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2025-06-20 24:46

ピネルの青春と転機:革命前夜の多才な知性 #6

「現代精神医学の父」フィリップ・ピネルの青年期からビセートル病院赴任直前までをたどります。神学から医学へと進み、数学や動物学にも通じた彼は、フランス革命の動乱の中、精神医療に目を向け始めます。多才な知性と友情、そして悲しみが、彼を改革の道へと導いていく――。次回、いよいよ「鎖を解く」実践が始まります。


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Summary

フィリップ・ピネルの生涯を振り返り、彼が精神医学の創始者となった経緯を探ります。彼の教育背景や多才な知識、友人との出会い、特にシャプタルとの関係が彼のキャリアに与えた影響についても語られます。ピネルはフランス革命前夜にさまざまな学問に興味を持ち、精神科医としての活動を進めています。フランス革命は彼の人生に大きな影響を与え、結婚や新たな職場での出会いを通じて重要な転機を迎えます。

ピネルの生い立ち
精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。この番組では、精神科医療を作った人々、現在のトピックスを精神科医が解説します。
精神科専門医30年、医学博士で現在、開業医のマリモと、
その姉で、障害を持ちの方の就労支援事業所を経営していて、つい先日、初孫を抱っこしすぎて腕が筋肉痛になった桜がお送りします。
フィリップ・ピネルが鎖を取る物語。その第6回として、ピネルは鎖を解く物語の現実です。
これはどういう内容になっていくのでしょうか。
ありがとうございます。ようやくピネルさんまでたどり着きました。
たどり着きましたね。
イギリスのバティさんと、アメリカのラッシュさんというのを前々回、もうちょっと前にやりましたけれども、
フランスの有名なピネルさんというのを実際に話をしていこうかなと思います。
現代精神医学の創始者と言われるピネルさんというのは、どんな人生を歩んで、どんなふうに精神医学と関わって、
いわゆる創始者になったのかということを具体的に見ていきたいなと思います。
創始者だからずいぶん立派なことをされたって感じですよね。
そんなふうに神話的にはなっているんですけど、実際どのくらいなものなのかなというのを、
私たちの現代の視点から見ていったらどうかなというところなんですけどね。
実際にピネルさんの生涯を振り返っていきたいと思います。
ピネルさんは、1745年の4月20日にフランスのタルヌ県のサンタンドレというちっちゃな村に生まれます。
今で言ったらどこなんでしょうね。
同じところありますわ。タルヌ県というところとサンタンドレというのは調べたらあって、
めっちゃちっちゃい村というといいのかなと思うんですけどね。
数万人というか、万いるのかな、村というといいのかな、そのくらいの現在は村みたいです。
フランスの南のほうですね。スペイン寄りの山の中の村みたいです。
この1745年というのは、ラッシュが北米でフラデルフィアで活躍したラッシュが生まれた年の1年早いんですね。
バティさんがロンドンで生まれたときの47歳後ということなので、ラッシュと同じ年代の方ですね。
同年代の方なんですね。
ほぼ同年代です。
お父さんは村の外科医ということで、医者が内科医と外科医がいてて、外科医の方は師匠について伝承されていくと。
内科医の方は大学で勉強してということを言ったと思うんですけど、
このピネルのお父さんというのは外科医で、師匠について外科医になったという村の外科医の先生ですね。
お母さんが地域の一応名科の娘さんだったとされています。
実はピネルにも兄弟がいてたらしくて、その人たちは外科医になったと言われています。
みんな外科医なんですね。
詳しい話は分からないんですけどね。
ただちょうどこのぐらいの時期に外科医の師匠から伝承されて、職人みたいに外科医がなっていたのが、
中央集権で大学とかで勉強して免許を与えて、国が免許を与えるようなお医者さんになった方がいいんじゃないかという動きがあって、
多分ピネルが生まれて数年たってそういう改革が始まっているんですよね。
だから外科医というのが、お父さんの代というのは多分その師匠から受け継いだ外科医というのをやっていたと思うんですけど、
ピネルの兄弟が外科医になったのはなったんだと思うんですけど、それはもう多分大学出て外科医になったんだろうなって思うんですけどね。
ちょうど変革の時期ですね。
教育と友情
なるほど。
ピネル自身はどうだったかというと、実は医者には始めはなりませんでした。
そうなんですか。
そうなんです。
お父さんが議会にも関わらず、本人はトゥールーズ大学という神の学ですね。そこで入学します。21歳の時にね。
はい。
マジの神学を勉強しようとしていたらしくて、生殖候補生として入学したという記載がありました。
髪の毛を剃ってですね、本当に生殖者としても勤めるという感じになるんですが、
ただ初めはそこで入るんですけど、4年後ですね、医学部の方に編入すると、トゥールーズ大学でね。
同じ大学で。
同じ大学で。
これがよく分からないんですけど、なぜか医学部の方になって、
そこからまた3年後ですね、同じ大学の医学博士を取ったという記載がありました。
だから初めは神様の学を学んでたんですけど、大学で医学の方に方向転換することになるんですね。
ご家族がみんな下界やったらね、気にはなるでしょうね。
そうですね。
医学博士でトゥールーズ大学というところでなるんですけど、実はもう一個大学に行くんですよ。
モンペリエ大学というところに移ります。
トゥールーズ大学よりもモンペリエ大学という方が大きくて、医学部では有名な大学です。
そこの医学部に入学して、医学をもうちょっと勉強するんですね、このピネルはね。
そこで結局5年ぐらいですね、トゥールーズ大学で医学士として勉強するんですかね。
博士号はトゥールーズ大学で取っているから、でも医学の勉強を28歳から23歳ぐらいまで続けることになるんだと思うんですけど、
勉強熱心なやっぱり先生ですよね。
そうですよね。もう出てくる先生、やっぱりみんな勉強好きですよね。
そうですね。この時代の偉い人らはやっぱりそういう賢いですよね。やっぱり勉強を頑張っているという感じだと思いますね。
そうですね。
ここでピネルにとって大切な出会いがありました。モンペリエ大学の医学部の時にね。
だいたい10歳ぐらい年下の医学部生ですね、ジャン・アントワーヌ・シャプタルさんというのと出会います。
このシャプタルさんというのは後にですね、ピネルさんの人生に大きく関わるというか、フランスの非常に大きな関わりが出てくる人なんですけど、
ピネルとシャプタルがここで出会って結構仲良くなって勉強を教えるんですかね。
多分10歳年上にピネルの方がなるので、シャプタルに教えるみたいな感じだったと思うんですけどね。
なるほど。
なんかそのシャプタルにヒポクラテスとかモンテスキューとか、そういう古典学のですね、文学というか物語、その方が書いたような書物をしっかり読むようにというようなこととかやってるんですね。
この時代の医学問をですね、2人で極めたというか、ピネルは多分寝ずと勉強してたと思うんですけれども、シャプタルにも影響を与えたと言っています。
ちなみにこのシャプタルさんというのは、後々ピネルとどうか変わっていくかというと、いわゆる内務大臣みたいな感じにシャプタルさんがなるんですよ。
政治家にもなって。
でもね、もともとこの人は学者さんになって、近代の化学工業、ガラス業とか繊維業とか、材料生産をする技術を開発して、
技術者なんですけども、なぜか行政官としても手腕を振るって、
ちょっとその近代、フランスの近代工業を支えていく人、政府にも大きな関わりを持ってくる人になるんですけど、
その人とピネルっていうのは、若い時代に知り合いだったということなんですね。
ピネルが大きく革命に関わる時に、このシャプタルさんが関わってくることになります。
このモンペリエ大学の時に、ピネルは他の学生の論文の執筆を受け負ったというような記憶も残ってて。
なぜ?
バイトみたいですわ。
お金が欲しかった?
そう、あんまり豊かじゃなかったんでしょうね。
バイトみたいな感じで、他の学生の論文を自分が書いて、それが残っていると。
絵代わりに書いたのが、今も残っているってことですか。
そうそう。
すごいな。今も昔もですけどね。
ピネルは医学博士ではあったものの、数学とか統計学の論文が残ってて。
この人は頭が多才なんですよね。
思想と業績
そうですね。そんな感じですね。
この時代は、統計学とか数学とかをしっかり勉強していたんですかね。
20世紀とか21世紀に知っている大分さんとか科学者って、結構専門を極めてどうないか知っているというのが一般的な話なんですけども。
この19世紀初めぐらいの方っていうのは、結構多才というか、いろんなところに興味というか専門を広げるんですよね。
知識人って感じですね。
そういうのがこの時代って結構あるのかなと思いますね。ピネルさんは特にそんな傾向を感じました。
医学博士でもあり、統計学、数学を勉強する学者さんでもありっていうピネルがですね、33歳の時にパリに上京します。
パリで数学の講師として生活していくということになります。
なぜ数学なんでしょう。医学じゃなくて。
そうなんですよ。
実際、医者として開業するのは、どうもですね、パリで開業するにはパリ大学というか、パリ周辺の大学で数個あったんですけども、そこを卒業してないと、パリでは医者は開業医としてはできなかったみたい。
そうなんや。
だからそういう統一したものじゃなかったみたいですね。
そうかそうか。共通の医師国家試験ではないってことですよね。卒業やから。
大学大学に結構結びついてて、開業医とかっていうのはちょっとまだ違ったんでしょうかね。
なるほど。
ピネルはやっぱり医者としての仕事もしたかったみたくて、33歳で出てきて数学の先生として勉強するんですけど、37歳の時に4年後ですね、
その頃はルイ16歳の頃の王家の関連の、王家のおばさんの医師の職というのを応募したらしいというのが残っています。
でも2回ほど応募したけども、いずれも失敗というようなことが残っていました。
そうなんや。優秀な方なのに。
優秀な方なのにね。
なんでかっていうと、彼が内来だったから、あんまり社交的じゃなかったから、うまくいかなかったんじゃないかみたいなことを残っているようですね。
そうなんや。王家のおばさんにしたら、もうちょっと喋ってくれたりする人がよかったってことよね。
多分王家の分家というか、そういうおばさんの一家というかのところで、おかかいの医師を多分何人か雇っているんでしょうね。
多分決意とかが出て、もう一人雇おうみたいなことで応募して申し込んだんやけれども、いろんな面接とかした時にちょっとこの人はっていうことで離れちゃったってことなんですかね。
なるほど。
後々いろいろ考えさせる問題があって。もしこの時にピネルが王家関連でおったら、この後の活躍につながらんかったんかなと思うんですけどね。
なるほど。楽しみです。
残念なことに、医者の職は取れずに、数学の先生として生計を立てていた頃のピネルですけれども、
その同じ年ぐらいなんですけれども、どうも鬱病に苦しむ友人を自殺で失ったというエピソードがあります。
自分の友人の方、どういう友達だったとかどういう自殺だったかというのは全く記録ないんですけれども、
ただピネルはですね、この出来事で自分がもっと言いたいをすべきだったと、自責の念を感じたという記載というか、そういう言葉があります。
この思い出を何回もピネルは語っているという記録が残っているので、思いがあったんでしょうね。
友達と近かったんやろうね。
そうですね。何とかすべきだったと思いがあったんでしょうかね。
それ以降になるのか、その頃になるんですけれども、
医者としての仕事はできなかったんですけれども、やっぱりいろんな病院にですね、パリの病院に出入りすることになって、
診療とまではいかないんですけれども、勉強することになるんですかね。
有名な知識人のサロンに出入りするようになったりして、医者として出入りすることになって、その当時の医学の情報にも積極的に触れるようになると。
だからその科学者として、数学者というだけじゃなくて、医学の方にもやっぱり興味をずっと持たれているということなんですかね。
30代後半のピネルの姿だと思うんですけど。
そこからね、40歳から43歳、44歳に至るまでっていうのは、
すごく活躍というか、そういうアカデミーの場面では、ピネル足跡を残してるんですね。
例えば数学という解剖学とかっていう、医学の基礎医学の分野の論文を何遍か出したりとか、
あと精神医学の論文も出したりとか。
精神医学も。
はい、精神医学。あんまりこの精神医学っていうのは、今ほど全然確立されていない、始まりの始まりのところなので、
専門家もいなかったようなことだと思うので、そういうピネルとかが興味を持って書くことができたのかなと思うんですけど。
その医学雑誌の記者になって、そこの新聞の編集長にもなったと言われています。
ピネルの活動と興味
だから医学関連、アカデミー関連の出版にも関わったりとか、実際自分も書いたりとか。
その頃また精神科専門の私立病院というか、私立の施設、高所得者、お金持ちの方が入る精神科病院って、
バティさんの時もあったと思うんですけどね、そういうところにも診療に行ってたみたいですね。
ところが、その医者もやりつつ、そういうアカデミーの論文を書いたり、新聞を作ったりっていうようなこともやってた人なんですね。
なるほど。生活のためというのもあっただろうしね。
あったんでしょうね。彼自身がそういうのに興味があったんでしょうね、やっぱりね。
その興味の分野がですね、どうも不思議なことに解剖学っていうですね、基礎医学と精神医学と、もう一個動物学っていうのもこの方好きだったみたい。
動物学っていうのは、今で言う動物のお医者さんってことですか?
お医者さんじゃなくて学問の方ですわ。
学問なんですか?
分類とかですね。
金持ちさんは割とこういう博物学者というか、この動物がどういう分類になってっていうのをするのが、その当時の学問なんですよね。
だから珍しい動物がいて、その動物っていうのはこういう系統に属するんですねとか、こういう種類なんですねっていうのを分けるというのが動物学の、この当時はまだまだ種類だったと思うので。
全然違う分野ですね。
そうですね。これ僕が思うに、博物学者なんですよ。色々珍しいものがきっと好きだったんじゃないかなと思うんですけどね。
つまり動物とかも、いろいろ珍しい動物がいてたりとか、メジャーな動物もありますけれども、それをどんなふうに分類するかとか。
あるいはその精神学もね、実はこの精神疾患ってよくわからんことも多いので、どんな精神疾患があってっていうのを分類したりとか考えたりとかっていうのがきっと好きだったんじゃないかなと思うんですよ。
なるほど。
解剖っていうのも基本そうですから、この当時の解剖学っていうのは機能とかを見るんじゃなくて、骨がどんな形をしてて、筋肉がどんな形をしててっていうことが主なので、それも分類っちゃ分類なわけですね。
なるほど。
だからそういう博物学というかですね、いろいろよく似たものをちょっとずつ違いを見分けていって、この世界はどんなふうになっているかっていうのを理解しようという学問ですかね、全体的に言うと。
なるほど。興味な。
動物学だったりとか精神学だったりとか解剖学だったりとかになってたんかなとかって僕は想像するんですけどね。
フランス革命の影響
ということで、学者さんとして、あるいは編集者というかアカデミー関係の記者さんとして、生計を立てていた頃なんですけど、1789年ですね、この時はピネル44歳の頃にフランス革命が勃発することになります。
はい、その時代ですね。
その時代です。
フランス革命ってね、っていう話ですよ。ベルサイウのバラとか、そんな話ですかね、ジャンバルジャンとかね、製片が起こったんですねっていうことだと思うんですけど。
誰もが知ってるというかね、触れる時代ですよね、ヨーロッパの。
で、この時にフランスはですね、大きく下国上になっちゃうわけですよ。
はいはい。
今まで支配階級だった人が支配階級じゃなくなって、今まで仕立てられてた人が、仕立てられてた今一部の人たちが支配者となっていくというガーンとした構想が、革命が起こっちゃうわけですね。
この時にピネルっていうのはまだその体制側には入ってなかったもので、その革命政府の方から割とこう用いられることになるんですね、この後。
なるほど。
それで表舞台に立っていくということになります。
だからさっき言ってたその王家の親戚のお医者さんには入らなかったから良かったってやつですね。
そうそう。たぶんこの時点でもし王家で雇われているお医者さんだったとしたら、なかなかこういう形にはならんかったんちゃうかなと思うんですけどね。
なるほど。
王家はずっと民間で学者活動とか医者活動をしていた人で、フランス革命で上下がひっくり返った時に、たぶん上の方というか支配階級に伝えてたお医者さんでも才能のある人たくさんいたと思うんですけれど、
でもやっぱりそういう人たちっていうのは、これからの世界ではあまり重要視されないことになっちゃうので。
人生はわからないってやつですよね。
そうですね。そういうことだと思いますね。
フランス革命から3年後、ようやくピネルは結婚します。
ピネルさんいくつでしたっけ?
47歳の時に、24歳のジャンヌ・バッサンという方と結婚します。
20歳以上下ですね。
23歳年下っていうことですね。
この写真が残っているんですけど、近年というかここ10年ぐらいで発見されて、
ピネルが家族を持って子供を持った時に、ちょっと裕福になったんですよ。
この時に肖像画を描いてもらったんですよね。
なるほど。幸せそうですけどね。
まあまあ幸せだったんだろうなと思うんですけどね。
貴重な。
2人子供がいててね。
長男の方がシピオンという方で、後に精神科医になると。
ただでもピネルほど有名な精神科医にはならなかったみたいな、ちょっと冷たい言い方を書いている文章もありましたけどね。
もう一人弟の方ですけれども、この人はシャルルさんと言って、
この方は変わった人物に育ったらしくて、
フランスにその当時行ってたものの、ブラジルに渡って、コーヒー園を開いたみたいな記録が残っています。
なぜだろう。
なぜでしょう。
ねえ、気になる。
そこのシャルルさんが気になる。
その当時ね、別にブラジルってね、フランスとそんなに交流なかったとは思いますけれどもね。
遠いですし、船で渡らんとダメでしょ。
その当時ねっていうことですけど、そういう人生を歩む方でした。
フランス革命がここで3年後、一応ピネルは結婚生活を送れるぐらい、ある程度安定してきたんですかね。
ヴィゼトール病院での出会い
翌年ですね、48歳の時に国立自然博物館の動物学の教授のオファーがあったんですけれども、なぜかピネルがそれを断るというのが残っていて。
あら、好きな動物学なのに。
で、同じ年にこのヴィゼトール病院という病院の常勤医師になります。
これが大きなことだと思うんですけどね。
そうですね。これはパリでしょ。
パリです。
ですよね。やっとですね。
今まで私立の精神科病院では勤めてたんですけれども、このヴィゼトール病院というのはすごく大きな精神科病院というか施設なんですよね。
そうなんですね。
大きくその当時2つ精神科病院というか施設があったらしくて、このヴィゼトール病院というやつとサルトロピエール病院というのがあるんですけど、
この男性の方のヴィゼトール病院という方の常勤医師にこわれてですね、行くんですね。
1年半そこで働くことになります。
ここでの大きな出会いがあったんですよ。
このヴィゼトール病院というのが非常に大きな施設なんですけど、そこで働く看護人のピュッさんという方と出会って、ピュッさんとその妻がマグリットというのがいてるんですけど、
ピュッさんとマグリットがヴィゼトール病院の看護人として働いてて、
ここでのピュッさんと出会って、こんな治療ができるんだというふうに気づいたというのがこの改革の始まりなんですよね。
続きは次回お送りします。
24:46

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