1. コウブン和尚の寺子屋ラジオ
  2. #312 大切な人を失った時、ど..
2025-10-22 21:04

#312 大切な人を失った時、どう向き合えばいいのか?

▼お悩み相談・リクエストボックス
https://forms.gle/mmwtAribqPbMZCxj8

お久しぶりです、蓮城院のコウブンです。 東京での勉強会に参加しており、多忙で少し放送が空いてしまいました 。

今日は少しシリアスなテーマ、「死」についてお話しします 。 というのも、先日、お寺の坐禅会に来てくださっていた方(Aさん)が亡くなったとのお知らせを受けました 。

Aさんはとても真面目な方で、坐禅会では毎回、初心者のためのお作法の説明を「忘れちゃうから」と真剣に聞いてくださっていたのが印象的です 。

実は亡くなる少し前、Aさんから「病気の苦しみが、坐禅によって一瞬でも和らぐことができた。坐禅が私の救いになった」という言葉をいただきました 。 坐禅会を続けていく中で悩むこともありましたが、そのAさんの言葉に、私自身が救われたのです 。

この「思いの循環」や「支え合い」は、仏教でいう「摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)」という教えにも通じます 。

大切な人を失った時、私たちはどう向き合えばいいのか。 故人との思い出を振り返り、そこから受け取った温かいものや大切な教えを、今度は自分が別の人へつないでいく 。 そうすることで、悲しみは人生の豊かさに変わり、故人の思いも私たちの心の中で生き続けるのではないでしょうか 。

今日は、Aさんへの感謝と、私たちが死とどう向き合うかについて、今の気持ちを率直にお話ししました 。

#蓮城院 #コウブン #副住職 #仏教 #法話 #坐禅 #坐禅会 #死生観 #大切な人 #別れ #グリーフケア #摂衆生戒 #思いをつなぐ #シリアスな話 #栃木県
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/5f5a393ff04555115dcb4f8e

サマリー

このエピソードでは、大切な人を失った時の向き合い方について語られています。特に、蓮城院の副住職が自身の経験を基に、死という避けられない現実に対する心構えの重要性を強調し、座禅を通じて得た救いについても述べています。また、大切な人を失った際の心の向き合い方や、その思いを次の世代にどう受け継ぐかについても話されています。供養や思い出の共有を通じて、悲しみを喜びへと変える方法が提案されています。

大切な人の死と向き合う
どうも、コウブンです。栃木県の片田舎にある蓮城院というお寺で副住職をしております。
久々の放送となります。何をしていたかと言いますと、東京の方で勉強会というか、そういった講習を受けに行っていたと思って、朝から晩までがっちりやるようなものなので、
夜は疲れちゃって収録するような気力もなかったということですので、久々になったというような言い訳でございます。
どういうことをやっていたかというお話は、どうだろうな、あまりみんな聞いても仕方ないようなことだと思うので、
ちょっと気が向いたらお話しするかなというところで、それはさておき、今日はちょっとシリアスなお話をしていきたいなと思うんです。
というのは、私のお寺、蓮城院の座前会に来てくださった方が、実は今日亡くなったんだというそういう知らせが来たんですね。
やっぱり、こういう人が大切な人がいなくなってしまうという事実、これは皆さんにも、これを聞いている皆さんにも当然だから該当するんですよね。
なぜなら、死なない人はいないから、必ず人というのは死ぬから、だからいつかどこかで大切な人がいなくなってしまう、身近な人かもしれない、友人かもしれない。
それは分かりませんが、とにかく自分の人生において、これを聞いている皆さんの人生において、必ずどこかでお別れがあるんだ。
そのお別れに対して、自分たちはどういうふうな気持ちで、どういうふうな心構えで過ごせばいいのかというところを、私なりに思うところというのをお話をしたいと思うんです。
だから今日は非常に知りやすなお話です。
死ということに対して向き合う、そういうお話ですので、もしかしたらそういうお話は聞きたくないという方がいるかもしれません。
そういう方は無理して聞く必要はありませんので、どうぞこの瞬間からアプリを落としていただいて構いませんが。
ただ、一つ言えるのは、死というのは必ず私たちの人生に付きまとむものです。
なので、どのような態度を取るかというのを学ぶというのは非常に大切だと私は考えております。
なので、もしよろしければ聞いていただきたいというわけでございます。
ただですよ、今連絡を受けた座前会に来てくださった方の方が亡くなったよというお話を聞いた段階でのこの気持ちの状態でお話をしているので、
お話自体はもしかしたらうまくまとまっていなくて、大変聞きづらいことになるかもしれないとは思います。
ただ、それでも今の気持ちというものをしっかりと表しながら伝えていきたいというふうに思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。
Aさんとの思い出
では、まずは亡くなった方の思い出から語っていきたいかなと思います。
私とその方のどういう関係だったか。
仮にこの亡くなった方をAさんと呼びます。
Aさん、亡くなった方のいたずらにさらすことはやっぱりよろしくないかなと思いますので、Aさんと呼ばせていただきます。
そのAさん、まず出会いなんですけど、3年ほど前ぐらいから私のお寺連常院での座前会に来てくださったというわけなんですね。
連常院の座前会というのは毎月2回行っております。
第1月曜日と今第3土曜日に行っております。
その座前会に3年ほど前から来てくださった。
だいたいこのAさんは2ヶ月に1回ぐらいのペースですね。
過去の履歴を見ると。
毎月毎月毎回毎回必ずっていうんじゃなくて、ちょっと時々来てくださる。
そんな方だったんですよね。
私がよく覚えているのは、この方はAさんを座前会が始まって最初にね、
初心者の方、初めて座前会に来られた方に向けて説明をするんですね、私は。
座前のやり方、お作法の説明をするんですけども、
それをね、このAさんは毎回必ず聞くんですよ。
座前会に行ったことある方じゃないと話はちょっと分かりにくいと思うので説明しますと、
やっぱり座前っていうのは座り方があるんですよね。
いい加減というか、自分の思う通りに座ればいいというわけじゃなくて、
大事な姿勢、大事なお作法というものを通して、座前というものは成立するので必ずお伝えするんです。
ただ、これは1回目だけは聞いてくださいねって言うんですけど、2回目からは特に強制はしないんです。
正直言うとね、座前会に来てくださる方で、何回も来てくださる方でね、
お作法はいい加減だな、姿勢もばらついてるなとか、そういうのは思うところはあるんですけども、
あくまでもこの修行僧ではありませんし、そんなに厳しくしてもというところですので、
そこは細かくは言わないんですが、それでもね、やっぱり最初はこういうことがあるんだ、こういうものなんだっていうのを知ってもらうためにも、
座前の説明をするということなんです。
それを毎回Aさんは聞いてくださるんですよね、その2ヶ月にいっぺんですけど。
で、なんでかなって思ったんです。何回も何回も同じ話を聞いてるわけですから、なんでかなと思って、
ある日ちょっと尋ねてみたんですね、Aさんに。
そうすると、Aさんは、私忘れちゃうから、きちんと座りたいんで、だから毎回聞くんですっていうふうにそんなことを言ってたんですよ。
すごく真摯で真面目で、そういった物事の取り組む姿勢というのがまっすぐな方だなっていう、
そういうね、そんなふうな思い出があるんですよね。そういう印象のある方だったんですね。
で、そういうAさんなんですけども、なんで今回、
亡くなったよって連絡があったかというと、実はその座前会がご縁で、
亡くなった自分が死んだ時には、年上院でお願いしたいというお話を実はせいぜいから伺ってたんです。
でもそれはつい最近のことなんですね。大体1ヶ月ほど前ですかね。
それくらい前にある日、連絡をいただきまして、
ぜひとも病気になってしまったんで、その前にお伺いしたいんですっていうふうに連絡があって、
ご挨拶に来てくださったんです。私はその時ちょうどいなくて、後から聞いたんですけども、
どうやらおそらくがんだと思うんですよ。そういったものに侵されて。
ちょっと座前会に来るのが厳しいというところか、私の命も残りわずかであるということが今日わかったんです。
だから自分の最後、どういうふうにするかというのをきちんとしていきたいということだったんですよね。
そんなAさんのお話を聞きまして、私は後で、その後日ですけど、
Aさんのお宅に伺って会いに行きました。病気だと伺いました。
しかも連常院で最後はというお話を伺いました。
どうかそういう何かあった際は、お寺としてはしっかりと対応していきたいというふうに思っております。
座禅の意義
元気になってくださいということはさすがに言えなかったですけども、ただお見舞い申し上げますとそういう形で伺ったんです。
そしたらAさんからこんな言葉をいただいたんですよね。
どういうことを言っていたかというと、この座禅というもの、病気にある程度かかってからその座禅というものを自分でやってみたそうです。
そしたらその病気の苦しみというものがその座禅を通して一瞬でも忘れることができた、その苦しみというものから離れることができた。
そういう瞬間が座禅というのがあった。
大変座禅というのはありがたいな、私の心を救ってくれてるなってそういうふうに思ったんですって言われたんですね。
座禅をやってて本当に良かったって言われたんですよね。
私は本当その言葉を聞いて何だろう、なんか救われた気がしたんですよね。
どういうことかというと、私のお寺の座禅会はもう5,6年やってるのかな。
本当に最初の頃という人が来なくてバラだったんですよね。
最近ではある程度来てくれるようになったんですけど、本当に人が来なくて。
来てもらうためにいろいろやったんです、私なりに。
SNSもそうですし、いろんなお残駕さんとか身近な人にやってますよとか、あとは看板立たれたりとかやったんですけど、なかなか増えなくて。
座禅というのはみんな興味ないのかなとか、意味ないのかなとか、そんなふうに思ってたんですよね。やめちゃうかなって。
そういうことを思ったことも何度もあったんですが、ただそういう時々来てくださる方がいたから続けてきたんですね。
今も座禅会をやってて、やってよかったですっていう皆さんがいっぱいいてはくれるんですけど、ただ1回だけ次は来てくれないと。
よかったとは言っても継続はしてくれないですよね。
なかなかそういうことばっかりで、なかなか伝わらないなとそういう思いがあったんですよ、私にとって。
その座禅というのはとても大事なものですので、これも大事なものというものをみんなで共有したいという思いはあったんですが、伝わらないなとそんなふうに思ってたんです。
ただそれがこのAさんの言葉、救いになったんです。
という言葉を聞いたときに私の心も救われたと思ったんですよね。
すごく嬉しかったし、勇気をもらった。座禅会を続けていくという勇気をもらったんですよね。
まるで言うなれば仏様に認められた、そんなふうな気がしたんですよね。
私の行いというものは、成仏したと言ってもいいかもしれません。
そんなふうに思ったんです。
そんなふうに勇気をいただいたAさん。
だから私は今度のAさんのおつや、お葬儀というものをしっかりと勧めさせていただいて、
このAさんから受けた温かい言葉というものをきちんと私なりにお返ししたいというふうに思うんですよね。
そうなんです。
これってどういうことかというと、
死に対する態度
つまり私が皆さんに少しでも座禅を通じて心穏やかな瞬間というのを味わっていただきたい、
そういうふうに願っていたんだけども、なかなか伝わらないという、
そういうやっきもきした思いというものをAさんの言葉で救われたというわけですけれども、
そのAさんの言葉によって私の行いというものが救われた。
Aさんにとってはもしかしたら何気ない言葉かもしれませんが、
Aさんの言葉によって私の心が救われた。
その私が救われた、いわゆる喜びのような感覚です。
すごく嬉しかったから。
その嬉しいという言葉を、感情を今度はAさんにお返ししたいと思ったんですね。
つまりお互いの言葉を通じて思いというものがやりとりできているんですよね。
循環しているんですよね。
私の思いがまずAさんに届いて、Aさんの思いというものが私に届いて、
また私からAさんに届けると。
そういう循環という、そういう関係性、そういうものがあるんだというところをすごくはっきり認識しました。
つまり私たちというのは、私たちの関係性というのは、
そういう喜び、救い、そういうものでつながることができる。
そういう関係性を築くことができる、そういうふうに思ったわけです。
これをちょっとあえて今まで言ってきませんでしたけど、
仏教的な言葉でも実はあるんです。
これは聖宗浄解という言葉ですね。
非常に難しい言葉ですし、
またどちらかというとめったに皆さんに目に触れるようなものではないので、
知らない方がほとんどの言葉です。
これどういうことかというと、
聖宗浄解という言葉どういうことかというと、
生きているもの、ありとあらゆるものを分け隔てなく救い導くという、
そういう意味なんですよね。
すごく壮大で難しいみたいな、そういうふうに聞こえるかもしれませんけども、
これをもう少し私たちの人間の普段の関係性で落とし込んでいくと、
つまり助け合い、支え合い、そういったものの関係性のことを表現しているんですよね。
お互いに支え合うということ、これが聖宗浄解というものなんですね。
この関係性がまさに私とAさんの中であったということなんです。
私の場合はこうやってAさんに対して御葬儀を通じてお返しをするということを言ったんですけど、
一般の方、お友達であったりご家族であったりという方はどうしたらいいのかというと、
もちろん御葬儀の際に手を合わせる、お承行する、お穀物をあげる、何でもいいんですけど、
何か気持ちをそこで表現する、それも確かに大事なことです。
それも大事なことなんですけど、他にもやっていただきたいなということがあるんです。
それは何かというと、私だったらAさんから受けた言葉、座禅が救いになっているということ。
これをAさんにお返しするだけじゃなくて、いろんな人にもっと広げるということ。
これがやっぱり一番いいんじゃないかなと思うんです。
そのAさんからの贈り物というものを他の人に届ける。
私の喜びを他の人にお分けする。こういう関係性が素晴らしいんじゃないかな。
そういうふうな態度というのが一番いいのかなと思うんです。
だから、皆さんも大切な人を失った場面に立ち会った時に、自分たちはどうすればいいのかというと、
亡くなった方との思い出というものをまずはしっかりと確認する。
ご家族とお話をする。ご親戚とお話をする。友達とお話をする。
そういったところでどういう人だったかな、そんなことを思い出しながら、
私は亡くなった方からこういうことをたくさんもらったな、受け取ったな、そういうことを確認したのであれば、
その受け取ったもので自分がより良い幸せな気持ちになったとか、
自分の人生においてすごく良かったなと思ったのであれば、
それをまた別の方に譲る、お分けするという態度が一番大事なのかなと思うんです。
つまり、受け継いだ思いというものをまた別の人につなげるということですよね。
これが非常に私たちの死に対する態度なんじゃないかなと私は思っております。
受け取ったものをきちんと継ぎ絵につなげる。
そうすることで失ってしまった悲しみがきちんと自分の人生の喜びへと変わっていく。
思いをつなげる
亡くなった方も自分の行為を通じてきちんと自分の中では仏様となっていく。
そして自分たちは誰かにその思いをつなげることで、思いをつなぐ仏となるということなんですよね。
どうかね、非常に難しいと思います。
亡くなった後、動揺してしまいますし、何も考えられない、そういうふうに思うんです。
ただ、こういうお葬式とか法事とか、亡くなった後にすることがありますけど、
その際にどうぞ個人との思いでしっかりと思い出していただいて、
自分の何を受け取ったのかというのを再確認していただいて、
そしてそれを自分たちの人生において役立て、さらに別の人にも役立てる。
そういうことを繰り返していくと、皆さんの人生も豊かなる。
同時に亡くなった方も思いも救われる。仏となる。そんなふうに思います。
どうぞ、これを聞いてくださった方、非常に長いお話になってしまいましたが、
大切な人を失った際は思い出していただければ幸いです。
というわけで、今日のお話はここで終わりたいと思います。
今日のようなお話、また聞きたいなという方は、どうぞリクエストなどお願いいたします。
人生相談、お悩み相談でも結構ですので、よろしくお願いいたします。
というわけで、連常院副住職の幸文でした。ではでは、またね。
21:04

コメント

スクロール