無力感と支えの重要性
おはようございます。まこやんです。この配信では、明日がちょっと明るくなるような日常の小さな気づきなどを配信しております。
今日はですね、自分なんて何もできないと感じてしまう時ということで、ちょっとお話ししていこうかなと思います。
前回の配信から少しちょっと経ってしまってるんですけど、前回ね、ちょっとうちの大西がちょっとね、残念なことになってしまって、
死山してしまったんですけど、もうタイミングからして、ちょっとね、成人、生きてる人の扱いとして、仮想までね、ちょっと行いました。
で、そんな中で、やっぱりね、こう一番心身共に負担になっている妻に対して、なんかね、自分は本当に無力だなーってね、感じることもすごく多かったし、
そんな時にね、ちょっとね、そういうことじゃないんじゃないかなって思えるようなことがあったので、ちょっとお話ししていこうかなと思うんですけど、仮想の時にね、
今回、0歳未満というかね、もう7ヶ月の赤ちゃんだったんですけど、そういう形もあって、本当の両親だけ、お互いの両親だけで小さく仮想を行いました。
で、その時に、うちの両親を呼ぶかどうかっていうのも考えたんですけど、結局ね、いろいろ人が来ちゃうと悩めに、側にね、ちょっと負担が行っちゃうんじゃないかとかね、気をつかせちゃうんじゃないかとか、
だったらまあね、落ち着いたタイミングで来た方がいいんじゃないかとかね、いろいろ考えはあったんですけど、結果、来てもらったんですけどね、その時にやっぱり思ったのが、
子供を、やっぱりこの今ね、仮想する前に、ちゃんと形あるうちに一度ね、見てもらいたかったっていうのもあるし、で、その時に実際来てね、何ができるかとか、何も役に立てないとかね、やっぱり思うことってすごくあると思うんですよね。
やっぱり言葉一つもね、どうかけていいかわからないっていうのがね、正直なところだと思いますし、ただこうね、自分のね、子供の親からすると、それはね、来てもらって、参列して、本当に来てくれただけで、すごく嬉しいこと。
そこに言葉なんかいらないし、本当にね、それだけで十分だなってすごく思ったんですよね。今回はその、妻のお腹にいるときから、普通に出産までね、ずっと病院にいてね、立ち会いもずっと付ききれていたんですけど、
その、何もしてないですよ。本当にそばにいてっていうか、一緒にいて、こうお話したりとか、ただ本当にいるだけっていうことの方が多かったんですけど、それだけでも違うのかなって、きっと違うんだろうなって思ったんですよね。
形状何かこうね、何かをできて残したとかね、そういうことはないんだけども、本当にね、もし何かこういう場じゃなくとも、誰かの集まりとか、何か来てほしいって言われたときに、言ってあげて、そこでは何もできてなくとも、それだけでね、本当に十分に相手にとってはすごく嬉しいことであって、
そこで何も活躍できないとかね、そういうことは、多分望んでないと思うんですよね、そこまで。何か任されたとかね、そういうのだったらちょっと違うかもしれないんですけど、
そういうふうに何かを求めて来てくださいとか、そういうことではなくて、本当にただね、ただただ自分の場合だったら、ただね、顔を見てほしかった、それを抱き上げてほしかったとか、本当にそういう気持ちだけでしたね。
なので、何もできてないと思うかもしれないけど、いるだけ、本当にそこに来てくれただけとかね、そういうことだけで本当に救われる瞬間っていうのがいっぱいあるので、もしそういう何か何もできてないなってね、ちょっと思っちゃう場面があっても、それはきっとね、全然意味のないことではないし、
それだけで十分にね、本当に助かっている人がいるっていうことをね、こう思っていただけると、少しね、気持ち的にもね、違ってくるのかなっていうふうに思いました。
今日はね、そんな感じで終わりたいと思うんですけど、またね、明日からちょっとずついつも通りの感じで戻していきたいと思いますので、よかったら聞いていただけるとうれしいです。ここまで聞いてくださいまして、ありがとうございました。