はい、今日も始めていこうと思います。読書のまにまに。この番組は、あらしとゆうきがナビゲートしてお届けしております。
この読書のまにまには、読書の途中で生まれてくるいろんな声を聞いていく番組です。
本編、読み切ることが念頭に置かれることが多いような気がしていますけど、読むって難しいと思っています。
読み切ることに意識を向けて読み終えると、あまり覚えていなかったり、あれ、この本編なんで読んだんだろうとわからなくなったりすると。
この番組では、読み切るとか読み終えることには重点を置かず、読んだ数十ページとか一ページ、あたまったらもはや手で触れただけでもいいかなと思っています。
ゲストの方に思い出す本の感覚を聞きながら、この瞬間の読書を楽しむことに意識を向けて行動する番組でございます。
さて、今回のゲストはですね、フィンランド障害教育研究家の石原 侑美さんです。
侑美さん、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はーい、よろしくお願いします。
いやー、こうやって、あのー、侑美さんをお呼びできてとてもうれしいなと思っておりまして、
お話しするのがいつぶりだ?去年の9月ぶりぐらい?
そうですね。
はい。去年の9月に僕がふと、あのー、ひょんな感じでフィンランドに一人旅に行ったんですけれども、
そのときにお会いさせてもらって、あのー、いろんなお話しさせてもらった日があったなーと思っていまして、
そうですね。
それぶりでございます。
そうですね。あのー、まだ日本ではお会いしたことがない。
そうですね。
実際にはね、フィンランドでリアルでお会いしたっていう感じですね。
そうそう、そうでしたね。そうでした。ありがとうございます。
あとなんか、侑美さんのことを知らない方もいるかなと思うので、
それこそ、普段どんなことに意識向けられているのか、やられているのかみたいなところも含めて、
あのー、自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか。
はい。えーと、お聞きになっている皆さん、はじめまして。石原由美と申します。
先ほどね、ご紹介いただきましたけれども、フィンランドの教育の研究家というところで、
生まれる前から生まれて、そして亡くなるまでの一生涯の学びの文化がフィンランドでは、
どういうふうに浸透しているのかというのを研究しながら、
それを日本に限らず、いろんなところで、そういった対話的な優しい空間でお話ができる場とか、
学びってどういうふうに作られるのかなということを、普段研究をしています。
で、普段はね、ずっとフィンランドにいるわけではないんですけど、
日本とフィンランドを行ったり来たりしながら、フィンランドでの研究活動をしたり、
日本からお客さんを連れて行ったり、オンラインで実際に学びの場を日本の方に向けて作っているっていう、
そういう人間です。で、今日は岐阜県の日田高山というね、
豪雪地帯のところからの自宅からアクセスしています。
なので、寒い中で、今ちょうど冬なので、冬眠をしているような感覚で、今もこたつに入りながら、
冬の静けさの中で普段暮らしているという、そんな人間でございます。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
いやー、なんかいいですね。豪雪地帯の家の中で、こたつの中に入っているっていう冬眠であるっていうのは、なんかいいな。
そうですね。150年前からある古民家を改装しながらの家にいるので、
よりもっとリアルな冬を感じているっていう、そんな生活ですね。
そうでしたね。僕フィンランド行く前に、一回オンラインでお話しさせてもらったときに、
お家の中を拝見しましたけど、オンラインで。めっちゃいいなー、みたいなことがすごい思った記憶が。
そうですね。なんかすごく厳しい温度の中なんですけど、
今朝もね、マイナス7度あって、部屋の中もマイナスみたいな状態から、
灯油ストーブをつけて、こたつをつけてっていう厳しい中での、ちょっとした暖かさみたいなのが、
なるほど。
逆に100倍暖かく感じるみたいなね、そういう今、冬のセンサーになっているので。
はいはいはい。
すごく厳しい環境下の中でも、体は心も心も心地よく過ごせるっていう、そういう冬の生活をしてますね。
いやー、いいな。今の聞くと、すごく懐かしい気持ちになるんですけど。
それはフィンランド思って?
フィンランドじゃなくて、行ったかはわかんないですけど、僕もともと生まれが秋田で。
そうでしたね。
秋田もまさにそういう、民家というかそういう感じの家で、いろりがあってとか、いろりの周りできりたんぽを焼いたりみたいなことをやってたのが、
ちっちゃい頃あったなーみたいなことを思い出していて、それこそ朝起きたときに、よくわかんないレベルで寒いというか、なんていうか、凍える?凍るみたいな感じで。
そうですね、そうですね、確かに。
寒すぎて起きるみたいな感じもあったし。
ありましたね、ありますね、今でも。
それをなんか今思い出しながら、ちょっとなんか若干ぬくい場所に自分は今いるなーみたいなことをちょっと。
今年の冬はあったかいから、よりそのなんか冬の寒さって、なんかちょっと遠いことのように思いますけど。
そうですね。
はい、でもね、ひなはその分あたたかいからこそね、雪って降ったりするので。
今年は本当に雪の量が多いなーという感じが高いなりはしてますね。
そうですか、そうですか。
じゃああれですか、毎日雪かきとかは欠かせずやっている?
そうですよね、この1週間、2週間ぐらいは全然雪かきなくてもいけるんですけど、その前までは雪かきとか屋根の上に命なしに登って雪下ろししたりとか。
1月の前半の2週間ぐらいはそんな生活でしたね。
そうですか、いやそうですよね、いやそうだよな。
なんか僕も秋田で、ちっちゃい頃屋根の上登ってやってて、何回か屋根から落ちたりしながら、でも雪だから大丈夫だろうみたいな、ソフに言われるみたいな。
そうなんですよね、ほんと命綱つけないとあんな梯子登って、屋根の上登れるしな。
みんなそうですもんね。
足の踏み場がどこかわからないんですよね、雪が積もっているので。
足の踏み場がわからないと落ちてしまうというリスクを背負いながら、近所の人たち誰もが命綱つけずに上に登っているので。
私はもともと大阪生まれ大阪育ちなので、雪国を知らないんですけど、5年前に平田岡山に引っ越して移住したときに、一番驚いたのが命綱なしに屋根に登って、雪を降ろす人たちっていう、それがすごい衝撃的でしたね。
そうでしたか、そりゃ確かにそうですよね、落ちて大丈夫だなって思いますよね。
そうそう、ほんとにそんな感じですよね。
いやでもその環境に大人になってから入れるのすごいなと思いますね。
大人になってから新しい暮らしを体験する、しかもまるっきり生活スタイルが違う。もちろん海外ではないのに日本語は通じるんですけど、
日田弁ってまた独特の方言があって、
日田弁があるのか。
そうなんですね、雪の生活も全然ね、東京大阪とは違うので、
もう、何て言うんですかね、一つ一つが楽しいですよね。
旬分の日におはぎ作ってる、今ね、桐野お父さんお母さんと暮らしてるんですけど、
おはぎを旬分の日に作るっていうのも、私からしたら、都会生まれの私からしたらびっくりすることで、
本当にやるんだとか、手作りのあんこっておいしいんだとか、なんかいちいち全部に感動するというかね。
いいなー。
あの、プチ留学みたいな、プチホームステイ体験みたいな。
そっかそっか。
そういう感じですね。
いやー、ちょっとなんか羨ましくなっちゃうな。
本当ですか。
あれちなみに、ゆみさん今も5年前から日田高山だよって言ってくれてましたけど、
そういえばフィンランド自体はいつぐらいから何でしたっけ?
関わり始めたのは、
関わり始めたのは7年ぐらい、もう8年かな、8年ぐらいフィンランドに研究を始めたのが8年ぐらい前ですかね。
あー、そっかそっかそっか。
なるほど。じゃあ、えっと、2017とかそれぐらい?
2017ですね、そうですね。2017からフィンランドも研究活動し、
研究活動のやるベース、なんか私自身も大学でね、研究してるわけではなくて、
自分で民間研究家という立ち位置なので、
自分で会社作って、そこで研究しながら実践も行っていくという場所を作ったのが、
2017年、8年ぐらい前ですかね。
あー、そっかそっかそっか。なるほど。
でもやっぱり今思い返しても、フィンランドでゆみさんとお話してきたのはすごくありがたかったなってすごく思っていて。
こちらこそ、こちらこそありがとうございます。
ありがとうございます。
なんか、フィンランドのことを何かしら知っている日本の方で言うと、もしかしたら一番有名かもしれないけど、
カモメ食堂か。
あ、はいはい。そうですよね。
映画が昔でもある、言うて相当前ですよね、たぶん。
だいぶ前ですよ、2007年、2000年代ぐらいですね。
ですよですよ。
うんうんうん。
もう20年ぐらい前なのか、たぶん。
そうですよね。
それぐらいにあったカモメ食堂っていう、フィンランドのヘルシンキ舞台にした食堂カフェを舞台にした映画がありましたけど、
そこのお店にゆみさんに連れて行ってもらったりとか。
はい、そうです。
そうしたり。
あとはあれかな、その後に駅近のカフェでなんかゆるゆるとお話しさせてもらった記憶がありますね。
そうですね、そうですね。たくさんいろいろ、いろんな角度からいろんな話をしたり。
ネフィン、街歩きながらこの像はこんな内容だよとかになったかな。
そうそうそうそう。
すごく、なんか私も何を話したか覚えてないぐらいでもたくさんお話しさせていただいたような気がします。
いやー、こちらこそです。ありがとうございました。
はい、ありがとうございます。
なんか早速ながらっていう感じではあるんですけど、
このホットキャストの主題として読みかけの本みたいなものを置いていましたけど、
そんなところからだんだんとお話し始めていけたらなと思っていたりするんですが、
そんな中でもなんかこのハッピーバースデーがよりなんかリアルな感じに感じて、
なんか、なんだろうな、オーディオでリアルで音声を聞いてるからもあるんですけど、
なんか一人の人生体験したぐらいの濃度の高い本だったなっていう感じですね。
ちなみに、その本って今も時々眺めたり見たりとかしてるんですか?
いや、もう今ね、手元になくて、全然読んでないんですけど、
でもふと、たまに自分の過去の自分と向き合いたいときというか、なんて言ったらいいのかな、
たまにその今は、なんていうのかな、
ひだたかやまに移住して自分がやりたいみんなの研究をできてる、
いわゆるある種わかりやすい言葉で言うと幸せな自分っていうものと、
やっぱ10代の頃は何かしら私はすごくいろんなものを楽しむというよりかは苦しむとか葛藤とかがすごく強かった10代だったので、
ある種対照的な10代の自分を振り返るときにすごく思い出す一冊ですね、今でも。
もしかしたらもっと私10代の頃にもっと話したかったし、
もっといろんな自分の中にある言葉を出したかったんだなっていうのを感じるからこそ、
今このフィンランドの研究家ですけど、研究家ベースにいろんなところで講演会したり、
人の前でお話しすることすごくたくさんあるんですけど、
今たぶんその10代の時の分まで、なんかいっぱい言葉を出してるなっていう感覚がありますね。
へー、そうなんだ。
そういうことを気づかせてくれる一冊でもありますね。
なんか今すごいなって思ったことがあって、
何かそういうふうに自分の中に残っている本というもので、
なんか手元に置いておく人が多かったりするなーみたいなことを思ってたんですけど、
それが今手元にはないのだが心の中にあり続けて、こういうふうな時に普通に出てくるっていうのが逆にめちゃめちゃすごいなというか。
確かに。それはまあ私に限らずかもしれないですが、音声ついてたからよりなんか印象にすごく深くついたんじゃないかなと。
その読み方がその教材ソフトさんのこだわり、その会社さんのこだわりがあって、
とにかくプロのナレーターさんだけど、抑揚をつけずに淡々とセリフも淡々と読んでくださいっていうのが立足であって、
プロのナレーターさんにお願いしたこと、声優さんぽく色をつけてキャラクターつけるんじゃなくて、淡々と読むっていうのが結構ミソで、私にとっては特に。
そうなんだ。
だから本を読んでると、この主人公の声が高いのか低いのか、
この言葉は感情めちゃくちゃベタベタに乗っけて言ってるのか、それともサラッと言ってるのかって読者に委ねられるじゃないですか。
だけど音声って、そうは言っても読み手の特にナレーターさんの色がつくのはしょうがない。
確かに確かに確かに。
でもそこの中でもより読み方として、そういった読み手に委ねられるように淡々と読んでくださいっていうのが鉄則であったんですよ。
なるほど。
で、ただ読んでる文字と音声。
音声はよりね、また普通にただ読んでるだけだと視覚で目からの情報だけですけど、そこに聴覚のものが加わるから、よりこう場面が立体的に思い浮かんでくる。
なんか本読んでるんだけど、なんか左脳じゃなくて右脳でなんかすごくインプット強くされたっていう感覚があるから、手元に本がなくても今でもなんかふと思い出す。
それが感情だったりとか、その時のページの匂いだったりとか、本のね、本のインクの匂いだったりとか、録音室のその、あのこう、なんていうの、閉鎖的な音が遮断された圧の感覚とかも、だから全部思い出してますね。
へー。
いいなあ。
そうなんだ。
ちなみにめちゃめちゃ興味が出てきてしまったんですけど、何故そのバイトをしたんだろうか。
それはどうだったっけ、私実はお話ししたかもしれませんね、私はもともと声優とかアナウンサーとか、いわゆるそういう放送系の仕事が高校生の時はずっとしたくて、
で、そういうことを放送部の先輩とかOGの方にお話しして紹介してもらったって感じです。
なるほど、そういう流れなんだ。
そうそう、そうなんですよ。
なんかほら、普通にバイト探して見つかるもんでもなさそうだなみたいな。
そうですね、全然そんな感じじゃなかったです。募集もされてなかったので、いわゆる募集出すみたいな感じじゃなかったので、そうそうそう、紹介でしたね。
そうなんだ、そっか。ちなみにそれは基本全部本だったんですか、やってたのは。
全部本ですね、はい、本でした。
そうなんだ。
コミックでもなく、はい、全部本ですね。
教育関係の会社さんだったので、そういった学習塾とか学校とかに置くような教材、だから国語の教科書に載ってそうなものがメインって感じでしたね。
はいはいはい、なるほどな。
ちなみにさっきのハッピーバースデーの本なんですけど、それこそ最初に見た時というか聞いた時と今だとまた感じ方も違ったりする分もあれば、またまた同じ、同じく大切に感じる部分もあるんだろうなみたいなことを思いながら聞いてたりしたんですけど、何か変化みたいなものってどんなのがあったりしますか。
そうですね、多分最初読んだ時はそこまで深く自分の中で熟成されてなかったので、主人公の女の子が声をなくして、最後ここでネタバレをするともちろん声が戻るっていう瞬間が来るんですけど、
その一連のそのストーリーを単純に良かったね、ハッピーエンドだねっていう風に楽しむっていうような感覚ではあったんですけど、
読み進めていったりで、私の手元からはもうなくなったりとかして、自分の人生を振り返る機会というのはね、20代だったり、自分の人生の分岐点には皆さんもおかれすくばかりあると思うんですけど、
その時にふと出てきて、あの時のストーリーどんなんだったかなとかっていうのを思い出していると、さっき言ったみたいな、その主人公が声出せてない主人公って、もしかしたら10代の頃の私と近いものあるんじゃないかなって気づいたりとか。
で、あとその本の中に出てくるお母さんが決して、主人公からしたらね、その悪影響を及ぼすみたいなところもちろんあるとは思うんですけど、見方によっては本当に単純に不器用なお母さんなだけなんだっていうのも、やっぱりこう年を重ねるについて、多分それは母親のね、多分年齢に近づいてるからっていうのもあると思うんですけど、
そういうのを感じれたりっていうのも、なんかいろんな見方が出てくる、時間が経つにつれて出てくるなっていうのはありますね。
ああ、そうなんですね。そっか。なんかあの、今伺いながら思い出してたことがあって、ちょっとこれ漫画だからご覧になったことないかもしれないですけど、
僕、声っていうところから自分の中で引っ張り出されてきたのが、漫画、一時期映画にもなったのかな、声の形っていう漫画、映画があってですね、これ何なのかっていうと、何年ぐらいかな、2010年ぐらいとか15年、それぐらいとか気がするんですけど、
小学校から高校までが舞台になっていて、そのうちの一人が聴覚障害があって、ずっといじめを受けている女の子がいるんですよ。そのいじめの中心人物になっている男の子がいるんですけど、
でもそのいじめをやっていたことによって、逆に今度はその男の子が周りから完全に遮断されて孤独になっていくみたいな、そんな男の子と女の子の小学校から高校ぐらいまでの話が、その漫画の映画の中心にあったりするんですけど、
それも声をすごくテーマに扱っていて、最初は声が聞こえない女の子がいるけど、それをからかう男の子がいるんだが、その男の子が結果的に周りの人との声のやりとりが一切なくなるみたいな、
二人とも聴覚があるないはあるかもしれないけれども、二人とも声を失うっていうことをしていく、その過程の中でどんなふうに生きていくんだっけ、みたいなことを描いてくれている漫画、映画なんですけど、
それが僕の中でもすごく今出てきて、大学生の時とかに見たのかなと思うんですけど、その時にすごい衝撃を受けて、
その男の子が小学校の頃から高校ぐらいまで孤独になっちゃって、周りの人の声も聞こえない。一切聴覚の話というより精神的になんですけど、一切聞けなくなっていく。
聞こえなくなるし、自分も話せなくなるし、周りの人の顔が全部のっぺら棒みたいな見えるみたいな。それがとある瞬間に、その女の子、聴覚の障害のある女の子だったり、周りの人との関わりを深めることによって、最後のタイミングでそののっぺら棒的なところに全部顔に×がついてるんですよ。
表現としては。その×が全部剥がれて、普通の表情が見えるようになるみたいなシーンがあって、それで声が聞こえるようになるみたいなシーンがあって、っていうところが今、ハッピーバースデーの話を聞きながらすごく思い返されてて、なんかあれすごいあの時、すごい自分的にグッときたなみたいな。
それまた漫画だからよりその表現が、なんかね、×がついてるところから剥がれてくるって結構インパクトありますよね。
そうですね。そうそう。みたいなことをなんか思い返して、ちょっとなんか久々に読みたくなったりみたいなことを思ったりしましたね。
そうですよね。