生きる価値の喪失
こんにちは、こみです。私はインスタやTikTokで、毒親育ちの私が、親や家族に縛られずに、大切な人と今を生きるということを目標に、日々奮闘する様子を発信しています。
で、前回の投稿の続きを今日していきたいなと思うんですけど、前回何を話したのかっていうと、
毒親育ちのね、私がね、10代、20代の時に漠然と抱えていた悩みがあったんです。
それが何なのかっていうと、自分なんて生きる価値なんてないっていうことと、生きていてもね、楽しいことなんてなくて、未来が怖いっていう、なんか気持ちだったんです。
それはどんなイメージなのかっていうと、テレビのね、砂嵐みたいに、すごくザバザバザバザバってして、もう
真っ暗っていうよりかは、もうノイズ、何もかもが自分の体の中に刺激として入ってくる状態。
刃物としてこう、鋭く刺してきて、自分の心が乱れ狂うんだけど、全然整うまで、なんかね、落ち着く様子が一切ない状態で、自分の目の前だけ真っ暗なイメージでした。
本当に生きるのが辛かったし、しょっちゅうしょっちゅう夜になると、自分で夜が来るのも怖いし、明日仕事に行くのも怖いし、10日後も1年後も10年後も自分が歳とっていくっていうのが怖かったです。
なんかそれはね、カレーとかではなくって、なんかね、どうせ楽しいことがない状態で、毎日生きているってつまらないし、怖いなっていう、そんな気持ちでした。
で、その気持ちっていうのはね、今も正直あります。私今、最近38歳になりました。お誕生日を迎えました。パチパチパチパチ。
で、本当ね、この1年すごく早かったんですけど、なんとなくね、やっぱり40代、なんとなくイメージはできてるけど、こっから大きく変わっていくなっていうのもあって、やっぱり怖いです。この先が。
それでも、10代、20代の時よりかは、この不安感、功労がかき乱されている感じっていうのはすごく減ってるなって思ってて、それがどうしてなのかっていう話だったりとか、
10代、20代の時、そんな、いつでもね、本当に私は死ねるわみたいな感覚ですごくあったんですけど、そう言いながらも、どうして耐えれたのかっていうような話をしていきたいなと思っています。
ちょっとね、暗くなってしまうかもしれないんですけど、ぜひね、同じように悩んでいる人がいたら聞いてもらえたらなと思います。
で、まず初めになんですけど、私はね、あの、同行親育ちで、母がすごく干渉的だったところもあったし、私が、あの、小学生の時に知り合いのパパと不倫して離婚してしまって、そこから再婚することになったんですね。再婚というか同棲かな。
同棲することになって、その家に私の居場所は本当になかったです。自分が反抗期っていうのもあったし、思春期っていうとこもあって、もうほとんど親とは口を聞かない。もう、なんかまあ私中心で家が回ってるような感じもなかったしね。
あの、もうその人と住むから、あんたもこの家に住みやっていう感じで、パッて住まわされたっていう感覚で私はいたんですけど、うん。
なんで、うん、やっぱり現実的に自分の居場所っていうのがなかった。自分の存在っていうのが迷惑なのかなって思ってたし、実際に中学3年生とかでその一緒に住むっていう時も私は嫌だって、まあ抵抗したりとか、その環境から逃げ出したくって、うん。
あの、誰も自分のこと、自分のそういった母親のことを知らない人たちと生活したいから、私立に行きたいって言った時に、あんたなんて産まなかったらよかったって、まあ母親も言ったっていうのがあって、まあそれがね自分の中で結構傷ついた言葉で、なんかそういったところから自分なんて生きてる意味ないんだ、どうせ居場所もないんだって、10代時にすごく思いました。
うん。そうですね、その時を立ち直るっていうのは正直できなかったですね。正直リストカットみたいなこともしてたし、もう本当にいつでも死ねるみたいな感覚だったけど、まあその時はね、あの死ぬ勇気はなかったです。
環境の変化
ね、そう、やっぱり怖く死ぬっていうのはなんか怖かったし痛い、何回もそう言って思ったけど、やっぱりそういうことはできなかったです。うん。
で、まあ2週ぐらいになって、まあそういう風に思った時もあったんですけど、うーん、そうですね、なんかそういう気持ちもすごくあったけれども、
やっぱりなんか自分は、なんかそういう不幸なことが起こるにも、やっぱり誰かしらの迷惑がかかるんじゃないかって思うと、なんかできなかったです。仕事も中途半端に逃げ出してしまうし、家とかでね、そんなことがあっても、やっぱりむずか、なんかやっぱり誰かしらに迷惑がかかったりとか、まあ親のことは嫌いだったけれども、
親に負担をかけたくないっていうのもやっぱりあったので、そういうことはできませんでした。うん。あと私のね、あの、母親の弟さんっていうのが、あの、
あ、違う違う、そのね、うーん、その、再婚したその人がいるんですけど、その人の妹さんも家で亡くなられてるんですね。
うん。で、私のしばらくしてからの話になるんですけど、母親の弟も自殺をしてるんですよ。で、まあそういうやり取りとか、まあ損害賠償みたいなとことかの話を聞くと、私はひよってしまって、正直、生きてても死ぬけ、生きてることもしんどいけど、死ぬことすらできないんだっていう、なんかそういう、
まあ多分死にたくなかったっていうのもあるかもしれないんですけど、なんかそういうのを目の当たりにすると、そういうことができませんでした。うん。
そういう話もありつつ、実際にその時どういうふうにね、対応を自分の中で、それでも他のことで耐え抜いたところがあったので、ここからはまあそういうふうな、ちょっとポジティブな話に進路変更をしていきたいなって思います。
で、私がその10代、20代の時に、10代は嘘かな、10代はそのわけわからず、恋愛依存みたいなので、なんとか耐え抜いたっていう感じなんですけど、20代の時に私がその、なんていうの、メンヘラ時代、そのリストカットとか、まあそういう地雷系の重たい女の子から、まあ変われた方法っていうのは、まず一つは実家を出ました。
うん。環境を変える。うん。で、ほんとそのね、一人暮らしっていうのも貧乏生活だったし、もうお風呂は、トイレとお風呂が一緒で、もう、廊下にちっちゃい、なんだろう、キッチンはあるけど、部屋はもう6畳ぐらいで、もう隣の人がくしゃみしたら、ほんまに聞こえてくるんじゃないかっていうぐらいだったし、あの、地下、1階がね、地下にあるような家だったので、私は2階に住んでたんですけど、
もうほぼ地面と一緒ぐらいの距離に住んでて、オートロックもなくて、すごくもう無防備な、女の子だったら、今とかだったら怖くて住めないんじゃないかっていうようなボロ家、4万3千円の、あの全部込み込みでね、水道台込みで4万3千円のアパートに住んでました。
それでもやっぱり親、その根源と離れるっていうのはすごく大事だなって思うので、そういうふうに環境を変えるっていうことと、あの私当時、20代、1歳、2歳は違う保育園で働いてたんですけど、そこから3年目の時に社会人になって、3年目の時に違う職場に転職しました。
で、そこの人間関係っていうのが、まあ良かったなっていうのもあるし、私は保育士をしてるんですけど、その先生たちの関わりっていうのも、割とね、自分がやりたいこととマッチしてるなっていうのがあって、その子供にはね、例えばすごいねとか偉いねとか、よく頑張ったね、そんなに辛かったんだねとか、結構肯定的なことを声掛けっていうのが多い保育環境の下で働かせてもらってたので、
実際には子供に言ってるんだけれども、自分自身に声を掛けてる。他の先生が、他の実際にいるお子さんに声を掛けてるっていうのも、私の育った環境とは全く違ったので、
自分は子供ではないんやけれども、そういう家庭環境ってあるんだ。私が失敗してしまった時にも、大丈夫ですよって次から気をつけたらいいですよっていう感じで、すごい罵るみたいなことは本当になかった。
なので私が育った環境っていうのが、もしかしたら稀なだけであって、世間一般にはこんな温かい家族っていうのがあったりするんだっていうことを知ったし、私もそんな環境で育ちたかった。
私もそんな母親になりたいって、自分その環境が私に希望をくれたりとか、私の中で町、家庭とは辛い場所なんだ。大人っていうのは本当にね、子供を巻き込んで理不尽なことをしてくる人なんだっていう風に、私もその時はもうすでに大人だったんですけど、なんかそういう大人のことを嫌いだっていう風なのがあったんで、
そういった考えっていうのが構成されたなっていう印象を受けました。
そうですね、なんでそれがね多分ね、今まで10代の時は異性で補おうみたいな、そういう存在っていうのを男性からの愛情で満たそうっていうのがあったんですけど、
同じ保育士の先生、女性っていうところもまたポイントで、自分の何て言うんだろうな、なんか本当に不思議な体験だなって思うんですけど、なんかそういうのを女性とか女の子の友達とかもすごくちょっと苦手、なんか母と被るような子とかはちょっと苦手だなっていうのがあった部分もあったんですけど、
ポジティブな経験
その職場の環境が自分のことを変えてくれる、いい方向に導いてくれる、自分の子供だった時のイメージをやり直させてくれる、更新してくれるっていうのかな、アップデートしてくれる、そんな風になったかなと思います。
で、あともう一つですね、自分が考え方が変わったなっていうのが、やっぱりその恋愛だったりとか、仕事とかでもなんでもいいんですけど、何かに依存するっていうのをやめて、何かが自分を幸せにしてくれるのではなくて、自分自身が地に足をついてブレない気持ちっていうのはすごく大事だなって思いましたね。
やっぱり恋愛とかで一喜一憂すると、一気に幸せになったっていう感じはあるんですけど、やっぱりそれってずっと続くものではなくて、自分が信じれるのは自分だけみたいな感じで、自分の足でしっかり生きていこうって思いました。
なので20代の時は恋愛依存ではあったんですけど、別に結婚して幸せになりたいっていうのは本当になかったです。むしろあんまり彼氏とかも、遊ぶ友達とかはいたんですけど、男の子とかも、別にその一人の人に続婚でいようっていうのはあんまり正直思ってなかったところがあります。
それで言うと、24号ぐらいの時にボロアパートから4万3千円の家から家賃6万5千円ぐらいのところ、ちょっと広くなってお風呂も別になって、家の雰囲気もすごくいいところに引っ越しして家にいる時間っていうのがすごく好きでした。
自分の落ち着く場所、自分を守ってくれる場所で、特に何かその家ですごいことをしたわけではなかったけど、そういった自分の大事に、自分が落ち着いて過ごせる時間の作り方だったりとか。
あと私京都に住んでるんですけど、友達とね、冬になると、そのワンシーズンで8回から10回行こうみたいな感じで、仕事を土曜日仕事を終えて、夜行バスで行くんですけど、夜に集合して夜行バスに乗って日曜日すごく遊んで、日曜日の夜に帰ってきて、
パスタとかなんか買うとか、いろいろその時に食べたいものを食べて、また翌日仕事行くっていう、なんかそれがすごく楽しかったなって思っています。
私のところはそんな3連休とかね、長く取れるところじゃないんですよ。日宿もちょっと企業がやってる保育士、保育園っていうのもあって関係がないので、なかなか友達とそのゴールデンウィークとかお盆とかに連続した休みを取ることができないので、
私はそのスノボっていうのが、土曜日夜出て日曜日がっつり遊ぶっていうのが自分のその生活のスタイルともあってて、友達ともそれぐらいの時間で会うぐらいの方が楽だなっていうのと、気のしれた友達っていうのがありがたいことにいてくれたので、それもすごく楽しかったなって思います。
何か没頭できることだったりとか、自分が今まで不安定な場所で生活っていうのかな、なんか居心地が悪いところで生きてきたので、やっぱり誰にも干渉されない時間だったりとか、そうやって熱中できるものを見つけるっていうのはすごく大事かな。
あとすごいスノボってなんか山とかですごい綺麗なんですよ。なんかその、なんて言ったらいいのかな。多分スノボ知ってる人はわかると思うんですけど、
京都で言うとその滋賀とか行きやすいところで、山が低いところとかだと雪もガリガリで汚いんですけど、やっぱりその夜行バス乗って行くような岐阜とか長野とかまで行けるとやっぱり雪もふわふわだしすごく綺麗で、
なんか私そんなにキャンプとかはほとんどできないんですけど、なんかその自然、その綺麗な白色を見て、あの太陽が昇ってくる瞬間にフワーって降りていくのはすごく自分の中でも心がリセットされる。
なんか紅葉も、紅葉じゃないな、その自然も楽しめてストレス発散にもなって、友達とも会えて、時間もなんか他のことを考えることのない非日常みたいな使い方は自分の中ではすごく大事だったなっていうふうに思っています。
はい、そんな感じでですね、ちょっと長くなっちゃったんですけど、生きる価値がないって悩んでいた当時の私、未来が怖い、漠然と思っていた私がどうやって20代を乗り越えたのかっていうことをお話しさせていただきました。
自分がそうやって割としっかりと心が自立できたところもあったので、今の旦那と出会って結婚できちゃうのかなって思っています。それがなければ多分今の旦那にもうすぐ別れるとかって言って多分全然続いてなかったと思いますし、結婚してからもう多分すぐ離婚してたんじゃないかなって思うので、
自分の考え方だったりとかを立て直せたことがすごく良かったなと思っているので、もしこの音声配信を聞いている方でですね、自分の心がちょっとブレブレでしんどかったりとか、周りの人ともねちょっと関係がどうかなっていう人がいたら是非聞いてもらった内容を実践してもらえたらなって思います。
はい、それではインスタやTikTokでコミっていう名前で、ドッグオヤスタ達の私が奮闘する様子を発信しています。毎日大変なこともあるんですけれども頑張っているので、是非これを聞いてくれているあなたとも頑張れると嬉しいです。気軽にフォローやコメントいただけると嬉しいのでよろしくお願いします。では次の配信で会いましょう。長くなったんですけどありがとうございました。じゃあね、バイバイ。