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古代の福岡を歩く シーズン5
遥かな昔 海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました
その足跡を尋ねる古代の福岡を歩くシーズン5 この番組は三山市の企画協賛
道の駅村方 餃子の山鉢の提供でお送りいたします
道の駅村方営業部長の駆動です 村方の新鮮な海の幸山の幸がたっぷりです
いつも旬のものをお届けします世界遺産 神和鳥島村方おひの島と関連産群を私たちの手で守っていきましょう
おはようございます坂田周大です 今日は太宰府の話です
令和2年になっても太宰府の坂本八幡宮は全国からのお客様でいつもいっぱいですが
売下の縁が行われた場所大友の旅人の館はここ 坂本八幡宮の近くという説の他に2つあります
今日はその3つの説を精査していきます お話を太宰府市教育委員会文化財科の井上信政さんに伺っていきます
まず坂本八幡宮の周辺説を提唱された方はどういう人なのかから聞いていきます
最初はもともと太宰府のことは黒田藩とか江戸時代の頃から
いろんな方が訪れて寄稿文を残したりとかされているんですけれども
太宰府政調があるところが天地天皇が作った太宰府のトフロダという話とか
漢人たちがここに住んでいたということは昔から言われているのがあったんですね
そこが明治大正となっていくに従って歴史学というのもしっかり形作られていくという経緯がある中で
戦後1992年に高岡克也という九州大学の国史学歴史の先生がいらっしゃいまして
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この方が太宰府天満宮のほうから太宰府小誌という本を出されているんですね
研究成果を書かれると言いますか
その中にここは坂本八幡宮付近が大友旅渡邸じゃないかということを言われたのが
研究所で言うと最初の提案だったということになると思います
提案の理由と言いますかどういう理由で提案されたんでしょうか
ちょうど太宰府県庁の徒歩路後のちょうど裏側北西の方角にあるんですけれども
ちょうどそのあたりを大きな表裏の裏と書いて大裏と書いて大裏と
そういう小技名があるということがあるということで
一応竹岡先生がそれが都で言うところの天皇が住む大裏ということで
お大裏様とかお雛様の大裏ですけれども
大裏に通じるということでおそらく太宰府県庁にいた一番トップである長官が住むような
とても大事なとこがこのあたりにあったのではないかと
それが一つの根拠で
あとこの周辺からやっぱり古い瓦が出たりとかですね
あと書籍のようなものがどうもあるというのが昔から言われているものがあったということで
ちょっと大事なところだろうと
さらにここからが大友の旅人が自分で読んだ万葉歌とか
旅人の邸宅に呼んだ人が歌った歌におか給料を言うということがありますので
どうも旅人手にはおかがあったということが一つ根拠となっていくということを考えると
政庁の裏の給料はずっと続いていますけれども
大裏と言われる地名も残っているということで
坂本八幡宮を含んだそのあたりのおかではないかと
言ったのが竹岡先生の説だったんですよね
おかというのはどの辺のおかのことを言われているんですか
田沢政庁の後ろもずっと全部おかなんでですね
ここがどこかというのはなかなかわからないですけれども
地名と小瓦が出てきたというところと
おかというのを三つ結びつけられたということになります
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ただ大裏という地名は実は田沢政庁トフロワ島全体を大裏と言うんですね
どうも必ずしも一体全部ではない
政庁の裏の坂本八幡宮だけのところではない
坂本八幡宮も実際のところは小瓦名がちょっと違うということもあって
そういう言い伝えがその当時ですね
先ほども申しましたけど江戸時代ぐらいからずっと
言い伝えが地元に残ってくる中で
そういうふうな理解をされていたのかなというのは思いますね
小瓦名で大裏というのが残っているから
この辺に屋敷があったんじゃないか
そうですね
しかしその大裏自体がもっと大きな地域を指すんだということですね
そうですね
もともとそこが大裏ということを言われているというのは
江戸時代の黒田藩の命令のもとにですね
いろんな地史というんですけども
地元の歴史とか地理とかで書くのがあるんですけど
その中にも大裏というのとか四神殿という天皇がいるような
そういうのがあると地名があると言われて
ただそこは天地天皇に結びつけるのではなくて
実は元平の遭難の時ですね
平氏と一緒に安徳天皇という幼い天皇が
ダザイフに来るんですけど
安徳天皇が来た時の四神殿であり
大裏であったんじゃないかという説は
江戸時代の地史には書いてあるんですが
だから天地天皇の話
安徳天皇の話というところが元になって
少し人々の伝えられるところで
いろいろ変容はあるのかなという感じはしますね
それから言うとちょっと新しいんじゃないですか
そうですね江戸時代はそういうふうに考えられていて
今だんだん戻っていくと天地天皇という話が
明治大正昭和の初めぐらいは言われているという
そういう変遷もあるようですよね
一つ目は坂本八幡の周辺ではないかと
そして二つ目ですね
二つ目はダザイフ政調の東側に
月山という場所がありますね
そのちょっと南東の部分ですか
その他にその近くにあったんじゃないかというのが
二つ目ですね
そうですね
これを言い始められたのは
坂本八幡宮の周辺の発掘調査が
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実は九州歴史資料館
福岡県の九州歴史資料館で調査を行っているんですけれども
その成果を見てどうも旅とてというには
その時代にちょうど8世紀の初めぐらいなんですけれども
730年ぐらいですか
その頃の遺跡が見つかってないということが
その頃ちょうど1990年代ぐらいに
言われるようになっているんですよ
それをもとに月山の近くではないかというのが
いくつか説は出ているんですけれども
特に九州歴史資料館に勤務されていた
赤志さんという今大野城市のですね
大野城心の故郷館の館長さんがされています
あちらが九州歴史資料館の30周年の記念の展覧会を行うにあたって
その図録の中で月山の近くじゃないかという説を出されました
具体的にはちょうど月山の今言われた南東のところを
博物調査を行ってまして
今ちょうどダザイフ展示館という最近有名になってますけれども
あれのちょうど東側のところに
すぐ横にありますね
遺跡の復元をしてますけれども
あちらの建物群がですね
そういうお供旅人に関わるものではないかというのを
ちょっと考えられているんですよね
この施設はどういうふうに開かされているんですか
そうですね
とても遺跡の実際に出てきているものからですね
旅と定を考えていくという上ではですね
非常に画期的ですし
非常に試みとしてはすごく良いとは思っているんですけれども
ちょうどですね
ただ一番大きな問題としては
今復元されている建物もそうなんですけれども
実際にそれが本当に8世紀前半のものかと言われると
ちょっとわからない
実際の調査では出土品からですね
時代を考えたりとかするんですけれども
ほとんど出土品がない建物跡があるということは
わかったんですけど出土品があまりないんですね
時期の違うもっと新しい11世紀ぐらいのですね
建物とかも見つかってますので
これを本当に8世紀の時代のものかというのが
ちょっとわからないというちょっと弱みがあります
あとダザイフ星長とフロアトという
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有名な公園のようになっているところがありますけれども
あの周りにその役所がずっと広がってたというのが
発掘調査でわかってまして
その一番南が今の三笠川ですね
三笠川のあたりに門がどうもあったようだというのが
組織の出土からわかってまして
そこがちょうど奈良の平城級というところに
須作門というのが復元されてますけれども
ちょうど町と役所と仕切る門なんですけれどもですね
その須作門が三笠川沿いにあったんじゃないかと
今も言われてるんですね
それを考えると月山とかはですね
須作門の中に入ってしまう
そこに本当にそういう館が生活空間があったかっていうのは
やっぱりちょっと難しいところがありまして
最近も昨年度ですかね
発掘50周年の記念ということで
論文集が出たりとかしてるんですけど
その中でもやっぱり今言った月山のところあたりも含めて
役所の跡じゃないかという説もやっぱり根強くあるんですよね
そう考えると
あとの館というのは首相の校庭のようなものですから
政府が用意してそこに住まわせてというような感じのものですので
公といえば公なんですけれども
生活空間がそこにあったかというのは
やっぱりちょっとどうかという話は今なっていると思います
3つ目は話を伺っている
太宰府市教育委員会文化財課の井上信政さんの説です
太宰府情報の中の須作王子沿いという説です
これはもう決定的に他の説よりも弱いのは
発掘調査をされていないというところがですね
そもそもそこが問題なんですけれども
ただ私はその可能性があるんじゃないかというのは
今ちょっと申しましたけれども
全国の発掘調査の事例とかもですね
参考にしながら考えているということですね
この説どういうふうに組み立てていかれたんでしょうか
例えば太宰府と対比されることがよく多いんですけれども
東北に多賀城というのがあります
宮城県の多賀城市にあるんですけれども
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こちらの多賀城のあたりも発掘調査が進んでいるんですが
そこで代表されると思いますけれども
要は役所の外側に大きな道が
役所につながる大きな道があると
宮城で言うとこれは須作王寺という
街の真ん中を南北に通る大きな道なんですけれども
こういうのが国府とかでも見つかっていて
多賀城は比較的よく分かっているんですけど
やっぱり王寺沿いに宮城から来た
赴任してきた人たちの館の跡というのが
点々と今見つかっていますね
あと類例はいくつかあると思います
武蔵野国府とかでも最近そういう館跡が見つかって
東京の府中心にある武蔵野国府とかですね
あとよく似ているかなと思うのは
栃木県の下助国府
下助の国の国府の跡なんですけど
やはり国府に向かう南北の道があって
その南北の道沿いに館跡が
多賀城すでに見つかっているという状況なんですね
それを考えると
太宰府も実は菅原道真子が
太宰府に2年間左遷されているわけなんですけど
そこが江ノ岐社という神社になっています
ここは太宰府の南の館と書いて
府の南館というふうに記録でも書かれているんですけれども
これも本当に
静岡王子のすぐ西側の脇にあるということが分かっていまして
やはり道の屋さんも不妊してきても
自宅で禁止にしているような状況ですので
外に出られないという状況でしたけれども
太宰の権の措置といって
長官である措置が京都の都にいるんですけれども
その代わりとして不妊されてるんですね
そういった人が王子沿いにいるということがあるので
おそらくそういう館というのも
太宰府も静岡王子沿いにあるんじゃないかと考えます
その中で実は今言った江ノ岐社のすぐ向かい側
静岡王子の東に
実は丘が唯一接しているんです
これが丘と結びつくということもある
あと先ほど道の屋さんは
禁の措置という長官の代わりでやってくるんですけど
長官はそのよりも位は上になるわけですね
役職としては
実は東と西というのは日が昇る方法です
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東と西というのもやっぱりとても意味が当時はあった
北と南というのも意味があるんですけれども
そうした中でやっぱり江ノ岐社よりも東にあると
静岡王子の東側にあるという意味では
ちょっと場所的にはいいんじゃないかということも
ちょっと考えられると
ちょうど江ノ岐社の向かい側の給料がある一帯が
ここが私が思っている措置の館だったんじゃないか
というところになりますね
今その場所というのはちょうど
アチザネさんの子供の
熊室子という方のお墓がそうなりましたよね
なだらかな丘のちょうど上ぐらいですね
大体あの付近というふうに想定されている
そうですね丘の上ばかりではなくて
やっぱりその平地もありますので
平地も含めた広い範囲が
邸宅の後だった
丘を取り込んだような形だったんじゃないかというふうに考えると
熊室子の墓も含めた
私はどちらかというとちょっと
お墓のところを南側に向いて
ちょっと北側にあるのかなというふうには思います
それはちょっと
博物館は何もされていないとは言いましたけれども
実はその一番範囲の一番北隅のところでですね
下水の工事などをされていた工事中にですね
白玉隊という
これは平安時代に下るんですけれども
平安時代の長官にあたる人たちが
自分の帯に付けた
白い石の飾りなんですけれども
これは今九州国立博物館に寄贈されて
展示も時々行われているんですけれども
あれが実はそこから出ているんですよね
なんか高貴な方が身につける
そうですね
この間天皇陛下の即位の例とかでもありましたけれども
あれもですね
航路禅の御法というのがとても位が高いんだという話で
服の方に着物の方に注目が集まりました
あの時もちゃんと白玉隊を付けられていましてですね
白い石というのが非常に大事なんですね
これがやっぱり見つかるのが
スザク王子沿いにやっぱり多いということもある
この他もスザク王子沿いに
太宰府に赴任してきた人の一番トップ
その当時のトップだった人の伝説地であったりとかですね
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和歌を読んだりとかというところも実は多くてですね
医学的ここを通ってたのかなというのはありますね
今のスザク王子をもっと南の方に下っていくと
二日市温泉
そうですね
本当に西庁からスザク王子を
そのまま道がまっすぐ伸びてたみたいでですね
その延長上に今の二日市温泉の道もですね
延長所にあるということなんですけど
ちょうどそこで大友の旅ともですね
奥さんを亡くしたばかりの頃だろうと思いますけれども
そこでスイタノユと当時は言ってたんですけれども
そこで歌を万葉集の和歌を読んでまして
万葉集の中にもそれが掲載されているという状況があります
おそらくこの中央の道というのはですね
そういう大罪の措置とか
大事な人たちがですね往来するような
そういう道でもあったということが考えられますね
今日は梅花の縁が行われた
大友の旅との館はどこかというテーマで
3つの候補地を精査しました
お話を太宰府市教育委員会文化財課の井上信政さんに伺いました
ここで古代の福岡を歩くリポーター中島理恵さんです
おはようございます
本編の中でもお話が出てきました
菅原道真子の息子
名前が熊丸っていうんですが
この子のお墓の話です
実はこのお墓の側には梅の木があって
普通と違う梅が咲くっていうんで
ちょっと見てみたいと思いません?
気になります
普通梅の花びらって何枚ですか?
5枚ですね
ところがお墓の側の梅は6枚の花びらって言うんですよ
興味津々で案内していただきましたのは
こと太宰府保存協会学芸員の田中健一さん
ずっと一緒に歩いてきますと
本当にこの丘は住宅街にあるんですね
あそこの高いとこですよ
丘のてっぺんに熊丸さんのお墓があるんですが
上がる前にちょっとこっちにって案内されたのが
丘の斜面の横のとこにある小さな公園
その名も榎木スポット公園っていう緑地なんですが
ここに監視の日がありますから
これを見てくださいって田中さんおっしゃるんです
この歌がですね大切な歌でした
道真子の歌なんです
こちら秋の夜っていう道真子が読んだ監視なんですけど
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これがまさに道真子が熊丸子を亡くして
お子さんを亡くした後に読んだ詩っていうことなんですね
私専門知らないのでちょっと違約するんですけど
秋の夜に床に入るけどもなかなか夜眠れないと
壁に灯明を近づけて寝室の中を見てるんだけども
なかなか夢も見れずにまどろむような状態が続いていると
秋に来る狩りのですね鳴き声であったり
あるいはギリギリの鳴く声っていうのは毎年のように聞こえるんだけども
ただ同時の踏みを読む声子供が読書する声だけが聞こえないと
いわゆるいつもと変わりない秋の風景が広がってるんだけども
自分の子供の声だけが聞こえない
悲しい歌ですね
切なくてよくや想像もしてなかった
この日の前で思わず涙が出ちゃったぐらいだったんですよね
それまでは梅の花探しなんて思ってましたけど
本当に道真子の思いが伝わって
この場所もですね
江の岸とちょうどスザク峰上を挟んで
向かい側っていうんですかねあるんですね
実際に丘の上に登りますと江の岸が見下ろせる場所なんです
丘の上奥の方に小さな祠がありまして
この中にベージュ型の本当にお山のような形をした石があるんです
高さが膝の高さよりちょっとあるかなぐらいなんで
60センチとか70センチとかそのぐらいの大きさなんですが
ベージュ色の石です
大切に地元の方が守ってるんですが
このベージュ型の石の上に祠があって
その横と後ろに2本の梅の木が
まるで祠を後ろから抱きかかえるかのように咲いてるんですね
ここの梅が6枚の花びらだということで
探そうと思って全部が6枚じゃないんです
そうですか
時々あるんですよって
そう田中さんおっしゃるんで
逆光と強風でなかなか苦労しましたが
一生懸命探してみました
これ違います?
1,2,3,4,5
これ1枚かな
1,2,3,4,5
でこのちっちゃいのが6と数えるといける気がするんですけど
本当ですね
このちっちゃいのが6枚
6で認定していいですか
6弁の梅ということで
写真に見せてもらってますけど
確かにこれ6枚ありますね
あるんですよ
この後もう1個見つけて
結局2つの6弁の梅の花を見ることができました
しかしなんでまた6枚の花びらの梅がここに咲くんだろう
どんなふうに田中さんが考えているのかちょっと聞いてみました
いろんなところでそういう梅が出てくると思うんですけど
ここの場合ですとやっぱり息子を思って
三谷公が6弁の花を咲かせたというふうに捉えていただいて
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ご覧になっていただければいいのかなと
そうですね
今週の水曜日に見てきたんですけど
結構先進んでましたので
今年は少し早めに行くと見られるかもしれないなという雰囲気ですね
せっかくなので実際に坂本八幡宮をはじめ
太宰府成長跡を見た後に
榎木舎と熊間六皇のお墓も見て
西鉄の二日市地域が近いので
そこから天満宮に電車に乗って向かうというルート
結構お勧めしたいと思います
いいですね
中島理恵さんでした
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この番組は
宮間市の企画協賛
道の駅村方
餃子のヤマハチの提供でお送りいたしました
ご案内は坂田周代でした