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おはようございます。 コウブンです。
栃木県の片田下にある蓮城院というお寺で、副住職をしております。
本日も お悩み相談会をお送りしたいと思います。
このお悩み相談会というのは、 ハスノハというお坊さんが答えるお悩み相談サイト、
そちらに寄せられたお悩み相談文を、 私、コウブンが答える、といったものでございます。
では、早速お悩み相談文の方に行きたいと思います。 40代男性の方。
題名がですね、「いつか会えますか?」
では本文の方ですが、 今月遠距離にいて、来年僕のところに来る予定だった大事な婚約者が突然亡くなりました。
毎朝、おはようと言ってきますのモーニングコール。 ただいまとお帰りの挨拶。
寝る前のお休み、そのいつもの日常が突然消えてしまい、 思い返す度に涙が止めどなく溢れてしまいます。
こんなことでは彼女も安心できないのではと思いますが、 どうしても悲しみに暮れてしまいます。
僕が寿命で人生を終えた後、 僕は愛する人と再び出会うことができますか?
また彼女に会いたいです。 会っていつもは照れながら、照れてなかなか言えなかった。
愛してるをたくさん言ってあげたいです。 といったお悩み相談文となっております。
愛してる人、大好きな人がいなくなってしまった。
これは誰しもがあり得ることではありますが、
やっぱり目の当たりにすると、 身近で大切な人が実際にいなくなってしまうと、
その悲しみたるや、とても深いものですよね。
仏教には、人生に起こりうる苦しみというものが8つあるんだと分類しております。
分類というか、そのように定義、ある程度の区分をしております。
そのうちの一つに、 愛別離去というものがあります。
愛するの愛に別れる。 離は離れるに苦しい。
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つまり愛する人と離れることが苦しいという、 そういう意味の言葉ですよね。
そういったことが人生にあるんだと、 そのように仏教では捉えております。
なので、 私自身もね、愛する人かどうかはちょっと去っておき、
私にとって大切な友人がいなくなってしまった、 そういう経験はあります。
ですので今日のお悩みは、 私の経験を通じて少しね、
そういったところから、 お悩みに応えていきたいなと思います。
はい、私の場合なんですけども、
私が20歳の時に、 修行に行ったお寺、
これもしかしたら以前もお話ししたかもしれませんね。 まあ改めてお話しますけれども、
私が20歳の時に修行に行ったお寺、東京にある、 永平寺東京別院というところがあるんですが、
そちらで出会った修行の仲間、 童安郷ってお寺の業界で言うんですけども、
その童安郷、要するに修行仲間ですね。 その修行仲間がいまして、
ちょっとね、二つ年上だったかな、一つか二つ年上。 少しだけ年上な方だったんですけども、
すごいね、何て言うんでしょう、 兄貴派だって言ったらいいのかな、
頼れる人っていう感じのね、 そういう人がいたんです。
で、その方は、
何でしょうね、 一緒に修行している中で、
いろんなね、
お坊さん同士の
やり取りする中で、 やっぱり冗談は言える中ではあったんですけども、
なんか困った時にね、ちょっと助けてくれる。
なんか、本当に頼りになる人っていう感じでね。 まあリーダーシップを取るような、そういうタイプではなかったんですけども、
だけども、なんかね、何かあった時には、ちょっとその人に聞いてみるっていう、
そういう兄貴派なタイプの人がおりまして、 その方がですね、
まあ、 当時もそうだったんですけど、心臓に疾患があったんですね。
心臓の病気ですね。 ですので、激しい運動はできないという
人だったんですよね。 で、まあ、もしかしたらそういうね、ちょっと持病で突然
おっさが起きてね、危ないこともあるなんていうことをね、 修行時代にも言ってたんですけども、
あの、
詳しいことは分かりませんが、とにかくですね、 修行終わってから、まあ十何年経ってもね、
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きちんとご存命でね、お仕事をして、 お仕事をしながらお寺のこともやってというね、
とてもすごく立派というか、優秀な方だったんですよね。 その方が、
私が、あの、
30代半ばぐらいの時に、 2回目の修行に行くってことになりまして、
それは大本山永平寺というところに行くんですけども、福井県のね。 その永平寺に修行行く前に、
双光会、あの、見送りをする、ちょっとした、
なんていうんですかね、催しを開いてくれたんですね。 その方も来てくれて、その兄貴もね、来てくれて、
頑張れよと、いうようなね、いろんな激励をいただいて、
で、修行が、 ある程度、その永平寺の修行が終わって、
栃木の方に帰ってくるということになってね。 その時に、
あの、私のSNSを見てね、
帰ってきたら、一緒に飲もうよ、というようなね、 そんなお誘いもあって、そういう中だったんですけども、
私は帰ってきたら帰ってきたで、いろいろ、 いろんな活動をしておりまして、なかなか会う機会がなかったんです。
で、そんなある日ね、 その兄貴がですね、
亡くなったと、というお知らせがあったんですよね。 びっくりしました。突然だったんでね。
いつでも会えるって思ってたんですよ。 あの、
茨城県の方だったんで、隣の県だったんで、 すぐに会いに行けると、そういうふうに思ってたんですよね。
だから約束はしてたんですけど、まあいつかっていう、 感じでね、思ってて。
で、そんな人が、突然亡くなったと。 やっぱり心臓の疾患が原因であると、そういうふうに聞いてね。
その時にね、私は、
すごくね、確然としました。
もう、そういうね、何かあるかどうかわからないっていうことは知ってたんです。
知ってたのにもかかわらず、きっと大丈夫だろう、なんてね、勝手に、あの思って、
近いから大丈夫だろう、いつでも会えるなんてね、それも勝手にこっちが思い込んでてね、 会えるチャンスはあったのに会わなかった。
で、
ね、 まあ運が悪いと言いますか、
運命だったのか何なのか、それはわかりませんが、 ともかく、
その方がね、亡くなってしまった。もう二度と、
その兄貴とね、 話すこともできない。
冗談を言い合うこともできない。
そんなね、 関係になってしまったんです。
でね、
当然、 お葬式行きました。
まあ、 隣は県だったんで、まあちょっと1時間ぐらいでしょうか、移動して、
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すぐ駆けつけて、お葬式に出て、 オツヤもお葬式もどっちもね、出てね、
で、最後まで見送って、
そういう状態だったんですね。 激しくね、後悔をしました。
会える環境にあったのに、 いつかね、そういう命が亡くなるっていうのはね、
あの、 お坊さんですから、
わかってたのに、 グズグズしてたら、
もう間に合わないかもしれないってね、 そういうこともね、どっかの心のどっかでわかってたのに、
やらなかったんですね。その自分に対して、 生きどおりと言いますか、いろんなね、感情を抱えながら、
お葬式で、一生懸命お経を唱えて、供養したわけです。
そのね、お葬式をした瞬間はね、もちろん、 悔しさというか、寂しさというかね、
そういう思いでいっぱいだったんですけど、 時が経って、
一周期、毎年ね、あの、そのお寺、
兄貴のね、お寺にはお参りして、お墓参りしてね、 あとはそのご家族の方にご挨拶してっていうのはやってるんですけども、
毎年行くようにしたんです。 もしかしたらね、自分の中の
懺悔の気持ちがあったからかもしれません。
どにかくね、なんとなく、 自分のね気持ち、
というものをね、しっかりと、
そのね、兄貴に届けたくて、 毎年ね、お墓参りを行ってるというわけなんですね。
で、そこにね、毎年ね、そのご家族の方にもご挨拶してると、 先ほども申し上げましたけども、
その残されたご家族の方とね、 まあやっぱりね、毎年毎年通ってると、
あ、今年も来たねと、迎え入れてくれるんですよね。 そこで、
奥さんなり、お子さんなり、お母さんなり、 ご家族の方と会話しているときにね、
その周りの方の、 心境の変化って言うんでしょうか、
その、自分の家族が失ってしまったということに対しての受け止めの変化というものがね、
徐々に感じられて、
で、それのおかげでね、私自身もね、 勇気づけられて、
というのがね、あったんです。
供養がね、 私のその、
友を失った悲しみ、 悔しさ、そういった気持ちをね、癒してくれたんですよね。
まあそういうふうな、私は経験があります。 なので、この相談者さんですね、
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恋人を失った、とても悲しいことです。 その悲しさたるや、
おそらくね、人生で一番の喪失感なのかなと、 そういうふうにね、
想像はいたしますけども、 その悲しみを消すということは、
きっとね、できはしないと思います。 だけども、
だけどもですよ、 その悲しさというものを、
受け止めて、そして自分の人生に生かすということはね、
できると思うんです。 消すことはできないけれども、その経験を元に自分はどう生きるんだというふうにね、
転じること、 そういったことがね、
できるんだと思います。私の場合は、 その兄貴がね、亡くなったことで、兄貴に恥じないような
僧侶でありたいと、強く願うことによって、 そしてね、今は
僧侶としてね、いろんな活動しております。 私の活動の根底にあるのは、
その兄貴との 約束であったりとか、
会話であったりとか、そういったところが根底にあって、 それがあるからこそ活動できているという部分は、
確かにあります。 だから、このね、相談者さんも
悲しいということは、もう来てしまったこと、それをね、
忘れる必要はありません。それを抱えながら。 だけども、その
亡くなった恋人との過ごした時間というものをですね、 今後の人生に生かして、
力に変えていっていただきたいなと、 そんなふうに思います。
結局ね、供養というのは、 亡くなった個人の意思というものをね、
再確認をして、そしてそれを自分の人生に生かす。 自分の力に変えるんだという、 自分の生きる力に変えるというところしか
ない。まあそれが供養なんだと思います。 どうぞね、あの
悲しみに暮れる、その気持ちはわかります。 まだ、もしかしたら時間はかかるかもしれません。 それでも、
そのね、亡くなった恋人に対して恥じないような生き方、 いや、喜ぶような生き方、そういったものをね、心がけていただきたい
と思います。 で、それで、供養をしっかりと努めてください。
その上で、 その個人との思い、個人との会話、
そういったものを再確認をして、 より良い人生に、これから変えていってくださいますよう、
私も願っております。 本日の話はここで終わりたいと思います。
今日のお話を聞いて、ご意見ご感想等ありましたら、 どうぞコメント欄の方へよろしくお願い致します。
また、人生相談、お悩み相談などあれば、 どうぞ、レター機能を使ってですね、
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スタンドFMのレター機能を使って、 私の方まで直接届けていただければ、
このように放送を通じてお答えすることもできますので、 どうぞご検討ください。
はい、では、 炎上院副住職の幸文でした。
ではでは、またね!