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今日は、あるお葬式のお手伝いを通して感じた「悲しみの形」についてお話ししました。
99歳のお母様を見送る住職さんの気丈な姿と、以前目にした、悲しみで動けなくなってしまった奥様の姿。
同じ「別れ」でも、なぜ人によって立ち振る舞いがこれほど違うのか。
そこには、その人の人生における「縁の紡ぎ方」の違いがあるのかもしれません。
仏教の「愛別離苦(あいべつりく)」という言葉をヒントに、悲しみの正体について考えてみました。
もし今、悲しみで動けずにいる方がいたら、ぜひ聴いていただきたい内容です。
🔹 100歳近い大往生を見送る住職さんの涙
🔹 悲しみで動けなくなる人の心理とは
🔹 「愛別離苦」を少し違う角度から見てみる
🔹 悲しみは深く生きた証、愛の証明
お話のリクエストや、人生相談・お悩み相談などがございましたら、コメント欄やフォームからお気軽にお寄せください。
#仏教 #お坊さん #葬儀 #愛別離苦 #グリーフケア #人生論 #悲しみ #縁 #メンタルヘルス #コウブン
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同じ「別れ」でも、なぜ人によって立ち振る舞いがこれほど違うのか。
そこには、その人の人生における「縁の紡ぎ方」の違いがあるのかもしれません。
仏教の「愛別離苦(あいべつりく)」という言葉をヒントに、悲しみの正体について考えてみました。
もし今、悲しみで動けずにいる方がいたら、ぜひ聴いていただきたい内容です。
🔹 100歳近い大往生を見送る住職さんの涙
🔹 悲しみで動けなくなる人の心理とは
🔹 「愛別離苦」を少し違う角度から見てみる
🔹 悲しみは深く生きた証、愛の証明
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サマリー
葬儀を通じて、悲しみの形の違いについて考察されています。住職のお母様が99歳で亡くなられたことや、他の葬儀で動けない奥様の例をもとに、悲しみの深さや個々の関係性の違いが探られています。
葬儀の経験と悲しみの形
どうも、コウブンです。
栃木県の片田川にある蓮城院というお寺で福住職をしております。
今日はですね、今日の昼間に経験したことをベースにお話をしていきたいと思います。
題して、悲しみの形が違う理由といったね、
ちょっと重たいテーマでお話をしていきたいと思います。
今日はですね、実はとあるお葬式に参列というか、参加してきました。
お手伝いですね。お手伝いをしてきました。
お坊さんとして呼ばれたということです。
どういう人が亡くなったかといいますと、お寺の住職さんのお母さんなんですね。
私と少しご縁のある方のお寺さん。
そのお寺さんのお母さんがね、お寺さんのお母さんと言うと変だな。
住職さんのお母さんが亡くなったと。
今年で99歳だった。来月になると100歳になるというような、
それだけすごくご高齢のお母さんが亡くなったと。
亡くなったと。
体調に身を伴いたいから、お葬式をしたいから、
ぜひとも手伝ってくださいということで、お手伝いに行ってきたんです。
お寺のお葬式、住職さんのお母さんですから、
お寺でね、式をやったんですね。
一般の皆さんがご存知のツヤ葬儀というものとはちょっと違うかな、形が。
非常に丁寧に行われた。
呼ぶ方もね、親族はもちろんですけど、その他にお団家さんですね、
あとは地域の人、そういった方々もお呼びして、
それはそれはご丁寧にお見送りしたんですね。
そこでね、住職さん、70くらいの方かな、住職さんと、
その息子さん、息子さんは私と同じくらいですね、
40代、47歳、8歳から48歳の息子さん。
一生懸命ね、そのお式を行うためにね、
いろんな準備をしたり、いろんな人に挨拶をしたり、
とにかく動き回ってたんですね。
こっちこっち顔出して、こうしよう、ああしようと、
いろんな人と会話をしながらね。
とにかくね、式をちゃんと一生懸命努めようというのがね、
その人生がね、すごく伝わってきた。
そういう感じだったんですね。
で、もしかしたらね、もしかしたら、
なんであんなに動いてばっかりでね、
悲しい様子というよりかは、すごく一生懸命。
悲しくないのかなって、ちょっと少しだけ思ったんですけども、
いや、そんなことはないよなと思いつつも、
その様子を見ていて、そして最後、式が終わって最後ですね、
お礼の言葉、住職さんからね、三月茶、
およびそのお手伝いに来たお坊さんたちに対する
お礼の言葉を述べられたんです。
その時にね、すごく最初はね、
竜鳥に、母はこんな人でしてっていうお話をしてたんですけど、
途中でね、言葉が詰まって涙が出て、
やっぱり悲しかったんだなって思ったんですよね。
住職さんもね、当然、当然ですよ。
やっぱり自分のお母さんですから。
ましてや、100年近く生きたお母さんですから。
悲しくないわけがない。
まあそんなのは当たり前なんですけど、
なかなかそういったところも見せないでね、
それくらい一生懸命、一生懸命努めていた。
まあそういう印象だったんですよね。
で、一方で、去年、一昨年かな、
住職と奥さんの悲しみの違い
私の知り合いの、やっぱりお坊さんなんですけど、
亡くなって、その方は私と同い年くらいかな、
当時はまだかな、45歳くらいで亡くなってしまった方がいるんですが、
その方の奥さん。
奥さんがね、ものすごく悲しみに明け暮れて、
もうずっと抱きっぱなしで、
その悲しみに明け暮れて、もう動けないっていう感じだったんですね。
特に印象的だったのは、お寺でね、
その方もお寺でお葬式やったんですけど、
最後、出館をするときに、お式が一通り終わって、
これから火葬場に運びますと言うときに、お花を入れる。
そのときに、ずっと泣いていて、ずっと離れないんです。
みんながちょっと困っちゃうくらい。
司教、時間もありますから、その火葬場の時間とかありますから、
進まないと困るんだけど、
その悲しみに明け暮れている人に対して、
もう時間ですからって、なかなか言いにくいところはありますよ。
でも、そういったあまりにも悲しみに明け暮れて、
周りの方々にも身が行き届かないくらい、それくらい動けなくなっちゃう。
そういう人もいるんだなって思ったんですよね。
ちょっと今日、その式の中で、
あんまりお坊さんとして良くないかもしれませんけど、
この違いは何なのかななんていうことを考えてたんです、ずっとね。
一生懸命役割を全うする住職さん。
一方で、悲しみに内ひしがれて動けなくなる人。
そういった方、どっちも同じ別れなのに、行動は全く違うということ。
この違いは一体何から生まれるんだろうかなって、
そんなことを考えてたんです。
仏教には、愛別離去っていう言葉があります。
愛するに別れる、そして離れる、苦しむ。
そんな風に書いて愛別離去。
これは、どんなに大切な人、どんなに愛する人でも、
必ず別れが来る。別れてしまう苦しみですね。離れたくない。
そういうのを思っている人だって、いつかは離れてしまう。
そういった思い通りにならないことがこの世の中にある。
そういう教えが、これが愛別離去ですね。
どっちの住職さんも、また私の知り合いの住職のお坊さんの奥さんも、
どっちも別れるのは苦しかったはず。
でも、違いがあった。
悲しみの履歴
だから、ちょっと違う角度で、この愛別離去を見てみようかなと思ったんです。
きっと、悲しみの深さというのは、どちらもあったと思います。相当悲しかった。
でも、それはイコールで、愛の深さとちょっと違うのかなと思ったんですよね。
住職さんは、当然ながら、お母さんとの縁、深いです。
半世紀以上、70年以上、一緒にいるわけですから。
相当、縁は深いですよ。
でも、それ以上に住職さんの場合、たくさんの縁が生まれたんじゃないかなと思ったんです。
それは、お残花さんであったり、あとはお寺という環境そのものですね。
あとは、お坊さんとして、僧侶としての役割だったりとか、
あとは地域の人たちとの関係性とかね。
たくさんの縁があった。たくさんの縁が分散されていた。
ちょっと言い方がおかしいかもしれませんが。
とにかく、縁が多層的だったというふうに思うんですよね。
だから、悲しみはあるんだけども、お母さんを失ってしまったという一つの縁というものが失いつつある。
それはそれで悲しいんだけども、一方で他のご縁もあった。
だから、そういった役割に立つことができたんじゃないかなと思うんです。
そして、もう一人の奥さん。悲しみで動けなくなってしまった奥さん。
これは、愛は深かった。もちろんです。
だけど、亡くなったお坊さんのご主人の奥さんの人生にとって大きな割合を占めていたんじゃないかなと思うんですね。
つまり、縁が集中していた。縁が深いというよりかは、自分の人生の中での割合が大きかったというふうに思ったんですよね。
だから、失った瞬間に、それまで自分の心を保っていたものが大きく崩れたんじゃないかなというふうに思ったんですよね。
何が言いたいかというと、つまり動ける人。
お母さんが亡くなっても動ける人って言いますよね。
何かまるで悲しみなんてないんじゃないかみたいなふうに見えるかもしれませんけど、そうではなくて、実は動ける人が強いというわけじゃなくて、
縁の紡ぎ方が違うだけだったんじゃないか。動けない人が弱いというわけじゃなくて、
縁の割合、自分の人生に対して。それが違ったんじゃないかなというふうに思いました。
つまり、もうちょっと端的に言うと、悲しみの形はその人がどう生きてきたかということの履歴なのかなというふうに思ったんですよね。
何かあんまりまとまっていないお話ですが、一応私なりの結論としては、もし今悲しみで動けない人、これを聞いていて悲しみで動けない人がいたとすれば、
それは立ち止まっているというのではなくて、深く誰かと生きてきた証なのかなというふうに思うんです。
愛別離婚という言葉、愛する人を失った悲しみ、苦しみというのは、愛の証明なのかなというふうに思うんですよね。
なので、悲しみの形は違ったとしても、そこには必ずちゃんと生きた時間、そういったものがあるのかなと、そんなふうに思ったということでございます。
最後ちょっと強引になりましたけど、そんなことを感じた1日でした。
ということで、今日のお話はここで終わりたいと思います。
今日のようなお話、また聞きたいという方は、どうぞコメント欄、あるいはフォームの方からリクエストをお願いいたします。
また人生相談やお悩み相談などあれば、いつでも受け付けてますので、どうぞご検討ください。
ということで、連常院副住職の幸文でした。ではではまたね。
12:46
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