1. 古代の福岡を歩く
  2. S9 1回目は佐賀県の吉野ヶ里..
2023-10-01 30:11

S9 1回目は佐賀県の吉野ヶ里遺跡から

「古代の福岡を歩く」シーズン9、つまり9年目がいよいよ始まりました。
1回目は今年の4月、全国の古代史ファンの注目を浴びました佐賀県の吉野ヶ里遺跡からスタートです。
昨年の1回目と同じ、吉野ヶ里遺跡・調査指導委員会・委員長をつとめられ、佐賀城・本丸歴史館の館長でもいらっしゃる七田忠昭(しちだ・ただあき)さんに伺っていきます。
まず、話題になった石棺墓の×印について、一体どんな意味をもった×印なのか伺いますと、3枚あった石棺の蓋の部分の1枚だけ×印が表ではなく、裏についているのは不自然である。
もともと何かの記しをつけて立ててあったものを石棺の蓋につけたものだろう。
×印は宗教的な意味をもったものかどうかは不明であるが、碑のような役目をもった石の柱ではなかったか。というお話でした。
吉野ヶ里遺跡の環濠についても詳しく聞いています。
古代の福岡を歩くリポート 
新発見の続く吉野ヶ里遺跡のわくわくを満喫できる「吉野ヶ里歴史公園」。
ぜひ公園内の拠点ガイドさんに頼りましょう。
自分で見学するだけでは得られない情報や新しい視点をもらえますよ!
今回は福田幸夫さんにご案内いただきました。
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00:09
スピーカー 1
古代の福岡を歩くシーズン9 遥かな昔、海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました。
その足跡を訪ねる 古代の福岡を歩くシーズン9
この番組は 宮城市の企画協賛
餃子の山端 道の駅室方の提供でお送りいたします。
こんばんは、坂田秀大です。 古代の福岡を歩くも9年目シーズン9を迎えました。
シーズン9の1回目も去年と同じ古代の福岡を歩くではなくお隣の県 佐賀県の吉野ヶ里遺跡から始めます。
吉野ヶ里遺跡は1986年の発掘開始以来 その出土品などから山大国と結びつくのではないかということで大変注目を集めてきました。
そして今年4月に出土した石棺墓の調査で日本中から注目を集めました。
発掘調査の対象地はかつて神社があったために調査されなかったエリア 日吉神社の跡地です。
残念ながら人骨や服装品の出土はありませんでしたが 9月からも再び調査が始まりました。
この吉野ヶ里遺跡についてお話を吉野ヶ里遺跡調査指導委員会委員長を務められ 佐賀城本丸歴史館の館長でもいらっしゃる
七田忠明さんに伺っていきます。 インタビューはこの番組の津川ディレクターです。
まずこの石棺墓の話から伺っていきます。
今吉野ヶ里遺跡ではこれまでにですね 昭和61年からですけれども
約4千近いですね墳墓が見つかっているんですけれども その大半が亀棺墓なんですね
あとは土工墓とかですね木棺墓とか石棺墓がですね 数は少ないんですけれどもね存在するんですけど非常に石棺墓は数が少ない
ということなんですね。今回もですねあの場所から石棺墓が出てくるというのはあまり想像していなかった
03:01
スピーカー 1
近辺にありませんでしたので
やっぱりあの場所というのは神社があって少し高めになってますよね。丘じゃないですか。
そうですね。西武流産地からずっと南の有明海の方に延びてきた丘陵の一つの先端部なんですよね。
ちょっとあの
少し高まってますよね。なんかありそうだなという感じは以前からですね言われてました。
やっぱり少しよりも少し高めだから地位的にも少し高めの方がいらっしゃるんじゃないかというようなことは言われてたんでしょうか。
そうですね。ただ神社の森としてですね全体が小森が見えたんですよね。
極端なことを言う方は日美湖の墓があるんじゃないかとかですね。そういった噂が広がってました。
ただ私どもですね以前からの周辺をずっと掘っているんですね。ほとんどが亀冠
中期 八重枝中期の亀冠房で閉められてたんですよね。
前の調査では何も出てこなかったんですけども少し前の調査でですね今回の調査でのすぐ北の方から
腕輪をですね。沖縄の神社で作った腕輪を両手にですね
合計に25個でしょうかね。
いや25じゃなくて36個つけた女性がですね
あのお墓が見つかりまして腕輪だけじゃなくてですね
棺桶の蓋の部分にですね中学生の鏡をですね銅鏡が置かれていました。
小型の銅鏡なんですけども非常に上質のですね
素晴らしい銅鏡でした。
その銅鏡は出てきて出土した近辺になったわけですね。
だから今の発掘をやっているすぐ北側に、20メートルぐらいでしょうかね。
それぐらいの集団墓地内の一つの神社から出てきたんですね。
20メートル、ほんのすぐ近くですね。
であるだけに期待はされたんですか。
少しはですね。
それで有力者の墓であるんじゃないかと言われたのが
赤色顔料があったと言って入れたということですけども
それで大体有力者っていうのは分かるんですか。
そうですね。赤色顔料は硫化水銀種なんですね。
あまり入手できない顔料なんですよね。
吉野原遺跡でも墳境もございますよね。
あれは少し前の中期段階ですけれども
墳境の神館の内側にはほとんど全てですね、種が塗ってあるんですね。
06:02
スピーカー 1
その中の大半が銅剣とかですね、クラスの玉を持っている有力者ということが分かるんですよね。
たくさん群を成して埋まっている一般の墓地の神館にはほとんど塗らないんですよね。
どちらかというと有力者の墳墓でよく使われる顔料だということですね。
それで大体有力者というのが新聞に出てましたけど
あの有力者という位ですけど、首長なんですか?それとも元社の王とか、そういうランクはあるんですか?
吉野原神殿にもですね、大神とかですね、王とか首長ですね、長官、次官とかですね、出てきますよね。
聖皇とかですね、奴隷的な立場の人も名前が出てきますので、どれだけ分類ができるか分かりませんけど、
一応期待されたのがやはり八重時代後期、後半の末の、いわゆる山田国時代の吉野原を治めた首長クラスの人であればいいなということをですね、皆さんが考えたようですけれどもね。
大体は積職顔料でそういうのを位置づけることは?
積職顔料だけでは無理なんですよね。
無理なんですか?
やっぱり中国との外交の成果である、中国製の大きな銅鏡であるとかですね、鏡であるとか、中国製の同時最新の武器ですね、いわゆる刀ですね。
そういったものを備えられている人が大体、政治的と言いましょうかね、身分の高い方だと考えられますよね。いわゆる首長ですね。
積職顔料、赤色の顔料ですけれども、弁柄というのももう一つありますか?
あります。
弁柄というのと種というのは全然違うんですか?
そうですね、弁柄は酸化鉄ですよね。
酸化鉄なんですか。
自然に層を成して埋まっているんですね。
硫化水銀も層を成して埋まっている。あるいは硫化水銀をたくさん含んだ岩石がですね、ある土層の中に埋まっているということなんですね。
全く科学的に違う内容ですよね。
そうですか。
だから弁柄はですね、遺体とか亀冠とかいうかお墓にはですね、あまり使わないですね。
そうなんですか。
ただ、そういうお墓のお祭りとかですね、集落のお祭りで使う赤い土器ですね、ああいうのでは弁柄を塗って焼くんですね。
09:11
スピーカー 1
酸化炎で焼きますので、空気をたっぷり含んだ炎で焼きますので真っ赤赤に白色するんですね。
硫化水銀を塗って焼いても赤く白色しませんので、全然成分が違いますのでね。
あるいはそのまま岩石を潰して水に溶いて遺体とかですね、緩和器の中に塗る、あるいはふりかけるということをやったみたいですね。
そうすると弁柄よりもいわゆる種の方が、身分的には少し上からということになるんですか。
というか、そういう差じゃなくてですね、用途ですよね。
埋葬、冠を、冠桶であるとか遺体にふりかけるのは硫化水銀なんですね、種なんですね。
種ですね。
土器に塗って焼くのは弁柄なんですよ。
そういう違いがあるんですね。
よくわからなくて。
間違って使ったりはしていません。
ちゃんと決まっているんですか。
決まっています。全然鮮やかなんですよね、硫化水銀、種の方は。
弁柄というと土に混じったような。
少しドス黒くなったりですね。
だから焼き物に塗って焼くと非常に空気を含んだ炎で焼きますのでね、赤く発色をして、
一緒にお祭りに使えるような土器が出来上がるんですよね。
そうですか。
分かりました。
それからですね、重い石がいくつかありましたけれども、その石の表面にですね、×印というのがありましたよね。
あれはどういうふうに考えてらっしゃるんですか。
近辺からもですね、いくつかの遺跡で数点×がついたのが見つかっているんですけれども、
あんなに全面にですね、ついたのは非常に珍しいですね。
あれはその、何か呪術的な意味というのは。
そういうふうに捉える方もいらっしゃいますよね。
ただ現代的な×とはですね、意味が違うだろうと思います。
意味が違うところが多いですね。
それから大きなのが3枚個ありましてね、あれが3つが一つの物だったということが分かっていますよね。
一つ裏返しになっていましてね。
だからあの墳墓で使うときにあまり私は意味がなかったんじゃないかと思うんですよね、その×印というのが。
だから蓋として使う前に、割る前にですね。
あれ持ち運びが大変なんで、たぶん3つに割っていると思いますね。
割る前、墳墓に使う前にですね、たぶん近辺に立っていたですね、
立てられていた石碑じゃないかと思うんですよね。石碑みたいなんですね。
12:04
スピーカー 1
そのときにはそういった×印が意味があったんじゃないかと思うんですね。
何かの印。
でないと板を棺桶の中に入れてですね、蓋をするときに一個だけ逆に裏返しになることなんか、たぶん考えられないですよね。
そうですね。
私は別の用途で使っていた。
例えば集落全体のですね、お祭りで使っていた立駐みたいなですね、立て掛けであったものだろうと思うんですよね。
それを再利用したんじゃないかという気がしています。
記念碑的な。
はいはい。
それを利用したと。
だから案外宗教的に関係のある深い方かも分かりませんよね。そういったことから言うとですね。
今週は佐賀県吉野狩遺跡の話を、吉野狩遺跡調査指導委員会委員長で、佐賀城本丸歴史館館長の七田忠明さんに伺っています。
今度は冠号について伺っていきます。
冠号というのは、吉野狩遺跡が丁度八重時代初めから終わりまでというふうに去年伺いましたけど、その冠号は最初から最後までやっぱりあった?
だいたいありますね。
だいたい南の方で始まって、前期が南にありますね。
中期がその南を含んでちょっと大きくなるんですよね。
後期になって南北1キロメートルの範囲を囲むようになります。
お互い前のものを使ったりはほとんどしていません。新たに掘っています。
それで冠号は時代によって形とかいろいろ変わってくるんですか?
そうですね。一番古いのは、なんと言いましょうかね、ちょっと窯木を逆にしたですね。
ちょっとそこが丸くなっている。
ちょっと丸っぽいですね。前期も後輩になってくるといわゆるVの字型。
実際はYですけどね。一番そこを縦に掘るんですね。
敵が攻めてきて中へ降りていって足がはまるようにですね。かかと壊しとか言うんですけどね。
ほとんどYの字をしているんですよね。
Yの字の下に掘るんですね。
ただ、そういった掘り方というか考え方が一緒に入ってきたんでしょうね。
すぐそこが埋まっちゃうんですよね。
こう振らなきゃいけないと言っていたりとかあるんですよね。
そういう形が冠号というのは。こういうふうに振らなさいというような。
こう振らないと敵が攻めてくると足がはまるでしょうということで。
まず掘るんですけど、すぐそこが埋まっちゃうんですね。
15:02
スピーカー 1
中期、後期もほとんど同じ形をしてますね。
そうですか。同じような形。
ただ、全体を囲むのがそんな感じでして、後期になると内側にまた冠号ができますよね。
南内閣とか北内閣と呼ばれる特別な区域を囲む。
これは違いますね。台形というか上が広くて底は平らなんですね。
そうですか。
どちらかというと前期の古い冠号の断面と似てますね。
それでモノミヤグラというのが途中で出てきますから、
あのモノミヤグラが出現した時期というのはいつ頃なんですか。
日本で一番最初は福岡県の小小里市の一ノ口遺跡とありましてね。
これが八重寺中期の初めぐらいの遺跡なんですけどね。
そこは冠号集落ではなくて柵をですね、
集落の周囲に巡らせて中を守る構造なんですね。
冠号が柵になっているんですけども、
その柵がですね、一箇所が外に向かって飛び出してましてね、
その内側に四本柱の建物があるんですよね。
これが私は日本初のモノミヤグラだろうと思うんですね。
その後ほとんど見つからなくて、そのほうが吉野割になるんですね。
かなり数百年もですね、そういったものが入ってきてないというかですね、
日本で建ってないんですよね。
中国の影響を受けた冠号があるというふうに書いてありました。
それはどういうところが中国の?
先ほどのモノミヤグラもですね。
モノミヤグラもそうです。
出入口ですよね。
出入口。
中国のお城はですね、ご存知の通り今でも旅行しますとね、
中国のお城を見ると城壁が残ってますよね。
半築で作ってますよね。
スピーカー 1
土で作ってます。
城壁の途中途中が外側に向かって四角、あれは丸くですね、
飛び出してますよね、あちらこちら。
スピーカー 1
あれは中国の当時の言葉では馬面ですね、馬面。
馬の面。
スピーカー 1
風の突出は角炉とか呼んでるんですね。
日本は中国のいろんな歴史書から見るとですね、
紀元前1世紀以降はですね、外交を盛んにやってるんですね。
だから中国あるいは中国の直下地のですね、
お城であるとか、五感時代にはですね、都まで行ってますよね。
だから壮大な中国のお城を見てるんですね。
だからそういった塔室であるとかですね、そこは高いでしょ。
18:01
スピーカー 1
だから出入口は何度も屈曲しないと中に入れないんですよね。
敵が攻めないように、攻められないような作りなんですね。
多分びっくりしたんですけどね。
そういったものを見て帰ってきて、自分たちの集落でも
やっぱり中国の山下にいることをですね、
傘の下にいることを高く示すためにですね、
真似をしたんだろうと思うんですね。
だから中国の城壁の塔室部をですね、
吉野原史跡では漢豪を外に飛び出してですね、
外側に這い出して、その一側に櫓を設けて、その役割を果たすんですね。
繁殖で上陸はできませんので、日本ではですね。
漢豪を掘って、その外側に掘り上げた土を積んでですね、
一見ですね、中国のお城風にですね、やってます。
そうですか。
出入口も北に行きますと、食い違いですね。
真っ直ぐ開いて左へ曲がって、また右へ曲がらないと中に入れない構造してますよね。
これはまさに中国のですね、焼き物の亀とかですね。
漢字がきますけども、亀城とか言って王城と読むんですけどもね。
これは食い違い、嗅ぎ方の食い違い入り口なんですね。
そうですか。
そういったものを経験してきてますのでね。
同じ意味で中国に似せてですね、吉野原の出入口を作ってるんですね。
それは北内閣の出入口ですけど、南内閣はですね、
一直線で入れるんですけども、その両側にですね、土質部と矢倉が染めてるんですね。
これも中国ではですね、大きなお城とか屋敷のですね、正門はですね、両側に矢倉が立ってるんですね。
総結って言うんですけども、ちょっと難しい漢字ですけども、
それを見てないとできない作りなんですよね。
あ、そうなんですか。
見てないと作れない。
できないですね。
それがですね、日本の今どこにもないんですね。
吉野原の時だけなんですよ。
そうですか。
だから吉野原の集落にいた人たち、公開する人でしたけれどもね、
彼らが中国との外交に深く関わっていたということが分かるんですね。
見に来たやつを自分のところに取り入れてる。
その取り入れたやつを、これは他の人に見せるためにというのがあるんですか。
やっぱあるでしょうね。地域の中心的で集落であったら色んな人が来ますからね。
色んな集団が入り込んできますので、それに対してどうだというですね、
21:02
スピーカー 1
象徴というかですね、中国と関係が深い集団であるということをですね、
強く示すためにですね、作り上げた装置ではないかと思うんですね。
本当に軍事目的で作ったんじゃないかと私は思うんですね。
見た目を中国らしくしようということで、部落をしたと思うんですね。
そうすると、物見屋村が出現した時期というのは、大体中国からの影響を受けたあたり。
そうですね。本格的な外交を始めた頃ですよね。
今週は佐賀県吉野狩遺跡の話を、吉野狩調査指導委員会委員長で、
佐賀城本丸歴史館館長の菱田忠明さんに津川ディレクターが伺いました。
来週もこの続きをお送りいたします。
ここで古代の福岡を歩くリポーターの中島理恵さんです。
スピーカー 2
こんばんは。
この吉野狩遺跡がある吉野狩歴史公園を楽しみましょう。
スピーカー 1
はい。
スピーカー 2
佐賀さん、行ったことあります?
スピーカー 1
もうまさしく去年、謎のエリアの発掘が始まった時に取材できまして、
まるでもう弥生の里に迷い込んだんじゃないかという、本当に見事に整備された公園ですよね。
スピーカー 2
そうなんですよね。物見屋村も目を引きますし、縦穴住居があって、高床倉庫があって、本当にタイムスリップした感じがするんですよね。
スピーカー 1
そうなんですよ。関東医に着替えようかと思いました。
スピーカー 2
見面も言っていただきたい気がしますけどね。
その時に頼りにしてほしい人たちがいるんですよ。
この吉野狩歴史公園って拠点ガイドという人たちがいましてですね、
主に南内閣の部分と北内閣それぞれに待機してて、いろんな話を聞かせてくださるんですよ。
今回は通常は南内閣に拠点を持っている拠点ガイドの福田幸男さんにいろいろ話を聞いてきました。
特別に全体を一緒に案内してもらったんですけどね。
実はね、公園に入って建物からこの遺跡入りに入る時にですね、橋を渡るんです。
100メートルほどあるんですが、ここから大事なことが始まってました。
スピーカー 1
ここからずっと100メートル行く間に時間2000年間は戻りますので。
スピーカー 2
なぜかというと建物のある側は現在なので、もちろんコンクリートの建物があり自動販売機もあるし、それだけじゃない。
現代の草や花、木がある。
スピーカー 1
そこまで?
スピーカー 2
そうなんですよ。で橋を渡っちゃうと弥生の頃、もうねパッと見全部緑なんです。
この木々はみんなどんぐり系。
24:01
スピーカー 2
なぜかというと発掘した時に花粉が出てるんですが、この分析をしてて、
それと合うものを植えていって公園整備をしてるんですね。
スピーカー 1
徹底してますね。
スピーカー 2
聞いてびっくりです。なるほどなぁと。
その他にも出てきたもののデータからもちろん建物も作ってますし、
あとあの実は王様のお家っていうのが南内閣にあるんですが、建屋敷住居が。
この王様の骨格も出てきた骨300体分あるんで、
そこからデータを集めてこんなお顔、こんな体だったんじゃないかっていうお人形を作ってるんですよね。
本当にワクワクがいっぱい詰まってるんですが、南内閣、広さで言うと南北に100メートルぐらいなんですね。
で横幅が80メートルぐらいのエリア。
立穴住居やもの宮倉、そして二滝屋王の住居があるんですけれども、
もの宮倉上がってみました。高さね12メートルぐらいあるんですよね。
めちゃめちゃ風が吹く中で見渡すと西側のバーっと緩やかに広がった田んぼ、
それから遠くに霞む佐賀の隣町のエリアなんかが見えてくるんです。
本当に眺めがすごい中にすごくこう、あ、ここ水が掘ってあるんですねっていうのが見えたりするわけですよ。
こういうものを見ながらこんな話を福田さんと楽しみました。
スピーカー 1
これだけのことをしないとこの人たちは安心できなかったわけですよ。
相手がちょっとせめてやっつけられるならこんなことやるはずはないわけですよ。
相手の侵入が怖いからやってるからってことは相手が小さいはずはないんですよ。
スピーカー 2
周りに競合するような集落チームがいたんじゃないかと。
スピーカー 1
いや本当にいろんな想像力を刺激されますよね。
スピーカー 2
そうなんですよ。いろんなパターンが考えられてワクワクしてくるんですよね。
でその後北内閣に向かいますとここではですね定作土手の上に柵が並んでるんですが違いがかりますかって言われました。
南内閣に入るときは柵丸太だったんですが北側は板なんです。
だから向こう側が全然見えないつまり大切な見せないことが行われてたエリアなんじゃないかと。
そしてこの北内閣のさらに向こう側に亀館墓の並ぶ北墳急墓があるんですがここに誤解のないように大切な情報を教えてもらいました。
あの王様が亡くなったら入っているんだろうと思うお客様が一番多いんですよ。
スピーカー 1
でも実は逆で墓の方が先にあるんです。
その後に誰かさんがこの城を同じ土地を利用してなるだけ亀館を壊さないような設計をしながら作ったという。
それは一体誰なのよという。
だから3世紀秘密庫の時代の誰かさんですよという話しかまだできないという状況ですね。
スピーカー 2
墳急墓の亀館の持ち主と建物を作った人たちが違うという観点を持ちつつぜひ楽しんでいただきたいと思います。
あとですね11月の21日まで有明海や吉野狩りの周辺あと佐渚の遺跡との比較や検証してます特別企画展が行われています。
27:00
スピーカー 2
山大国と有明の国2こちらの方もぜひ一緒に楽しみながら学んでみてください。
スピーカー 1
中島理恵さんでした。
ここで番組からのお知らせです。
ホームページのご案内です。
これまでの放送内容と番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
RKBラジオのホームページの古代の福岡を歩くシーズン9のバナーをクリックしてください。
またラジオクラウドという無料アプリをダウンロードすればスマートフォンやタブレットでもお楽しみいただけます。
この番組は三山市の企画共産餃子の山鉢道の駅室方の提供でお送りいたしました。
ご案内は佐方周代でした。
スピーカー 2
バッテン少女隊のバッテンラジオ隊
バッテン少女隊の春野きいなと青井リルマです。
スピーカー 1
RKBラジオでお送りしているガールズパンツバッテン少女隊のバッテンラジオ隊はポッドキャストでもお楽しみいただけます。
スピーカー 2
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30:11

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