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生命科学の冒険者
ようこそ、生命科学の冒険者へ
MCの金澤秀明です。
アシスタントの山崎愛子です。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
前回、北立先生が、いろいろ新研究所をスタートさせて、いろんなものに巻き込まれながら、なんとなく進み始めたというところでしたよね。
そうですね。狭い研究所から、広い研究所に移るというところで、予算がついて、いよいよ建設スタートというところから、反対運動も何とか鎮静化させたというところですね。
それと並行して、福沢諭吉先生が、そちらの研究所の建設を後押しする一方で、国民病である血核を専門に扱う病院を設立しようということで、
つくしが丘療養所というのを進めていってくれております。
つくしが丘療養所をつくるにあたって、彼の福祉の部下である田畑さんという方を、
経済的な計算に長けた方だったみたいで、運営ですね、そのあたりを福沢としては任せようと思って、北里の元に送り込んでくれたようなんですね。
とにかく建築が早く進むようにというところで、北里もいろいろ忙しいからというところで、彼に何でも言ってくれと。
とにかくどんどん進めていけようということで、指示を出してくれます。
楽しい。
楽しいですね。かゆいところに手が届くというかですね、そういう支援をされてるなと思います。
そうですね。
1893年、明治26年の9月16日、つくしが丘の病院は開園いたします。開園早々から60床入院ベッドを作ったわけですけど、すぐ満員になったわけですね。
そんだけいるってことですね。
もう本当にそれだけの困っている方がいらっしゃったというところですね。
北里は個々のスベルクリン療法に逐次改良を加えていって、治療効果の向上に向けた研究に取り組みます。
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ただですね、これも今の世としてはわかっていることなんですけれども、スベルクリンはですね、治療薬とはならなかったですね。
子供の時に、僕の世代はですね、スベルクリンを注射されてですね、ノビスで先生が測ってですね、これ大きいから陽性だとか陰性だとか言って、
陰性とかってなった子は確か半個注射を打たれるというようなですね、そういうことがあったんですけど、
要は血核の抗体を持っているかどうかっていうのをですね、判断するのには使えるんですけれども、ちょっと治療薬としては使えなかったんですね。
ちなみにですね、血核はですね、1944年、ここからまだまだ待たないといけないですね。
40数年後まで待たないといけないわけですけども、50年近く待たないといけないのかな。
そうですね。
昭和19年ですね、アメリカの生化学者ですね、セルマン・ワクスマンという方ですね、が発見する抗生物質の一種であるストレプトマイシンのですね、
登場まで待たないといけませんでした。
まだまだ先ですね。
まだまだ先ですね。
血核は本当、いろんな有名人が亡くなっていってますけれども。
そうですね。
このですね、新しく完成したですね、伝染病研究所と津久しが丘病院ですね、ではですね、
伝染病の研究とか病原体の検査を行う研究部門と、あと伝染病患者の治療部門ですね、
それから地方各府県のですね、衛生担当者を対象にした講習会、
それから免疫血清製造部門ですね、この4つの事業を行うことになります。
これらがですね、連携をそれぞれ図ってですね、
例えば免疫血清製造部門でですね、羊を用いてですね、
ジフテリアの免疫血清を作ったりとかして、
それがジフテリア患者の治療に使われたりとかして、
90%以上の治療効果を叩き出したりとかしております。
福沢はですね、この病院をですね、より良くしようという形で、
週に2、3回ですね、こちらに通ってきては園内を散策してですね、
より快適な環境整備に努めたそうなんですね。
例えばですね、この当時ですね、水道は完備されてないので、
きれいな水はどうしても必要になりますので、
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農業用水があったんですね、そこから水を引いてですね、
貯水池を作って、これさらにろ過をかけてですね、
衛生的な水が提供できるような浄水道のシステムを
完備させたりしております。
またですね、電力も当然まだ電力会社なんかないんでですね、
そのためにですね、実験で使う遠心分離器とかですね、
病院の照明をどうするのかというような問題もあったみたいなんですが、
これもですね、田んぼの用水路にですね、水車がかかってましたので、
これにですね、ちょっと技術者を集めてですね、
発電機をつないで、それで電気を作り出すというようなこともしたみたいですね。
何でもしちゃうな、福沢さん。
ほんと何でもしますね。すごいですよね。
なくても作ればいいっていうね。
もうこんだけね、環境整備してくれた岸田先生さんも
研究だけに没頭できるっていう。
そうですね、本当そういう、素晴らしいですね。
で、あと患者さんのことを考えてですね、
園内に100畳敷の園芸場をですね、作ってですね、
毎週芸能人呼んでですね、園芸会を催させたりとかして、
患者を楽しませたりとかもしたみたいです。
円溜めまで。
円溜めまで用意して、
ちょっとこの病院に入院したくなりますよね。
入院したくなりますね。
すごいなぁ。
福沢ですね、この時期に北里に忠告をしておりまして、
今政府がですね、いろいろとお金を出してくれてるような状態だけども、
いつ方針転換をするかわからないから、
そういった時のために、万が一のために備えておけようっていうふうなのは言ってたみたいですね。
建設のですね、御用機器としていろいろと使わせたタバタをですね、
引き続き北里のもとにおいて、秘書として使えというところで、
彼にですね、収入基盤の確立と経済的な自立をさせるようにということで、
そのマネジメントをさせたというところですね。
すごいなぁ、しっかりしてる。
ちょっとさらっと北里の私生活に触れておきますとですね、
この病院、養生園がですね、開園した後すぐのですね、
9月27日に長女の靖子さんが生まれております。
お子さん誕生。
お子さん誕生ですね。おめでとうございますって感じですね。
そして養生園、津久志が丘の養生園がですね、先にできてたわけですけれども、
1894年、明治27年の2月7日にですね、新研究所の方も完成いたします。
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ベルリンのですね、国保研究所を手本にしてですね、
先ほど前回申し上げた525坪のですね、広大な土地にですね、
2階建てで8棟からなるですね、病院併設の研究所を完成させます。
立派な、さっきのですね、10坪からは。
本当ですね。50倍の広さですね。
この中にですね、32坪の動物も備えてたみたいなんですけれども、
これ、血清を取るためだったりとか、
あとは感染症の実験動物ですね、となる、
モルモットとかネズミ、うさぎ、鶏、羊、馬、犬、猿などですね。
結構大きいのはね。
だから馬とか羊はおそらく感染症対策の血清を取るためだと思われますね。
そうですね。
で、いろいろな動物を飼育したという形で、
なんか本当ね、実験室と言いながら動物園のような感じですけれども。
こちらもですね、病院を併設しておりますので、
様々なですね、感染症患者さんの入院治療を行うことになってきます。
そしてですね、1894年ですね、明治27年4月なんですけれども、
香港でですね、パンデミックが起こります。
で、まず最初ですね、謎の疫病が広がっているというところで連絡が起こりまして、
で、香港はパニックとなります。
で、富裕層はですね、もう逃げ出してしまってですね、
香港の人口がですね、20万人いたそうなんですけども、半分の10万人になります。
半分ってすごいな。
で、残された人々もですね、とにかく外に出て病気になるのが怖いので、
もう家にこもったみたいなんですね。
で、どういう病気が流行ったかというと、
まず症状はですね、39度以上の熱が出て渾水状態になります。
で、さらにですね、皮下出血によって皮膚が赤黒く変色してですね、
数日のうちに亡くなってしまうと。
で、これはですね、かつてヨーロッパで猛威を振るったペストですね。
それを見た人はもう当然いないんですけれども、
それと文献的に残っている形がですね、そっくりの症状だったわけなんですね。
これペストじゃないかということになります。
で、ちなみにペストなんですけれども、
6世紀とですね、14世紀に世界的なパンデミックが起こってまして、
14世紀のですね、にはですね、中国からヨーロッパの方に広がって、
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当時の世界人口の4分の1に当たるですね、1億人が亡くなったというふうに言われております。
すごいな、4分の1って。
4分の1ですね。恐ろしいパンデミックですよね。
コロナが死亡率1%とか言われてましたので、なんか鼻くそみたいな感じですよね。
本当ですね。
もちろんコロナを笑ってしまってはいけないんですけれども、
この時の病気の恐ろしさっていうのはえげつないものがありますね。
ちょうどですね、この19世紀末にあたりまして、
アヘン戦争の結果でですね、イギリスの植民地となっているですね、
国際都市の香港ですね、ここ防衛機構として、アジアの防衛機構としてですね、
イギリスが統治しておりますので、ここから一気に、
この病気が世界に広がってしまう可能性があるということでですね、
日本政府としてはですね、非常に恐ろしいなということで警戒したみたいですね。
特に日本政府はですね、江戸時代の鎖国政策をやめてですね、
開国した結果ですね、何度かコレラのパンデミックに遭っております。
北里もですね、留学前に長崎に派遣されて、
コレラの研究というか、検査に行ってましたけれども、
それ以外にも何度かですね、コレラが流行っているということがありましたので、
それで痛い目に遭ってたのでですね、明治政府の危機感は非常に強かったわけですね。
で、香港にですね、中川領事というですね、領事館がおりまして、
彼がですね、5月12日、外務大臣のムツ・ムネミツにですね、電報を打ちまして、
香港からの労働者を乗せた船舶の入港を禁止するようにという風な形で、
検疫強化を行うように進言をしております。
これがペストだったとするとですね、
コレラよりもですね、さらに数倍以上感染力が強いということで、
明治政府は水際検査を徹底するという形になります。
福沢諭吉が動きます。
おそらくこれペストだろうと。
ペスト、国死病とも言いますけれども、
この国死病というですね、ミウゾウの悪病から国を守るためには、
この原因を調査することが急務であると。
これを行うことは人類として我々の義務である。
何百万の国費をかけてでも調査しなければならないという風に、
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国防上と人道上の観点から即時調査を国に訴えかけます。
5月28日の帝国議会でですね、
伊藤博文総理大臣ですね、当時の総理、初代総理大臣ですね、
に対して調査員派遣の同意が提出されまして、
30日の日程とですね、2617円20銭の予算が付いたという形ですね。
調査員として内務省からは北里柴桜が推薦されまして、
文部省からですね、帝国大学教授の青山種道が推薦されるということになります。
何度かちょっと挙げてますけれども、
青山種道とですね、北里なんですけども、これも懸縁の中ってですね、
ちなみにそれは今に始まったことではなくてですね、帝国大学時代のお互い生徒の頃ですね、
青山は北里の一年先輩に当たりますけれども、
同じくですね、ベルリン大学に留学してまして、
病理解剖学を学んで帰国してですね、内科学の教授となっていたと。
この当時ですね、日本の医学界の権威となっていたわけですけれども、
学生時代からしょっちゅう馬が会わずに対立していてですね、
かつこの当時はもうさらにいろいろと喧嘩をし合ってる中というところになります。
ただ、そうは言ってもですね、それぞれの派閥からですね、
推挙されて、2人チームを組んでいかないといけないというところになります。
6月2日なんですけれども、帝国ホテルでですね、300人もの人が集ってですね、
2人の走行会が行われます。当時ですね、正体のわからない、
おそらくペストであろうと思われるものを調査に行くっていうのはですね、
戦場に行くも同然ですよね。
で、2人はもう帰ってこないかもしれないと。
で、香港から伝わる話ではですね、2679人のペスト患者が出て、
そのうちの2552人が死亡していると。
ほとんどだなぁ。
ほとんど死んでますね。
なので、この走行会ではですね、福沢佑吉とかですね、
外務大臣の娘根水などですね、当時の政財界のお偉方がですね、
北里、青山と一緒の別れになるかもしれないという形で、
激励に訪れてくれたそうです。
そしてですね、この2人、北里、青山を含むですね、
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6人の日本人の調査団はですね、
6月5日、横浜港からですね、
米国客船のリオデンシアネイロ号に乗り込んで、
香港に出港いたします。
で、7日後の6月12日にですね、
イギリス寮の香港に到着いたします。
香港までこの当時は7日かかったんですね。
結構かかりますね。
結構かかりますね。
で、日本政府のですね、外務大臣の娘根水にですね、
香港でペストが流行ってるというですね、
電報を打った中川良二と打ち合いまして、
調査研究の日程を打ち合わせをいたします。
ちなみにですね、中川良二が電報を打ってから、
彼らが到着するまでの間、1ヶ月経っております。
そうなんだ。
なんか素早く動いたようでも、やっぱりこの時代はなかなか時間がかかる。
移動にも時間かかりますし、というところですね。
で、到着した翌日、中川良二の案内でですね、
香港の街に出かけた北里と青山はですね、
至るところで肌が朝黒く変色した痛いようが積み上がってるのを見かけます。
いやだね、見たくもないだろうな。
なかなかきつい光景ですよね。
もう遺体を処理する時間とかもなかったんでしょうね。
近寄れなかったでしょうね。もらうかもしれないというのは。
そうですね、怖いですね。
で、中川良二はですね、香港政庁のですね、
フィリップ・イールス委務長と国家委員のジェームス・ラウソンに面談をしてですね、
2人を紹介してくれます。
で、ペストの調査に来たということを告げるとですね、
大歓迎してくれたそうなんですね。
もう本当彼らからしてもですね、もう喫緊の課題ですよね。
彼らの施設ですね、ケネディタウン病院の施設の一部をですね、
研究室として自由に使ってくれという形で場所も提供してくれます。
北里と青山はですね、相談して素早くですね、
仮設の解剖室と研究室を準備いたします。
手順としてはですね、青山がペストで亡くなってしまったご遺体からですね、
病理解剖をして、様々な検体を取るということをします。
その検体をですね、解剖室横のですね、研究室で北里が顕微鏡で観察したりとか、
細菌の培養などを行うということになります。
残念ながらこの病院ではですね、すでに医療用のですね、
手袋とか消毒液なんかをもうすべて使い切ってしまってまして、
彼らが身を守れるものはなかったというところなんですけども、
21:00
厳しいですね。
ちょっと僕、これ疑問に思って調べてみたんですけど、
ちょうどですね、手術用のゴム手袋とかって、
ここの都市に発明されてるんですよ。
なので、もしかしたら、
素手とかで手術するって当たり前だったのかなとかってちょっと思ったりしたんですけど。
なるほど。そっか、病気はね、だって移らないものでしたもんね。
なんかあんまりそういう感覚が、手袋で身を守るとかそういうのが、
分かってなかった時代だったのかな、どうなのか。それで細菌学が発達してきて、
やばいぞっていうふうにはなってきたんだとは思うんですけれども。
なので、手術の時に手袋を使うっていうのは、ちょっと先進的な考えだったのかなという気もします。
これだからすべて使い切ったっていうふうに、ある本には書いてあったんですけど、
最初からなかったような書き方をしてる本もあって、ちょっとこの辺り、
よくわかりません。普通だったら2本から持っていくでしょうって思うんですけど、
2本からも持っていった形跡がどうも見当たらないんですよね。
じゃあどうしたのかっていうと、手袋の代わりに、
粘性の高い液体のポロジオンっていうものを手に塗って、
飛沫を作ったみたいなんですね。これを手袋の代わりにしたみたいです。
そんな方法があるんだ、ポロジオン。
どんなものなのか僕もよくわかんないんですけど。
で、あとですね、塩化第二水分っていうものを薄めて、
消耗水っていうですね、消毒薬なんですけれども、
当時の消毒薬を作ったりとかしてました。
これもですね、消毒薬なんですけど、塩化第二水分って水分って入ってますので、
ほんとですね、毒性。
毒性がすごい高くてですね、今はもう当然使われてないんですけれども、
当時もですね、これをお医者さんは使って手を消毒するっていうことをしてたために、
皮膚疾患が多発したみたいですね、外科医さんの中には。
そりゃそうでしょうね、水銀ですからね。
水銀ですからね、ちょっとがんにもなったりとかするでしょうし、
よろしくはないですよね。
そっか、消毒液ですね、アルコールっていう感覚もその当時はなかったんでしょうね。
なかったんでしょうね。
時代劇ででもなんか焼酎吹きつけたりとかしてますよね。
ありますけどね、なんかあれは後付けなんでしょうか。
なんなんでしょうね。
アルコール消毒っていつ頃出てきたのか。
ちょっとすいません、そのあたりはまだ全然調べてなかったですけども。
この当時ですね、香港はですね、まだまだ迷信深い、
日本も当時そうだったと思うんですけど、迷信深かったんですね。
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ペスの流行のおかげでですね、おかげというかせいで、
いろんな噂も立ったというところです。
日本もコロナの時にいろんな噂立ちましたけれども。
例えばですね、この病院に入院するとですね、白人の医師にですね、
体や臓器を切り刻まれるとかですね、目をえぐり取られるとかですね、
そういう噂があったりとかですね、したんですね。
あと、遺体解剖されるとですね、死者の魂が天に登れなくなっちゃうと。
なるほどね、そういう。
そういう迷信もあったみたいなんですね。
もちろんこれは本当かもしれないのでわかんないですけど。
今でもわかんないですけど、これは。
永遠に地上をさまよっちゃうというふうに考えたので、
病陸解剖をされるっていうのがですね、遺族からするともてのほかだったんですね。
病陸解剖したっていうのがバレるとですね、
怒った遺族が梱包を持って病院に詰め寄るというような騒ぎなんかもあったみたいなので、
かなり念入りに隠して隠してやったみたいですね。
なるほどね。
じゃあ続いてですね、また来週になりますけれど、
次回になりますけれども、北里がですね、
どのように研究を進めていったのかをですね、お伝えしたいと思います。
はい、ありがとうございます。
今回はね、やっぱりパンデミックが起きたっていう、
どうやらフェストらしいというところで派遣されていくわけですけども、
そうか、やっぱりこういうことが起きると大変ですよね。
本当ですね。でもこの時代はパンデミック起きまくってますからね。
そうですね。4分の1ってのはちょっとびっくりしました。
いやーすごいですね。すごい数ですよね。
家族、4人家族で必ず1人が死んでるっていう状態ですもんね。
そうですね。そういうような状態ですね、本当に。
恐ろしい死亡率ですね。
恐ろしい死亡率。
いかにね、このね、免疫とかそういった最近の研究が大事かって、
今になってすごい感じますね。
そうですね。本当もうこの人たちのおかげで、
今の我々のこのコロナ1%っていうところでも、
そうですよ。
見るぐらい世界は良くなったんだなと。
はい。消毒もね、水銀でせずに済みますしね。
いや、本当ですね。水銀で消毒って怖いですよ。
ちょっとびっくりしました。いろいろちょっと気づきがあるんですよ。
はい。というところでいよいよね、来週また次回は、
どういうふうに研究を進めていったかっていうところを進めていきたいと思います。
ここまで聞いてくださりましてありがとうございました。
ありがとうございました。