2025-10-27 17:08

五輪書 #5


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サマリー

五輪書の血の巻では、宮本武蔵が二刀流の重要性や兵法の基本について語り、物事の道理を探ります。水の巻では、一流の理を深く理解することが強調されます。火の巻では、戦の本質が一対一の戦いとして説明されます。風の巻では、他流の兵法に対する考察がなされます。空の巻では、武士の自由と道理についての概念が掘り下げられます。

五輪書の基本
みなさん、こんばんは。
ちょっとね、6時過ぎてきましたら、非常に
外気が冷たくなってまいりましたが、
五輪の書、読み進めてまいりますが、
まだまだ、
血の巻きの、どれぐらいでしょうね、血の巻きのね。
半分ぐらいでしょうかね。
血の巻き、ちょっと長いと言えば長いんですけれどもね。
今日の部分はですね、
この五輪の書が、五つの巻物に分かれている、
その五つの一つ一つについて、
どうして血の巻きなのかっていうふうなことを、
前半に書いてましてね。
で、ご自身の、
その、流派の名前ですよね。
それのね、意味を書いてらっしゃるんですけれどもね。
もちろん2.1流で、それで2頭を持つ流派なんですけれども、
なぜその2頭を持つのかっていうことを、
もう、すべてにおいて力強く断定してますね。
2頭を持たなければならないという。
私2頭持った試しがないんですけど、
肩の時も1頭しか持ったことないんですけれども。
ちょっと読んでまいりますね。
この兵法の書、五巻にしたつること、
五つの道を分かち、一巻一巻にして、
その理を知らしめむために、
血、水、火、風、空として五巻に書き表すなり、
血の巻においては兵法の道だいたい我が一流の見立て、
見術一通りにしては誠の道をえがたし、
大きなるところより小さきところを知り、
浅きより深きに至る、
すぐなる道の血行を引きならすによりて、
はじめを血の巻と名付くなり、
結局あれなんでしょうかね。
荒れ果てた土地を整地するという意味で、
血の巻なんでしょうかね。
大地みたいな感じなのかなというふうに思ってたんですけれどもね。
大地なんて言ったら母性とかね、
そういうふうな意味もありますしね。
日本の古典の土地という地という意味とはちょっと違う
水の巻と火の巻
兵法としての血の巻という感じなんでしょうね。
第2巻が水の巻なんですけれどもね。
これはね、
一をもって万を知ること兵法の理なり、
一流のことこの水の巻に書き記すなりって書いてあるんですね。
だから一流について語ってくれているということで、
この水の巻非常に興味深いですよね。
で、3の火の巻、この巻に戦いのことを書き記すなり、
その後ね、
合戦の道一人一人と一人の戦いも、
万と万との戦いも同じ道なりって書いてあるんですね。
昨日か一昨日読んだときにはね、
一対一の戦いで合戦は勝てないって書いてあったんですよね。
武蔵様これどういう意味なんでしょうかって、
手を挙げて質問したいところなんですが、
個人として対象として合戦を司るのではなくて、
一人の武士として合戦で戦うときも、
一対一で戦うときも、
一対一万で戦うときも全く同じだっていう風なことだと思いますね。
第四、風の巻。
この巻を風の巻と記すことはが一流のことにあらず、
世の中の兵法そのルルのことを書きのすることところなり、
風というにおいては昔の風、今の風、その家々の風などあれば、
世間の兵法そのルルの仕業を定かに書き表す。
これ風なり。
ご自身の兵法に絶対的な自信をお持ちの宮本武蔵先生なんですが、
この風の巻で他流のことを書いてあるみたいですね。
だから他流のことも結構調査したり対戦したりして分析はしてるんですよね。
風の巻と空の巻
日々にその道を務むと言うとも、心のそむけばその身は良き道とは思うとも、
すぐなるところより見ればまことの道にはあらず、
実の道を極めざれば少しの心のゆがみについて、
後には大きにゆがむものなり、
物事にあまりたるはたらざるに同じ、
よく吟味すべし。
ですって、
物事にあまりたるはたらざるに同じ、
よく吟味すべし。
他の兵法、剣術ばかりと世に思うこともっともなり、
我が兵法の理、
我座においては格別の義なり。
ここら辺ですよね。
世間の兵法を知らしむために、
風の巻として他流のことを書きあらわすなり。
はい。風の巻、第4巻ですね。
第5巻、空の巻。
空の巻、この巻空と書きあらわすこと空と言い出すよりしては、
何かを置くと言い、口とは言わん。
道理を得て道理を離れ、
兵法の道に己と自由ありて、
己と既読、特別な得みたいな感じですね。
を得、時に相手は表紙を知り、
己から打ち、己から当たる、
これ皆空の道なり。
己と誠の道に入ることを空の巻にして書き留むるなり。
なんだか神秘的になってきましたね、
この空の巻の予告編なんですけれどもね。
で、この後ね、
なぜ二刀を持たなければいけないかということをね、
はっきりとおっしゃってるんですよ。
武士は二刀を腰に刺して、
昔は太刀、刀と言い、今は刀、脇刺しという武士たるもの、
この両腰を持つこと、
細かに書きあらわすに及ばず、そうですよね。
で、一流の道、初心のものにおいて、
太刀、刀、両手に持ちて、
道をしならうこと、誠のことなり。
両手に、ですので太刀も片手で触れなければいけないと。
で、小太刀も右手で、右手だけですよね。
で、太刀においては左手で、
まあそれ逆になる人もいてますけれども、
片手で触れなければいけない。
使わなければいけないと。
しかれども両手に物を持つこと、左右共に自由にはかないがたし。
そりゃそうですよね。
普通両手に持っても重いですよね、刀って。
槍、薙刀、大道具はぜひに及ばず、
刀、脇刺しにおいてはいずれも片手に手持つ道具なり。
って断定してます。
太刀を両手に手持ち、手足着こと。
馬上に手足し。
そうですよね。馬に乗ってね、両手でしか使えないとなると、
これはもう大変ですよね。
大変ですよね。
駆け走る時足しし。
いや確かにね、片手で走らなければ、
早く走れないんですよね。
そして最後にね、両手に手立ちを構えること、
誠の道にあらずですって。
私たち誠の道にあらずだ。
最初はね、片手で持ちにくいと。
よろず初めて取り付く時は、
弓も引き方し、薙刀も振り方し。
いずれもその道、その道具、道具に慣れては、
弓も力強くなり、太刀も振り付けぬれば、
道の力を得て振り良くなるなり。
そして、がーん。
今、少数派の二刀の人は、
その時代に、この時代にタイムスリップしても、
負けることはないんでしょうね。
あらーです。
っていうことは、
今更でも二刀を練習するなんてね、
ちょっとできない。
冗談すらできないですよ。
でね、女子の冗談ってね、非常にね、
言ってしまえば筋力のないものが、
ウエイトリフティングをしてるみたいな、
無駄な、
っていうんでしょうかね。
持ち歯持ち歯の、
劇場に当てはまらないと思うんですよね。
なんちゃって、私も偉そうに言ってますが。
うーん、これ今日読んだところは、
二刀をやってる友人が二人いますので、
その友人に送りたいと思います。
では皆様、
明日は朝陽の節句の一日前です。
旧暦の朝陽の節句、
8月9日ですよね。
旧暦のお節句ですね。
で、
我が家では、
キセワタを作って、
お花のシャチュウの友人と師匠に、
キセワタを三つずつ持って行ってまいります。
明日が楽しみ。
明日の夜。
ほんと。
旧暦のお節句ってね、
ほんとに盛大だったんですって。
母なんかね、
旧暦のお節句が来るたびに、
旅じゃないですけどね。
旧暦のお節句で、
喫茶店とか見に行く、
今年はみんなで着物を着て見に行くのよ、
みたいなことになったらね、
そうなれば、
新しい旧暦の着物をね、
あつらえてもらったりしたんですって。
振り返って思い出しましたらね、
私がまだ子供の頃はね、
菊人形っていうのがあったんです。
ちょっとなんか不気味でしたけれどもね、
子供ごころに。
でも菊人形とかね、
菊と言いましたら、
香室を表す形容詞みたいなものですから、
それは盛大だったと思うんですよ。
で、民間人の我々も菊を飾ったり、
菊の着物を着たり、
菊のお節句はね、
一番盛大だったらしいですよ。
それが今なぜこんなにしょんぼり、
しかも旧暦の菊のお節句に、
キセワタなんか作ってる私なんて、
本当にレアな存在で、
そういうことで明日は、
ちょっと夫と2人だけしか寄りませんが、今は。
でもちょっと食卓は、
菊っぽく作ってみようと思います。
皆様も、
明日は長寄せ区のね、
1日前ですので、
明日ご準備なさって、
明後日の夜のお食事とかは、
菊で飾って、
菊っぽい、
日本酒にね、
菊の花びらをちょっと浮かべて、
おまじないというか、
浄化作用がありますのでね、菊は。
それで健康を願うわけなんですけれどもね、
ちょっと明日は甘酒を買ってこようかなと思っておりますが、
では皆様、楽しい徴用の節句の準備をなさってくださいませ。
ではごきげんよう。
17:08

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