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皆様、おはようございます。
昨日もボイシーの加藤博之先生の放送にあげていただきまして、
その時に、宇田手のおじさま一生さんが、私が少し前におっしゃっていたことに関しまして、ちょっと本当に感銘を受けたというか、申し訳ございません。
そのことについて、今日お話しさせていただこうかと思います。
私の親しくさせていただいてますお寺さんがあるんですね。
新厳州で高野山で修行されたご住職のお寺なんですが、季節ごとに旗艦紙を送りくださいましてね。
郵送でお近くですけれども、送ってくださるんですね。
その中に、親姉さん、奥様なんですが、去年特度されましてね、ご住職様のお弟子さんになられた親姉様のちょっとしたコラムが載ってたんですね。
お弟子様の言葉っていうタイトルで、自理、利他っていう言葉があるらしいんですね。
自分の利益の利、利益の利に他人の他なんですけれども、仏教は自らを利する自理と他人に利を向ける利他。
この二利に尽きる、しかしこの自理と利他は二つにあらず切っても切れない関係にあり、言うなれば自理こそが利他の土壌であるとお弟子様は考えておられたようです。
うちは信言宗ではなくて浄土信宗なので、お弟子様のことには詳しくないんですが、そこから親姉様の言葉が続くんですね。
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利他という言葉を日本で最初に用いたのはお弟子様です。
真実の利他が始まるのは、自らのうちに母大心が存在するという目覚め、すなわち自理があってこそだと考えられました。
母利他、己を忘れて他に利益をといった最澄に対して自己を深めなさいといった空間、そのどちらも自分の存在を抜きにした利他には注意が必要だと言います。
利他には注意が必要、そもそも自分と他のものは切り離されたものではなく繋がっています。
自理、利他が一つになるとき、自理も利他も同時に成就される。まさに不二、二つにあらずなのですと書かれているんですね。
絵の利益を考えることによって、それが回り回って自分に返ってくるという、これをすればこれが入るみたいな考えで私は行動をしてきた時期があったんですね。
例えば、トイレを掃除すればご利益が入るとかね、ボランティアに行けば幸せになれるとかね、そういう時期がございました。しかし、最後の方になりますから疲弊するんですよね。
それでシャンパンタワーをひっくり返しているというふうに、友達にそこで言われるわけなんですけれどもね、一番上が自分で、二番目がパートナーで、三番目が子供で、四番目が親だとしたら、
あなたの場合、一番上のシャンパングラスを取って、下に溜まったシャンパンを一生懸命に二段目から下に注いでいると、そんなことをするからガッシャーンと全部潰れるのよと言われたことを思い出しますね。
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自分の母親が存在するっていうんでしょうか、自分が自分に対して。自分を傷つけることなく、欺くこともなく、自分の欲求を満たしてあげられる自分っていうのになっていないのに、
他人を助けられるわけがないっていうことだと思うんですよね。
ジリとリタが一つになるとき、ジリもリタも同時に成就される。三方よしみたいなお話ですよね。
それを、昨日、同時に二回そのお話に出会うわけなんですね。夕方この文章を見て、しんねさんの文章を見て、はっと思って思い出して、夜に一生さんのお話を聞いて、またさらに思い出すんですね。
これはやっぱり、私の課題かもしれないっていうふうに思いましたですね。
なんか一見、本当にエゴシティックな考え方のように思うんですけれどもね。
先日、日本の歴史的な超大金持ちのお話を、わさびさんとよしえもんさんがされたときも、その代々続く歴史的な大金持ちの資産運営を聞いたときに、
まずは自分を絶対に倒れないような形で守った上で、それでその利息でバンバンお買い物をされて他人を助けてるんですよね。
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画書さんを呼ぶぐらいで。それぐらい消費なさってるんですよね。そういうことを考えましたら、互いにまずは自分のことを考えて、自分の利益も出せていないのに、他人のことを考えだしたらおかしくなるのかもしれませんですね。
その点、経営者さんとか公家さんは、ご自分のことも他者のことも、他者の生活を提供してるわけですよね。
かたやお給料において、かたや物件において。それが同時にご自身の利益にもなっているって、本当に素晴らしいことだなっていうふうに思いました。
私は本当にいつのことやらと思いますが、これを書かれた真似さんも、12、3年前にご住職様と草ぼうぼうのお寺をお継ぎになったんですね。
もう背丈ぐらいある草だったというふうに、うちの母は申しておりましたですね。
そこから一つ一つ、雨漏りを直し、ご近所の材木屋さんに、雨漏りを直したいので、木を分けていただけませんかっていうふうにお願いをしに行くんですね。
そしたらそこの社長が、どうしたんだって座りなさいみたいな感じでね、お話を伺ったら、こういうことで木屋さんから修行を終えて下山して、ここのお寺に参りました。
すぐ近くなんですよね。
廃寺になってたお寺を一から直そうと思うんですけれども、もうそれこそ生きていくのに精一杯なんです。
その修行で下山する前にね、そこの御住職様はね、師匠の御住職様に、それはすごいお寺なんですよ。
ホテルのようなお寺なんですよ。ホテラと言われてる。
その御住職様にね、その廃寺をすぐに渡っては、副業はまかりならん、という言葉を賜って来られたんですね。
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どうしても生活に苦しいお坊さんたちは、副業を持ちながらするらしいんですけれども、それは奥様に対しても言い渡されたらしいんですね。
ですので、その日暮らしですよね。最初はゼロなんですから。
そこから始められまして、今はお寺の瓦も全部吹き替えられましてね、直さなければいけないところを全部直されましてね。
幸いその材木屋さんが、本店が荒谷さんの近くにありましてね、荒谷さんでは昔かなり仕事をさせていただいた、協力しようじゃないかと。
それで、とうばをね、薄いとうばをいっぱい作ってあげるから、それを持って歩いて一軒一軒訪ねることはできるかというふうに、そこから御住職様に問答が始まるんですね。
はい、やりますと。リュックを背負って一軒一軒歩きますと。
それならとうばをすぐ作ろうということで。
そのとうばが売れたというか、買ってくださる方ができてから、そのお金の中の一部をお支払いしてくださったらいいからということでね。
本堂を直すときもですね、柱から梁から先に全部ね、図面を描いて、そこがね、またね、自社物価専門みたいな材木屋さんなんですよね。
やはり工戸山の方から来られてますのでね。
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で、先にね、小さな小屋を境内に社長が建てて、その中にボンボンボンボンね、柱を運ぶわけなんですよ。
で、天井部分の梁とかもね、運んできて置くんですよね。
で、それにお名前を書いて、奉納してくださる方が見つかってから、何本か売れてから、その売れた時点で名前を書いて、お金を納めていただいて、
それが何本か売れた時点で柱代っていうのを持ってきてくれたらいいからと。
で、それがね、倉庫の中の柱、梁、もうしばらくして、全部お名前が入るんですよね。
で、瓦も全部裏にお名前を入れて、入った時点でお支払いしてくれたらいいからと。
で、出来ましたと。
そこからね、工事が始まるんですよ。
まあよくあれだけの工事をね、こんな十何年間の間にね、されたと思いますわ。
もうだって、草ぼうぼうの寺尾ですよ。
ですので、私も草ぼうぼうの小さな小さなさらじではございますが、
一つ一つ根っこを抜いて、最終的には重機をお持ちの山市のお友達に来ていただいて、
本当に来年は少しずつ進歩できますように頑張っていきたいと思います。
皆様も来年も素晴らしいお年でありますように、遠くからお祈り申し上げます。
では、ごきげんよう。