すごい本質的なところを抑えてるんだよね。
ちょっとそのメムすげえなって話の前に前提の話をすると、
道徳の強化化が始まったから道徳をちゃんとやんなきゃいけなくなったっていうわけではなくて、
もともとちゃんとやんなきゃいけなかったっていうのはもちろんありますと。
で、もちろんずっとこうやってる人はちゃんとやってたってさっきも言った通りなんだけど、
強化化っていうのが法的に拘束力が出たみたいなのが結構メディアでも騒がれちゃって、
それによってやらねばならぬことが増えたっていう見せ方がやっぱり出ちゃったよね。
そこは残念だなと思いつつ、
このトモさんが言う通り一定の先生方にとっては負担が増えたっていう見方はできるわけだから、
理想とは違う現実の部分で先生方ファーストな視点すごい嬉しいなって思って、
トモさん優しいっすね。
そうね。
ありがとうございます。
なんかめんぶさんさっき本当にその日常場面で出会うのかなって言ったでしょ。
道徳って補充・進化・統合っていうね、性格があるわけですよ。
で、補充っていう側面がまさにその考えで、
何かっていうと、じゃあ友情っていう価値項目があるんですけど、
友情・信頼っていうね、
その友情・信頼の価値項目に触れる場面が1年間で必ずあるかっていうと、
そうとは限らないじゃないですか。
あったとしてもそれを進化、なんか深めるっていうのを確保されるのかその機会がっていうと、
必ずしもあるわけじゃないじゃないですか。
で、いろんな価値が生きているとね、味わいながら、本当考えながら生きておくわけだけど、
それがじゃあ本当にみんなが統合されていくのかっていうと、
なんかすごい結果としてね、もちろんそれが勝手に行われる子もいるんだけれども、
全員がそんなことをうまくいくかって言ったらそうじゃないよねと。
だから道徳の時間っていうのを使って補充・進化・統合していこうと。
それであるわけだって考えると、必要なんだよね。
で、もう1個のすごい大事なポイントがあって、
じゃあ日常場面でツボ犬って子がいじめたらしいと。
で、メイムって子がやられたらしいと。
これについてみんなで今から考えます。
こういうのを扱う先生もいるよ、もちろん。
学級活動2っていうのを使ってみんなでこう考えていこうっていう風に先生が提案したりとかですね。
学級活動1っていうのを使って学級会っていうので課題解決していこうねっていうのもあるわけだけど、
どうですかツボ犬。
自分が行ったであるかもしれないいじめについて議論されるっていうのがいい場面もあるしきつい場面もありませんか。
きついよね。
なんかこう完全にイメージできるのが、はいじゃあみんな目をつぶってやった人は手を挙げてっていうやつなのかなって思っちゃう。
そうだよね。
これってじゃあさ、ツボ犬がねいじめましたっていう事実があった1週間後に道徳で今回はいじめについて話します。
登場人物は本当仮名なんだけど田中くんって子がいてとか言われたとしても、
あ、俺のことかなとか思っちゃう。
で多分その他のメンバーも、あ、あれさツボ犬がやったやつとかさ、あったからいいんじゃね?とか。
そうね。
ちょっとそういう気になりそうじゃないですか。
なる。
だからあえて登場人物っていう物語の人物を通して考えることで、
なんかみんなの中で共通のテーマにもなるし、
共通のストーリーの中で話せるし、
なんかその人物になりきって価値について考えることできそうじゃない。
うん。
この前ドラえもんの映画も見たんだけど、
なんかドラえもんの映画を見て感動したことについて、
僕がなんかのび太くんの気持ちになって語るって、ちょっと語りやすいじゃん。
うんうんうん。
確かに確かに。
でこれがさ、自分が体験したエピソードなんだけどっていうのとハードルが全く違うわけよ。
うんうんうん。
あえてその登場人物に乗せて考える、話すっていうのは、実は子供たちにとってはやりやすいっていう。
なるほどね。
そんな見方もできるわけですね。
ちょっと今部分的なこと言ったから、ちょっと全体としての話はできなかったけど、
結構道徳っていうのは考えられているっていうのもあるかもしれないね。
なんか今の話を聞いていてね、すごく思ったんですけど、
結構大人になってこういう道徳的議論をしなきゃいけないシーンって、
やっぱ出てくると思うんですよ。
その時ってもっと深刻で、
社会問題だったりとか、環境問題だったりとか、
あとは迫害されてしまっている人だったり、権利がない人のね、主張だったりとかに対して、
自分の意見を述べなければいけないシーンって大人になってくるとやっぱり出てくるじゃないですか。
特に国際社会に出ると、なおそこと多分その辺ってすごく議論力がいるなっていうふうに思うんですけど、
その時にやっぱ慣れてないな自分ってすごく思うんですよ。
で、悔しい思いをするのね、不勉強だなとか、
相手の気持ちを持って話せなかったら悔しいとかっていうふうにすごく思うシーンが多かったのね。
で、その時に思うんだけども、やっぱ育ってくると結構その当事者の方たちの声って、
やっぱ感情がすごく乗るんだよね。
やっぱそのいじめの当事者だったりとか、被害受けてる子だったりとかの声って、やっぱそのすごく感情が入るよね。
で、感情が入るとやっぱその議論ってうまく、自分の意見がうまくまとまらなかったりするから、
その手前にちょっとその自分の感情が乗る前のなんか練習?
やっぱその大人になっていろんなシーンに行った時に自分の考えをちゃんと述べられる練習の場として、
一旦その当事者でない事案において、ちゃんとその感情移入を入れた上でね、
練習をちゃんと子供の頃にできるって、それはなんかすごくいいなって思ったんですよ。
なんかそのいじめの話とかだと、目の前に友達がやっぱ被害者だったらすごく感情が出ちゃうじゃない?
なんか守る側に行っちゃう。その時にやっぱ冷静に例えばその加害者側の気持ちを考えてみようって言ったって、
なかなかできないとかさ、うまくできない子供だからなおさらね、とかってあると、
練習の場としてはもったいないっていうのもなんだけど、機械損失もあるかなと思うと、
公平な、誰にとってもフラットに見れる事案とかストーリーとかケースとかで、そういう練習を重ねて、
本当に自分が何か伝えたくなっている時に、その経験を引っ張り出してきて、
うまくちゃんと対話ができるように、意見が言えるようになっていけるプロセスとしてもすごくありがたい場だなって、
今聞いててすごく思ったというか。
そう考えるとめちゃくちゃ大切な教科ですね。今大切さに初めて気づいたかもしれない。あんななくされてた授業が。
すごい大切。
ちなみにさ、ありがたいとか大切って言葉使ってくれたから、ちょっと立ち戻りたいなと思ったのは、この学生の質問1個目だったらさ、自由ともつながるんだけど、
そういう工夫はめちゃくちゃできます。だから強化化されたからといって、すごい縛られたかっていうと、実はそうでもない。
今全国でね、本当多様な実践をしていて、かなりそういう工夫できますね。
だからそれはね、希望だと思っていて、ぜひトモさんね、今度話しましょうよ。本当自由度高いですよ。
だから強化化されたからといって、すごく縛られたわけではないっていうのはまずお伝えしたいのと、
じゃあちょっと1個のね、方法論としてよくやられるやり方は、まず前半で教材、物語があって、それについてみんなで語ってみるっていうのをやるじゃないですか。
ちょっとあえて今教育的な用語をやめますね。教育者以外も見てるので。
その前半に対して後半は、自分自身の日常生活とか経験に置き換えて考えてみましょうっていって、
講談っていうパターンでちゃんと時間を取るっていうやり方もあるわけですよ。
そうすると、なんかトモさんが言っていたことは叶えられるんじゃないかなと思っていて、
教材を通して考えてみたことを日常場面で自分自身に置き換えてみて考えてみるっていうのもできるわけですよね。
あともう1個がね、この前提として道徳ってその道徳の時間だけでやるものではない。
この教育活動全体でやることなんだ。
ないしは普段の生活の中でも道徳っていうのを意識して先生は働きかけをしていくんだっていうのは実はちゃんと示されてます。