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みなさん、こんにちは。
昨日ちょっと配信を休んでしまいましたけれども、少しバタバタしておりまして。
えっとですね、何をしていたかというと、いろいろね。
久しぶりに夫と出かけ、途中から私一人になって、なんだかね、こういうのってね、義理でいかなければいけないイベントだったんですけどね、こういうの苦手だったんですけどね。
まあでも、初めての体験だったので、私にしては知ってみればね、いい体験だったかなっていうふうに思いますね。
太刀の持ち方
では続いて、五輪の書続いてですね、錐の巻の、これね、前はね、目つけのところまで行ったんですね。
で、目つけの次に太刀の持ち方になるんですけれども、この太刀の持ち方はね、今とほとんど変わらないですね。
読んでまいります。太刀の持ち方のこと。太刀の持ち方は、親指と人差し指を浮かせる気持ちで持ち、中指は締めず緩めず、薬指と小指を締める心で持つ。
太刀を持った手の内に緩みがあるのは良くない。太刀を持つと言っても、ただ持っているだけでは良くない。相手を斬るのだと思って太刀を取らなくてはならない。
ここらへんがね、我々現代人にはね、ちょっとなかなかね、通じないところなんですよね。
実際に、太刀を持っていると思って稽古しなさいということは、私どももよく言われるんですけれどもね、相手を斬ると思って太刀を取らなくてはならない。
この一行なんですけどね。その斬るという行為がね、今のこの世の中には存在しませんのでね、それが、そういうことを日々稽古するということが、
剣道に限らず、弓道にしても、居合にしても、何にしてもそうですよね。武芸に関することは、全てそうですよね。しかしその瞬間は、現代人の我々には来ないんですよね。
相手を斬る時も太刀の持ち方に変わりはなく、萎縮しないように持たなければならない。相手の打つ太刀を叩いたり受けたりぶつけたり、抑えたりする時も、親指と人差し指だけを少し変える心で、とにもかくに相手を斬ると思って太刀を取らなくてはならない。
試し斬りの時の太刀の持ち方も、戦いにおいて相手を斬る時の太刀の持ち方も、人を斬る太刀の持ち方であることに変わりはない、と書いてあるんです。
ですので、武蔵が稽古する時は、たとえば素振りであっても、そういうふうに稽古していたということが推測されますよね。そうでなければならないと書いていますので、弟子たちにもそう教えたはずですよね。
そうじて太刀であれ、太刀の持ち方であれ、こり固まって動きのない有量を嫌う。こり固まるのは死んだ太刀の持ち方であり、こり固まることがないのは生きた太刀の持ち方である。よくよく心得るべきことである。
これが太刀の持ち方ですが、指使いとか手の内の感覚とかは変わらないんですけれども、決定的に違うところはどういう気持ちで持っているかということですよね。
これはまあ、そういうつもりで向かい合いなさいということはよく言われますけれども、一番違うところでしょうね、きっと。そう思いますね。
次、一つ足使いのこと。足の運び方のこと。つま先を少し浮かせ、かかとを強く踏むべきである。足の運びは場合によって大小、知足はあるにせよ。平然歩くときのようにすべきである。
足使いの教え
飛び足、浮き足、踏みとどめる足の3つは嫌う足の運びである。兵法の秘伝に陰陽の足の教えがある。これが大事である。陰陽の足とは片足だけを動かさないことである。
切るとき、引くとき、相手の立ちを受けるとき、また陰陽といって、左右、右、左、右、左と踏む足である。決して片足だけを踏んではならない。よくよく考え尽くすべきである。
足使いは現代と少し違いますね。現代はかかとを浮かせて、つま先の方に体重がかかっておりますね。これはボクシングとかはどうなんでしょうね。
かなり底の厚いシューズを履いているときは、全体に体重はかかっていると思うのですが、引いている方の足はつま先が上がっているものね。そこらへんは我々とよく似ていると思うのですが、
この時代、鎧を着装して立ち会うとき、鎧を着けていなくても刀で切り合いになる場面を想像すると、
どういう履物を履いているかにもよりますが、しっかりかかとをつけようと書いてあるのですね。
しかし、飛び足、浮き足、踏みとどめる足は嫌う足の運びである。飛んだり跳ねたり浮いたり、そこにとどまったりというのは駄目だということですね。
平方の秘伝に陰陽の足の教えがあると書いてあるのですが、前の足が陽で後ろが陰だと思うのですが、片足だけを動かさないことであると書いてあるのです。
前足を詰めるときのお話ではないかと思うのですが、ずっと分からないうちに右足だけを前に。
切るとき、引くとき、相手の立ちを受けるときもいいよと言って、右左と踏む足である。決して片足だけを踏んではならない。
結局、踏み込むときは必ず後の足がついていかなければ体勢が崩れちゃうんですよね。そのことをおっしゃっていると思うんですけれどもね。
五方の構えのこと。五方の構えとは上段中段下段右脇左脇の構え。この五つを言う。構えを五つに分けるわけはするが、いずれも相手を切るためである。
ここにも出てきましたね。構えはこの五つのほかにはないと断定しています。
どの構えであっても構えると思わず相手を切ると思わなくてはならない。ここにもまた再度出てまいりました。
この段2回目ですね。構えの代償は場合に応じ、かつりに従うべきである。
上段中段下段の構えは基本の構えである。右脇左脇の構えは応用の構えである。右脇左脇の構えは上方が塞がっていたり、脇の一方が狭い場合などでの構えである。
狭い路地とか、天井がある場所とか、左側とか右側に何か障害物があるとか。
場によって判別するって書いてますね。右か左かは。ですので両方できなくてはいけないということですよね。
構えの重要性
兵法の秘伝に構えの究極は中段であると心得ようとある。中段の構えは本来の構えである。兵法を大きく捉えてみるがいい。
中段の構えは仏性の座である。仏性に従って後の四つの構えがある。よくよく考え尽くすべきである。仏性の座である。中段で構えていなさいと。
将たるもの。なんだかそんな気がしますね。ただ武蔵は二刀流ですので、どちらで中段を構えたのか、木立なのか太刀なのか、それも場合によって変わるんでしょうかね。
次ね、ちょっと面白いところに入りますが、一つ太刀の道筋ということ。太刀の道筋を知るとは腰に刺している太刀を平成、指二本で振るときも太刀の通る道筋をよく知っていれば思うままに振れる。
太刀を速く振ろうとして太刀の通る道を逆らうと振りにくい。太刀は振りよいように静かに振る心で振る。扇や小刀などを使うように速く振ろうと思うために太刀の道筋に背いて振りにくくなる。
これは小刀刻みといって相手を斬ることのできない太刀の使い方である。
特に市内の場合と刀の場合でしたらそれは絶対にあると思うんですよ。市内でもちゃんと風を切る音を出して振れる人と、それの風を切る音が出せない人とに分かれますね。きっちり分かれますね。
刀で振る場合というのがよく分からないんですね。経験がないのでね。しかしあの形を見ると絶対に道筋というのはあると思いますね。
ですので市内とか木刀で風を切る音を出せる人というのはその道筋に逆らってないのかも分からないですね。
肩の関節とか上半身の使い方とか下半身の安定もあるでしょうけれども、私が見たときは膝をついて室内で素振りをされているんですが、
一回一回ヒュッヒュッという風を切る音がするんですね。しないです。それでね、愕然としちゃったんですよ。私自身が風を切る音が出せなかったんです。
今もそのような音はよほど苦心をしないと出せないです。全部出していらっしゃいましたのでね。すべて何十回何百回振ってもね。そこら辺ができていないのかも分からないです。本当にね。
太刀を下ろしたならば上げやすい道筋に上げ、横に振ったならば横に戻りやすい道筋に戻し、できる限り大きく肘を伸ばして強く振る。これが太刀の道筋である。ひょっとしたら肘がきちっと伸びてないのかも分からない。
肘を伸ばして強く振る、大きく振るということ、これは今の剣道と全く同じですね。
戻るように投げるように素振りをしなさいって言われましたが、ああいう時でもひょんと風を切る音が出ますもんね。戻す時も戻り道も太刀の道筋通りに戻る。
例えば重い竹刀であったり、木刀であったり、子どもが初めて竹刀を持った時とかは竹刀の方に振り回されるみたいな現象が起こりますが、そういうことなのでしょうね。
我が二天一流の兵法の五つの基本の構えを使いなれるならば、太刀の道筋が定まり振りよいであろう。よくよく稽古を積まなくてはならない。
必ずこの、よくよく銀にあるべしとか、よくよく稽古を積まなくてはならないとか、格段格段そういう言葉で締めくぐってあるのですね。
稽古を積まなくてはならない。その次も稽古を積まなくてはならない。その次も稽古を積まなくてはならない。その次はよくよく考究すべきである。考えて研究するということですね。
その次はよくよく考えを巡らすべきである。その次は愛の拍子を素早く打つ稽古を積むべきである。いろいろそういうふうに、これは武蔵の口癖であったのかもわかりませんね。
太刀の運びのことまで読み進めてまいりましたが、一番の違いは何といったって真剣を常に持っているということと、模擬刀も持っていないというこの違いですね。これが決定的な違いだと思います。
それと、この平和な世の中で、武器としての役目を放棄しながらも、剣道・宮道に存続したということは、
それ以外の部分に価値を見出したということですね。それ以外の部分に既に価値があったということだと思うんですね。
武芸と現代の心構え
江戸時代の平和な時代に、武芸がこれだけ伝承されてきたということは、斬るか斬られるかという真剣な態度で視野に臨み審査を受け、稽古をしなければいけないんですけれども、
そうやって稽古することに、その血闘とか戦とかがなくなった現代においても、何か全体を包む世界観みたいなものが優れてるんでしょうね。
でないと、長くこんなに続かないのではないかというふうに最近思いますね。
久しぶりに、こちらはいいお天気でございますが、することもいっぱいあるんですけれどもね。
何だかね、朝稽古を、こういうふうに五輪の章を読みながらもね、朝稽古をね、サボってしまったんです。
っていうのがね、もうね、考えることいっぱいあって、それで一つはね、
失礼しました。運送会社の方がタイヤを持ってきてくださいました。
朝稽古をサボったのは私は悪いんですけれどもね。
一応、4時半に目覚めたら、夫が朝稽古行かないのって言ってくれたんですね。
だから私はもうその時に、何だかもう考えることがいっぱいあって、ありすぎて、
もう今日は休むって言って休んじゃったんですね。
で、そっからね、二度寝をしたら、やっぱり考えてたことがね、見事に夢の中に出てきましてね。
一つはね、私の車のトランクに機能を入れたままの古い古い夫のピットで使っていた掃除機ね。
それをね、クリーンセンターに運ばなければいけないのに忙しくて運べなかったんですね。
入ったままなんですね。
入ったままで朝稽古に行こうとなると、それもちょっと無理があるんですね。
また下ろしたり、でもその汚い掃除機のところに防具袋を入れるというのもね、なんだかね。
まあそういうことをいろいろ考えてたんです。
それで、それとね、今月は香川に行く用事があるんですね。
そしたらね、もう昨日あたりから、夫はもう狭抜きうどんをどこで食べたらいいかと。
まあそれは向こう行って、向こうの地元の方に聞いた方がいいんじゃないのみたいなね。
そういうことでね、そういうことを言われましたらね、
おうどん好きの私もね、もうね、おうどんのことで頭いっぱいになってたんですね。
そしたら、今度ね、再来週にある3人で出る団体戦のね、一番ご高齢の先生が、ちょっと体調不十分で出られないかもしれないって言ってきたんですね。
で、そうなるとね、2人で出るのかい、みたいなことになって、
残った私ともう一方の男性と、その2人で3人戦を戦うの、みたいな。
はー、みたいになって、あっちこっち電話をしまくったんですよね。
うーん、そうしたら、途中でハタと気がついたらね、その試合は40以上でなければ出れない試合。
20代ばっかりに電話しまくってて。
もう本当にもう昨日はなんかね、パニックでしたね、私ね。
それでどうするの、どうするの、みたいな。
どうでもええやん、そんなこと、みたいな。
もうね、そんなね、高齢者の試合なんてね、もう1人かけようが2人かけようがどうでもいい話なんですけれども、
なんか私にしたら、なんなんこのチーム編成、みたいな。
そういうこともあって、どうしようとか思ってたんですよ。
そうしましたらね、もうね、ゆめがね、あの、剣道の道場でみなさん整列してるところにね、私がね、掃除機でお掃除してるんですね。
しかもその掃除機の後ろにね、大きな大きなね、ダブルのサイズぐらいの掛け布団ぐらいの冷凍のおうどんがね、引っかかってついてきてるんですよ。
で、私はお掃除しなければしなければ。
なぜ掃除機で道場を掃除してるのかわけわからないんですが。
もう起きなさいって、もう6時半頃に夫に寄り起こされた時に、その夢を見てたんですね。
そうしたらね、それを説明しようと思うんですけれども、あまりにもね、その、寝る前に考えてたことがね、
よくもまあ3つこんなにね、融合されて出てくるわって思うぐらいおかしくって。
それでそれをね、まだ夢から覚めてないのにね、夫に説明しようとしたら非常に苦しいんですよ。
笑ってるし苦しいし、説明できないしでね。
もうなんだかね、今朝は大変でございましたけれどもね。
まあそんな困難もございまして、なんだか言ってる間に2時を過ぎてしまいましたが、
今日も夕方にはちゃんと走ってこなければいけないと思うので、そういうことはきちっとして、
よくよく稽古あるべし、よくよく稽古積むべしと、
武蔵先生、大先生に言われていると思って、生活したいと思います。
日常の、日常の姿も、構えた時の姿もどちらも同じであるとおっしゃってたので、
ちょっとそこらへんはわきまえようとしております。
では皆様ごきげんよう。寒くございますのでどうぞお気を付けくださいませ。
ありがとうございます。どうぞごきげんよう。