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【今回の放送内容】
「金曜日の金次郎」第12回!
あなたの小学校にもありませんでしたか?薪を背負い、本を読む二宮金次郎像。
今回の「金曜日の金次郎」では、この金次郎像が全国に広まった意外なきっかけと、近年姿を消しつつある本当の理由に迫ります 。
実は、金次郎像は国からの命令ではなく、民間の人々の寄付と、愛知県岡崎市(石像)や富山県高岡市(銅像)といった地場産業のプロモーションによって広まった「民衆が育てたパブリックアート」でした 。
「歩きスマホのようで危険だから撤去された」という噂は本当なのでしょうか? GHQが撤去を命じたという説は?
戦争による供出、戦後のブーム、そして高度経済成長期の校舎建て替え… 。日本の近代史が詰まった金次郎像の知られざる物語をお届けします 。
【ハッシュタグ】
#金曜日の金次郎
#二宮金次郎
#二宮金次郎像
#歴史
#パブリックアート
#豆知識
#お坊さんの話
#栃木県
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【今回の放送内容】
「金曜日の金次郎」第12回!
あなたの小学校にもありませんでしたか?薪を背負い、本を読む二宮金次郎像。
今回の「金曜日の金次郎」では、この金次郎像が全国に広まった意外なきっかけと、近年姿を消しつつある本当の理由に迫ります 。
実は、金次郎像は国からの命令ではなく、民間の人々の寄付と、愛知県岡崎市(石像)や富山県高岡市(銅像)といった地場産業のプロモーションによって広まった「民衆が育てたパブリックアート」でした 。
「歩きスマホのようで危険だから撤去された」という噂は本当なのでしょうか? GHQが撤去を命じたという説は?
戦争による供出、戦後のブーム、そして高度経済成長期の校舎建て替え… 。日本の近代史が詰まった金次郎像の知られざる物語をお届けします 。
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サマリー
二宮金次郎像の知られざる歴史が掘り下げられ、1928年に始まった全国的なブームや戦争の影響が明らかになります。また、金次郎像は官僚主義ではなく、民間の努力によって広まったパブリックアートであることが強調されます。金次郎像の歴史は、彼の教育理念や日本の近代史、産業史、アートの歴史に深く根ざしています。この像の重要性と変遷について詳細に考察され、未来におけるその保存の大切さが強調されます。
00:05
どうも、コウブンです。
栃木県の片田川にある蓮城院というお寺で副住職をしております。
今日は金曜日ですので、毎週恒例の金曜日の金次郎をお送りしたいと思います。
この金曜日の金次郎というコーナーは、
二宮金次郎さんのことをわかりやすくお伝えするというものです。
なぜ、そんなことをお坊さんがやっているのかというと、
私の住んでいる地域、栃木県の毛河市というところは、
二宮金次郎さんが昔活躍した場所なんです。
そういったご縁があって、私のお寺に二宮金次郎さんのお墓がある。
というわけで、私がこの放送を通じて皆さんに伝えて、
そして皆さんが少しでも自分の人生に役に立ったというようなことがあって、
お墓参りでもしてみようかなと思っていただければ、
私のお寺のところまで来てもらえれば嬉しいなというようなことを思いまして、
このような活動をしているというわけでございます。
金次郎像の誕生とブーム
というわけで、今日は先週の続きをお送りしたいと思います。
先週お話しした内容というのは、二宮金次郎さんの像についてのお話ですね。
皆さんの出身の小学校、あるいは中学校、二宮金次郎さんの像ってありませんでした?
ありましたよね。
その像というものが一体どのようにして生まれたのかというお話ですね。
二宮金次郎さんの活動というものを、弟子の二宮金次郎さんの弟子というものが電気として残していて、
それを読んだ人が挿絵を描いて、その挿絵を見た人が銅像を作ってという形で誕生したんだよというお話をいたしました。
その銅像ができた時点では、まだ金次郎さんの像というものは全国的なブームにはなってなかったんですよね。
では、一体いつ、どんなきっかけで金次郎像というものは全国の小学校に広がっていったのか。
そして、最近よく聞く金次郎さんの像が撤去されているという話の真相というものをお話をしたいと思います。
今日はこの金次郎像のブレイクから現在に至るまでの知られざるアートの物語、そういうことを紐解いていきたいというふうに思っております。
金次郎さんのブレイクの年というのがあるんですよね。
それはずばり1928年。昭和で言うと昭和3年ですね。
この年に何があったかって皆さん知ってますか。知らないですよね。
この年は昭和天皇の即位御大祭というものかな。恩大祭というものかな。
即位した後のお祭りみたいなものをやったんですよね。
国を挙げてのお祝い事ということですよね。
それを記念して全国各地で博覧会みたいなイベントというのが開催されたんです。
名古屋での博覧会でとある石像というものがスターになっていた。
それは愛知県の石岡市の石区の長坂さんという方が作った二宮金次郎の石像だったんですよね。
二宮金次郎さんの石像というものが愛知県の博覧会に展示されたということなんですね。
なぜかと言いますと愛知県岡崎市というのは昔から石の名産地なんですよね。
長坂さんは東京から有名な彫刻家を招いて指導を受けて、そして本格的な金次郎像を制作して出品をしたということなんですよ。
この石像を出品したことがきっかけで、昭和天皇が即位した大祭の記念として母皇に寄贈してはいかがですかというキャンペーンを行ったんですよね。
たくましいですよね。よくよく考えたら、全然天皇の即位とは関係ないんですけど、その時は日本中がお祝いムードだったんですよね。
なので、そういった石像を送る、寄贈するというようなことをして、自分たちも盛り上げようと。
そういったことをやったらどうですかって提案したと。商売たくましいですよね。
そんなことがあって、そしてこの1928年をきっかけに、全国に金次郎寄贈ブームというのが起こったんですよね。
でもね、これって石像だけの話ですよね。
実はもう一つの大きなブームの流れがあったんです。
というのは、そちらが銅像の方なんですよね。
金次郎さんの像といえば、石像であったり銅像であったり、あとはコンクリートであったり、さまざまな素材がありますよという話を先週お話しいたしました。
その中のもう一つ、銅像、銅でできた二宮金次郎さんの像というものも、同じ1928年頃からだんだん数が増えていったんですね。
きっかけは神戸にある市議会議員の奥様という方が、奥様の名前はちょっとわかりませんけれども、その方が84体もの二宮金次郎さんの像を寄贈したということを行ったんですね。
その人たぶん相当金次郎ファンだったんですね。
詳しい経緯まではちょっとわからなかったんですけども。
ともかくそういうことを行った人がいたというものがきっかけだった。
そこの像を作ったのが富山県高岡市出身の芋野市の方。
富山県の高岡市といえば、同期の伝統的な産地ですよね。
知ってましたか。
物具なんかもたくさん高岡市で作られております。
特に有名なのは盆椒ですね。
盆椒ってお寺のゴーンってなる鐘です。
あれを高岡で作られるというのは非常に多いですね。
それぐらい高い技術力を持った地域、そしてそういった伝統が根付くところ、それが高岡市です。
その高岡市の方で作られた金城山の銅像。
これもさっき言った神戸市の市議会議員の奥様が
いろんなところに寄贈したよということをきっかけにキャンペーンを開始したということなんですよね。
こちらもキャンペーンを開始した。
こうして愛知の石像と富山の銅像ですね。
両方の産地からプロモーションを行うことによって、
そして1930年代に金城像は全国の小学校へ一気に広まっていったということなんですよね。
戦争と金属教室の影響
でも1930年代後半となってくると、だんだんと世の中は戦争の流れになってきました。
そして1940年代、戦争が激しくなると銅像にとっては困難な時期というのが訪れるんです。
それは金属教室でいいのかな?知ってますか?金属教室。
これは戦争の時に金属が足りないから、持っている金属を軍の方に提供したんですね。
これを金属教室って言うんですね。
すごく言いづらい。
武器を作るために国内の金属類が集められたということなんですよね。
これには小学校に建てられた金城さんの銅像も含まれていたということなんですよね。
学校では二宮金次郎先生が出征される。
出征というのは戦いに行くということですね。
出征されるとして子どもたちが金城さんを見送ったということもあったそうです。
その時に銅像は激減したと。
その代わりとしてコンクリート像、あとは他にもビゼン焼き、陶器ですね。
陶器製の金城像も作られてきたということなんですよね。
ここで一番大事なポイントというのは、二宮金次郎像というものは、
国や文部省が起きなさいというような命令をしたものではないということですよね。
あくまでも民間の人々による寄付、そして岡崎とか高岡といった地場産業の皆さんの営業努力によって広まった、
民衆が育てたパブリックアートということなんですよね。
現代の金次郎像の撤去
さて、そんな金城さんの像なんですけれども、最近は撤去されるということも多いというふうに聞きます。
その理由は、皆さんどういうふうに思いますか。
金城さんといえば、働きながら本を読む、歩きながら本を読んでいるという姿ですよね。
その歩きながらの本を読むというのは危険だ、というのは歩きながらスマホを見たいで危ないという指摘があって撤去されたんじゃないかと言われているんですけれども、
実はこれ、1960年代頃の交通事故が多かった時代にも言われていたそうなんですよ。
なので、これが撤去の直接の原因ではないんじゃないかと言われているんですよね。
他にも戦後、GHQ、アメリカのGHQが日本の古い教育の象徴として撤去を命じた、なんていう話もあるそうなんですけど、実は全く嘘なんですよね、これは。
むしろ逆でGHQとしては推奨していた。
なぜなら、リンカーンというアメリカの大統領がいましたよね。
リンカーンさんという方は身長が190センチあったそうです。
二宮金城さんも身長が180センチくらいあったそうですよね。
当時の日本人としてはかなり大きい方ですよね。
そういった高身長であるというような共通点。
他にも出身がとても貧乏だったということで、子供の頃働きながら勉強したんだ、空学したんだ、そういったところの共通点があって、
ポスターの方に金次郎さんとリンカーンさんと、そして自由の女神というものが一緒に描かれて、一緒に自由を勉強しようみたいな、そんなGHQのキャンペーンもあったそうです。
そして1950年代には二宮金城さん、戦後ですよね、数が減っていったどころか、むしろ増えていったそうです。
なぜかというと二宮金城さんが亡くなってから100年経ったということで、没後100年のブームがあったんでしょうね。
それがきっかけで増えていったということなんですよね。
そういった諸々のことを考えると、現代減ってしまったという理由の一つ、本当の理由としては、時代の変化、高度成長期に入って、
支出と契約といった二宮金城さんの価値観というものが流行らなくなった。
そして二つ目としては、校舎の建て替え、昭和40年代、学校の校舎というものは鉄筋コンクリートの建て替えというものが全国に進んだということで、
その際に一気に撤去されてしまうという自然消滅というものも多かった。
像の重要性と未来
つまり、誰かが意図的に排斥運動をしたというわけではなくて、時代の流れとともに自然と姿が消えていったというのが真相のようです。
悲しいですけどね。これも諸行無常ということですよね。
いかがだったでしょうか。
二宮金城像の物語というものは、単なる銅像の話ではなくて、日本の近代史、そして産業史、そしてアートの歴史というものが詰まった非常に興味深いものだったんですよね。
民間の力で全国に広まった、世界的にも珍しいパブリックアートとして、歴史的な遺産として残せるものは大切にしていきたいなというふうに私は強く感じております。
皆さんももしどこかの小学校、あとは神社とかで金城さんの像を見かけたときは、ぜひとも立ち止まってみてください。
そして、この像は石かな、銅かな、それとも陶器かな、あとはどんなものを背負っているのかななんて、その違いというものを観察してみるとまた新しい発見があるかもしれません。
そうやって楽しんでいただければなというふうに思います。
というわけで、本日の金曜日の金城はここで終わりたいと思います。
今日のお話を聞いていいねと思った方、面白かったと思った方はどうぞいいねボタンよろしくお願いいたします。
それと、二宮金城さんのこんなお話が聞きたいな、これってどういう意味っていうことがあれば、
どうぞコメント欄の方にリクエスト、あるいはフォームの方も用意してありますので、そちらからぜひとも問い合わせしていただければ必ずお答えいたします。
どうぞよろしくお願いいたします。
というわけで、蓮城院副住職の幸文でした。ではでは、またね。
17:33
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