両面の病気で、ちゃんと治療できますよということを考えたと。
そういう患者さんというのは、清潔で換気の行き届いた、監督された環境で、人道的な治療を受けましょうと、受ける価値があるんですよということ。
そんな治療を受けると良くなる可能性があるんですよということを言ってたというか、それを伝えてたということですね。
そういう時代に繋がる考え方ですよね。
まさにそうですよね。今までだったらそうですよね、もちろんそうちゃいますかと思うんですけど。
でもこの当時はやっぱりこれが先進的な考えだったんですね。250年くらい前の話ですね。
ここでの一つのエピソードがあります。このラッシュ先生とある患者さんとのエピソードなんですけどね。
このラッシュは定期的に病棟を訪れて患者に優しく話しかけて会話を通じて回復を促していたと。
ある患者さんでジョン・ビリングスさんというのがいてるんですけど、この方は長いこと入院してて、暴力的に感情的に爆発したりとか、ちょっと分かりにくい行動があったようです。
ただこのラッシュはジョンさんのことを軽視せずにというか、多くの患者さんの一人と考えずに過去を調べてみたと。
そうしたらこのジョンさんというのは、昔教師だったということが分かったと。
先生だったんですよね。だけどここに入院患者さんとしていているということが分かったので。
このラッシュさんはジョンさんに本とか筆記用具を利用できるように手配して、治療の一環として読書とか何かを書くことを勧めたということですね。
そうすることでビリングスさんの行動が良くなったということが残っていました。
ジョン・ラッシュの物語
すごい嬉しい話ですけどね。今の私からすると。
ちゃんと接することで、あるいは自分がしたいことをすることで良くなるということは割とあることなのでね。
これが実際行えたんですよね。
精神科病院というのは大切だし、環境をしっかりしましょうということをラッシュさんはいろいろな講演とかで訴えたりしてたということですね。
すごいですね。これを一人で築いてやっているというところがすごいですよね。前例があるわけじゃないのに。
イギリスにはそういう前例があったので。
バティさんのところね。
そうそう。だからイギリスとかフランスとかではこういう先進的な病院というのはあったというのは多分彼は聞いてたと思うんですけどね。
なるほど。
それを実際に自分のアメリカ合衆国で確立しようと作ろうということでやったということでしょうね。
実践したんですね。
実践したんですね。新しい考えは。
それがうまくいって、多くのお弟子さんができて、アメリカの精神医学が復興してくるということになるんだと思うんですけども。
なるほど。
ただこの人は調べる中で分かったんですけど、結構辛い体験もされてます。ラッシュさんが。
そうなんですか。優秀な幸せな成功者なのかなと思ってたけど。
成功者には違いないんですけど、とても辛い面も持ってたなということが気づきました。
それは子供さんなんですね。13人生まれた子供さんの中で、実は有名な方というのがいてて。
これがジョン・ラッシュさんというのが。リチャード・ラッシュさんか。
次男か三男がいてるんですけど、この人は後々、弁護士になって政治家になって、アメリカの司法長官だったりとか財務長官だったりとか、
イギリス駐在アメリカ公使というのを伝えてるという、とても有名な方になる方が一番有名な子供さんとしてはいてるんですけれども。
もちろんこの子供さんなので、いろんな方がいてたんだろうなと思うんですけど。
この人は有名なんですけど、実は長男さんというのが話ありましてですね。
ベンジャミン・ジョンさんですね。ジョンさんというのが、ラッシュが25歳の時に生まれたんですけども。
この方、ジョンさんというのは、小さい時は知的で、活動的で、好奇心旺盛で、ペンシルベニア病院で、ラッシュが会社に同行させるというかね。
そんな感じで、可愛がってたんでしょうね。
このジョンが23歳の時にニュージャージ大学に入学します。
ところがこの2年後ですね、このジョンはですね、規律違反で除籍されるという。
大学から?
大学、そう、学校からですね。
でもペンシルベニア大学医学部にまた入学できるということにはなるので。
全くできないという方ではなかったんだろうなと思うんですけど、ちょっとそういう違反とかするような方でもあったということですね。
うまくでも医学部は卒業できて、お医者さんにはなって、アメリカ海軍には勤務するんですね。
船舶下階になって、校会長っていうですね。
結構位もそこそこ軍隊の中でも上がるということになって。
34歳の時に息子のジョンは医学博士も取れたという。
割とジョンさんも順調な感じだったんですけど。
精神的にですね、この頃からおそらく何かしらの病気を患ったんだろうなって言われてるんですけども。
このジョンが37歳の時ですね。
ジョン・ラッシュ中尉さんになってたんですけど、この人が友人であり同僚の士官のベンジャミン・テイラーと血統をします。
血統?
血統。
テレビの中の話ですけど、まあまあね、昔はありましたもんね。
そうなんです。この1800年代の前半って割とこの血統っていうのがあって、この上流階級の軍人さんとかそういう上流階級の人たちは、
その紳士の名誉を守るために血統とかを行うことがあったようなんですよね。
結構それで問題になったりとか、実際それで有名な事件とかはあったようなんですけどね。
だから全くおかしいわけではないんですけど、この人がこの同僚の友人の方と血統をして、このテイラーさんを銃で撃って致命傷を負わせて、結構亡くなります。テイラーさんは。
そうなんだ。ショックでしょうね。
そうなんです。で、それのせいなのか、あるいはその血統に至る経過でも精神的に病んでたのか、そこはちょっとわからないんですけど、
つまりこの事件以降、この息子のジョーンさんは陰鬱な錯乱状態となったというものの方には書いています。
つまりこの時くらいからも精神的には非常にやばい状態になったと言われています。
そうか、そうやるな。
どういう状態になったかわからないですけどね。
ラッシュがこのジョーンに会いに行った時の様子が残ってるんですけども、このボロボロの服、乱れた髪、長い髪とひげ、落胆した顔つき、絶え間ないため息を浮かべて全く話さなかったっていうような記録が残っています。
だからやっぱりちょっと精神的にやる気持ちで落ち込んでるっていうだけじゃなくて、この時点でかなりやっぱり病気的なものが起こってたのかなと思うんですけどね。
そうですね。死ぬかったやろね。
ラッシュの家族と偏見
そうですね。その2年後、このジョーンは自殺未遂、自殺未遂も起こします。
翌年40歳になったジョーンはペンシルベニア州立精神病院、ラッシュの勤務する病院に収容されました。
実はこの40歳から亡くなる67歳までずっとこのペンシルベニア州立精神病院に入院し続けることになりました。
退院できなかったんですね。
ずっと入ったままですか?
ずっと入ったままと書いていました。
ラッシュのその時の記載によると、息子は1日大半をこの独房で静かに過ごしたと。しばしば無駄なメモを書いたり、うめき声を上げていたって書いていました。
今で言うところの統合失調症だったか、あるいは重度の鬱病だったか、今となってはわからないんですけれども、
なかなか回復がしづらい病気だったということには間違いないと思うんですけどね。
そこでラッシュなんですよ。
ラッシュはどうしたかというと、自分の勤めてた病院、改革した病院に息子を入院させて、見捨てなかったという記載があります。
見捨てる選択肢はなかったような気もするんですけど、
ただ積極的に見舞ったというか、なんとかできないかなということを、いろいろきっとラッシュはやったんだろうなと思うんですけどね。
ただ残念ながら、ジョーンは回復することはなかったと言われています。
ラッシュは当初、子どれを家族の秘密として公にはしなかったんですよ。
そうなんですか。
やっぱりなかなか自分の息子が精神科病院でずっと収容しないといけない状態になったっていうのは、その当時は言えなかったんだろうなと言われています。
確かにね。奥さんもお嬢さんみたいないいとこの方って言ってる家ですしね。
精神疾患を取り巻く偏見ってね、今もありますけれども、もうその当時ってそれに比してすごい偏見があったと思うんですよね。
人権も例えば奴隷もまだおった時代ですからね。
そういう人権ってみんながみんな保たれているわけではない状態で、この精神科病院に収容される人たちについての人権についても、当然踏みにじられるというか軽視する人が多かった中で、なかなか言えなかったということなんですけども。
治療と社会への呼びかけ
ただラッシュはですね、この66歳亡くなる前年なんですけど、このピラディオルフィアガセット市っていう地域の新聞なんですけどね、そこに寄稿して文章を載せて、息子の病状について公に言及したというのが残っています。
カミングアウトしたんですよね。自分の息子っていうのは今こういうことになっていると。
ラッシュの意図は、精神疾患の方っていうのは、この偏見というのはやっぱり問題やなというのをきっと感じたんじゃないかなと思うんですね。
病気ですもんね。
そうそう。だから精神疾患っていうのは、自分の家庭のように教育水準がとても高くて恵まれた家庭の方でさえかかる可能性があるんですよっていうことを皆さんに伝えたかったのかなと思うんですね。
だからこそ治療とか見捨てるんじゃなくて、社会が共感して医療をちゃんと受けてくださいよっていうことを伝えたかったのかなと思うんですけどね。
ということをラッシュは言って、亡くなるということになりました。最後までご立派だったと思うんですけどね。
このラッシュさんというのは、金銭的には全然恵まれてないことはなかったと思うんですけど、めちゃめちゃ裕福でもなかったようです。
そうなんですか。
ジョンがもうちょっと元気だった頃、医者になって南部の方で開業したいなって思ったらしいんですよ。
ジョンが?
ラッシュに介護資金を頼むわ、お父ちゃんって言ったことがあったらしいんですけど、金ないからできひんっていうふうに断ったっていう記録が残っています。
そうなんですか。
本当に金がなかったのか、あるいはちゃう理由で断ったのかっていうのはわかんないんですけど、そういう記録が残ってるっていうことがあるので、大富豪というわけではなかったんだろうなとは思うんですけどね。
なるほど、前回のバティさんはすごい資産残してましたもんね。
この子とはちょっと違いますね。建国の父ではあるんですけどね、こういう人間らしい面もあったということですね。
なるほどです。
続きは次回お送りします。
28:21

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