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028.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.13~恩人たちとの別れ
2025-06-23 24:19

028.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.13~恩人たちとの別れ

前回に引き続き、日本の細菌学の父・北里柴三郎をご紹介していきます。

今回のエピソードでは、伝染病研究所の国有化をめぐる激動と、北里柴三郎の恩師、福沢諭吉・長与専斎の死が北里柴三郎に与えた影響をお届けします。
明治の偉人たちが残した深い友情と覚悟を辿ります。

シーズン2
「ノーベル賞に最も近づいた最初の日本人、北里柴三郎」
の参考図書は

ドンネルの男・北里柴三郎
山崎光夫
東洋経済新報者

北里柴三郎 感染症と戦い続けた男
上山明博
青土社

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00:06
生命科学の冒険者。
ようこそ、生命科学の冒険者へ。
MCの金澤英明です。
アシスタントの山崎愛子です。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
前回のお話だと、国立化に、霊染病研究所を国立にしていこうという動きがあったというところまで。
そうですね。
その続きというところなんですけれども。
1898年、明治31年ですね。
霊染病研究所の国有化話がですね。
元衆議院議員の長谷川大尉ですね。
安心化大化なんですけども。
より持ち上がりまして、福沢諭吉がですね。
ちょっと国有化するっていうことは、国の管理下になるっていうところで。
自由がなくなるかもしれないし、大丈夫なのかっていうところで心配をしながらもですね。
予算がしっかりもらえるでしょうというところで。
北里としてはですね。自分の弟子たちが海外留学させてやりたいとかですね。
そういった気持ちもあってですね。
この国有化話に乗ります。
そんな中ですね。この年の9月26日にですね。
福沢諭吉がですね。倒れるんですね。
洋上園、洋上園に勤務してる山根医師がすぐに駆けつけて処診を行います。
北里もですね、すぐに福沢店に駆けつけます。
福沢諭吉はですね、寝室でいびきをかいて眠ってたんですね。
これはもう脳の血管が切れたというような障害だと思われるんですけれども。
それでですね、この当時、脳手術なんていうのはもう夢のまた夢っていう感じですね。
当然MRIとかもありませんので。
どのような治療を行ったかというとですね。
とりあえず頭を冷やすということで、標脳が頭に乗せられてたみたいなんですね。
まずですね、ヒル療法を試すと。
ヒル療法は、要はおでこにヒルを吸い付かせて、悪い血を吸ってもらうみたいな。
なんか今じゃ考えられない療法ですけども。
いわゆる射血ってやつですね。
なるほど。そんな治療法があったんだ。
何の意味もないと思うんですけれども。
気休めでそんなことぐらいしかできなかったんだと思うんですが。
当時はこれがまだ治療法として生きてたっていう形ですね。
03:03
福沢自体はですね、数日間一診一帯を繰り返したみたいなんですけれども。
もうラッキーなことにですね、2週間ほどするとですね、意識が回復したらしいんですね。
ただしばらくしゃべれなかったみたいです。
1ヶ月ほど経つとですね、肉体が起き上がれるようになり、
それから言葉も徐々に回復していったようです。
本当に季節的にですね。
季節的ですね。
なかなかこの当時こんな治療しかないんで、
1回倒れちゃったらなかなか回復するってことは難しいと思うんですけれども。
脳出血ってことだったのかな。
脳出血の中のかなり軽い部類だったのかなと思いますね。
1899年の明治32年の3月31日ですね。
大日本私立衛生会からですね、電線病研究所が国に兼納されることになります。
電線病研究所が内務省衛生局に移管する際にですね、
前衛生局長の後藤新平から長谷川大議員を辞めて、
今は局長になってたんですけれども、長谷川大局長へ事務をする際の引き継ぎ文書が残っております。
電線病研究所の功績はこれと肩を並べるものがないほど極めて優れており、
そのせいで電線病研究所の功績を妬む一部の学者の中には電線病研究所を非難する者もいる。
今後電線病研究所によって様々な免疫血清療法が開発されれば、
順次国立の血清役員に通し、全国の需要に対応する必要があるというような内容となっております。
はい、その通りですけどね。
公式文書の中にも妬むやつがいるみたいな感じですね。
ちゃんとそこを書くっていうのがまた面白いな。
面白いですね。
長谷川らの活躍により、電線病研究所は北里を所長としたまま、
内務省管轄の国立の研究施設となります。
このことを病み上がりの福沢に北里は報告すると、福沢は北里に尋ねます。
国はですね、君をやめさせることがあるかもしれない。
その時にはどうするというふうに言われるわけですね。
ずっと福沢さんが気にしていることですもんね。
はい、非常に気にしているところですね。
それに対してですね、そのようなことはないでしょうと、
06:02
少なくとも私が死ぬまではないですというふうに北里は答えています。
その根拠はあるのかというふうに聞かれたんですが、
まあなんか長谷川さん頑張ってくれてるしとか、
根拠はなかったわけですね。
あやふやなご当心兵が守ってくれるからとか、
多分そんな程度しか言い返せなくてですね、根拠はないなと。
福沢はですね、助言を行います。
政府はとっきに防災を行うと。
これには抵抗しないといけないし、終始干渉しなければいけないと。
やはりですね、福沢はですね、
ご当心兵前衛生局長にも同じことを尋ねています。
もし国が考えを変えて北里を免職したらどうするのかというふうに質問します。
で、ご当は答えます。
彼もですね、まあそんなことはないでしょうというふうに答えてるわけですね。
で、津久岡養生園をつくった際にですね、
事務長として送り込んでた田畑には、以下のような指令をしています。
政府というものは、いつ考えが変わるかわからないと。
足元の明るいうちに資金を貯めて、
独立の準備をしておくようにというふうに助言をしております。
なるほど、すごい。福沢佑吉さんがここまで政府を信用しない理由って何なんでしょうね。
とにかく反罰政治をしている人がですね、
薩摩と長州とで権力の取り合いをしているとかですね、
そういったところが、こいつらは国のことを考えて動いているのかみたいな気持ちがすごいあったみたいですね。
なるほど。ずっとずっとそこを監視しようっていう気持ちですね。
なので福沢自身も多分政府に入るようなチャンスとかもあったんだと思うんですけど、
外から、俺は美徳像みたいな感じがあったんですかね。
そうですね。ここまで執念があるのがすごいなって、そのおかげで進んでいくわけですけど。
そうですね。本当にいいアドバイザーが北里の周りにはいるもんだなと思いますね。
ちょっと脇道にそれた話なんですけれども、
初代東京市の市長がですね、この当時ですね、ネズミ一匹を五線で飼い取るっていう政策を始めます。
これはですね、北里がですね、ペストを発見します。
香港に行ってペストを発見しましたらね。
それでその後ですね、北里とはいろいろ争うこともあった尾形雅典なんですけれども、
これはですね、北里自身もネズミがペストをばら撒いてるんじゃないかというところを見たわけですけれども、
09:08
尾形はですね、さらにそこから研究を進めてですね、ネズミについているのみがですね、
それがさらに人の血を吸うことによって最初の感染が起こるということを証明したんですね。
この発見がですね、結構センシェーショナルだったみたいで、
とにかくネズミがいなければペストは広がらんだろうということで、
ネズミをですね、税金を使って1匹5000円で買い取るよっていうような政策を始めたみたいなんですね。
すごい政策ですね。
はい。なのでですね、これによって東京市民はですね、ネズミ狩りを一生懸命頑張りまして、
毎年20万匹余りのネズミが飼い上げられたそうなんですね。
で、あとですね、裸足で歩いたらネズミに噛まれてペストになるんじゃないかとか言って、裸足禁止令とかも出たみたいです。
で、まあ裸足で歩いてるとですね、拘束されたりとかですね、また罰金払わされるとかっていうようなことがあったらしいんですね。
ただ衛生が悪いからネズミがいるわけで、一生懸命飼っても飼っても隙間ができてまたネズミが増えてくるだけなので、
実際この効果はあまりなかったんじゃないかっていうふうには言われてるみたいですね。
そもそもね、その環境を変えないとって話ですね。
そうですね。だから下水の整備するとかね、そういったところがすごく大事になるかなと思いますので。
一応ただこういうようなことがあったみたいですね。
国もね、いろいろ試行錯誤してたってことですね。
そうですね。1901年、明治34年ですね。北里48歳の年ですけれども、この時にですね、福沢諭吉が再度倒れます。
足のしびれを訴えてですね、その後言語不明瞭になり、錯乱状態となって倒れたそうなんですね。
倒れて数日でですね、亡くなってしまいます。
北里は資材を投じてまで支援し続けてくれたですね、最大の恩人を失うことになります。
この時ですね、本当に嘆き悲しんだみたいなんですけれども、この時同じく永代先生も非常に悲しみました。
旧友の福沢先生が言ったと、国家の不幸、これより大きいことはないというふうに言葉を残しております。
本当にね、彼が近代国家の建設にですね、政府側ではなく民間側としてですね、尽力を尽くしてくれたというところですね。
本当ですね。
北里はですね、葬儀の際にですね、私の家学を育ててくれくださった方であり、私の業績ですね、事業を守り育ててくださった先生が今や亡くなられてしまったというふうな形を述べて、福沢の死を深く言葉を残しております。
12:15
いやー、だってね、北里先生がここで何とかこうやっていけたのも、福沢基地の支援がものすごく大きいですもんね。
ものすごく大きいですよね、本当に。
まあ、本当に悲しい影響ですよね。
そして翌年なんですけれども、明治35年、北里49歳の年にですね、また悲しいことが起こってしまいます。
永代先生がですね、心臓弁幕症で亡くなります。
64歳。
はい、64歳ですね。
福沢基地も66歳で亡くなってますので、この当時、まあまあ長生きな方だと思うんですけれども、なかなか悲しい感じですね。
北里の後援者でですね、福沢基地を北里に紹介してくれた大恩人になります。
彼はですね、内務省衛生局の局長としてですね、北里をドイツに留学させる手配を行ったりとかですね、
あとロベルトコッホの下で細菌学を学ぶ機会を提供してくれたと。
本当に彼を亡くしてですね、北里がコッホの下に行くことはできなかったわけなので、北里を作り上げた人と言っていいのかなと思います。
そして帰国後にですね、祝福が得られなかったときにはですね、福沢基地を紹介して、
電線病研究所をですね、設立するというところまで導いてくれたわけなので、本当に非常に惜しい人物が立て続けに亡くなってしまうという年ですね。
柱が2つ。柱が2つですね、亡くなってしまったという感じですね。
この辺りの年でですね、日本はですね、本当に日清戦争をしてましたけれども、
1904年、明治37年ですけれども、2月10日に日露戦争が勃発します。
安定な時代ですね、本当に。
安定な時代ですね。
政府はですね、日露戦争が起こりそうということだったのでですね、
戦備調達のためにですね、いろいろな部門を統合してですね、運営を効率化しようとしてました。
なるほど。
北里自身もですね、電線病研究所をですね、それから手術病製造所ですね、
天然灯のワクチンの製造所になりますけれども、
15:01
あともう一つ、血清薬院ですね、これすでに国に引き渡してた事業ですけれども、
自分たちのところも国に行ったわけなので、
この3機関をですね、統合して効率的に運用しましょうという形で内務省に提示をしております。
はい。
これはですね、国からしてもですね、いろいろな部門を統合して効率化して予算を減らしたいというところがありましたので、
非常にいい提案だったみたいでですね、
かつ長谷川隊もですね、これにこうして動き始めるということで、
明治38年の4月1日にですね、この3機関が統合されることになります。
ただ組織的な組み替えは人事で簡単にできますけれども、
場所の統合がなかなか難しかったんですね。
とにかくそれぞれの人間が勤務しているというところで、
両方にすぐ命令出したりとか勤務しやすくするために、
一箇所に集めるということが非常に大事だったんですけれども、
なかなか東京風ですね、広い土地がどんどん少なくなってきていた当時だったんですね。
なんですが、白金内の方にですね、広大な土地があるということが分かりまして、
この確保に成功いたします。
これはスムーズにいくんですね、割と。
そうですね、はい。スムーズにいきます。
日露戦争の方もですね、9月5日に明治38年、1905年の9月5日、ポーツマス条約を承認することで終了いたします。
1906年の明治39年ですね、11月30日にですね、
この3機関を統合した大伝染病研究所っていうのが落成されます。
この新しい研究所をですね、新研究所が立ち上がってたっていうところを話した時に、またさらに新しい研究所が立ち上がったわけですけども、
この研究所はですね、後々土地を買い足してですね、最終的には2万2千坪の敷地となります。
すごい、大きい。
落成式でですね、北里はですね、これを非常に誇りまして、諸君今日は記念すべき日となったと。
我が伝染病研究所はここにドイツのコッホ研究所、フランスのパッスール研究所に匹敵する研究所となりましたよというふうに演説します。
職員はですね、所長の北里一人でですね、義手が23人、研究員ですかねが23人、それから職規が7人、あと無休義手っていうのが20人。
これ多分大学院生みたいなものなのかなと思うんですけれども、がいたという形ですね。
18:04
北里はですね、この大研究所が出来上がってからですね、即近にですね、これからはさらに講演に力を入れる。
講演っていうのは講義活動、教育活動ですね、に力を入れるというふうに宣言をいたします。
全国の衛生技術館ですね、衛生技術館っていうと保健所、今で言う保健所みたいなもんだと思うんですけれども、保健所の職員をですね、ここに集めてですね、
細菌学とか予防消毒論、多分当時消毒とかもどういうふうにやったら正しいのかとかっていうのが、知識としてなかなかなかったと思いますので、消毒論ですね。
それから伝染病の治療方法などを講義してですね、あと顕微鏡の使い方ですね、顕微鏡検査とか、細菌の培養方法とか。
それから動物試験のやり方とかですね、臨床診断の出し方などを練習させるということをいたします。
ここの講義がですね、非常に地方の衛生行政ですね、それから感染症の予防とか治療に対して非常に広く役立っていくということになります。
どんどん教えていく方に回っていくわけですね。
そうですね。そしてですね、どんどん時が経っていきますけど、1908年、明治41年ですね、6月12日に北里がですね、もう望んでもずっと望んでたことが実現します。
ロベルトコッホがですね、北里の招きに応じてですね、来日いたします。
何年ぶりだろう?
15年ぶりの再会ですね。
柴桜はですね、弟子の滋賀清、それから北島太一、宮島観之助の3人を従えてですね、横浜港にコッホ先生を迎えに行きます。
もう2人はですね、本当に言葉そこそこにですね、涙を流して再会を喜んだそうです。
すごい、15年ぶりですもんね。
そうですね、本当に当時のヨーロッパの遠さは今の日ではないんでですね、大変嬉しかったと思いますね。
で、その後ですね、北里はですね、コッホを帝国ホテルに送ります。
で、次の日ですね、北里は森鴎外がコッホを表敬訪問するというのでですね、それに同席をいたします。
いろいろとですね、圧力のある2人ですが、もともとですね、コッホ研究所に残れたのはですね、森のおかげですね。
21:00
陸軍軍医の石黒のですね、命令があって、お前ミンフィエンに行けと、その代わり中浜東一郎をこっちにやると。
ジョンマンジローの息子さんですね、をこっちにやるというふうな形で交代させるというところをしてたらですね、今の北里はなかったわけなので、
森は非常に仲互いはしてるが、恩人でもあるというところですね。
当時、日本ですね、今でも世界的な科学者が日本に来ると大歓迎するかもしれないんですけれども、当時もですね、非常に大歓迎したみたいなんですね。
で、コッホ夫婦はですね、歌舞伎を見学してるんですけれども、その際にはですね、演目の説明を森鴎外がですね、ドイツ語に訳して、それの説明文を渡してたみたいでですね。
で、コッホ夫人はもうこれを大変喜んだそうなんですね。
結構ちゃんと歓迎したんですね、日本としても。
そうですね、歓迎しましたね。
ちなみにですね、コッホ夫人なんですけれども、コッホの30歳年下だったそうです。
若い奥さん。
若い奥さんですね。
だからコッホ奥さんと私別したのかなと思って、僕ちょっと気になって調べてみたらですね、きちんと離婚してですね、その後で若い嫁さんを埋めとってるみたいですね。
すごい、30歳したって。
30歳したってすごいですよね。
もう娘と結婚するようなもんですね。
ですね、はい。
そんなところでですね、北里はですね、コッホを日本に招いてですね、今後ちょっといろいろと案内したりとか、いろんな人と会談をしたりとかっていうようなところをですね、次回紹介していきたいと思います。
はい。
いやもう15年ぶりの再会でね、いろんなことを話したんでしょうね。
もう多分話は尽きないと思いますよね。
ないですよね。
コッホ先生自身も北里先生が日本で埋もれずにちゃんとやってるってことは嬉しかったんだろうなと思いながら。
そうですね。
次回にちょっと回そうかなと思うんですけど、北里はですね、とにかくこの自分の力でですね、作り上げた大研究所をですね、コッホ先生に見せたかったんですよね。
なのでちょっとそのあたりを次回ちょっとお話ししていけたらと思います。
はい。ありがとうございます。ここまで聞いてくださいました。ありがとうございます。
ぜひ次回もお聞きください。ありがとうございました。
24:01
ありがとうございました。
24:19

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