そうやね、なんか、馬時間は、さっきも、前回もね、お話したみたいに、理屈がなくても、子供たちがわかりやすいのはすごくいいなと思って、どうしてもこう、今日は忙しいからとか、人数が少ないからとかって言って、
人のね、暮らしやと、今日は忙しいからちょっと、朝ごはんは、移動中に食べようとか、なんかそういうのが、多分、場所ったりとかできるんやけど、馬の場合はなんか、餌を作る、あげる、あげた後、そのあげたものを洗う、
で、食べたかどうかをチェックして、馬のボロが、うんちがね、出てるかどうかをチェックしたり、水がどれぐらい減ってるかなーとか、あとは食べた後に、ちょっと馬がリラックスできる、できてるかなーとか、で、その時間が終わったら、じゃあ馬出してきて、掃除をして、運動をして、みたいな、その流れが、
ずーっとこう、毎日毎日繰り返されていると、子供たちも、もうそれが、自然とこう、流れていくっていうのかな、巻き込まれていくっていうか、ここに理屈がいらないっていうのは本当に、軸ができる、そして、その軸の流れでいくと、本来、人が、
例えば明るくなって、太陽が昇ったら目が覚めて、太陽が沈んで、暗くなったらもう、だんだんとこう、お休みの時間になっていく、みたいな、そういう、こう、自然の流れに、ちょっと近づけるような気がするよね。
なんか、そこは、スタッフだけでとか、大人だけで守りにくいところを、馬にかなり助けてもらってるなーっていうのは、ちょっと最近、うん、感じました。
で、面白いのがさ、その暮らしの中のリズム、馬時間があるんやけど、だからといって子供たちはその通りに、大人の都合よくやるとかってなくてさ、今日はちょっとサボろうとか、手を抜く、一緒か、
なんかそういう、こう、スーッと逃げていくとか、そういうのも結構楽しいっていうか、見てて、でもやるときはやるっていう、なんかその、興味あるとき、馬にすごい興味あって、馬が好きなときはめちゃくちゃ頑張んねんけど、
やりたいことは他にも遊びがあったら、上手に逃げていったりとか、そういうところもなんか、うん、なんか自然っぽくて、そういうのを見るとちょっとニヤッとしてしまうけど、ちょっとそういうこうゆるいところ、馬時間の軸はあるけど、やることは別になんか強制じゃないっていうか、うん。
それがこう、その辺のこうなんていうか、塩梅が、俺は結構好きやなぁと思ってるんですけど。
なんかね、今の話、すごいわかる感じがあって、えーと、なんかね、その、いわゆるこう、さっき言った5時になったら、夕方、5時になったら上げるんだけど、なんかこう、たとえば5時きっかり、きっかりじゃあもうやんなくちゃいけないとか、なんかなんていうの、そのスケジュール通り、ふんく刻みのスケジュールみたいに動いてるかって、そういう感じじゃないんですよ、なんか。
大きな流れとしてそういうのがあって、それで動いてるって感じなので、たとえばうちだとその放課後10人前後の子たちが来てて、今日はなんか気分乗らないから、やりたくないとかって言って、なんかこの間もなんだっけ、荷物自分、なんか自分の足に、もともと多分やりたくない感じがあって、で、荷物を出そうとしたら自分の足に落として、痛いとかって泣いてて、今日やらないとは言ってないけど。
そう、痛いから、なんかうんぬかぬか言ってて、もう先行ってるね、みたいな感じで言ってたんですよ、そう。で、みんなやってるから、やっぱその流れがもう、こう、その場にそういう日々のルーティンの流れがもう流れてるので、そこでこう1回とどまってて、もうやっぱりだんだん違和感を感じるというか、その子も。そう、もうそろそろちょっと出てきてよとかって言ったら、もうなんか、最初渋々出てきてやってたんだけど。
でもなんかやってるとだんだんこう、みんなやってる流れにまた乗り始めてというか、後半はなんかね、牧草運んだりとか色々やり始めてて、流れがあるってそういうことだなっていうか、ちょっとこう、なんかたぶん川の中にずっとこう、そういう流れがあるところで止まったら、流れがどんどん押されるじゃないですか、なんか。
なんかそんな感じなんだなっていうの。そう、別にそこで抵抗してもいいけど、そこに流れはあるぞみたいなのがあって。
あそこに別になんかこう、何ていうのかな。そう、無理っくり、まあ余白があるというか、ちょっとこう、遊びがあるので、その中に。で、作業、その色々こう、お世話の時間だと色々あるので、作業も選べるというか。
そこでなんか自分がハマるところにハマっていったりとか、そういう、なんか、そう、そうですね、遊びがあるのもいいですね。
大きいかも。
あの、ゴミ太郎さんの本で、俺好きな、その、エッセイの部分があって、
丈夫な頭と賢い体、あれすっごい大好きで。
ありますあります。
そう、何ていうのかな。
ちょっと、賢い頭と丈夫な体の良い子はすごい大人が求めやすいと思うけど、ちょっと今出てきたからちょっと読んでみていい?
どうぞどうぞ。
1個目が、大人の言うことは素直に聞いて、決められたことはきちんと守り、出された問題にはうまく答え、与えられた仕事は黙ってやる。
決してサボったり、ごまかしたりはしない。
それが賢い頭と、丈夫な体の良い子です。
っていうのが、まず一つの良い子。
この2つ目が俺すごい大好きで、さっきお話したようなこの2つ目の子供のことなんやけど、もう1回読むね。
言われたことの意味を確かめ、決められたことの内容を考え、必要があれば問題を解き、自分のために楽しい仕事を探し出し、やるときはやるし、サボりたいときはすぐサボる。
これが、丈夫な頭と賢い体を持った、これもまた良い子です。
っていうこの文章を読んだときに、そうそうそうって最初の良い子を求めがちな、自分とか親とか先生は多いかなと思うんやけど、
ちょっとこう余裕があったりとか、余白があると、やるときの、やる子供たちの本気度ってすごいものがあって、
でもサボりたいときにもサボるっていう、そこのこともなんか、これも生きる力やな。
大人も同じやん、やる気入ったときはバーンってやるけど、今日はちょっともうやる気なくてゆっくりしたいわとかっていうそのメリハリがあるから、
バランスが取れたりとかすると思う。でも子供にはいつも、ちゃんとやるとか、しっかりやるとか、集中してやるみたいなことを求めがちになるなっていうときに、
自分を今しめる意味でも、この文章をたまに読んだりする。
なのでなんか、流れがね、馬時間で流れがあると、言ったらサボりどころもわかりやすいっていうか、
サボった後も戻りどころもわかりやすいっていう、そういう塩梅のこう、なんていうかな、ゆるいところがいいよね。
なるほど、確かに。今の賢い体ってそう、僕もこの本、うちにあって、今後ろにあるかなと思ったけど、賢い体ですよねって思いながら聞いてて、
で、馬がいる場所って、結局体を使っていろいろ作業するじゃないですか。
前回でも、アウンの呼吸みたいなところで馬が来たら何かするとか、他の人の作業をしてたら手元で掃除するとか、
いわゆる言葉交わさなくても、何ていうの、言葉交わしてなくてもやりとりする部分ってたくさんあって、
人間と馬でもあるし、人間同士でも一緒に何かやるときも必要だし、
もちろん言葉で伝えるときもあるけども、だんだんわかってくると察して動いたりとかお互いするようになるので、
そういうところではコミュニケーションの幅が言葉だけじゃないっていうか、すごく広いっていうところもいいなって思ったんですよ。
そういう場所においても、多分言葉交わさなくてもいられるというか、
喋るの苦手でも大丈夫だし、別にほとんど喋らなくても整理するというか、そういうところもあるなっていうふうに思ってて、
そういう賢い体のところで、もう一個コミュニケーションのこともあるけど、何ていうのかな、
さっき言った流れみたいなところを感じて動けるっていうか、
いわゆる最初は、やりたくないって言ってやらされてるんだけど、受け身的なところなんだけど、
だんだん自分でやるみたいな能動的なところに変わっていって、最終的には体が自然と動き始めるというか、
時間になったら、そろそろ行かなくちゃみたいな、勝手に動くみたいな、その場の流れと一緒になっていくっていう、
いわゆる中道体って言ったりしますけど、真ん中の中心の中に、上体の体って。
そういわゆる能動と受動、その間って言うよりもその行為の中にいたりする。
意識してなくてもやってしまっていたりとか。
たぶん見るって能動的ですけど、見えるって勝手に入ってくるじゃないですか。
ああいう感じだったりとか。
自分の意思とか、そういうのに関係なくやってしまっていたりとか、やってるみたいな。
意思、責任を取る取らないとかって、その人の意思があるような感じがするけど。
よりも周りの環境とか、朝日が昇ったら起きてとかって話があったけども、
たぶん今も変わらず自然のいろいろ大きな循環みたいなのがあって、
その中で人って今でも生きてるはずなんだけども、どんどん都会化していくと、都市化していくと、
そういうものなくても、電気つければ明るくなるし、
いろいろ自然の巡りから外れても何とか生きていけるけども、
でもそれをやっているとどっか苦しくなったりとか、おかしくなってきたのは、
今起こっているいろいろ現代病名の原因の一つかなっていうふうに思うんですけど、
そういったいろんなもともとの自然の節理みたいなものを感じたりとかするって、
頭じゃないと思うんですよ。まさにさっきあったように賢い頭じゃなくて、
賢い体があることでそこと調和して生きていくことができるんだけども、
そういった部分では馬がいる場所って、そういう賢い体を育むすごくいい場じゃないかなっていうふうに、
馬だよねっていうふうにさっきのゴミ太郎さんのやつを久しぶりに聞いて、
そうだそうだと思いながら思っとりました。
そういうのも馬の近くにいたり自然の近くにいるからなのかもしれへんけど、
楽しめるよね。ゆとり持ってみれるっていうか、こうしなければならない。
さっきの言う、最初に言ったゴミ太郎さんの方の大人が求めやすい方になると、
大人もなんか力抜けないし、子供も絶えずスイッチオンで集中しておかなあかんみたいになるんだけど、
初めて行く場所とかって、ずっとなんか集中したり、
例えば初めて働く職場もそうかもしれないし、学校もそうかもしれないし、
居場所も初めて行くとか緊張するよね。だから絶えずスイッチオンになってて、
でもその居場所の学校の職場のある程度の馬時間はないけど、
そこの流れが分かってくると、力の入れどころと抜きどころが分かってくると、
ずっとオンにしてないから、だんだんとこう疲れ度合いが少し和らぐっていうかな。
でも、そこに緊張感があったりとか、やらないと怒られるとか、
安心感がないと力って抜けないから、それが学校行く前にお腹痛くなったりとか、
ちょっと行きたくなくなったりとかする子どもたちにとっては、
その先がいつもオンにしておかないといけないとか、
力の入れどころばっかりになって、そうするとやっぱりそこって
しんどくなったりするんやろうなとも思うから、学校でも職場でも家庭でも、
どこでも力の入れどころと、もう思い切り抜いていいよっていうようなところがあると、
安心して入れる時間はちょっとできるんかなって。
もちろんちょっと安心感がなかったり、自分自身が心身ともに疲弊してたら、
まず緩むところから始まらないと、入れどころのスイッチオンにまでならないっていうのかな。
まずは居場所、居場所ってだからある子にとっては何もしなくていい場所やけど、
ある子にとってはやりたいことができる場所やったりとか、
自分が好きなことを巻き込んでいける場所やったりとか、
あとは企画してこんなことができるとか、能動的になってくるとか、
でもそのベースには安心感とかそういった力の入れどころ、
抜きどころ、丈夫な体の使いどころっていうかな、
そういうのがだんだん備わってくると、
そういうことができるのが居場所なんかもしれへんね。
馬って許容範囲が広いっていうか、
今言ったちょっとした作業から、
常話するとかいろんなこととか、
例えば今4月は、うち山の方の集落なんですけど、
海の方にあるキャンプ場まで半日はかかるかな、馬で行くと。
まで行って一泊して帰ってこようみたいな話もしてるんですけど、
そういう旅みたいな一泊二日の。
結構いろんな幅を持った子どもたちのエネルギーというかを
受け止めてくれるようなっていうのが、馬はあるなと思って。
そういった部分では、今言ったただいるだけの安心がまず大事なところから、
だんだんムクムクといろんなものが湧き起こってきて、
こんなことやりたいとかいろんなエネルギーがあふれてきたときに、
受け止め先としても馬は受け止めてくれるしっていうところで、
非常にそういったところでは、
居場所の許容範囲が広いかもっていうふうに今思いました。
分かりやすいね、それ。
そうそう、いろいろできるじゃないですか。
例えば競技みたいに出たいっていう子はそういう子に行ってもいいし、
いろいろあると思うんですよ。
もっと馬のコミュニケーションを深めたいとかって、
いわゆるグランドワークって、乗らないでいろいろできるじゃないですか。
馬と一緒にダンスみたいなことしたりとか、
ホースショーみたいな、馬と一緒に何かするとか。
そういった部分では本当に身体的な、いわゆる常罵すると体のエネルギーも
受け止めてくれるので。
そうそう。
作業も、例えばこれからうちだと退費はあって、
それを近隣の近所の方たちが欲しいっていう巻きに行ったりとかするんですよ。
そうすると結構力仕事もあったりとかするので、
力たくさん使いたい子たちのニーズを満たせるしとか。
そういう人もいろんな、さっき毛が抜けるってありましたけど、
あるなると。
そういったものをまた生かして何か、
クラフトみたいなの作るとかもあったりとか。
いろいろ関わりしろがたくさんあるなって。
あと何だっけな、安心感。
さっきの、ちょっと居場所とか、
丈夫な体の部分のお話やったんやけど、