歴史ということをこれまで何度も話をしてきましたけど、
あえてちょっと歴史書というところからの時に、
歴史書の代表的な本というのはしばせんが書いた式というものなんですけど、
このしばせんの式が非常に面白かったものの例が、
変年帯と起伝帯という書き方をしてて、
変年帯というのは変年、つまり年を追うごとに、いわゆる年表のようにものを語る。
何月何月何日あったというものに対して、起伝帯というものはある人にフォーカスを当てると。
その中で本義っていうのがあって、
本義っていうのは基本的に皇帝たちに話を当てていくんですけど、
それ以外に烈伝って言って、特徴的な人。
要は将軍であるとか大臣であるとか文学者とか、
そういった烈伝という起伝帯の中の烈伝というところで、
霊明記を少し語っていこうかなというふうに考えています。
理学療法士業界を語る上で、誰を語らなきゃいけないかって言われた時に、
ワンピースで言うと誰がゴールディーロジャーかと言われると、
僕は自分の師匠である奈良勲だと思っています。
田代さんたちの世代になってくると、奈良先生はちょっともう離れちゃいすぎてる感じですかね。
そうです。直接お話伺ったとかもないですけど、
それこそ伝説的に聞いてますね。
動物に関わってやってた話とか、奈良勲先生っていうのがおりまして、
みたいな話は聞いてるので、ぜひちょっと今回聞いてみたいなと思います。
自分は奈良勲の弟子として、師匠のいろいろな、特に年数とかはずらさずに、
今このラジオほぼ台本とかカンニングペーパー使ったことないですけど、
年数だけはちょっとカンニングペーパーを使って話させていただこうと思います。
奈良先生、皆さんがどんな方でご存知か分かりませんけれども、
一番特徴的なところで言うと、これまで日本の理学療法の中で、
いわゆる学校出たRPTと言われる人と、特例のPTがいるんだっていう話をしたと思います。
これ奈良先生の特徴的なのは、特例なんだけれども、
アメリカで理学療法士の資格を取ってきたということで、
登録番号外っていうまた別の免許を持っている人なんですね。
登録番号外1を持っている人になります。
なので免許を書き換えた最初の人になります。
奈良先生自身は1942年の生まれなので、
83歳の年齢になります。
もともとは鹿児島の生まれで、
鹿児島でずっと高校から棒高跳びをやってた、
棒高跳びの選手で、国体にも確か出てるような選手です。
スポーツの関係で鹿児島大学の教育学部に入って、
体育教科になるということでずっとスポーツをやられて、
鹿児島大学を出た後に、最初に本郷高校という高校の体育教員になります。
本郷高校の体育教員になりながらも、
死体不自由の子とか、あるいは身体に非常に興味を持ったということで、
これは新しい勉強をしなきゃいけないなというところで、
当時日本はまだ海外にそんなに開いていないので、
1964年に鹿児島大学を出ているので、
だからまだ今やっている万博の、一個前の万博の前、
ちょうど東京都オリンピックの最初の頃の時期の時に、
奨学金が出たんですね。
確かフルブライトの奨学金だったと思うんですけれども、
それをもらって留学をするということです。
ちなみに日本って戦後、海外に旅行に行ったりするということは基本できなかったんですね。
東京オリンピックをきっかけに、国民が外に旅行とか行けるようになった。
留学とかはできたらしいんですけれども、
なのでちょうどそういう外に日本が開き始めた頃に、
その奨学金をもらってアメリカのロサンゼルスにあるローマリンダ大学に留学したということになります。
なのでこれがまずのスタート地点なんですけど、
このままどんどん続けていってもいいですか。
そうですね。
なので時代背景的にも海外で学ぶみたいな結構先進的な取り組みというか、
周りでもなかなかなかったというところなので、
そういうところに飛び込んでいかれたという感じですね。
そうですね。
ローマリンダに行く最初のときは船で学ぶところに行かれたそうです。
だから今だったらロサンゼルスまで13時間かというのを毎日かけて船で移動する、
まだそういう時代の人です。
もちろん飛行機は飛んでたそうなんですけど、
船が面白そうだって言って、
今逆にロサンゼルスまで船で行こうというのは無理です。
貨物船に乗らなきゃいけないので。
だからまだ旅客船がその時代あったという時代ですね。
1969年にローマリンダ卒業して、
カルフォルニアでもしばらく働いていて、
カルフォルニアの理学療法士免許を持っているんですよ。
向こうで少し働かれて、日本に帰ってきて。
日本に帰ってきた時に、
まだ理学療法士の資格数も非常に少なかった。
かつアメリカの資格で、
大卒初PTなんですね。
もちろんどこかの大学を卒業した後に、
理学療法士になったという人はいたと思いますけど、
理学療法の学位を持っている唯一の人だったんですよ。
これはもう半分笑い話で、
要は奈良というのがアメリカから帰ってきたらいいぞ、
日本の理学療法士が。
奈良と喋ったら、すぐデルトイドがサーとか、
すぐゾレウスがサーとか。
あいつがくっつけがあって。
逆に奈良先生に、
今日さんに言うとスキンガッサル。
え?って言われる。
知らない。日本語の部位を知らない。
全部英語教育を受けているから、
全名も部位も全部英語で入っているんですよね。
なるほど。
かっこつけているんじゃないですか。
日本語を知らなかったという話もあります。
なるほど。
アメリカでずっといるというよりは、
日本に戻ってきたみたいなとこも、
理由があって戻ってきたみたいな感じですかね。
奨学金で1ヶ月、
おそらくビザとかの関係で、
実際アメリカでは1年弱かな、
働かれているはずですよね。
完全に日本向こうで働くとかっていうのは、
今のように制度上、
いろいろ違ったと思いますし、
日本の例明教というところで、
奨学金関係のものもあったんだと思うし、
ただ、奨学金はフルブライトなので、
アメリカからもらっているのかな。
ちょっとこの辺りすみません。
よく分かっていません。
分かりました。
あとその当時の日本で言うと、
大学というよりは専門学校みたいな形で、
整理学の方針なのが一般的な。
まだ専門学校が、
東京に清瀬ができて、
九州に九里派ができて、
あれよりも前じゃないかな。
関西で言うと、
金中と言われる学校ができる前だと思います。
学校が非常に少なかった時代に、