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2025-03-28 16:00

#51「僕も含めて世界中の人達が釈然として生きていける世の中をつくるために始めた100種類の事③-②」

3種類目は「教育の場に選択肢を作る事」。OECDの2030年の教育目標の話と日本の学校の大量の宿題の問題の話、「ワンピース」と「ドラゴンボール」の価値観の比較の話


サマリー

第51回で近藤ナオは、日本の教育システムに新たな選択肢を提案しています。OECDの2030年までの教育目標を基にしたカリキュラムの重要性について考察しています。自立、自創、相互承認、創造といったキーワードを通じて、学生が主体的に学ぶ環境を整えようとする取り組みが強調されています。また、多くの人々が、仕事から離れることで新たな発見や出会いを得ることができると感じていますが、日本の学校教育では、長期休暇中に大量の宿題が出されることで自己探求の時間が奪われているという問題が指摘されています。

教育の新たな選択肢
こんにちは、近藤ナオです。今日は、近藤ナオという生き物の第51回について話ができたらなと思っています。
今、大きくは新章に入ってきて、僕も含めて世界中の人たちが釈然と生きていけるために始めた100種類のことと題して、
100もやってないんですけど、今いくつか9個目ぐらいまでやってきているので、それを順番に話をさせてもらっています。
前回から3個目のことということで、教育の場に選択肢を作るという話をさせてもらい始めました。
前回話したときには、日本の私立の経営がかなり悪化した私立を、友人が引き取って理事長兼校長になったところから、
日本にはまだ数が少ないと僕らは思っているようなフォーマットの学校づくりを始めました。
この学校づくりは、僕らがすごいオリジナルっていうよりは、世界にOECDっていう、世界経済機構だったかな。
すみません、正式な名前忘れたんですけど、そのOECDとかが世界最大のシンクタンクとも言われているような組織ですけど、
そこが掲げている2030年までの教育目標みたいな、世界中がこんなような教育をできるようになったらいいよねっていう形で大きい流れがあるので、
それを多分オランダだったり北欧諸国とかは、かなり早い段階からそれを採用してきたし、
もしくはオランダとか北欧で作られた教育の方向性を参考にしながらOECDが作ったのかもしれないし、
すみません、その辺の細かいところは分かってないんですけど、実際その2030年までの教育目標っていうのに、
それに沿ってというか、僕らも同じような考え方だっていう部分があるので、世界的にそういう動きは少しずつ進んでいます。
キーワードの重要性
それを日本人的な感覚とか日本語に落としていったほうが、日本という国のコミュニティの中では分かりやすいかなと思うので、
それを落としているんですけど、それで具体的に僕ら3つのキーワードを掲げていて、
1個は自立・自創、もう1つは相互承認、もう1個は創造っていう、自立・自創は本当に自分で考えて、
自分が学びたいと思えば自分から率先して学べるような力を持ったような人っていう感じですね。
相互承認はお互いのことをちゃんと理解し合う力っていう、これがなかなか日本の今までの教育では教えてきてもらえてないんじゃないかなと思っていることです。
僕自身は全然小中高とか大学になっても、そういう対話とかダイアログみたいなものっていうのを、
それを教えるというか重要視したような授業というか機会は全然記憶がないですね。
そういう機会を与えてもらった。
あと創造っていうのはクリエイティブな部分なんで、そこは自分のやりたいことを好きなように育んでもらっていく力なのかな。
そこら辺あんまりすごい明確に言語化はしてないんですけど、キーワードとしては自立自操、相互承認、創造っていうキーワードで、
学校の多くのいろいろなことを方針を考えています。
自立自操っていう部分でやっていることとしては、個別主体の学びみたいな言い方をして、
授業中とかに理科とかだった場合に、その理科の今日学ぶことを自分がどのスタイルで学びたいかっていうのを自分で決められるっていう感じですね。
簡単に言えば、逆に教師をやってきた方とかには簡単に見えないっていう人も多いんですけど、
僕らみたいな教育現場でちゃんとカリキュラム作って教えるみたいなことをやってない、
僕らというか僕としてはそんなに難しく感じないんですけど、その教えたい。
今回理科の取り扱うものに対して、教室の中に大きくは4グループが存在するような感じですかね。
1グループは先生から直接学びたいっていう、今まで僕らが受けてきたオーソドックスな授業の形。
もう一つの学び方は、アプリケーションで自分のペースでそれを学ぶ。
もう1個は塾の教材というか、そういうペーパーベース、ペーパーが絶対というわけではないですが、
そういうような教材で自分のペースで学ぶ。
もう1人は今日はあんまり学びたくないというか、そのうち追いつくよみたいな感じの人たちが1個の教室の中にいて、
個別主体で学んでいくっていう学び方も選べるような形になってたりもします。
あとは中学生になってくると、全部のカルキュラムを自分たちで組むっていうのが、
中学の仕組み上難しい部分はあるんですけど、高校になってくると、全部自分でカルキュラムを。
4月に入学した高校1年生が、僕らの学校がちょっと特殊で、4月に体育祭があるので、
4月は結構あんまりそっちで一気に結束を強めていくというか、コミュニティビルディングみたいな形で、
お互いが仲良くなってくるような機会になってくるので、それが終わったゴールデンウィーク周辺あたりのところで、
各自自分たちで考えて、カルキュラムを、大学に似てますかね。
それを高校1年生の頃から自分で決められるような仕組みを作ったりもしてます。
あとは基本的には宿題はありません。
ありませんって言ってるんですが、先生たちに対しても、先生たちも自分たちで考えてほしいので、
強制はしてないので、宿題は基本的には出さないでほしいっていう方針を、教育主任っていうのかなが伝えてはいるんですが、
出してる先生は何人かはいるみたいです。
ちょっと僕も全部の現場を知らないんであれなんですけど、
やっぱり日本の一個、自立自操というか自分で主体的に学ぶとか生きるってことが、
なかなか苦手な人が多くなってしまってる原因の一個が、僕は宿題じゃないかなと思っていて、
宿題っていうのは、人から与えられてこれを勉強しなさいっていうことで、
かつ宿題って、夏休みの宿題とかが一番重たいというか、
夏休み宿題があって、その宿題をやらなきゃやらなきゃっていう気持ちと、僕の場合はそれが嫌だったから、
夏休みが入った瞬間、最初の1週間とかで全部終わらすみたいなタイプで、
それで気楽な状態で残りの1ヶ月ぐらいの夏休みを過ごすってことをやれたタイプだったんで、
比較的自由度の高い夏休みを過ごせたなっていう自覚はあるんですけど、
そうじゃない方々で、やりたくないから後半の方に持ってきたりとかする人たちとか、
時間ギリギリになってくると、やれる範囲だけでいいからやりなさいみたいな感じで、
なんか親とかにも言われちゃったりとか、
自分自身も自分がやれるところだけでも埋めて出したらいいかなみたいになってくると、
自分が分かってるところしか書かないっていうことになりますよね。
分かってるからサクサクと宿題を埋めていけるから、
だから分かんないところはやらないっていう状態になって、
レベル全体の分かってないことを知るっていうことができない循環になるなっていう気も僕はしていて、
なのでその宿題があることでいろんな弊害があるなと思ってます。
ほんとオランダとかヨーロッパ全部なのか分かんないですけど、
自分が暮らしたりしているところで実体験で話をしたほうが分かりやすいなと思うので、
深く関わってるのがオランダとか最近だとデンマークとかですけど、
そういう国はもう宿題はないですね。
特殊な学びたいっていうことを強く望んでるところだと宿題的なものを出したりするところもあるらしいですけど、
基本はないです。
それによって夏休みとか、向こう夏休みかなり長くて2ヶ月近くあるかなっていう感じなんですけど、
その中で大人も含めて大人も子どもも2、3週間少なくとも2、3週間ぐらいは、
今自分のいる環境じゃないところで自然の中に行く人が多いなっていう気はしますけど、
それだったり自分がどうしてもやりたかったことに没頭するみたいなことをやったりとか、
休暇の重要性と気づき
やっぱり2、3週間ぐらい今自分のいる現場からところから離れると、
やっぱり3日4日ぐらいとか1週間ぐらいの旅行とかバカンスだと仕事のこととかを忘れきれないというか、
仕事のことを一切無視するのにまず数日かかって、
その復帰する時のタイミングにはちょっと仕事のことを考え始めちゃったりするのにまた数日かかると、
1週間とかだったら1週間の間ほとんど仕事のことが頭の中から消えないみたいになっちゃうなと思っているので、
そういう人が多い気もするし、僕も1週間ぐらいだとそういう感覚だなと思うんですけど、
やっぱり3週間ぐらい休むって決めるともう一回、
また後半の最後しごんちになってきたらちょっと感覚的に仕事のこととか学校のこととか少し考えようかなっていうぐらいで、
最初の2週間ぐらいは本当無心のままやりたいように過ごせるし、
それでそういう何も気にしない状況で自分がやりたかったことをやったり、
自然の中でゆっくり過ごしたりすると、そこでの予想もつかなかった出会いみたいなものとか発見みたいなものとかも、
すごいあるって聞いているし、僕もあるなと思ってるんですけど、
それが逆に今度仕事に戻ってきた時とか学校に戻ってきた時に、
それが大きなヒントになって何か新しく自分でやりたいことが見つかったりとかするんじゃないかなと思っているので、
そういうチャンスが夏休みとか、特に夏休みが長いですから、夏休みにそういうことを体得できるチャンスなのに、
それを日本は結構どこの学校も大量の宿題を出すことによって、
そういうふうに自分でぽっかり空いた1ヶ月、1ヶ月半とかをどう過ごすかっていうのを考える機会っていうのを
奪われてるなっていうのはすごい大きな自立思想っていう観点においては、問題なんじゃないかなと思ってます。
価値観の変化と教育の問題
やっぱりこの思想ができた原因っていう言い方じゃないんですけど、
なんか漫画とかジャンプ漫画のように人生を生きるみたいなのを掲げた部分もあって、
自分の中ではジャンプとかもめっちゃ読んでたんですけど、その中で思うのは、
ドラゴンボールとかめちゃくちゃ流行りましたけど、あれをメインで最初読んでたりとかする世代って、
多分今50歳前後とかそれ以上かなとかっていう人たちが中心だと思うんですけど、
やっぱりドラゴンボールの世界観って精神と時の部屋でしたっけ、
そこで徹底的に努力して努力して努力すれば解決できなかったものが解決できるというか、
強い敵を倒せるっていう、努力っていうものがすべて、修行っていうものが美しいというか、
っていう価値観が確かに強烈に反映されてるなと思うんですけど、
その後15年後、20年後ぐらいから始まった、
ワンピースっていうのが今も続いてて大ヒットしてると思うんですけど、
ワンピースの世界観っていうのは、僕らが目指してる世界観にやっぱりすごい近いなっていう感覚もあります。
ワンピースって強い敵というか、課題みたいなものが現れた時とかにも、
自分ができないかったことは他にできる得意な人に頼って、
その人とともに、その人を駆読わけでもないんですけど、
お互いに目指す世界みたいなこと、お互いやりたいことはそれぞれあるんですけど、
大きく共通する価値観みたいなのあるよねっていうのを、
話し合いだけじゃないんですけど、いろんな体を通したりした対話を通して、
お互いを理解し合いながら、じゃあ何か一個共通する価値があるから一緒に進んでいけるよねっていう。
かつ、俺はこれ苦手だからお前頼むよみたいな感じで、
お互いで補い合ってるような感覚がワンピースを見てるとすごい思います。
でも、それぞれ自分の得意なこととかやりたいことはどんどん努力するので、
その部分はレベルアップをしていくというか、やりたいことだけをやってるから、
それは努力というのかっていう感覚もありますけど、
そこら辺の時代感も含めて、ドラゴンボールが卒院したかと言いたいわけではなくて、
象徴的だなっていう感覚はあります。
なので今、時代としてはワンピースみたいな価値観の中で、
お互いがどんな特徴のある人かっていうのを理解し合いながら、
必要であれば共に進むみたいなことが、
一個二個目のキーワードの相互承認っていうところにつながっていくかなと思っていて、
その話はまた次回に。
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