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2024-08-28 14:06

#76 芸術か仏道か?20代男性の人生の岐路

▼ハスノハサイトはこちら!
「今後の進路について悩んでいます」
https://hasunoha.jp/questions/72133

🎙️ お悩み相談会:芸術と仏道の狭間で

20代男性からの相談「人生を賭けて芸術と学問を極めるか、仏道に進むか」について、蓮城院副住職コウブンがアドバイスします。芸術と仏教の両立は可能なのか?知識探求は煩悩になるのか?悟りや芸術の「到達点」とは?人生の価値をどこに見出すべきか?

深遠な人生の問いに、仏教の視点から丁寧に答えていきます。芸術家も修行者も、そして人生に悩むすべての方々に響く言葉があるはずです。

あなたの人生の歩み方のヒントが、きっと見つかるはずです。

#お悩み相談 #仏教 #芸術 #人生相談 #悟り #自己実現 #生き方 #副住職 #禅 #哲学
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おはようございます。コウブンです。栃木県の片田川にある蓮城院というお寺で、復住職をしております。
本日もですね、お悩み相談会をお送りしたいと思います。
このお悩み相談会は、パスノハというお坊さんがお悩みに答えるウェブサイトに寄せられたお悩みを、
私、コウブンが答えるという、そういったものでございます。
ではですね、早速お悩み相談の方に行きたいと思います。
20代男性の方、題名がですね、今後の進路について悩んでいます、です。
では早速本文の方に行きたいと思います。
人生をかけて芸術と学問を極めるか、仏道に進むかで悩んでおります。
絵や小説、哲学、初期仏教が好きで、個人的に学んでいるのですが、美や知識を探求することは煩悩や困慮にあたりますか。
最近、何かを追い求めること自体が、迷いのただ中に入ることなのではと感じます。
仮に死ぬまで絵や小説を書き、哲学を学んでも、どこにも到達しないんじゃないかという不安が常にあります。
一層のこと、全てを捨てて、仏道に専念して悟りを目指したいという思いもあります。
しかし、芸術の極地を見たいという思いが、寝ても覚めても頭の中から離れません。
今後どのように生きていくべきか分かりません。
何かしらの指針をいただけたらと思い、質問させていただきました。
容量を得ない質問で申し訳ございません。
そういった内容でございます。
すごいですよね。
芸術と仏教を迷うなんてね。
私が若い頃、もともと仏教好きじゃなかったんですよ。
古臭いとかね、そういうふうに思ってました。
今日は仏教のこと知らないから、イメージだけそんなふうに感じたんですよね。
どういうふうに進むかなんていうのは、自分の欲望と言いましょうかね、好きなこと。
好きなことをするために進路を決めていた、すごく単学的な考え方、そういう思考を持ってですね、
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若い頃、学生を過ごしておりました。
それに比べたら、人生をどういうふうに過ごすかという視点でね、
考えているこの相談者さん、この時点でとても立派だなとは思っておりますが、
それでもね、やっぱり悩みはつきないものですよね。
なので私なりに精一杯答えていきたいと思います。
ではですね、芸術家、芸術とか学問を極めることか、仏道を進むことか、
どちらがいいかというところですよね。
これはですね、どちらもね、やってみるのが私はね、いいと思うんですよね。
ある意味ね、どちらも中途半端になるんじゃないかというふうな考え方もあるんですけども、
仏教を学びながら芸術をすることもできると思うんですよね。
どちらかじゃないとダメとは思いません。
芸術をやりながら仏教を学ぶこと、仏教をやりながら芸術を学ぶこと、
それはもうできるのかなと思います。
というのはですね、私の知り合いのお坊さんの中で、
書道の先生をやっている方だったりとか、
あとは仏師、仏師というのは仏像を掘る方、
そういうことを仏師と言うんですけども、
仏師をやりながらお坊さんをやっていく、そういう知り合いもおります。
どちらも中途半端かというとそんなことはないと思います。
どちらもね、お坊さんとしても素晴らしいし、
あるいは書道の先生、仏師としても素晴らしいと私は思いますし、
どっちもやりながら可能だと思います。大変ですけどね、その分ね。
それにそういったことをするということだけで、
例えば書道を通じて仏像というものを表現したり、
あるいは深めたりとか、そういうこともできるのかなと思いますので、
どちらかじゃないとダメということはないんじゃないかなというふうに私は思っております。
それとですね、疑問の部分、
美や知識の探求が煩悩や貪欲にあたるんじゃないかと。
知識の探求というものは、確かに行き過ぎてしまうと、
それはね、確かにむさぼりに近いかなと思います。
そうなってくると、貪欲、むさぼりの心にあたる方だと思うんですが、
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しかしですね、
人は学ぶということに対して、学ぶことでより良い人生を獲得するということができると思います。
ですので、自分の人生をより良くするという側面でいればですね、
知識を探求するというのはね、決して貪欲ではないかなと思うんです。
ただし、自分の人生をないがしろにしてはダメですね。
例えば、毎日毎日夜更けまで、夜更けというか、睡眠を削ってまで探求する。
そうするとね、結果的に体を壊しやすくなりますから、
そういう意味では人生をですね、良くない方向に向かわせる。
そうなってしまうと、そこはもうむさぼりの領域だと思います。
そうではなくて、適度に貪欲を切るという部分を守りながらやるのであれば、
知識の探求は特に問題ないのかなと思います。
あとですね、芸術や哲学を極めても到達点がないのではないかというふうにこの方はおっしゃっておりますけども、
確かに到達点があるのかというとね、難しいですよね。
なぜなら、仏教においてはですね、芸術は私にはあまりそんなに詳しくありませんので、
仏教においてですよ。仏教において到達点は何かというと、
悟りというところかもしれません。一般的な観点で言うとね。
しかしながら、日々の生活の中でですね、その悟りなのかなという、その近い、悟りに近い感覚というもの、
私は座禅をしている中でね、そういうことを感じることは確かにあるんですけども、
だけどもそれが到達点かというとね、そうじゃないなと思いますね。
何て言うんでしょうね、一瞬ちょっと仏様になれた気がするという、悟りに入ったような気がするという、
そういう感覚はありますけども、それがずっと永続するということはありませんので、
その瞬間瞬間、そういった悟りはもしかしたらあるのかもしれませんが、
またですね、その瞬間を目指してですね、日々を精進するというところを繰り返しなわけですからね、
結局のところ、到達点があるようでないというのが仏教なのかなと思います。
むしろ学べば学ぶほど、仏教を実践すればするほど、悟りというものがむしろ遠のく感覚すらありますね。
より自分の情けない部分、ダメな部分というものがどんどんどんどん見えてきて、
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どんどんどんどん悟りというのが遠のくるんじゃないかなというふうに思います。
そうなってくるとね、とてもじゃないけど到達するというのは難しいですね。
どのように考えることはあります。だからといって仏教はダメなのかという、
そうじゃなくてその悟りというものを目指して日々の生活を改めて、
より良い習慣を取り入れて、日々穏やかなものを穏やかにするように目指すというところが仏教の最大の良いところ。
そうやって精進することで結果的に限られた人生の時間を良いものに変えていくというのが仏教ですから。
なので、到達できないから悪いのかといったらそんなことはありません。
多分芸術もこれも同じなんじゃないかなと思います。
芸術の到達点って何かわかりませんけども、目指す自分の作品の表現方法だったり伝えたいこと、
そういったものを一生懸命アートを通じて表現して、
だけども納得しない部分、まだ表現が足りないなと思っている部分とか、
そういった反省をしてまた新しい作品を作る。
その繰り返しの過程というものがやっぱりそれ自体がアートなのかなと思います。
芸術なのかなと思います。哲学なのかなと思います。
なので極めるということは決してないという中で、
だけども極めようとするための今の努力というか身の生き方、そこに本当の価値があるのかなと思います。
そういった意味で、そういうふうに捉えていただければ、不安というどころか、
もっと頑張ってみようという希望、活力、そっちのほうが強くなるんじゃないかなと思います。
決して到達点がないからといって残念に思うんじゃなくて、
到達点がないからこそやりがいがあるんだと捉えていただきたいと思います。
願望として芸術の極地を見たいとか悟りを開きたいということが書いてありましたけれども、
さっきの話のとおり、極めるとかないんじゃないかなと思いますね。
仏教においても芸術においてもね。
なので願うのは素晴らしいと思います。
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そういう願いを持って行動することは素晴らしいことだと思いますが、
それがあるんだというふうに思っていると、もしかしたら真の意味で到達できないのかもしれません。
相当種の座禅の場合の話なんですが、
座禅をしたから悟りが開けるというふうに考えてはいけないと今占められるんですよね。
なぜかというと、目標を持った時点でそれはもう座禅じゃなくなってしまう。
座禅というのはもう座禅の時点で完成されているのだから、
座禅をする以上のことはもう必要はないと。
求めてしまってしまうと、その結果を求めてしまうと、
それはあくまでも手段になってしまうので、
それはもう悟りではないというふうに考えるんですよね。
何が言いたいかというと、そうやって目標を持つのはいいんですけれども、
ただそこにとらわれてしまうと見失ってしまうものが多いんじゃないかなと思いますので、
そこを少し注意していただきたいなと思います。
こんな感じで弁当になったのかな。
後半すごくしぼんじゃったような気もしますけれども、
ここで今日のお話は終わりたいと思います。
今日の内容を聞いて、ご意見・ご感想等がありましたら、
どうぞコメント欄の方へよろしくお願いいたします。
また、お悩み相談・人生相談等がありましたら、
スタンドFMのメタ機能を使ってですね、
私の方へ直接ご連絡いただければ、
この放送を通じてお答えできると思いますので、
どうぞご検討ください。
では、連常院副住職の幸文でした。
ではでは、またね。
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