2025-10-08 38:24

#15-1 奈良勲列伝〜黎明期からの歴史的変遷〜

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堀 寛史

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田代雄斗

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サマリー

このエピソードでは、理学療法士界の黎明期における奈良勲の功績と歴史的変遷が語られています。奈良勲の特例PTとしてのキャリアや、その後の理学療法教育における役割を深掘りし、彼の影響が現在にどう繋がっているかを探ります。奈良勲の理学療法士としての歴史や活動を通じて、教育や学問の重要性を重視した取り組みが紹介されています。特に彼の14年間の会長職や、理学療法を学問として確立しようとした試みが強調されています。このエピソードでは、奈良先生の理学療法界における業績や影響力、特にWCPTへの日本の学会誘致や天皇陛下との面会が詳しく語られています。また、彼の功績が業界内での地位を確立させ、後の理学療法士たちに影響を与えたことについても触れられています。奈良先生の国際的な活動や影響力について議論され、特にメンタルヘルスの分野における功績が紹介されています。また、動物理学療法の発展や学問への真摯な向き合い方についても言及されています。

日本の理学療法の歴史
こんにちは、田代です。
こんにちは、堀です。
Advanced Therapistエピソード15本目ということで、
今回はですね、以前オンラインコミュニティ立ち上げたという話もしたんですけど、
その中でコメントというか意見をいただいたものもあるので、
その辺を取り上げていきたいなと思うんですけども、
いただいた意見としては、黎明期を築いたPTにとって大変だったことは何かとか、
それをどう乗り越えてきたかとかですね、
それの知見を今の社会環境でどう応用できるかみたいなことを質問をいただいたので、
改めて日本のPT界の歴史だったりとか、その中で活躍された方とかに
フォーカスを当ててお話できたらなと思っています。
よろしくお願いいたします。
奈良勲のキャリア
歴史ということをこれまで何度も話をしてきましたけど、
あえてちょっと歴史書というところからの時に、
歴史書の代表的な本というのはしばせんが書いた式というものなんですけど、
このしばせんの式が非常に面白かったものの例が、
変年帯と起伝帯という書き方をしてて、
変年帯というのは変年、つまり年を追うごとに、いわゆる年表のようにものを語る。
何月何月何日あったというものに対して、起伝帯というものはある人にフォーカスを当てると。
その中で本義っていうのがあって、
本義っていうのは基本的に皇帝たちに話を当てていくんですけど、
それ以外に烈伝って言って、特徴的な人。
要は将軍であるとか大臣であるとか文学者とか、
そういった烈伝という起伝帯の中の烈伝というところで、
霊明記を少し語っていこうかなというふうに考えています。
理学療法士業界を語る上で、誰を語らなきゃいけないかって言われた時に、
ワンピースで言うと誰がゴールディーロジャーかと言われると、
僕は自分の師匠である奈良勲だと思っています。
田代さんたちの世代になってくると、奈良先生はちょっともう離れちゃいすぎてる感じですかね。
そうです。直接お話伺ったとかもないですけど、
それこそ伝説的に聞いてますね。
動物に関わってやってた話とか、奈良勲先生っていうのがおりまして、
みたいな話は聞いてるので、ぜひちょっと今回聞いてみたいなと思います。
自分は奈良勲の弟子として、師匠のいろいろな、特に年数とかはずらさずに、
今このラジオほぼ台本とかカンニングペーパー使ったことないですけど、
年数だけはちょっとカンニングペーパーを使って話させていただこうと思います。
奈良先生、皆さんがどんな方でご存知か分かりませんけれども、
一番特徴的なところで言うと、これまで日本の理学療法の中で、
いわゆる学校出たRPTと言われる人と、特例のPTがいるんだっていう話をしたと思います。
これ奈良先生の特徴的なのは、特例なんだけれども、
アメリカで理学療法士の資格を取ってきたということで、
登録番号外っていうまた別の免許を持っている人なんですね。
登録番号外1を持っている人になります。
なので免許を書き換えた最初の人になります。
奈良先生自身は1942年の生まれなので、
83歳の年齢になります。
もともとは鹿児島の生まれで、
鹿児島でずっと高校から棒高跳びをやってた、
棒高跳びの選手で、国体にも確か出てるような選手です。
スポーツの関係で鹿児島大学の教育学部に入って、
体育教科になるということでずっとスポーツをやられて、
鹿児島大学を出た後に、最初に本郷高校という高校の体育教員になります。
本郷高校の体育教員になりながらも、
死体不自由の子とか、あるいは身体に非常に興味を持ったということで、
これは新しい勉強をしなきゃいけないなというところで、
当時日本はまだ海外にそんなに開いていないので、
1964年に鹿児島大学を出ているので、
だからまだ今やっている万博の、一個前の万博の前、
ちょうど東京都オリンピックの最初の頃の時期の時に、
奨学金が出たんですね。
確かフルブライトの奨学金だったと思うんですけれども、
それをもらって留学をするということです。
ちなみに日本って戦後、海外に旅行に行ったりするということは基本できなかったんですね。
東京オリンピックをきっかけに、国民が外に旅行とか行けるようになった。
留学とかはできたらしいんですけれども、
なのでちょうどそういう外に日本が開き始めた頃に、
その奨学金をもらってアメリカのロサンゼルスにあるローマリンダ大学に留学したということになります。
なのでこれがまずのスタート地点なんですけど、
このままどんどん続けていってもいいですか。
そうですね。
なので時代背景的にも海外で学ぶみたいな結構先進的な取り組みというか、
周りでもなかなかなかったというところなので、
そういうところに飛び込んでいかれたという感じですね。
そうですね。
ローマリンダに行く最初のときは船で学ぶところに行かれたそうです。
だから今だったらロサンゼルスまで13時間かというのを毎日かけて船で移動する、
まだそういう時代の人です。
もちろん飛行機は飛んでたそうなんですけど、
船が面白そうだって言って、
今逆にロサンゼルスまで船で行こうというのは無理です。
貨物船に乗らなきゃいけないので。
だからまだ旅客船がその時代あったという時代ですね。
1969年にローマリンダ卒業して、
カルフォルニアでもしばらく働いていて、
カルフォルニアの理学療法士免許を持っているんですよ。
向こうで少し働かれて、日本に帰ってきて。
日本に帰ってきた時に、
まだ理学療法士の資格数も非常に少なかった。
かつアメリカの資格で、
大卒初PTなんですね。
もちろんどこかの大学を卒業した後に、
理学療法士になったという人はいたと思いますけど、
理学療法の学位を持っている唯一の人だったんですよ。
これはもう半分笑い話で、
要は奈良というのがアメリカから帰ってきたらいいぞ、
日本の理学療法士が。
奈良と喋ったら、すぐデルトイドがサーとか、
すぐゾレウスがサーとか。
あいつがくっつけがあって。
逆に奈良先生に、
今日さんに言うとスキンガッサル。
え?って言われる。
知らない。日本語の部位を知らない。
全部英語教育を受けているから、
全名も部位も全部英語で入っているんですよね。
なるほど。
かっこつけているんじゃないですか。
日本語を知らなかったという話もあります。
なるほど。
アメリカでずっといるというよりは、
日本に戻ってきたみたいなとこも、
理由があって戻ってきたみたいな感じですかね。
奨学金で1ヶ月、
おそらくビザとかの関係で、
実際アメリカでは1年弱かな、
働かれているはずですよね。
完全に日本向こうで働くとかっていうのは、
今のように制度上、
いろいろ違ったと思いますし、
日本の例明教というところで、
奨学金関係のものもあったんだと思うし、
ただ、奨学金はフルブライトなので、
アメリカからもらっているのかな。
ちょっとこの辺りすみません。
よく分かっていません。
分かりました。
あとその当時の日本で言うと、
大学というよりは専門学校みたいな形で、
整理学の方針なのが一般的な。
まだ専門学校が、
東京に清瀬ができて、
九州に九里派ができて、
あれよりも前じゃないかな。
関西で言うと、
金中と言われる学校ができる前だと思います。
学校が非常に少なかった時代に、
理学療法の教育改革
海外で取ってきたので、
と言えば超特殊です。
そうですよね。
日本に理学療法士として帰ってきて、
いきなり主任ですから。
いろいろ難しそうですね。
ですよね。
かなり早い段階で、
国家試験委員もやっていました。
20代で国家試験委員をやったって言ってましたよ。
昔、ご存知の方が少ないと思いますけど、
国家試験って実技テストがあったんですね。
その実技テストの試験官は、
上田斌さん。
理学療法、リハビリテーションの父みたいな。
と一緒に並んでやってたって言ってました。
だんだん国家試験で、
高等指紋に飽きてくるらしいんですね。
実技試験高等指紋で。
突然、鉄砲を手で使ってバーンってやって、
今使った筋肉全部答えて。
そんな問題があったらしいですね。
なかなかクレイジーですね。
なかなかクレイジーでした。
それがやっぱり習い竿の良さですね。
伝説が多いですから。
そうやって、理学療法士になって、
今度理学療法士っていうのが、
最初に労働省管轄で学校ができたもんですから、
文科省教育をしなきゃいけないだろうという動きで、
1979年に金沢大学の議議談ができるんですね。
その時に、日本人として最初に理学療法士の、
要はティーチングの教員、助教授として配置されています。
これはだから他の人たちは助習とかですよね。
要は学位も持ってないので。
その段階から、
勉強されてるんですけど、
これもかなり早い段階。
1983年の段階で医学博士を取ってますので、
とにかく全部最先端でいって、
そして今度1993年に広島大学、
日本初の4年生大学の教授としていって、
2004年に研究科ができて、それの教授。
なので文科省教育の流れは全部、
奈良先生が主導して作っているということになります。
医学博士と言われてました。
そうです。なので金沢大学の教員をやりながら、
金沢大学の博士課程で医学博士を取っているということです。
ここから金沢から広島みたいなところは、
その間には特に挟まずに、もうそちらに行かれている。
金沢大学にしばらくいて、
そこから広大が4年生になるよっていう、
日本で最初に4年生大学を作るよって言った時に、
教授ができる人が奈良先生しかいないわけです。
だから奈良先生が行ったってことです。
そこでまた広島が最初にみたいなところっていうのは、
何か理由があったんですかね。
ここはなかなか難しくて、
まず東大に作れなかったっていうのが一つあるんですね。
あとは旧大に作れなかったっていうのもあるんですよ。
この2つの流れで、いわゆる旧邸に4大を作るっていうところが、
金沢も旧邸ではない、旧正高校ではありますけれども、
旧正四校ですね、四校です。
四校って言ったら怒られるんですけど、
四校って言わなきゃいけないんですけど。
旧正四校で伝統がある大学でありますけれども、
旧邸の中でそういった動きができなかったっていうのは事実あると思います。
本来は東大に作って東大でやるっていうのが筋なんですよね。
ただ理学療法の教育っていうのは東大を中心に動いていけなくて、
今もそれができていないという状況です。
それで広大で作るよって、
これは何で広大だったかっていうのはちょっとすいません、
聞いてみないと分かんないんですけど、
何かどっかで聞いた気もするんですが、
すいません、はっきり覚えてないです。
ありがとうございます。
そうですね、でもそれもまた一つ新しく切り開かれたっていうような感じですし、
もういろいろ本当に最先端を突っ走っておられるっていう感じだと思うんですけど、
何か他に先を行く取り組みっていうと何かあったりするんですか。
奈良勲の歴史的背景
日本の理学療法士の資格っていうのを1974年に取ってられるんですね。
その日本には1971年には帰ってきてるんですけど、
厳密には3年間ぐらい日本の資格を持たずに仕事されてるんですよね。
その間にすでに日本理学療法士協会の理事をされてます。
20代後半ぐらいから日本理学療法士協会の理事をされて、
1989年から2003年までかなり長い期間、14年間の会長を務められてます。
なるほど、もう幕末みたいですね。
当時清瀬とか九里派とかが強かった時代に完全にスタンドアローンなんですよね。
学抜がない、そのスタンドアローンの人が会長になるというすごさですね。
なるほど、その広大で4年制をとかっていうのと、
理学療法士協会の中での活動みたいなところはどう繋がってくるというか。
なのでしばらく金沢でずっとやれていて、
会長になったのが89年で、広大の教授になったのが93年なので、
会長の途中に移動してるってことです。
なるほどですね。
ちなみに自分が生まれたのが89年なんで。
じゃあまさにその時代の。
奈良先生自身は先ほどから言うスタンドアローンなので、
理事であって強かったんだけど、
やっぱり会長っていうことに関しては、
敵対勢力とかがいっぱい多かったらしいですね。
89年の会長選挙っていうのは、
どなたか出られたかちょっと分からないですけど、
九里派勢対奈良勢だったらしいですね。
で、その九里派勢のところの、要は特攻隊長。
一番奈良先生に文句を言って、奈良先生に攻撃を仕掛けたのが、
半田先生だって言ってました。
その後の後の会長ですよね。
半田先生は男気のある方だから、
自分が支えてる人をどうにか当選させないといけないということで、
奈良先生を、実際殴るとかじゃないですよ。
そういった正論で攻撃して、
奈良先生が勝った後に、
奈良先生が一番最初に何をしたかというと、
半田先生のところに行って、俺の下で働け。
そこから半田先生と奈良先生の厚い信頼関係が始まるんですよ。
やっぱり奈良勲ってそういう人なんですよ。
ドラマとか映画の世界みたいな。
本当ですよ。
僕らある程度年を取ってる世代の中で、
伝説のスピーチっていうのがあって、
九里派勢がやっぱり強いわけですよ。
学校を持ってるから。
九里派勢が強い中で、
最後会長選のスピーチの中で、
奈良先生が劣勢を引き返したのが最後に、
私は理学療法を愛してます。
って言ってスピーチを終えたんですよね。
それで拍手・喝采が起きて、
それで票がひっくり返ったみたいな、
そういう話は聞いたことがあります。
心が動く。
そうなんですよ。やっぱりそういう何かを持ってる。
実際そこから14年間、
理学療法士協会の会長をされ、
理学療法の学問化
奈良先生の大きな功績は、
理学療法を学に、学問に変えた方ですね。
現状の日本理学療法士協会というのも、
職能に対する仕事が一番ですけれども、
それだけではなくて、
やはり学問にしなければならない。
というところで、理学療法を学にしましょうというのを、
これは金沢の大学の時代に、
金沢で学会を開催された時の
そのテーマにされてますね。
理学療法を学にという形で。
やっぱり目線が非常に、
ちゃんと先を見られている方だというところになります。
なるほど。
職人としての手に職をというだけじゃなくて、
学問としても、
ちゃんと積み重ねていくことが、
日本だけじゃなくて、
グローバルの中でも認める存在になるだろうとか、
そういう理由でというところですかね。
そうですね。
特に理学療法士って、
特例のマッサージ、
アンママッサージ、
ハリキー神経の人たちが多かったというのもあって、
非常に技術寄りだったわけですね。
技術ももちろん重要であるが、
これはやっぱり医学的リハビリテーションなんだと。
リハビリテーションというものは、
今でいうと、
患者さんの参加、パーティスペーションの部分までに、
関わっていくという、
一連の人間としての学問、
そして同時に科学としての学問として、
扱っていかなきゃいけないということで、
理学療法学を作らなきゃいけないと。
教育的アプローチの変化
それまでは医学の中の一分野なんですよ。
そうではなくて、
理学療法学っていう、
例えば看護学があるように、
理学療法学っていうのを作らなきゃいけないということで、
理学療法学を作られたということですね。
なるほどですね。
ちょっと話戻るんですけど、
教会の会長の選挙の仕方とかっていうのは、
その当時とまた現代と違ってきてる?
全く違います。
全く違います。
昔はちょっと、
奈良先生の時がどうだったかっていうのは、
もしかしたらちょっとそごうがあるかもしれませんけど、
大体毎年、
日本理学療法士協会の学会を、
大体5月ぐらいに大きな学会をやるんですよ。
全国学会というのを。
その時に総会をやって、
参加者が手挙げで票を入れるという感じです。
そこにいた参加者が。
そうです。
手挙げもしくは票を入れるという形で、
直接選挙だったんですよね。
昔は。
ちょっと前までも、
それでやってたはずなんですよ。
だけれども、
今は代議院選、
現代の日本理学療法士協会は代議院選を取っているので、
そのやり方はもう変わっちゃいましたし、
ネット投票になってますけど、
昔は手入れの、
日本理学療法士協会は手入れの投票です。
なるほどですね。
それで、
理学療法、理学療法学院とかというと、
その学会の立ち上げとか、
その辺りも結構よく動かれたという感じなんですか。
そうですね。
だから、正確な意味で、
その学会化ってなってくると、
あの、
1900、
いや、2018年かな、
の学会連合化まで待たなきゃいけないんですけども、
その日本理学療法士協会っていうのが、
日本学術会として、
教会の中に、
ちゃんと入っていけるように、
されたはずです。
なるほど。
だから、教会という形なんだけど、
学会も、
インクルードしているということですね。
うんうん。
ここまで、でも本当に、
いろいろ切り開いて来られたりしているのは、
よく伝わってくるんですけど、
その中での、
苦労話とかも聞きたいみたいな、
ポイントに出てくる部分があるので、
大変だった話とか、
その伝説的な話とかでもいいんですけど、
エピソードなんかあれば、
聞いてみたいな。
伝説的な話で、
これはもうだから、
自己ですし、
ご本人もいろいろなとこで話されているから、
許されると思うんですけども、
金沢大学時代はね、
めちゃくちゃスパルタ先生で、
授業は市内を持って行くっていう、
もともと大教員なので、
市内を持ってて、
寝てたりしたら市内で叩くっていう。
で、その時代の学生もまた、
そんなこと言うんだったら、
俺と決闘しろと。
で、決闘場を渡されて、
柔道場かな、剣道場かな、
で、ボクシング対決をして、
学生をノックアウトしてた。
すごい時代ですね。
すごい時代ですよね。
だからそういう、
その人たちが、
奈良信者になっていったりとかっていう。
未だに、
ちょっと前に一緒に、
そのお仕事をした、
ある大学の教授の先生が、
小沢大学の一期生で、
寝てる時に、
ぶん殴られて、
眼鏡が弾け飛んだらしい。
なるほど。
でもまあ、
それも医学療法を愛してますというか、
愛があるからこそ、
ちゃんと指導もしなきゃとか。
今だったら絶対ダメなんだけど、
当時っていうのは、
それが愛の形っていう、
ミーシャみたいになってますけど、
愛の形だったということで、
許されて、
わざわざ訴えようとか、
そういう気持ちはもちろんない。
やっぱりその時代、
教育っていうのがそうであったし、
実際にその特に、
文科省教育で、
医学療法を受け入れるっていうのは、
神奈川だけだったわけですから、
一種の誇りがあるわけですよね。
そういったところで、
指導しているっていうところもありますし、
苦労話、
あんまりね、
俺は苦労したとかっていうことは、
言わないんですけども、
何て言うんかな、
信じられないくらい真面目な方なんですね。
だから書き物に対して、
に対する情熱がものすごいんですよ。
ご自身の書いてる文章ってのも、
ものすごい量あるんですよ。
で、
例えば、
あんだけの量を書いてたら、
ゴーストライターがいたりだとか、
自分の下の人間にやらせるんやろ、
っていう風に思うんだけど、
先生全部ご自分でやられるんですよ。
本を一緒に筆筆させていただいたりとかすると、
編集は全部、
奈良先生が一言一句やります。
だからそういう、
仕事に対する集中力と情熱っていうのが、
ものすごい強い方だから、
逆に言うと、
めちゃくちゃ厳しいです、文章とかには。
バッカッカになります。
僕らはチミ泥変身って言うんですけど、
まだチミ泥になって帰ってきたって言って、
いつになったら、
しかもチミ泥だけじゃなくて、
よく言うと指導が抱えてます。
ある意味言うと文句が出てます。
なるほど。
堀井先生と奈良先生で言うと、
いつ頃からの?
僕自身は最後の弟子あたりなので、
2010年前後なんですよ。
だから、
いわゆる奈良先生が、
広大行って、
その後に神戸学院大学に行って、
金城大学の学長になられた頃の、
関係です。
なるほど。
奈良先生の背景と派閥の影響
その関係性としては、
それからっていう感じですけど、
奈良先生と関わっていくと、
それ以前にも関わられた弟子みたいな方とも、
よく交流する機会があったって感じですね。
そうですね。
僕自身、
いわゆる派閥というものを全く持たない人間で、
結構、
理学療法業界って、
学閥とか派閥とかっていうのが、
やっぱりあるんですね。
それをはっきりと言う人はいるかもしれませんが、
僕自身は、
外から見ると、
そういった派閥があると。
その派閥に入らないっていうのが、
僕の特徴だったので、
ただ、
血筋を見るとどういう血筋かって言ったら、
奈良一般に入れてもらってるっていうことなので、
奈良塾というか、
奈良塾の塾生みたいな感じで、
奈良先生にお世話になった人たちっていうのが、
WCPTと学会の成功
結構、
集まったりとかすると、
奈良先生の話をしたり、
奈良先生を囲んで、
飲み会をしたりします。
なるほど。
奈良先生が会長をやられてたっていうのは、
いつまで?
えっとですね、
2003年までです。
うーん。
そうだ、奈良先生の大きな仕事の中の一つで、
えっと、
日本人で初めて、
当時WCPTですね、
世界理学療法連盟の理事になられて、
日本に、
学会を持ってきました。
それが1999年ですね。
1990年に、
1999年に、
横浜のパシフィコで、
えっと、
大きな学会をやり遂げた人です。
うーん。
今、例えば、
今年WPTの東京大会がありましたけど、
あれは、
WPTが運営するんですね。
だから、
日本がめちゃくちゃ頑張らなきゃいけない、
というわけではなくて、
もちろんそれは開催国なので、
いろいろやりますけれども、
WPTは、
日本が全部準備しなきゃいけないんですよ。
だから、すごい大変だったし、
ただ、あとは参加者をいろいろ
集めたいということで、
割引を、
教会が結構お金持って割引いたりだとか、
それで、
当時まだ理学療法士が
2万人ぐらいしかいなかったのに、
5千人ぐらい来たらしいですね。
うーん。
だから、もう本当にパーセンテージでいうと、
とんでもない人数、
来たという。
全国研修会と全国学会、
全部3つ合わせてやったので、
うーん。
だから、1週間やったらしいです。
1週間で5千人。
当時でいうと、
そんなインターネットで簡単に連絡取ってるとか、
難しいっていうと、
手紙送ったりとか、
実際に足を込んだりとかする中で、
人を集めたりとか、
やり取りしてたみたいな。
そうですよ。
もう本当にまず、
携帯電話もまだそんなに普及していない時代ですし、
なんとなく使ってないです。
PUBGとかがまだ持ってた時代ですよね。
人によってはまだポケベルを持ってたような時代。
うーん。
で、インターネットをやっているっていうのは、
1999年なので、
Windows 95、Windows 98といって、
天皇陛下との接見
ちょっと発展はしてたんですけども、
実際にインターネットが結構復旧していくのは、
iMacとかが出てこないとダメな時代なので、
うーん。
それの前の時代ですよね。
なるほど。
だから、その時代に僕ら理学療法士が
情報を集めようと思うと、
各都道府県市会の会報と、
あと日本理学療法士協会からの会報が
情報源なんですよね。
なるほど。
で、1999年、実は僕が理学療法士になった年で、
うーん。
ただ、僕はなって1ヶ月後に学会があったから、
参加できてないんですよ。
うーん。
今考えれば、どうやってでも行けばよかったと思って。
うーん。
そうですよね。
結構、奈良先生がその、
もの書きとかにこだわりもあられたっていう感じだった。
その、会報士の、
中身とか、発信の仕方みたいなところも
こう、結構変えられたところもあったりするんですか?
ああ、どうなんでしょう。
その、奈良先生はご自身でちゃんと文章を書いて、
やっぱり、こう、会長からの発信は
相当しっかりとされてたと思っております。
うーん。
あ、すいません。学会のところで
この話を絶対しなきゃいけないのが、
えっと、
日本理学療法士協会としてすごかったのは、
天皇陛下が、
うーん。
あの、ご参加いただいたんですね。
うーん。
で、当時、今のルールはちょっと分からないですけど、
日本に来る、
その、国際学会の中で
一つだけ参加するっていう
ルールがあるらしいですね。
うーん。
で、その時に、日本理学療法士協会の
くじを引き当てたらしいんですよ。
へー。
だから、奈良先生持ってるんですよ。
もう、それは、何ですかね、こう、
コネクションからの手とか、
そんな、運要素が。
そういうのは一切できないらしいんですよ。
くじ引きというか、それを、
自民党なんとかからとか。
はいはい。
でも、その当時は、
くじ引きで、日本理学療法士協会を
引き当ててくださって、
そこから、だから、2、3回皇居に行って、
えっけんしてるはずです。
へー。
で、陛下と道子様の前で、
あの、プレゼンをして。
で、その時に、道子様の
どんな質問かはちょっと覚えてないんですけど、
奈良先生が答えられないような
めちゃくちゃ鋭い質問をされたらしくて、
へー。
言われなくて。
それもすごい。
どんだけ事前に、陛下が
その理学療法とかのことに関して、
ちゃんと学習されて、
それで、えっけんするらしいんですね。
へー。
で、あとはやっぱり当日、
周辺のセキュリティーがやっぱり
200人くらい来ますので、
それで守られて、で、
陛下の車がお好きになったら、
奈良先生がエスコートして、
スタッフルームにお連れしていくと。
すごい経験ですね。
で、その奈良先生が驚いたのは、
スタッフルームで休憩してたら、
みちこ様がひょこっと入って来られて、
私の弁当ありますか?って言われた。
で、
あーどうぞって言って、
別にみちこ様用の弁当ではないんだけど、
みんなでみちこ様とご飯食べたらしいです。
へー。
すごいですね。
めちゃくちゃ気さくらしくて、
すごい、だからそれはね、
喋れなかったって言ってましたね。
うーん。
喋れないですよね。
で、奈良先生はそこで、
その天皇陛下、
みちこ様に何度かお会いした後、
助訓されるんですね。
これちょっと助訓の年数、
忘れちゃったんですけども、
要は、
あ、2016年だ。
に、極実賞獣賞っていう、
助訓をされます。
いわゆる勲章をもらう。
なのでもう一度、陛下に越見してます。
うーん。
いやー。
だから最も理学良好して、
うーん。
理学良好司会でも特別、
かなと思いますけど、
医療の中でも、
そういう人っているんですかね。
うーん。
まあ、もちろん、
例えば、陛下の担当医とかですね。
うーん。
その、区内庁関係でとかやったら、
別でしょうけど、
そうじゃない関連で、
それだけ越見できる人、
直接お話しできる人っていうのは、
相当少ないんだろうなと、
陛下の方針の中で、
助訓してる人は何人かいるんですね。
うーん。
例えばこの、極実賞獣賞っていうのと、
あとは、支持報奨、
応助報奨か、をもらったり、
あるいはその、ボランティアとかをされて、
支持報奨をもらったりとかっていう方も、
おられると思いますけれども、
少ないのは少ないです。
うーん。
それは、特にこの功績が認められてとか、
全体的にっていう感じですかね。
これはね、結構、
各種団体に推薦ありませんか、
って言われるらしいんですね。
うーん。
それで、日本理学療法使教会から、
奈良先生を推薦したという話です。
で、奈良先生が唯一持っていないのが、
都道府県関係の賞を持ってないらしいんですね。
うーん。
それはなぜかって言ったら、
結構早い段階で、
厚生大臣賞をもらっちゃったんですよ。
厚生大臣賞をもらったら、
それよりも下の賞って取れないらしいんですね。
へー。
だから、1996年に、
厚生大臣賞をもらったので、
その後、
いや、なんか、
都道府県賞もらってないんだよな。
いや、県知事賞か。
県知事賞もらったら、
知事賞もらってないって言って。
だから、もらえる賞もとりあえず、
まあまあ、
いわゆる勲賞まで取った人なので。
うーん。
もう、都道府県とか、
今更みたいな感じになっちゃう。
そうなんですよ。
だから、これは、
うーん。
まあ、本当にこう、
歴史的な大改革をしないとって感じなんですかね。
だから、理学療法士という職業が、
やっぱり黎明期。
本当に立ち上げたところの人なので、
今はどちらかというと安定期なので、
安定期で、
例えばですよ、
誰かが国会議員になって、
国会議員で何期やった、
となると勲賞をもらえるんですよ。
そういう形ではいけるけど、
うーん。
本当ですね。
今回はなので、
奈良伊沢列伝みたいな感じになったわけですけど、
うーん。
他にこういう風にまとめると、
こういう方も思い浮かぶなとか、
まだこう、もしこう、
なんですかね、
ひとつのストーリーとして、
奈良伊沢さんのものをまとめるというと、
ちょっと抜け落ちてるなみたいな部分ってあったりしますか。
奈良先生のお仕事で抜け落ちてるのは何かなあ。
まあ、
動物理学療法もそうですし、
うーん。
ウインメンゼヘルは必要あるのかな。
精神心理もそうですけど、
うーん。
奈良先生がきっかけで結構動いてます。
うーん。
だから何か大きなことをやろうとしたときに、
奈良先生の国際的影響
奈良伊沢が動くっていう形のことが多いんですよね。
うーん。
あとはそのやっぱり、
国際学会に行くと、
奈良先生すごい人気があって、
うーん。
奈良先生の前に各国の人たちが
集まって、
奈良先生が太鼓を叩いてみんなで踊るとか、
そういうタイプの人なんですよ。
なるほど。
結構気さくな感じなんですかね。
結構どころか、
人見知りって奈良先生するんですか?
っていうぐらいの人です。
うーん。
だから奈良先生は直接そういうかどうかわかりませんけど、
人見知りしたら損しかないじゃないか、
みたいな感じだと思います。
うーん。なるほど。
日本の中での活動は
そんな感じだったりとか、
国際学会に行って
っていうのもあると思いますけど、
こう、活動されてる間でまた海外の方に行って、
何かこう、
アメリカの方とか、
現地で何か活動してるみたいなのも
あったりするんですか?
いや、もう基本的に主軸は日本で、
ただ先ほどちらっと言いましたけど、
WCPTの理事は8年間、
2期8年間されてますので、
国際学会にはずーっと行かれてるという
感じです。
でもなんかね、
ローマリンダーの賞ももらってるので、
その連携は持ってたのかもしれないです。
うーん。
そうですね。
その海外の繋がりとかを活かして、
今でもこう、
なんですかね、
日本のPTの方で海外と繋がってる方も
比較的多いかなと思いますけど、
どうなんだろう?
いや、でもそうだと思います。
奈良先生について
いろいろな人に紹介してもらって、
話が動いてるっていうケースは
すごく多いと思います。
うんうん。
奈良知ってるよっていう感じで
話しかけられると。
日本から奈良知ってるよとか
っていう感じで、
重要な本当にハブになってた人だと思います。
うんうん。
堀先生のメンタルヘルス関連で
国際的な活動するみたいなところも
奈良先生きっかけでみたいな。
そうですね。
今はもうメンタルヘルスのメンバーも
だいぶ変わってきちゃってるから、
奈良先生のことは知らないかもしれませんけど、
動物理学療法の発展
その奈良先生が育てた
山本大生っていう
僕の兄弟子がいるんですけど、
その兄弟子が今
メンタルヘルスは有名です。
なるほどですね。
さっき動物みたいな話もありましたけど、
そこは活動がつながってるところも
あったりはするんですか?
なので、動物理学療法学会かな
を作ったはずなので、
今、日本の二重学会の中には
入っていないんですけども、
それの下部かなみたいな形で
動物理学療法っていう分野があるんですけど、
それも奈良先生が
やらなきゃいけないんです。
あとはそれよりも、
僕がやっている
日本理学療法哲学倫理学会の
初代世話人代表なので、
その哲学倫理もやらなきゃいけない
っていう形で立ち上げて、
そして、
理学療法概論っていう
医師学のベストセラーがあるんですけども、
それの最初は
必ず哲学から入るっていう、
非常に学問というものを
真摯に向き合って、
必ず人とは何か、
理学療法とは何かっていうところから
スタートして、
その中でどうやって人と
携わるかっていうのを捉える人ですね。
なるほどですね。
最近も堀先生と
お話しされる機会もあったりするんですか?
そうですね。
最近ちょっとさすがにね、
元気がなくなってこられて、
メールが来たり、
電話したりとかっていう感じです。
なるほどですね。
あとは、
また詳しい話は後半になるかもしれないですけど、
未来、
あった方がいいとか、
その辺の話もできたらいいかなと思います。
そうですね。
奈良の功績を僕らが
どういうふうに受けているのか
たちをちょっと拾っていきましょうか。
そうですね。
なので、また最近だと堀先生対話に行かれたり、
他もありましたし、
今の状況を見たら、
奈良先生だったら何を思って、
どう行動されるのかなみたいなことも
気になりますし。
堀先生がどう考えるかとか、
奈良先生がどう考えているかというのは聞いているので。
はいはいはい。
そうですね。
その辺も踏まえて、
実際に何ができるかみたいなことは
話していけるといいですかね。
はい。
はい。
じゃあ、今回は奈良伊沢烈伝という感じで、
ちょっと歴史を振り返りながら
喋ってみました。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
38:24

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