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2025-06-27 26:36

ピネル神話の陰で:精神医療を変えた看護人ピュサンの実践

「鎖を解く物語」の主役は、ピネルではなく看護人ピュサンだった?

第7回では、革命下のビセートル病院で精神障害者40人の拘束を解いたピュサンの功績に迫ります。過酷な病院運営、ギロチンの影、そしてピュサンの実践が、現代精神医学への扉を開いた――。歴史の陰で人間の尊厳を守り抜いた看護人の知られざる物語。

 

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サマリー

このエピソードでは、フィリップ・ピネルがスマ病院でのピュさんの看護実践を通じて、精神医療の現場における人権意識の重要性とその必要性を浮き彫りにしています。また、フランス革命の影響を受けた精神病院の歴史的背景と変化についても探求されています。ポッドキャストでは、精神医療の歴史におけるピュサンの実践が語られ、彼が行った40人の精神障害者の鎖を外した功績や、その背景にあるフランス革命の影響が取り上げられています。特にビゼトール病院の状況や、これまでの精神医療の問題点が強調されています。エピソードの中で、ピュサンの実践が精神医療の現場に与えた影響を探ります。ピネルがサルペトリエル病院で直面した問題や、医療体制の変革に至る過程も語られます。

ピネルとピュさんの出会い
精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。この番組では、精神科医療を作った人々、現在のトピックスを精神科医が解説します。
精神科専門医30年、医学博士で現在、会業医のマリモと、
その姉で、障害を持ちの方の就労支援事業所を経営していて、つい先日、初孫を抱っこしすぎて腕が筋肉痛になった、桜がお送りします。
フィリップ・ピネルが鎖を取る物語、その第6回として、ピネルは鎖を解く物語の現実、です。
前回の続きからお送りします。
看護人さんの治療を見てってことですね。
そうです。
すごいなあ。
始めてたんですよ。つまりピネルと出会う前から、このビゼトール病院でね、思いやりがあるような治療というか、うまく精神科患者さんと関わってたと。
ピネルが書いてる、その頃に書いてたいろんな文章があるんですけれども、一つによると、治らないとされてた精神障害者たちが、一部の治療によって回復するんですよ、というのが分かったと。
精神障害者の方っていうのは、他の人間と同じように、人間的に扱われることに敏感である、というような記載があって、それはそうですよね、ということなんですけど。
この当時、こういうことも、わりと新しい知見だったんですよね。
ピネルの記載によると、看護人のジャン・バティスト・ピュさんは、病棟で中和を問わず生活して、患者の習慣、性格、思考、精神異常の経過を研究し、いかに慈悲深くあるべきか、いつ威圧的になるべきかをよく知っていたと。
ビゼトール病院の歴史
巡回する医師よりも、彼らに心理的なケアができた、という記載があります。
なるほど。今はね、そうやよってところですけどね。
これが発見だったわけですね、ピネルとしたらね。
ああ、こういうことができるんだ、ということですね。
ピュさんというのは、なんでこんなことができるんだ、ということなんですけどね。
はい。
このこともちょっと見ていきたいと思うんですけど、ピュさんはですね、1746年、ピネルよりも1歳年下なんですかね。
年下ね、はい。
で、フランスのロンル・ソーニエという町で生まれます。
はい、はい。
実は貧しい家で生まれて、皮なめし職人となったと言われています。
へえ、それがどんな職業かよくわからないですけどね。
職人で皮製品を作る職人なんですかね。
10代の頃にピュさんはですね、首の結核にかかるんですね。
で、ビゼトール病院に入院することになります。
はい。
普通は病気になったら家で養生するっていうのがあったと思うんですけど、やっぱり家では養生できない環境だったんでしょうね。
なるほど。
だからこのビゼトール病院にピュさんは入院して、入院した当時、退院できないよって言われるんですけども、
言われたけれども治療に成功して、うまく生き抜くことができて、このビゼトール病院で働くことになります。
あ、家に帰らずね。
帰らずね。
この当時のビゼトール病院っていうのは2000人くらいいてて、
すごい大きい病院ですね。
そう、ただ病院と言うていいかどうかっていう問題があって、
そっかそっか、手術病院みたいな感じだ。
そうなんですよ。
で、医者っていうのはこの2000人の中で1人か2人しかいなくて、
で、常勤医っていうのはピネルが来るまでなかったって言われてるので、みんな非常勤医なんですよね。
じゃあいない時間帯も多いってことですね。
そうですね。
ほんまに保健室の先生みたいな感じでお医者さんが来る程度で、
主に管理してくれるのはこの修道士さんっていうか看護人もいてるんですけれども、
主にその教会に使える修道士っていう方が面倒を見るという感じ。
あとプラス看守さんっていうかその見張ったりするような人もいてると。
ただ主に活躍してるのが修道士っていう方が活躍してたみたい。
このビゼトル病院っていうのは。
で、病棟としては精神科病棟もあれば、老人病棟、病人棟っていうね、
その多分ピースさんが入院してた病棟もあったり、
あるいはこの軍人病棟もあったり、収容棟って言って犯罪者を収容するようなところもあったり、
あるいはこの不老者とかその孤児とかを収容するような棟があったりというですね。
病人だけじゃなくていろんな人を収容するような施設の偽善になったんですね。
そこでピースさんは病人として入所して、病気が良くなってそこの看護人になったと。
素晴らしい。
25歳の時に正式にこのビゼトル病院のスタッフとして採用されて、
38歳の時に精神科病棟の管理部門長になったと。
すごいな、10年以上コツコツ頑張ったんですね。
40歳の頃に妻マグリットの補佐を受けたという記録が残っているので、
多分この頃に結婚して2人というかですね、このビゼトル病院で働いてたんだろうなと言われてます。
なるほど。
これが40歳の頃なので、そこから3年経ってですね、フランス革命ですよ。
フランス革命の時にビゼトル病院で、ピースさんも働いているんですけどね。
このビゼトル病院というのがまたなかなかクセ者でというか何というか、
ちょっと歴史的なところで、全くこれと話が別で登場するんですけど、
ギロチンってありますでしょう。処刑するね。
ベルサイのパラでマリー・アントワネットがね。
そうそう、死刑される、処刑される器具ですけれども。
そうですよね。
あれって、実はフランス革命ちょっと前から開発がされてて、
そもそもね、ギロチンが開発されたのは、死刑にする人の靴を和らげて確実に殺すために、
人権的には初めは配慮されて作られたものだったらしい。
そうなんだ。
あれはね、初めは上手く殺すためでもあるけれども、
靴を与えずにっていう意味で開発がされたって言われてて。
フランス革命が始まった当初っていうのは、それが開発されてて、
その開発の現場が実はこのビゼトル病院だって。
ビゼトル病院でなぜ?
ビゼトル病院でね、このギロチンの刃の死刑っていうのが、
ビゼトル病院の死体を用いて行われたっていうのがあります。
えー、まだこれショックな話です。
そうですね。だからどのくらいの刃で、どのくらいの重さでとかっていうのをね、
やっぱり実際の人間を使わないとうまくわからないから。
なるほど。亡くなった方で。
亡くなった方のやつを見てやったっていうのが、ビゼトル病院っていうのがあって。
それが1792年ですからね。
フランス革命から3年経った後ですな。
そのギロチンが使われることになるんですよね。
そうなんや。
結構そのギロチンでは多くの方が処刑されることになって、悲惨なことになるんですけど。
それのちょっと片棒というあれですけれども、関与してたビゼトル病院ですわ。
へー、ここでそんな話につながるとは。
で、その1793年にピネルがビゼトル病院に常勤医師として赴任して、
ピサンとマグリットのケアに感銘を受けたっていう時代ですよね。
ピネルの影響と未来
この時代がちょうどフランスで恐怖政治っていうんですかね。
いろんな方が処刑されるという時代と重なるんですよ。
なるほど、真逆ですね。
だからすっごい世間が荒れている状況の中で、ピネルがその施設の常勤医として入ると。
徐々にこのビゼトル病院でピュさんは精神科医療について学んでいたものがあるということなんですね。
ただですね、ピネルさんはこのビゼトル病院でピュさんとマグリットのケアに感銘したものを2年間で常勤医師を退任して、パリ大学の教授になります。
親?
親っていうことなんですよ。
多分そのビゼトル病院にちょっとは関わってたんじゃないかなという記載もあるんですけど、よくは分からないんですよ。
常勤ではなくなっているんですね。
常勤ではなくなってます、少なくともね。
パリ大学の教授として、はじめは解剖学なんですけれども、その後内科学の教授としてピネルは医学生を教えるということになるんですけどね。
それから3年後ですわ、このビゼトル病院でピュさんがこの臭いの使用を中止するということになるんですよ。
看護師のピュさんさんが。
そうそう、その頃ピネルはですね、パリ大学に行ってるんですよ。
そうですね。
ただその話を聞いて、ピネルはとても感銘を受けたというのを後々記録に残してますね。
このトラテっていう文章があるんですけれども、ちょっと読んでいただいていいですか。
はい。
ピュさんの行為をピネルが聞いて、どんなふうに思ったかっていうこととかですね、割ときっちり書いてくれてるのがあるんですけれども、
さくらさんに読んでいただきましょうかね。
はい。
私はこの野蛮な鎖の使用に終止符が打たれるのを目にすることができなかったことを極めて残念に思っている。
私は別の場所におり、あの病院の監督者、ピュさん氏の熟練の腕に委ねていた。
彼もまた鎖の使用を終わらせることに熱意を持っていた。
これほどまでによく企画され成功した行為は他にない。
精神障害者の解放
鉄の重みに長年にわたって苦しんでいた40人の不幸な精神障害者たちが、中央局の懸念にもかかわらず解放され、
昼夜は中庭を自由に歩き回ることが許され、ただ拘束医で腕の動きだけを抑えられていた。
夜間は彼らの個室で自由であった。
ある患者は36年間この悲惨な状態にあった。
また別の者は45年間であった。
彼らは自由に動けるようになり、ゆっくりと病院内を歩いていた。
また、18年も暗い独房の奥で鎖につながれていた患者は、初めて太陽の光を見ることができたとき、
その明るい光に満ちた太陽を仰ぎ見て、うっとりとした喜びの中でこう叫んだ。
ああ、こんな美しいものを最後に見たのは、どれほど昔だっただろうか。
ありがとうございます。
素晴らしい。
でしょ。なかなかリアリティを感じる文章だなって思っています。
そう、鳥肌立ちました、読みながら。
40人の方を、その鎖を解いたっていうことなんですよね。
すごいですね、ぴゅさんさん。
で、やっぱりこの30年も40年もずっと鎖につながれて、外に出ることができなかった患者さんというのがいてて、
うまくその鎖を外した後、喜んでいるという様子が伝わってきてですね、
えーっていうね、とてもリアリティを感じるなあっていうところなんですけどね。
フランス革命の影響
なんかこう想像するとね、ゾクゾクします。
本当に何て言うんですかね、人間の尊厳というのがここで回復されたっていうのが、確かにその通りだなあっていうことですかね。
そうですね、素晴らしい。
素晴らしい。素晴らしい話なんですけれども、これね、先ほど言ったようにぴゅさんなんですよね。
ぴねる関わってねえじゃねえかっていう話なんですけれども、一応まあそうなんです。事実はそうらしくて。
で、これ実はですね、鎖を取ったっていう有名な話っていうのが、ぴゅさんがこれが初めてかというと、実は初めてじゃなくないらしくて、
10年前にもあったらしいっていうのもあってですね。
別のところで?
これはフランスじゃないんですけど、他の病院で鎖の開療がなされたっていうような報告もあります。
ぴゅさんが取った年から10年前です。
イタリアのフレンツェのロドシア精神病院っていうところでですね、キルアージっていうお医者さん、これ26歳その当時だったらしいんですけれども。
若い方。
若い方がやっぱりこういう施設とか精神科病院で鎖を解いたとか。
あるいはこのイギリスのヨークリトリート。ヨークリトリートっていうのが有名なんですけど、そのテュークさんっていうのがいてて、この方は医者じゃないんですけどね。
事前科とか事業科なんですけれども、クエカー・キョートもですね、こういう方が施設を作って鎖を廃止したっていうのが同じぐらいの年にあって。
流れといえば流れなんですよね。
ヨーロッパ全体でそういう人権を擁護しましょうということと、やっぱり精神疾患というのは病気なので、宗教的なものではないですよということがわかってきたという流れではあるんですけれども。
実際にそれをでも行うというのはまた違う話ですからね。
そうです。行動に移すのは難しいです。
ちょっとピュさんがですね、この40人の鎖を外したという要因を考えたいなと思うんですよ。
実際これすごいことだと思うんですね。
このビゼトール病院っていうのはね、一施設というよりは国の施設なので、すごくでっかい施設ですしね。
そこで薬を溶いたということ自体はやっぱり大きなことだと思うんですよね。
反対する勢力というかそういう人たちも多かったでしょうね。
多かったと思う。
普通じゃ決してできないようなことをやってのけることができたという、特殊な事情がやっぱりここではあったのかなと思うので、ちょっとそこを見てみたいなと思うんですけどね。
フランス革命というのはこの時代に大きな影響があったと思うので、フランス革命で何がどう崩れたかということを見ていきたいなと思うんですけど。
まずフランス革命前なんですけどね。
フランス革命前の古い政治体制というか国の体制というのはかっこよくですね、アンシャン・レジュームとか言うんですよ。
聞いたことありますね。
旧体制っていうのをね、象徴させてそう言うんですけど。
その旧体制、三部会とかってあったじゃないですか。
懐かしいな世界してやりましたね。
三部会の三部はどうやったかというと、一部が聖職者なんですよね。
2番目が貴族なんですよ。
3番目が一般市民なわけよね。
貴族っていうのは有名ですけれども、この医療の場面で大事になってくるのが聖職者なんですよ。
聖職者っていうのがいろんな税金を取ったりとか、一応神様に使えるものとして非常に身分が高いとされていた政治体制で。
リアルで彼らが何をしていたかというと、病院というかそういう施設とかを運営していたということになるんです。
実際運営するのは国の税金とか役人なんですけれども、
そこで働く人たちっていうのが先ほど言った修道士とか修道女さんが働いていて、大きく宗教的に関わってきてたんですよね。
やっぱり実際そういう困ったというか辛い人たちをケアするというのは宗教的なことがやっぱりいいですよねっていうのが一般的にはそうじゃないですか。
正しいことをしてくれそうやなっていうようなことになろうかと思うんですけど。
事前やからね。
ただそれが何百年間経ってこの腐りの現実につながってくるわけなんですよ。
だからそいつをどないか打破したいという形にはなるんですけれども、それはそれとして。
フランス革命前っていうのはそういう教会勢力っていうのが比較的国と一体になってですね、こういう施設を運営してたということですね。
だからがっちりそういうのがなっている間っていうのは、もちろんその一看護人であるピュさんとかがこういう勝手なことはできない状態だったんですよね。
ところがこのフランス革命が起こったことによって、教会勢力っていうのがそういう表向きの権力を失うんですよ。
税金とかもずっと教会から取ってたのが奪われたりとか資産とかっていうのが全部取られて、
そういう施設から修道所とか修道士っていうのが追放されることになります。
でも追放を言うてもね、今までずっと病院とか施設の世話をしてた人がいなくなって代わりにどうなるんやっていうことなんですけどね。
修道所とか修道士っていう方っていうのは、生殖者の中でも身分階級が強かったみたくて、
この実際施設で働いている人たちっていうのは、生殖者集団の中では一番下位層なんですよね。
だから給料も決してもらわないわけじゃなくて、ほとんどボランティアですよ。
移植中は教会が面倒を見てくれるけど、教会の奉仕として働けということで、その施設とか病院で働かされてたというのが修道所とか修道士。
もちろんそれをすることが宗教的に意味があるということで、彼らは喜んでやってた側面もあろうかと思うんですけど、
それがフランス革命で、お前たちはここから出ていけと急になって、
病院の現状
それはしゃあないですよね、革命ですしねということで、そうなるんですけど、そうなったら病院困りますやんか。
困ります。誰が面倒を見てくれる。
実際、戦争とか飢餓とかも起こったので、病人の方とか貧しい方がどんどん増えて、ニーズは増えるんですよ。
する人はいなくなると。
パリ市とか革命政府っていうのは、なんとかうまく運営しようということで、お金を出したりとか人を雇ったりとかするんだけれども、やっぱりなかなかうまいこといかないと。
そりゃそうですよね。
今までそんなことをやってた人っていうのはいてないのでね。
でもなんとかしないといけないということで、上や下への大騒ぎになるわけですわ。
施設もね。
実際、政治自体もいっぱい処刑するような、政治自体も大混乱をしているような状態で、ビゼトール病院内も大変なことになってたんですよね。
なるほど。
そういう問題があったと言われてて。
実際書き記されている方によったら、この当時のビゼトール病院っていうのは、病気というよりも貧困さとか迷惑だったりとか、社会的な規範から逸脱しているとかっていう条件で入院させられるとかね。
なるほど。
実際病院は立派な病院なんですけど、この写真ありますやんか。
すごい立派よ。宮殿みたいやもん。
宮殿として建てられて、ただその中身っていうのが、衛生状態が、上の方がビゼトール病院ですね。
全然ダメって言われててね。トイレとか風呂とか下水処理が不備だったり。
20人も30人もいてたりとか。
神宮も薬物も寺院も全てが不足してて、死亡率がとっても高いということが書かれていました。
そうでしょうね。
年々20から30%の死亡率って書いてたので。
それはちょっと困るな。
ですよね。つまり10人入院してたら、そのうちの2人から3人が亡くなっちゃってるってことですね。
なかなかね。
入るの嫌だなって感じですね。
ピュサンの実践と影響
で、修道士とかがいなくなって、今までそういう修道士じゃなかった看護人とかが重要度を増すわけですね。
それがピュサンなわけですよ。
ピュサンとかの一味の方々の重要度が増して。
本来だったら中央統制して、管理者とかがかなり管理する施設のはずなんだけれども、下からの意見も通りやすくなったんでしょうね。
ああ、なるほどね。
こんなに下がうまいこといくん違いますか?みたいなことで、たぶんピュサンの草屋の開放っていうのはうまくいったのかなと思われます。
そういうことか。なるほどです。
たぶんそうかなと僕は想像するんですけどね。
そうでしょうね。
固体制が整ってたら絶対に通りませんもんね。
そうそう、もうごちゃごちゃになってるとこやったからピュサンの草屋の開放っていうのはうまくいって、うまくいきましたよっていうことをピュサンからピネルは強いたんでしょうね。
それはよかったということで、実は翌年にピュサンじゃなくてピネルはサルペトリエル病院の方の医長になります。
順調ですね、この方。
そうそう。ビゼトール病院っていうのが男子の施設なんですけれども、このサルペトリエル病院っていうのが女性の施設なんですよ。
分けられてたんだ、昔は。
分けられてたんですね。内部は容にてたみたいですけれども、病院の方もいれば精神障害の方もいれば収容所されてることもあって、こっちの管理医師になったんですよ。
つまり委員長に近い位置に結構行くわけですよ。
今までは病院では常勤医師だったんですけど、ピネルは管理医師として委員長に近い感じで行ったということなんですよ。
ただパリ大学の教授としても兼任してたみたい。
そこはまだ継続なんや。
そうなんですよ。つまりずっとパリ大学の教授先生としてピネルは位置を持ちつつ、このサルペトリエル病院の管理医師っていうのはこれから7,8年続くんですけどね。
兼務という形になるんですけれども。
お医者さんというのとは立場が違うかもね。
管理人というのが正しいかもしれないね。
管理者としてピネルは管理医師になるんですけれども、
ちょっと待って、こんな言葉を残しています。
私はサルペトリエル病院で3年以上勤務しているが、この精神病の治療に取り組むことも病気に関する正確な観察を行うことも不可能だった。
というのもこの病院の一部には極度に無秩序な状態にあるからであるって書いててね。
何もできませんっていうことを書いてるんですよ。
ほんまですね。苦しそうですけどね。
苦しそうですよね。
サルペトリエル病院にピネルが来て、これちょっとおかしいなと思ったんですけど、なんでピゼトル病院に帰れへんのやっていう気もするんですけどね。
そうそう。すごいそれ聞きたかったんです。
これね、なんでかって聞いたら、きっちりは書いてないんですけど、ピゼトル病院はもっと大変だったみたい。
そうなんや。
もちろん秩序が破壊っていうこともそうだったと思うんですけど、施設的にも問題があって、結構壊れてたりとかいろんな問題があったりとかね。
やっぱり男性の方じゃないですか、ピゼトル病院っていうのは。もっと大変な状態になってたみたい。
このサルペトリエル病院ほど整ってなかったらしい。
まだサルペトリエル病院の方が整っている状態だったらしいですね。
壊す人もおったんやろうね。男性の力あるし。
そうです。
なるほど。
という状態で、サルペトリエル病院でピネルがなるんですけれども。
自分3年間やってるけどどうしようもないと。できないと。
ということで、3年後に1801年にピュさんをピゼトル病院からサルペトリエル病院に赴任させてもらいます。
へー。
続きは次回お送りします。
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