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027.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.12~血清療法と葛藤
2025-06-16 31:11

027.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.12~血清療法と葛藤

前回に引き続き、日本の細菌学の父・北里柴三郎をご紹介していきます。

今回のエピソードでは、血清療法で日本の感染症医療を前進させた北里柴三郎の奮闘をお届けします。この功績の背後には、国との葛藤や、科学を人々に役立てたいという強い志がありました。

シーズン2
「ノーベル賞に最も近づいた最初の日本人、北里柴三郎」
の参考図書は

ドンネルの男・北里柴三郎
山崎光夫
東洋経済新報者

北里柴三郎 感染症と戦い続けた男
上山明博
青土社

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00:06
生命科学の冒険者
ようこそ、生命科学の冒険者へ
MCの金澤秀明です。
アシスタントの山崎愛子です。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
前回は、北斗先生がペスト菌を発見して、論争にも巻き込まれながらも、長男の誕生というところで終わりましたよね。
そうですね。北斗先生は、ハショウ風菌の純粋培養を成功させて、それから血清療法を開発して、次の世界的な発見としてペスト菌を見つけると。
かつですね、それの感染経路がネズミだろうというところで、ネズミの駆除をすればいいんじゃないかというところで、パンデミックをある程度抑えたというような、ちょっとそこは推測なんですけれどもね。
そういうような、結構立派な仕事を次々こなしていかれたというところをお話しさせていただきました。
続きましてなんですけれども、さっきですね、北斗先生が帰ってきて、2日後に日清戦争が始まったというお話をさせていただきましたけれども、この日清戦争で多くの日本兵が中国大陸に従軍いたします。
で、日本兵の中の多くがですね、結構現地でこれらに感染してしまったんですね。
下関でですね、講和条約を集結して日清戦争が終わったわけですけれども、この終わった後ですね、さっきの森陵太郎、森大がですね、北斗に嫌気に嫉妬してる人ですけれども、
この人陸軍軍医でですね、これら患者がかなり発生しているということを報告しております。
日本ではですね、それに伴いまして、この兵隊さんたちが帰ってきた後ですね、日本国内でコロナが広がってしまったら困るということで、兵隊のですね、検疫をすることにします。
ここはですね、北里の盟友のですね、後藤新平がですね、この検疫を担当いたします。
苦しい戦いを終えてですね、やっと日本に帰ってきた兵隊さんたちをですね、戦場に留めておくのかということでですね、
陸軍にはかなり艦隊する人も多かったわけですけれども、陸軍次官のですね、児玉源太郎がですね、これはちゃんと調べるんだということで、きちんと調べることができて、これらのまん延をすることができました。
03:12
北里もですね、これに大いに協力をするということになります。
ただそう言ってもですね、これが原因かどうかはわからないんですけども、漏れて入ってくるケースもありまして、
8月にですね、広島や神戸でこれら患者が発見される。そしてですね、東京で大浴をするということが起こります。
これらの患者はですね、北里たちの病院とはまた違うですね、疲労病院というところに入院することになります。
東京で発生したこれら患者の270名がですね、そこで治療を受けたんですけれども、138名が亡くなってしまいます。
半分ぐらい。
そうですね、ほぼ半分が亡くなるという事態になります。
東京はですね、北里にですね、何とかできないかということで治療の要請を出します。
北里はですね、津久志川岡養生園でですね、これらのですね、免疫血清を製造することにします。
そしてですね、193名のですね、これら患者に初めてこのこれらの免疫血清を行います。
その結果ですね、入院後すぐに亡くなってしまった患者さんを除いてですね、どんな重症患者さんでもですね、最初に注射すると下痢・嘔吐が止まる。
2回目に正常におしっこが出るようになって、3回目で開放に向かうという形で193名中ですね、死亡者は64名にとどまってですね、救命率67%と。
3分の1、3分の2に上がったんですね。
そうですね、しかもこの死亡者っていうのもですね、ちょっと血清が間に合わない間に結構重症化してしまった人たちだったみたいで、
なので血清で治った人がかなりほとんどだったのかなというふうに思われます。
血清療法はこれらでも効くということが証明されました。
すごい、これはもう直接血清療法だってなったんですかね。
そうですね、そのようですね。
破傷風と同じようにこれらもこれが使えるんじゃないかというところで試したんだと思います。
またですね、ドイツの広報研究所でですね、一緒に研究してノーベル賞を取っちゃったジフテリアの血清療法がありましたけれども、
そちらの方の血清もですね、作ってたみたいで、電線病院研究所にはですね、ジフテリア患者も受け入れておりました。
その受け入れはですね、353人だったんですけれども、そのうち322人がですね、完治したみたいなんですね。
06:04
すごい。
完治率91%という形で本当に血清療法が非常に火を吹いたというところになります。
この免疫血清治療がですね、非常に良いということで国に目をつけられまして、
電線病院研究所でですね、製造されているこの設備ですね、これは民間の北里たちのグループでやっているというところで、
是非これ国有化できないかという形でですね、国の方から北里に打診が入ります。
免疫血清の製造法はですね、電線病院研究所を支える中核事業にこの時にはなってまして、
どんどん患者さんがね、こんだけ治るんだからどんどん入ってきますよね。
それでこの年の売上はですね、10万円ですね。
純利益が3万円、3億円ぐらいの純利益を出すぐらいまでに成長したということになります。
一度はですね、帰国した北里に研究室も与えなかったですね、国がですね、今度は揉み手をしながらすり寄ってきてですね。
本当だね、なんか酸っぱいというのか。
お前の事業ちょっと国に譲ってくれないかみたいなことを言う、非常にムシがいい話なんですけれども。
福沢諭吉とかですね、病院の事業の財布を預かってた田畑はですね、そんなムシのいい話があるかっていうので大反対するんですけれども、
北里はですね、免疫血清療法が国家国民の利益になるなら、これを心よく国に献上したいと決めます。
すごいなぁ、もうなんかそういう欲はなかったんですかね。
そうですね、すごいですね、本当に。
とにかく国保研究所のもとにですね、国費で6年間もやってくれたということを北里はずっと国に対してですね、そこは裏切れないっていうふうに思ってたみたいなんですね。
3億円を捨てて。
3億円を捨ててですね、本当に。
研究所施設としかも人材の支援も約束したそうなんですね。
本当に素晴らしい考えだなと思うんですけども。
じゃあ、技術も独り占めせずにっていうことですよね。
そうですね、はい。
さすが、さすが。
さすがですね、本当もうなんかほーとしか言いようがないんですけども。
ほーですね、人のいい福沢諭吉ですらやだって言ったのにっていう。
ところですね。
09:00
それでですね、1896年、明治29年にですね、施設を寄贈するということになります。
で、伝染病研究所のですね、横にですね、内務省管轄で血清薬院という建物が作られます。
で、そこにですね、伝染病研究所で所有している馬とか羊ですね、あと設備をすべて寄贈いたします。
で、さらにですね、免疫血清療法に熟知した高木智恵というですね、人間をこの施設の院長として送り出しまして、
主要職員、技術の持っている人間ですね、を血清薬院と伝染病研究所で兼務させるということをいたします。
で、さらにですね、そちらが軌道に乗り出しますと、伝染病研究所での免疫血清製造を取りやめます。
おお、取りやめちゃうんだ。
もう競合しないということですね。
なるほどね。
で、ちょっとさっきも申し上げましたけど、ドイツ時代ですね、共同研究者で第一回のノベル生理学医学賞を受賞したですね、北里の同僚だったエミール・ベーリングですね、
はですね、この免疫血清療法をですね、ジフテリアを北里が手伝って、それを作り上げるわけですけれども、
これの特許を取得しておりまして、表額の特許収入を得ております。
さすが、そっちはちゃんとビジネスに結びつけたんだ。
そうですね、ベーリングはしっかりビジネスやって、しかもノベル賞も取ってですね、っていう感じなんですけど、
北里はノベル賞も取らず、免疫血清療法も国に寄付しちゃうというような感じですね。
で、免疫血清でですね、北里等が国に寄付した治療法はですね、ジフテリア、それからハショウ風ですね、チョウチフス、コレラ、エスト、セキリだったそうなんですね。
すごい、もうメジャーどころ。
メジャーどころのですね、当時の感染症を血清で治せるものは全部試したんだと思うんですけど、それを全部渡したというところですね。
当時、ちょうど日本でもですね、特許制度が始まりだした時だったらしいんですね。
で、日本で特許やるべきだっていうのはですね、福沢諭吉がヨーロッパから持ち帰ったアイディアだったそうなんですけれども、
なので北里知らないわけないんですけれども、もう特許は取らず、そういったことをしてしまうと患者に素早く届かないっていうことでですね、
もう国にあっさり渡してあげるということですね。
福沢諭吉ちょっと複雑だったんだろうな。
複雑ですよね。
いや、こんな制度俺せっかく持ってきたのにっていう、渡しちゃうんかよっていう。
12:06
どんな気持ちだったでしょうね、本当に。
嫌がらせしてきたのにとか、きっとこうね、逃げたくなったんだろうな。
すごい。あっさり渡しちゃった。
あっさり渡しちゃったみたいですね。
ちなみに結成両方ですね、結成の製造に従事した高木智恵という方なんですけれども、
この年ですね、横浜でですね、船が着いて船員が船内でどうもペストっぽい症状で亡くなったということでですね、
これが日本に初上陸したペストだったんですけれども、
その知らせを受けて素早く横浜の方に行きまして、
すでに埋葬されてた船員の墓を掘り起こしてサンプルを採取してですね、
ペストですねということを認定しています。
その他にもですね、神戸とかにもペストと疑われる患者が発生したりとかしておりまして、
非常に日本はですね、貿易をしないといけないというのが重視されるような年となっております。
ちょっとですね、1897年明治30年の話になるんですけれども、
一人のこの伝染病研究所から誕生したヒーローをご紹介したいと思います。
志賀清志という方ですね。この方はですね、明治3年に仙台で生まれて、
明治29年12月にですね、帝国大学医学部を主席で卒業をしております。
ペスト菌発見のですね、日本に北里が帰ってきて、
青山も病気が解放に向かってですね、日本に帰ってきて、
それで帝国大学でですね、北里、青山両氏のですね、講演会が行われたんですけれども、
その時のですね、北里の講演を聞いてですね、非常に感動してですね、
帝国大学医学部主席で卒業するというところで、
通常だったらそのまま東大に残って、もう東大教授の席がもう用意されているような、当時は状態だったわけですけれども、
なので当然東大に残るでしょうと思われてたんですけれども、
もう北里の元に行こうということで、伝染病研究所に行くというふうに決めています。
いやだな、青山さん。
青山種道はですね、慌ててですね、君そらないよと、君はもう教授の席約束されてるんだよという形でかなり説得したらしいんですけれども、
15:01
いや私は行きますという形で、伝染病研究所に入所をします。
で、帝国大学ではですね、最近学の授業はあったんですけれども、実習がなかったという形で、
そこでですね、柴森郎はですね、直々に新しく入所した研究者たちにですね、
最近の培養方法とか顕微鏡での観察の、染色の方法ですね、
それから動物試験の方法などを基礎から教えてたらしいんですね。
で、まあそんな中でですね、非常に実験手腕がいいですね。
手つきが良かったんだと思うんですけども、柴森郎の才能を見出してました。
で、えっとですね、6月に、この年の6月ですね、東京でですね、
セキリが蔓延してですね、津久岡病院はセキリ患者で蔓延になります。
で、えっと、まあちょっといろんな病気がですね、いっぱい出てくるんで、
わけわかんなくなってると思うんですけれども、
セキリはですね、えっと、実はまだ原因菌が発見されてませんでした。
で、えっと、まあ原因菌がわかっておらず、治療法も確立してないというような状態だったんですね。
で、北里はですね、5年ぐらい前からですね、セキリについても研究しないといけないなっていうふうに思ってたんですけれども、
なかなかその病気が発生しなかったので、研究ができないで、
そのテーマを心に秘めてたというような状態だったんですね。
で、よし来たと、ついにセキリが出てきたぞというところで、
これはシガにやらせようというふうに決めます。
そしてですね、彼に君このテーマをやってみたまえと、
セキリ菌を発見してみようというような形でですね、
テーマを与えるわけですけれども、
もう入所1年経ってないですね、シガはですね、
もうこんな大チャンスはないということで、
外宿を引き払ってですね、
研究所に寝泊まりすることにします。
服とかがですね、廊下に山積みになったらしくてですね、
先輩たちがこれどういうつもりだっつってですね、
シガに尋ねたそうなんですけど、
もう先生から直々にテーマを与えられて、
要するに夜中まで実験することになるから、
もう下宿棟にちょっとだけ寝るためだけに帰るっていうのは、
通勤がもったいないと。
もう僕はここに寝て、もう結果出るまでずっとここにいますっていう風に言ったらしいんですね。
すごい、誰か思い出す。
北里をね、高校研究所で、
ほんと10時間ずっと手を動かし続けるみたいなことをやってたみたいなんで。
18:03
すごい、同じような弟子ができたわけですね。
そうですね。
そうこうしているうちに、
咳はですね、どんどんどんどん大流行しまして、
日本全国で9万人が罹患しまして、
25%の、2万人以上が咳で亡くなるというような、
かなりのパンデミックになっていきます。
シガはですね、入院患者さんからですね、
集めたサンプルをすべてですね、
培養・染色、それからですね、顕微鏡で観察してですね、
もう徹底的に網羅的に調べます。
いろんな菌が混ざってたんだと思うんですけれども、
その中でですね、ようやくですね、ある長細い菌にたどり着くということになります。
これですね、ちょっと一説にはなんですけれども、
見た目がですね、ほとんど大腸菌と同じような、
細長い形で大きさも似たような感じの菌だったみたいで、
なかなか見分けが難しかったみたいなんですけれども、
これを見分けるためにですね、
セキュリティ患者の血性とですね、
反応させてみたみたいなんですね。
そうすると凝集が起こったみたいなんです。
健康な方の血液にこの菌を入れてもですね、
凝集が起こらないけれども、
セキュリティの患者の血液には凝集が起こると。
おそらくセキュリ患者さんの中には、
セキュリからの菌に対しての抗体ができてますので、
それで菌を入れてやるとですね、
そこにギュッと免疫細胞、抗体を持った免疫細胞がギュッと集まってきて、
凝集ができるということなんだと思うんですけど、
こういうテスト方法が当時あったのかどうか、
彼が開発したのかちょっとすいません、
そこを追求できてないんですけれども、
こういった形で、
どん、この菌だぞっていうのがなんとなくつかめます。
そしてですね、この細菌を純粋培養して、
実験動物に摂取させるとですね、
セキュリになることも確認できて、
後方の原則を満たすということになります。
研究を開始してですね、
わずか6ヶ月後のですね、
12月25日ですね、
細菌学雑誌に、
世界で初めてセキュリ菌を発表したという論文を掲載いたします。
すごいですね、6ヶ月ですね。
この論文を発表するにあたってですね、
論文を清書してですね、北里に見せたところですね、
北里はこの論文を滋賀古人の名前で発表しなさいというふうに指示を出します。
普通、そういった指導者のですね、
21:02
名前を最初に入れるっていうのが普通なんですね。
まあそういったことは、
ものになっちゃうことが多いですけどね。
そうですね、よく聞きますよね、そういう話。
なんですけれども、そういう弟子の手柄をですね、
北里は取り上げるということはしない。
かつ、共同研究者としての名前も入れなかったみたいですね。
素晴らしい。
本当素晴らしいですね。
なんかそういうのは学問の、なんて言うんでしょうね、
本当そういうところに興味がないんでしょうね。
いや、その欲はなくて本当に貢献のためっていう。
本当そういう。
その方が欲求があったんでしょうね。
変わっていくっていうことに対して。
ちょっとなかなか多くの人には理解されないところなのかもしれないですけれども。
確かに。
まあでも本当つくつくかっこいいなと思うんですけれども。
そうですね。
で、あとですね、志賀にですね、
とりあえず日本の雑誌じゃ評価が低いからということで、
すぐにドイツ語に訳して、
ドイツの医学誌にも寄稿しろというふうに指示を出します。
志賀はそれに従ってドイツの雑誌にも寄稿し、
見事に掲載されるということになります。
で、ちなみにですね、
セキリキンの学名はシゲイラという形でですね、
志賀の名前が入っております。
すごい、しっかり名前が残りましたね。
そうですね。
まあちなみにですね、
先ほども申し上げましたけれども、
この年ですね、第10回のバンコク衛生会議というのがですね、
国際会議が開かれまして、
これイタリアのベネスで開催されたんですけれども、
ペスト菌の第一発見者がですね、
北里かエルサンかについての議論がされてですね、
広報研究所でペスト菌であるということが判明した年でもあります。
で、ペスト菌の名前は北里エルサンというふうに呼ばれるんですけれども、
後、エルサンだけの名前になっちゃうという形ですね。
まだ、この時はまだ残ってたってことですね。
この時はまだ残ってました。
さてさて、1898年、明治31年ですね、
4月にですね、長谷川会議ですね、
研究所を国立化しないかというふうな形で提案が出てきます。
衆議院議員でですね、北里を予算をつけるために一生懸命頑張ってくれてた議員の長谷川会議、
24:01
もしくは安志なんですけれども、
彼はですね、衆議院議員からですね、内務省の衛生局も局長となっておりました。
なんかちょっと今は役人やってから政治家になるっていう人が多いように思うんですけど、
議員から役人になったっていう形でちょっと面白いなと思ったんですけれども、
長谷川からですね、伝染病研究所を国立にしないかというふうな打診をですね、北里は受けます。
伝染病研究所の収益はですね、政府からの補助金と、
あと血清の収益が大半だったんですけれども、
血清製造はですね、もう政府に無償で引き渡してしまってたので、
研究費が結構かつかつ流だったんですね。
なので北里はですね、この申し出をありがたいなと思って受けることにします。
なんせ国立になるとですね、資金が非常に潤沢になります。
今まではですね、ちょっと半官半民のところから一部もらってたっていうような形ですので、
それがもう完全に国のものというふうになると、
国から直接の予算が引っ張ってこれるというところで、非常に潤沢になるだろうというところですね。
北里はですね、当時悩みを持ってまして、非常に優秀な弟子たちがいたんですけれども、
海外に留学させてやることができなかったんですね。
なので、もうぜひみんな海外に飛び立ってですね、
自分の若き日のように海外で学ばせてやりたいというふうに思ってたわけですけれども。
やっぱり自分がね、それでいろんなことさせてもらったからっていうことが大きかったんでしょうね。
そうですね。なので、そういったところの予算取りもできるというところで、この申し出を受けます。
北里はですね、この申し出を受けて国有化の手続きに入ってもらうわけですけれども、
長谷川もですね、議員の経験からですね、予算化するためにはどういうふうに話をすればいいのかっていうのがですね、
パッパパッと計算ができたみたいでですね、早速人脈を辿ってですね、議会への根回しを始めてくれます。
ただですね、福沢はですね、非常にこれに対して反対を行います。
心配ですよね。
心配ですよね。
政府が君を信頼して君の思うままにやらせてくれるという条件だったら、それはそれでもいいだろうという形で渋々賛成はしてくれたみたいなんですけれども。
なるほど。
福沢雄吉は政府の中には入らず、政府を外から見てですね、出身の反ですね、反罰の中で行われている政治っていうのにですね、非常に不信感を持ってたみたいなんですね。
27:16
それに対して、あまりよく思ってなかったというところで、反対をしたのかなというところですね。
本人もですね、慶応技術大学を作りますけれども、それも国に頼らず慈悲で全部やっておりますので、
とにかく国が噛んでくるとおかしなことになるというのがあったのかなというふうに思います。
なるほど。
とにかくですね、国立化の動きが始まりましたよというところで、今回は終わりにしたいと思います。
はい。ありがとうございます。
なんかね、弟子ができて、あと国有化の、やっぱり免疫結成事業を譲っちゃったっていう。
そうですね、もうタラで譲っちゃった。せめてなんかね、しばらくの間収益はくれとかね、こういうことをすればいいのにと思うんですけれども。
しかもね、その売上が3億円でいても、こういう状況だからね、
やっと3億円まで成長して、もう起動に乗ったっていうところですもんね、きっと。
そうですね、北里この当時ですね、やっぱりこのどうしても医療が自分がいる東京でしか届けられないっていうところにも、ちょっとじくじたる思いがあったみたいで。
病気はね、地方あちこちで発生しますから、国がそういったのを持ってくれれば、もっと一気に日本中に広がるっていうのもあったのかなと思うんですけれども、
本当そういう意味では東京の患者さんで3億だったわけなんで、どんどんどんどん全国に広がればもっともっと収益が上がっていくだろうに、
それをあっさりと国に譲ってしまったっていうところですよね。
そうですよね。なんかあんだけひどい周知をしておいて、コロッコロッと。
そういうのを見てた福沢幸内からすると、なんかなんとなくもやもやしたのを思いつつ、でも君がそう言うならって渋々だったんでしょうね、きっと。
渋々だったんでしょうね。
失敗だなーっていう、今回の国有化に関しても、虫がいい話しすぎてっていう不審感はきっとあるでしょうね。
あると思いますね。虫がいいと思いながら北田と応援したい気持ちもありつつ、本当に複雑だったと思うんですけれども。
でも北田先生はもう迷いもなく。
30:03
迷いもなく、とにかく全国の患者さんに薬を早く届けるには国有化した方がいいっていう思いは少なからずあったんだと思います。
あったんでしょうね。いやー、でも弟子もできて、ちょっとずつまた味方も増えつつっていうところですね。
そうですね。
ここまで。次回は。
次回ですね、ちょっと大問題というかですね、藤原由吉先生が倒れたりとかですね、という話に入ってまいります。
あと無事ですね、全線病研究所は国の方の施設になっていくというような話をお届けしたいと思います。
はい、またぜひ次回も楽しみに聞いていただければと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
31:11

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