「深呼吸の必要」について
普段はそういう本はある?もう何回読んでも、この本は。
あー、はいはいはい。
えっとねー、なんかそれこそ、悠也さんの話聞きながら僕の中で思い出していた本が、
えっと、
詩なんですけど、
小沢博史さんっていう方の、「深呼吸の必要」っていう詩集があるんですよ。
深呼吸の必要。
この小沢さん自身はもうお亡くなりになられている方なんですけど、
めちゃめちゃたくさん詩書いてた方で、この方の詩集は僕ほぼ全部持ってる。
あ、へー。
それこそ、さっき悠也さんが、パーッとくぐり抜けるようにみたいな表現したときに、
僕はもしかしたら、この深呼吸の必要のとある一つの詩かもしれないなってふと思いながら聞いてたんですけど、
それがこの深呼吸の必要って中にある、あの時かもしれないっていう詩があって、
それはなんか僕の中では、何だろう、これいつから何だろう、読んだの。
僕は悠也さんみたいにちゃんと記録とってる人間じゃないけど、
たぶんね、僕も学生時代とかからだった気がする。
長い付き合いだね、じゃあ。
うん、です。
詩といっても結構長いんで、今読めるレベルの文章量じゃないんですけど、
1本小本で何ページ、6ページぐらいあるんであれなんですけど、
なんか冒頭だけ読んでみようか。
えっと、君はいつ大人になったんだろう。君は今は大人で子供じゃない。
子供じゃないけれども、君だって元は一人の子供だった。
子供の頃のことを君はよく覚えている。
水溜り、川の光、陽炎の道、縄跳び、置いた桜んぼの木、
学校の白いチョーク、初めて乗った自転車、初めての海、君は皆覚えている。
しかしその時、汗つぶを飛ばして走ってた子供の君が、
いったいいつ大人になったのか、君はどうしても上手くもんですね。
みたいな感じで進んでいかせたんですけど、
基本的にこのあの時かもしれないっていうタイトルの詩が9、50個ぐらいあって、
全部、「君はいつ大人になったんだろう?」とか、「いつ君は子供から大人になったのか?」
みたいな子供と大人の境目について、ずっといろんな視点で語ってる詩なんですよ。
君が生まれて初めてぶつかったなんだい。みたいな話とか。
全部だいたい終わりが、その時だったんだ。
その時君はもう一人の子供じゃなくて一人の大人になっていたんだ。
みたいな感じで全部終わっていくんですよ。
っていうのがあって、それとかは僕の中だと、
どれぐらいの頻度かな。
1年に1回ぐらい。言うても6ページとかなんで、パーッと一瞬読むぐらいですけど。
ちょっと引っ張りだして、今自分は大人だけれども、
僕はこの観点ではいつから子供から大人になったのだろうか、みたいなことをちょっとふと思ったり。
なるほど。観点ごとに違うかもしれない。
それは読むたびに全然思うことも違うよって気がするし。
こういう詩だと、一冊も読むというよりかはやっぱり一つ読む意識が向くんで。
結構一瞬で終わるんですよ。だから結構気楽に開けるみたいな感じがある。
なるほどなるほど。
そうか。いいね。そうすると詩とか短編集とかいいかもね。気軽に。
そうですね確かに。結構気軽になんだろうな。
でも結構僕よくやるかも。寝る前に一つだけ詩読んで寝るみたいな。
あー言ってたね。
そうすると、他のほら、それこそこの前ゆうやさんが出しておられた本とか、
あの文章、僕今まだ半分ぐらいしか見てないですけど。
あれ全部読もうと思うと結構時間かかったりするけど、他のどんな本も全部そうですけどね。
ただ詩だと一瞬で終わるし、それを読み終えるだけで、今日も読めたなーみたいな。
うんうんうんうん。
っていう感覚になってる僕がいる気がします。
あーなるほどなるほど。大事だそれ。
「ハドリアヌス邸の回想」
しかも今それ聞いてて、長編の本でもある一箇所だけすごい繰り返し読んでる本とかあったわ。って思い出した。
それなんすか?
これね、ハドリアヌス邸の回想っていう本で。
えー何それ。
ハドリアヌス邸の回想。
リュウツザーナっていう本で。これヤバい本なんだけど。
ハドリアヌス邸っていつの時代の誰だっけ?
ローマのさん。ご検定の人。
はいはいはいはいはい。
うんうんうんうん。ご検定だ。
そうそうそうそう。確か。あ、そう、ご検定の人だね。
で、そのハドリアヌス本人が書いてるとしか思えないような、ハドリアヌスの回想録で。
もうね、マルグリッド・イルスナルさんっていう著者がもう憑依してるとしか思えない文章で。
あーじゃあ別に本人が残ってるとかそういう意味じゃなくて。
あうんだよ。
違うんだ。
そう。で、余談になるけど、この人はこの本を何だっけな、20代か何かで一回書き始めたんだけど。
ある瞬間にこれはまだ私が書ける本じゃないって悟って、20何年後に、今だって言って書き直したっていう。
すげー。
ものすごい長い、その、書いてない期間も含めたらすごい長い年月経て。
うんうんうん。
なるほど。
で、この本、本当に一部一部噛み締めるタイプの本だから全部読もうとすると大変なんだけど。
10ページにある5行ぐらいの文章をめちゃくちゃ繰り返し繰り返し読んでた。
え、それなんか、なし良ければ読んでくれないですか。
いいですよ。
これはね、ちょっと待ってどこだっけ、これだ。
えっとね、思い違いをしないでほしいが、希望的想像と同じくらい愚かしく、
それよりも確かにずっと苦しい恐怖の幻想に身を委ねるほど、私はまだ弱っていない。
仮に私が自分を欺かねばならぬとしたら、信頼の側に身を置く方がましであろう。
その方が恐怖の側に身を置く以上に、失うことはなく、苦しみはより少ないというものだ。
えっとね、
あ、ちょっと飛ばして、
今しがた話した、あの声がたい限界の内側で、
私は一歩一歩人生を守り、何寸かの湿地を回復することさえできる。
ってちょっと高尚な文章なんだけど、
希望を持てないような感覚の時にすごい何度も読んで、
あー、気持ちを思い出そうとしてるんだけど、
希望を持てない時の。
希望的想像と同じくらい愚かしく、それよりも確かにずっと苦しい恐怖の幻想。
だから、恐怖の幻想と同じくらい、希望的感想、希望的な想像っていうのも愚かしいことなんだけど、
でも、その恐怖の方に身を委ねてしまうほど、まだ自分は弱ってないんだっていう。
あの、いい聞き方。
そうそうそう。
でその、
状況としては、このハドリナンスさんが治んない病というか、
もう、体がボロボロになっちゃって死を予感しているタイミングなんだよね。
定感というのかな。人生への諦めがあらゆる哀愁感がある文章なんだけど、
そういう状況の中でも、最後の一歩一歩人地を守りっていう時に、
自分が失望に押しつぶされそうになっても、それでも譲っちゃいけないところ譲んないみたいな。
人地を守るって言葉でグッときた後に、その後に何寸かの執事を回復することさえできるっていう、
守りだけじゃない姿勢というかね。
なんかその辺が、今ちょっと一部を抜き出して読んだだけだったんだけど、
さっき言ったように、天体に漂う哀愁感とかと相まってね、すごい響いちゃったんだよね、ここが。
そこだけ何度も読んでるんですね。
繰り返し読む読書の方法
ここだけね、すごい何度も読んでる。
すごいなー。
だから、380ページぐらいある本のうちのある5行ぐらいを読んでいますよ。
なるほどな。
だから、何度も読み終えずに開いてる本かな。
確かに全部のページを読み終えるというふうに、読み終えるという言葉の定義が全部のページを読み終えることだとしたら、確かに読み終えてないけど。
でもなんか、ゆうやさん的に読み終えてたりするのかなと思ったりしたというか。
おお、さっきと逆みたいな感じ。
そうそうそうそう。
なんて言ったらいいかな。
その5行を読むことによって、ゆうやさんの中で何か希望が生まれて、それで、ああそうだって思えてその本を閉じたんだとしたら、もはやそれはすごく良い読みだなというか。
そうかもね。その瞬間の中でのその本の役割はちゃんと終えてる感じがするよね、瞬間。
なるほどね。その瞬間でのその本の役割を終えている、確かに。それいい言葉っすね。
ゆうやさんと谷村優弥さんの登場
その瞬間の自分にとっては、その本を読み終えたと言っても過言じゃないのかもしれないね、もしかしたら。
ああ、過言じゃないかもしれないですね、それは。
面白。
そうかもね。
いやー、いいな。
大抵読んでるんだな。
そうか。
いやー、ありがとうございます。もう、なんか、すごいもっと聞きたいけどなんだかんだ時間だなっていう感じで。
あ、マジで?
もうあれですよ、話し始めて40分ちょいぐらい。
うそ?
話しております。
なんか、冒頭の10分のウォーミングアップだと思ってた。
それはちょっと言い過ぎじゃないか。
いやー、ありがとうございます。
今、なんか、あげてくださった本が、この家庭の歌を聴く。
あと、1973年のピンボールですね。
うんうん。
どちらかというと村上春樹さん。
そして、ハドリー・アヌステの回想。
それが、お名前すっ飛んじゃったけど海外の方でしたね。
マルグリットを許すのある。
なんか、覚えるのは難しそうな。
いやー、ありがとうございます。
今、3冊あげていただきながら話してきて、基本的にはこの番組第1回。
もしかしたらポッドキャスト上2個ぐらいに分けてるかもしれないですけれども。
初めてやらせてもらって、個人的には単純に獲得というか単純にすごい楽しかった。
言わせたんですけど、ゆうやさん的にはどんな感じですか?
面白かった。話しながら、そうか、その読み方してたかってことに気づいたり。
そもそも、つんどくしちゃってる本の話だと思ってたから、
その話ができたのかっていう気持ちもありつつ、
でも、なんか、違う観点からのね、
いわゆるつんどくな話じゃないけれども、
読み終わった、読み終えてないの概念が拡張されるような感じがあって、
なんか、ちょっとまだ話したいねって感じだね。
ありがとうございます。
ちょっとまた数回いろんなゲスト呼んでやろうと思って、
またどこかでお呼びできると嬉しいなと。
その時にはちょっと面白い話ができるように。
全然全然。十分面白かったです、単純に。
そっかー。
ちなみに最後、この番組として毎回やるのかちょっとわからないけど、
今ちょっとした思いつきで、最後ゆうやさんに一つ聞かせてもらって、
終わりにしたいなと思ったことがあるんですけど、
ゆうやさん的に何か、今日の話を通して、
これもうちょっと考えたいなとか、感じたいなって思ったこと。
何かあったら教えてほしいなと思っている。
それをむしろゆうやさんだけで考えるとかじゃなくて、
これをまだ一回目だし、どんなふうになるかわからないけど、
聞いているリスナーの皆さんがいたとして、
一緒に考えるとしたら、どんなことを考えたいかみたいな。
今ゆうやさんの中に出てきている問いみたいなものがあれば、
すごく聞いてもらえるとすごく嬉しいなって思ったりしました。
そうだね、何かあると思う。
言葉になってないけど。
一つは、読む喜びをいかにして取り戻せるのかっていうのは、
さっきの常備役的な本っていうのが一個あるけど、
もっと他に探りたいなって思ったし、
考えているうちに時間が経っちゃった周りだから、
とりあえず答えをあげておこうかなと。
読む喜びをいかにして取り戻すのか。
確かにさっきの話だな。
なぜ消えていってしまうのかもセットのね。
なぜ消えていってしまうのか。
確かにな。
読めないって言った時に、
読む時間すら取れないってこともあるかもしれないけども、
出ても読めてない時ってあるじゃん。
時間あっても読めてないとか。
あと読書してるんだけど、ページをめくって文章持ってるんだけど、
なんか読めてるのかな、これみたいな時。
うんうん。
あるし。
目は通してるし手に持ってはいるんだけど何か読んでいるのかみたいな感じの。
何なんだろうな、そういう時もあるかと思って。
ありがとうございます。
これを聞いている人にその問いを投げかけて、それの答えが返ってくるか、
それがどうやってやるのかよくわからないけれども、
少なくとも今僕の心の中にその問いが入りましてありがとうございます。
ありがとうございます。
番組の締めくくり
じゃあですね、今日ここの読書のまにまに、
タイトルもまだ定まってないけれども、
ここで終わりにしていこうかなと思っております。
今日もこの場一緒に聞いてくださった皆さんありがとうございます。
この番組へのご感想、ご質問みたいなものとかを
受けたまわれるようにできたらなと思ってるんですけど、
どうやったらいいんでしょうね。
多分きっとXとかでやるんじゃないかなと思うんですが、
ここの番組の説明の部分のところとかにも書いておこうかと思いますが、
ぜひもしありましたらお願いしますというところで、
今回第1回ゲストがエディ出版プロデューサーの
谷村優弥さんでした。
優弥さんありがとうございました。
ありがとうございました。