今、お話があったりすると、この宇多川さんの本にしても、千野さんの本にしても、最近出された、お近くにいらっしゃる方の本ではありましたけど、
川上さん的に、最近読んでたわけじゃないにせよ、なんかちょっとこれ人生全体で考えてみたら、読みかけというか、まだ読み終わってない感じがする本とかってあったりするんですか?
えっと、それはですね、今回こういう企画に出演しようということで、自分の家の本棚から何かちょっと、どういう本が自分を形成しているのかなって改めて見てみようと思ったんですけど、
その中で今日ちょっと、今日というか、ちょっと改めてパラパラと読み直してみようみたいな感じで引っ張り出してきて、ちょっと読み始めているのが、マネーボール。
はいはいはい、マネーボール。
これはアメリカの本かな。翻訳されて日本でも結構売れた本だと思うんですけど、結構有名な本ですよね。マイケル・ルイスさん、著者は。
で、アメリカのメジャーリーグのお話を実際に追いかけて取材してまとめた本ですけど、アスレチックスっていうメジャーリーグのそんなにお金がないチームが
今はちょっと勢力また変わってますけど、アスレチックスが当時強くて、これがお金持ちの球団を、ある意味出し抜いて強く勝っていくっていうのを、なんで勝てるのかっていうのを追いかけたみたいな、そういう本ですけど
これが既存の常識であまり注目されてなかったようなところに注目して、勝てるチームを作っていくみたいな。
で、なんでそこに注目するんだろう、なんでそこに注目できるんだろうみたいなところを色々探ったり。
既存の常識からしたら、そういうところに注目するなんて既存の常識ではありえなかったので、当然圧力もチーム内で、チーム内というか選手というよりはむしろチームの運営側、選手を集めたりするスカウトとか、そういったところで圧力が生じるのをどうやって解決していくかとか、
そういったことが本の中ではまとまっているとよくしてるんですけど、なんとなくちょっと改めて読み直してみたいなと思って、ついつい引っ張り出してしまったのがこの1冊でしたね。
それって多分川上さんも本棚を眺めたときに、その1冊を手に取ってられたんだと思うんですけど、その本から川上さんは何をもらってたというか、何を感じたんですか、前読んだとき。
僕は当時そう感じて、今だったらまた違う解釈するかなと思うんですけど、当時感じたことがこんなだったなと思って記憶しているのは、数字がこんなに現実を動かせるんだっていうことですかね。
当時思ったのは、僕はずっと野球をやっていたので、学生時代中学高校くらいまでやってて、この本見たのは大学生の時だったんですけど、読んだら僕も野球のそれまでの常識を知っていたので、
それまでの野球の常識とは全然違うところに注目してチームを作っていく。そこで注目しているのが統計データだったんですよ。
統計データって、それまでの野球の世界って現場の人たちが感覚的に追いつけるぐらいの統計の出し方しかしてなかったと言っていいのかわからないですけど、そんな感じだったんですね。
でも実際に統計データって、ちゃんと統計を勉強している人が数字を集めてまとめ直したら、また違う観点から違う知見が出てくるじゃないですか。
僕はそういう現象があるんだっていうのを、この本を読んで、実際に起こった出来事なんで、そういう点でも現場の感覚をちゃんと統計を勉強している人が数字を集めてまとめ直すと、
常識を壊すような新しい知さが得られるんだっていうことがすごく面白くて。
それで、僕は大学の翌年の授業、統計とかデータサイエンスの授業とか、学部を越えて取ったりとかしたんですけど、
それぐらいその当時影響を与えて、今も野球好きだっていうのも多分この本を思わず手に取った理由としてはあるんだけど、
何となく今振り返るに、僕のお茶のその稽古場の指導スタイルがどちらかというと理屈っぽくなっているのは、その先の影響、この本の後の経験が何か影響を与えている部分があるかなとはちょっと感じたところ。
なるほど。ちなみに川上さんの指導スタイルが理屈っぽいんですか?
僕はどちらかというと理屈っぽいと思いますね。
動作とか考え方、あるお手前、こういう時にはこういうお手前しますよみたいなのも、その背景にある考え方とかそういった部分も全部、例えばここはこう動いてくださいっていう時に何かなぜならっていうのを必ず添えたくなっちゃいますね。
そうなんだ。そうなんですね。
面白いな。そうなんだ。
あとはその動作とかも、
具体化と一般化を行き来従るというか、
なるほど。
何て言うんですかね。
例えば、こういう場面ではこのように歩くと綺麗に見えますよみたいな歩き方を指導するとするじゃないですか。
その場所ではこういう風に動くんだけど、どういう場所に行ってもこういう基準で考えて歩けば、
どういう場面でも具体的にどう歩いたらいいか分かるようになりますよっていう一般化を添えたくなるとか。
そうなんだ。
なんか理屈っぽい。
理屈っぽいみたいなことに対してご自身としてはどんな感情があるんですか。
理屈っぽいのは、それが合う人と合わない人と多分いると思います。
とりあえず体に叩き込んじゃいたい人もいれば、
この動作は何でこの動きになっているのかっていうのを把握した方が、
腑に落ちるというか納得感があって次に進みやすい人もいると思うし。
どっちかっていうと僕は背景も説明したがるタイプですね。
それは何かそれで結構良かったり困ったりすることがあるんですか。
あんまり困ってないかな。でも確かに。
多分多くの人はどうなんですかね。
僕の稽古場にいる人はどっちかっていうと理由も知れた方が納得感があるから嬉しいみたいな人が多いように見えてます。
なるほどなるほど。
心の底でどう思ってるかわかんないですけどね。
どっちかというと、これ本の影響もあるけど、
もう一つは僕は祖母の逆影響というか、逆影響という言い方でいいのかわからないですけど、
僕の祖母がどちらかというと理由はいいからとにかく言われた通りに動きなさいのスタイルの指導だったんですよ。
そうなんだそうなんだ。
僕は子供の頃に祖母がまず指導をつけたいって言って、
父や母じゃなくて祖母が僕に手前の指導をしてくれたんですね。
ところが、そういう点で僕は子供の頃からある程度理屈っぽかったんで、
この場面で次はこのように動いてって言われた時に、
なんでこの動きなのかっていうのを聞きたかったんですよ。
例えば、次はこの道具を右手を伸ばして取りなさいって言われた時に、
一手前終わった後、例えば繰り返しでもう一回手前する時に、
その場面で左手でたまたま手を伸ばしたとすると、
祖母からそこは右手だって言ったでしょうと、右手ですって言われて、
え、でも左手でも取れるじゃない?なんで右手じゃなきゃダメなの?
僕は聞いちゃうタイプだったんですよね。
確かに左手の方が近いじゃんって思うこともありますよね。
で、そこが祖母は質問を許さないというかね、
だから言われた通りに右手を伸ばしなさいのスタイルだったんで、
そこで理由が説明されないことが、
僕は納得感がないまま次へ進まなきゃいけなくてすごく不満だったので、
それが嫌だったみたいな影響は、
僕が必ず自分で手前の動きを説明したりする時には、
なんでなのかなっていうのは必ず説明する、したくなっちゃうって感じですね。
なるほど。
いやでも確かにそういうのってちっちゃい頃から来てますよね、何かしらの影響が。
そうなんだ。お茶の時以外の川上さんはそうなんですか?
多分割と理屈っぽいと思いますよ、僕は。
そうなんだ、そうなんだ。
なるほどね。
何て言うんですか、理屈っぽいかどうか分かってないですけど、
少なくともそこの理由を丁寧説明されるっていうところと同時に、
余白もすごい許しているような感覚を僕は勝手に持ってましたけどね。
別にそこをずっとやり続けなきゃいけない理由はわけではないというか、
柔軟さっていうんですか?
それは目的設定が僕の中で、
歌をやる目的っていうのは気持ちよくなるとか心地よく過ごすとか、
そういうところに目的がある。
他の趣味も究極目標はそこっていう趣味多いと思うんですよ。
音楽でもダンスでも。
スポーツとかでも究極目標は気持ちよく過ごすとか。
勝ったら気分いいからみたいな。
っていうところはあると思うんですけど、
お茶も究極目標は気持ちよくなる、心地よく過ごすんだと思っているので、
その目的に合ってないような型へのはめ方とか、
制約をつけすぎて苦しくなっちゃうとか、
そういうのは違うんじゃないかなとは思う。
お茶の世界の場合もう一つ古典みたいな考え方もあって、
古いものが残っていることに価値があるとか、
昔ながらのやり方を改めて味わえるからそこに何か良さがあるとか、
そういう部分も現実としてあるとは思うので、
何でも変えちゃえばいいって思ってるわけじゃないんですけど、
あとは流儀の責任として古いものを古いままちゃんと維持するとか、
そういうことが流儀の責任として存在するとは思っているので、
皆さんお茶を楽しむ側が古いものを自分も身につけたいとか、
勉強したいって思う人は一緒にやってくれればいいし、
そこに自分は価値感じないですっていう人は別に、
お茶は好きだけど古いものを型通り覚えたいとか、
そういうのは別にいいですっていう人は別にやる必要ないと思っているので、
だから流儀の存在の責任という部分もあって、
古い部分は古い部分でちゃんと勉強もしますし、
稽古場でそういうのを知りたいですっていう人には伝授というか、
お話したり指導したりもしますけど、
別にそこは手段というかね、
目的はお茶を媒介として心地よく過ごすことみたいな、
そっちだよなって思ってるところですかね。
なんかそれを聞いてみると聞きたくなっちゃったんですが、
伝統というか文化みたいなものを相応じてかもしれませんけど、
他道って今後未来どんな風になっていくと思います?
それはその時代におけるバランスをとりながら、
その時代の人に楽しまれていくっていう形で、
向こう、すぐ消えるものではないかなと思います。
日本伝統文化の中では。
古いものが好きな人とか、古い形をやることが好きな人も、
お茶好きな人の中には結構多いので、
古い形にもなんだかんだ受け継がれていくとも思ってます。
同時にその時代の、
例えば明治以降でもテーブルを使ったお茶みたいなのは、
割と早い段階で作られたりとか、
現代は結構いろんな流儀がオンラインの活用はしているし、
デジタルデバイスの活用もしているし、
現代のアートとかコラボレーションしたりとか、
そういった形も結構取られているし、
現代の人たちなりの楽しみ方というのが徐々に、
縁が拡張されていく感じというのは、
ずっと続いているので、
それはそれで今後も続いていくとも思いますし。
割とだから、僕らの流儀、江戸線家は、
稽古場以外でみんな、
稽古だけで終わるんじゃなくて、
稽古場以外でもお茶やってねっていうことは推してるんで、
自分の部屋で抹茶飲んだりとか、
別に手前じゃなくて、
リビングのテーブルで茶碗持ってきて、
そこでホットでテーブルの上でお茶食べるのとか、
友人とどこか山に出かけたとき山頂でお茶飲むとか、
そういうことやってる人も結構、
うちの流儀、他の流儀もいると思うんですけど、
うちの流儀、結構いてくれてる印象はありますね。
そう言われてみると、
昔の僕の先生、師匠にもそれすごい言われた記憶がありますね。
確かにな。
それはその人が普通にそういうのが好きで言ってくれてるのかと思ってましたけど、
もしかしたら江戸線家としてみたいなところを受け取って、
そう言ってくれてる部分があったのかもしれないなって今初めて思いました。
そうだと嬉しいですね、僕らとしては。
なるほどね、なるほどね。
面白いな。
やっぱり、作法を学ぶ場みたいな要素って、
お茶飲みの歴史上確実にそれは要素としてあったんですけど、
でもそこはなんか、コアの要素じゃないというか、
コアの要素じゃないんだ。
作法を学ぶ場、特にマナーを学ぶ場みたいな言い方が、
僕は一番そういう言い方はしないでほしいなと思っているイメージ。
そういうふうに思われてたら一番誤解というか、
それを解きたいなというふうに思っちゃうイメージなんですけど、
本来、千利休とかの時代で言えば武将がマナーを学びに来てたんじゃなくて、
交流をしに来たりとか、
お茶を使って良い時間を一緒に過ごそうというか、
共有しようみたいな、そこがやっぱりコアだったと思うので、
そっちは、今ももちろんそういうカルチャーが生きてるわけですけど、
あくまでもマナーとか作法っていうものは、
お茶を勉強していたら、
結果的にそこを身についたなっていう部分が、
強調されすぎた部分があるのかなとは思います。
なるほど、なるほど。
もしかしたらどっかで話したことがあったかもしれないですけど、
明治以降とかに、明治維新があって日本文化が割と不遇になった時代とかに、
それまでお茶を好きでやってくれていた層の人たちが、
西洋文化の方にどんどん目を向け出した時代に、
当時お茶で生計を立てていた我々のその時代を生きていた人たちっていうのが、
お茶を学ぶと作法、マナーが身につきますよみたいなことを強調して、
そこを拡張していったとか充実させていったみたいな側面が、
お茶の歴史上はあるので、
そういったのの影響が、そこが当時は大成功したというか、ある意味。
それで結構茶の人口が増えた、昭和ぐらいまでかけて、
マーケティングみたいなもんですよね。
結果、ただそのおかげでというか、
お茶というとマナーを学ぶ場みたいなイメージが、
強くなりすぎたということね。
そういう影響はあると僕は感じていた。
ここはさすがに今の時代、ちょっと合わないんじゃないの?とは思ってます。
今でこそ僕も茶道をそんなに触れなくなって、
時が経っておりますけど、
茶道をやらせてもらっている時とか、
それが終わった後とか、
今でも部活は何をやっていたの?みたいな話とかの話になって、
大学で茶道をやっていたんですよ、みたいな話をすると、
どのタイミングでもそれを人に言うと、
比較的すごいカッチリした人なんだねとか、
真面目な人なんだねとか、
丁寧な人なんだねという印象を勝手に持たれる人がすごいあって、
ある意味ありがたい。
ポジティブなことは?
ネガティブなことは一切なくて、
ポジティブな感じではあるんですけど、
どういう別にカッチリしたような気もするわけでもないし、
すごいマナーを身に付けたくてやっていたかというと、
どっちかというと和菓子がおいしいとかかわいいとか、
そういうところだったりとか、
もちろんそこの時間を楽しみたいという感覚だった気がするよな、
みたいなことを思ったりして、
若干嬉しい一方若干モヤモヤみたいな感じがあるな、
というようなことを今でも思ったりはするんですけど。
僕も大学作動部途中から、
1年生の時入らなかったんだけど、
途中から大学の作動部に入ったんですけど、
大学の作動部のイメージは、
確かに学生のお酒を使わない飲み会の場に近い空気があったような気もしますね。
面白いですね。その表現面白いです。
飲み会は飲み会で行くし、
お茶も飲んだら本番のお茶会でタケット食事出るわけですけど、
大学のキャンパス内の茶室で活動があったんですけど、
そこで手前ももちろんやってるし、
お茶の勉強もしますけど、
割と雑談してるなっていう印象がありましたね。
お稽古中とかにね、ずっとね。
なんかわかるな。
いやーでも面白い。
コアなところがあれですね。
時代によってバランス取りながら変化していくとか。
なるほどな。
コアの要素はそこじゃないと。
バランスとか作法じゃなくて、
良い時間を過ごす方が交流を楽しむみたいなところにあるって。
なんかちょっと今改め聞きながら、
なんかね、いいな。
ちょうど僕が館長になった図書館とかも、
本を読む場みたいな、本を借りる場みたいな思われやすい。
そういった側面はあるけど、
やっぱなんか本だけじゃなく、
なんかいろんなものとの関わり合いだとか、
交流みたいなところとか、
良い時間を楽しむみたいなところがある気はしてて。
なんか比較的今のお話を聞きながら、
もしかしたら近い話を、
結局図書館にもあるのかもしれないなって思ったりしましたね。
はいはいはい。
何かその人が集まって、
そこで交流、
本が中心媒介になりつつ、
そこで交流や、
化学反応が起きる場みたいな。
なんか一人で行って、
そこで一人で過ごすっていうことも本の、
図書館の魅力の一つではありますけど、
交流が起きるのも図書館の、
もう一つの魅力、
いろんな要素がある中の一つかなとは、
僕思いますね。
そうですよね。
しかも僕が今いる図書館の創設時コンセプト、
今でもそうなんですけど、
交流と創造を楽しむ文化の拠点っていう、
コンセプトがあるんですよ。
交流と創造を楽しむ文化の拠点。
そうそうそうそう。
なんかあって、
今のお話とかも聞きながら、
あんまり今日この話の中で図書館のこと考えてなかったけど、
佐藤と比較的近しいところがあるのかもしれないっていうのは、
個人的にこの時間を通してのちょっと驚きではあります。
面白いな。
図書館は、図書館の構造って、
館によってさ、
まざまざと思うんですけど、
歩いてても楽しいですもんね。
そうですね。
そうそうそう。
一人で歩いてても楽しいし、
誰かと行ってもいいし、
誰かと待ち合わせてるって人もいますしね。
なんかね、
よく日本のそういう学園モノドラマ、
アニメとかそういうのだと、
図書館がそういうキーになった場所になったりとかね、
そういうのもありますよね。
実際本当に起こってるかどうか、
そんな頻度で起きてるかどうか、
確かに。
確かに図書館で何も喋らないけど、
お互い見つめ合ってなんかみたいな、
そういうシーンとかいますよね。
面白い。
ありがとうございます。
すごい時間をオーバーしながら、
お話をしてしまいましたが、
すいません。
結構いい時間になってきてしまったな、
というふうに思っておりまして、
最後一つ、
くのほか質問させてもらって、
お別れの時間になっていけたらな、
みたいなことを思っておるんですけれども、
毎回この番組終わるときにですね、
ゲストの方に一つ問いを投げかけてもらって、
終わっていくというスタイルを取っておりますと。
はい、問いかけ。
問いですね。
それは何かというと、
この時間を通して改めて、
川上さんとして考えたくなった問いでもいいですし、
別にこの場合問わずですね、
最近すごく頭の中に、
頭の片隅にあったとても大事な問い、
考えたいこととかでもいいんですけど、
そういうものを一つ言っていただきつつ、
それがですね、
リスナーの方にとってもいい問いになったりもするだろうし、
またまたゲストの方もですね、
半年後とか1年後ぐらいに自分の出てくれたこれを聞き直して、
確かにそのとき考えた問いって今どう思ってるんだろう、
みたいなことをですね、
後から感想を送ってくれるゲストの方も結構チラホラいらっしゃったりとかしてまして、
そんな未来の川上さんへのご自身へのプレゼントみたいなこと、
感覚も含めてですね、
今の川上さんの中には問いを一つもらえると嬉しいななんて思ったんですけど、
どうなのかあったりしますか。
僕の中での問いかけっていうと、
今話を聞きながら思いついたのは、
思いついたのはもう茶の湯、
茶道、茶の湯っていうものは、
後世に受け伝える価値が本当にあるのかっていうことですね。
なるほど。
これはもうずっと、
適宜頭に思い浮かんでしまう。
そうなんですか。
人生の中でずっと適宜頭に思い浮かんでしまう問いかけですね、これは。
茶の湯というものは後世に受け継ぐ価値があるのか。
なんというか、
よく伝統文化って、
受け伝えていくことが大切だみたいな話ってされるんですが、
割と伝統文化だから残さなきゃっていう文脈で終わってしまうことも多いように感じていて、
伝統文化だから残さなきゃ、
伝統文化だから残さなきゃと伝統文化だからの間には、
本来はワンクッション挟まるはずで、
伝統文化だから残すべきっていうことじゃなくて、
本当に茶の湯、
それを言ったら、ありとあらゆる昔ながらのものを残していかなきゃいけないはずだけど、
その中で現実には消え去っている伝統文化とか、
捨て去った伝統って、
現実には良い悪いの判断は置いといて、あるわけで、
その中で茶の湯は残そう、
茶の湯は受け伝えようっていうふうに、
言えるだけの何かってなんだろうなっていうのはずっと思っちゃいますね。
なるほど、川上さんもそうですよね。
家元になられたのは最近だとしても、
ずっと昔からいつか自分もそういった立場に、
この茶の湯という世界を次の時代に持っていく、
ある意味人間になるのかもしれないみたいなこともずっと思われていたんだろうなと思うし、
今改めて家元って立場になられてみると、
確かにやっぱりその流儀だったり、茶の湯というもの自体を次の時代、
令和の次っていう意味かもしれないし、50年後とかかもしれないですけど、
たぶん連れていく一人の人間ではあるじゃないですか。
そういった役割も持たれたりするんだろうなと思ったりすると、
確かになんかより川上さんとして気になる問いというか、
考え続けることがずっと続きそうな感じのある問いだなってみながら思いましたね。