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古代の福岡を歩くシーズン6遥かな昔 海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました
その足跡を尋ねる古代の福岡を歩くシーズン6 この番組は
宮益の企画協賛 道の駅村方
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今週は先週に続き神宮高校の謎を解くの著者 河村哲夫さんにお話を伺います
今週は神宮高校の足跡へ行く前に
三山市の祠にあった七死刀を持った謎の人形について追跡していきたいと思います どこが謎かと言いますと
三山市の祠の中にある七死刀を持った人形は 奈良県天理市の磯の神神宮から明治時代に七死刀が発見される前から
同じ形をした七死刀を人形が持っていたところが謎なのです ではその磯の神神宮にある本物の七死刀とはどういったものなのか
河村さんに聞いていきます
この七死刀は九太郎から日本に入ってきたという話ですけれども いつ頃もたらされたんでしょうか
七死刀の名文がありまして
その名文の中には大和四年だったかな 大和という中国の小読みが書かれているんです
これを西暦に換算しますと369年に作られたというのがわかります
いろいろ説がございますが通説的に言いますと 大和四年というのは369年なんだと
こういうことで刀に刻まれた名文から言いますと そういう解読になっていますね
表面に34文字 裏面に27文字 刻まれているんですよ 金属板で
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七死刀といいますね 一本の刀に両脇に三本ずつ刃がついているんです 六本ですね
プラス真ん中の一本ですから七本なんです 刃が 七死刀といいますね
これを解読しますと
七死刀にはくだらの王子といいますかね 世子が 奇世異という そして世臣
世子とか奇世異とか世臣とか人の名と くだらを王族 王子らしき人物が書かれた
そういう文字が刻まれているんです 日本書紀には世臣のことを世臣王子と書いています
当時の古い朝鮮語なんでしょうね そしてその名前がクルスと書いてあるんです クルス
韓国側の朝鮮側の三国式には九首都 日本書紀ではクルス 七死刀では奇世異
そして中国側の記録では奇となってますね 名前が
ですから同じ人物だろうと思いますね
ですからくだらの王子の奇世 クルス 九首都と呼んでもいいんですが
これが王子が作って日本側の王に差し出したと
日本書紀に書いてありますのはですね
日本書紀は朝鮮側から七死刀が送られたという記事があるんですよ
ところで先ほどの時間地にして書かれました小読みで言いますと
西暦に表しますと252年なんですよ
作られたのが先ほど言いましたように369年と言いましたでしょ
252年に日本側に渡したような小読み漢字になってるんですよ
ところこれに120年経ちますよね120年
漢曆の2倍そうしますと372年になるんですよ
そうしますとね369年にくだらで作って
そして3年後の372年に日本側に渡したと
そうするとついても合うんですよね
ということはくだらの関係の記事が日本書紀では120年古くなってると
それを120年足して書かないと本当の西暦に合わないと
こういう計算ができます
じゃあ120年プラスした年代になるわけですね
くだら関係の記事はですねというふうに見えますね
これくだらの王子様から日本の王様に送られた
旨と書いてあるんですよ詩
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ちょっと名前がそれ以外手がかりがないんですね日本側に
ですから369年から370年代の日本の天皇と言いますとね
そうですね年宿年代当てになりませんから
考えますと水任天皇か慶光天皇か11代か12代
慶光天皇と言いますと山田武のお父さんですよね
山田武の息子が忠愛天皇でしょ
ですからこの辺りかなって感じしますけどね
慶光天皇辺りかなと
ちょっと具体的な名前はわからないんですよね
旨と書いてありますから詩
その金像願にどういう理由で送るんだみたいなことは書いてあるんですか
書いてあります
要するに日本側の居屋坂を願うようなそういう感じですね
たくさん見ますと
要するにこの刀を持ちますとね
百営業を避けると言いますか
要するに自術を持っている自力を持っているんだと
魔力を持っているんだと
ですからこの刀を持てば幸運がもたらせますよと
和王の胸のためにこの刀を作ったので
後世にどうかお伝えくださいということで
日本側に提供してみたいなんですね
ということは日本がくだらを何らかの支援をしたとか
当時ですね
くだらは白木と幸君に挟まれましてね
そしてやっぱり当時三国時代ですから
朝鮮半島は
だからくだらは日本側に同盟を求めたんですよね
日本側も何だかんだ言いまして
やっぱりくだらを守らなきゃいけないということで
くだらと同盟関係を結んだんですよね
その証として七死刀が送られてきたということだろうと思いますね
七死刀が
それでこの七死刀が眠っていたところが
磯野上神宮ですね
奈良県天理寺でございます
なぜそこに眠っていたんですかね
あのですね
もともと磯野上神宮というのは
寿神殿の依頼ですね
物見師が管理することになったんですよ
何を管理するかと言いますと
天皇家の宝物あるいは武器なんですよね
ですから大層なものをそこに納めておったということが記録されてますんでね
物見師族がそこを管理しておったと
ところがご承知のように物見師族は衰退しますよね
特に野沢氏と対立しまして転びていったりですね
そうしたとき天理の磯野上神宮が残ってきたんですが
それをですね
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やっぱりなかなか古い神社の中を探すのは難しい面がありますよね
色々しきったりがあって
明治維新以降ですね
美東藩出身の菅野正友
現在の菅と言いますが同じ字ですよ
菅と言いますけどね
菅と呼んだりしますがこの方は菅なんですけどね
菅野正友という人が菅主で来たんですよ
国から辞令を受けましてね
そして彼は非常に好奇心の強い人で
禁断地と呼ばれる裏庭を掘ってみたりですね
あるいは本殿の中をちょっとこっそり夜中に一人で
餌探したりですね
やったんですよ
ところがこの野沢氏等が見つかったんですよ
で見つかったはいいですがね
やっぱりそういったことをするのは当時あんまりよろしくなかったんでしょうかね
自分でこっそり錆を落としてですね
字を解読したんですよ
それで素人が削って素人が解読したもんですからね
やや問題が問題なんですよ
どうも擦りすぎたんじゃないかとか
ただそのうちそれが合法化されましてね
発表されまして論文として
それが今に至ってますけどね
だから当時まだ文化財法家とかない時代ですからね
読めないとは読めないと思いますけど
ただそういって磯野上神宮から明治時代に見つかったというのが
彼の大功績だろうと思いますね
その七使徒を持った人形が
宮益の小さな祠の中にある人形が
七使徒を持てたということで
なんでかなという
偶然の一致なのか必然の一致なのか
必然の一致だとすれば重大問題なんですね
先ほど言いましたように
磯野上の七使徒は明治時代に見つかりましたからね
ところが宮益の七使徒はそれ以前なんですよね
ですから明治時代に見つかった七使徒を真似て
作ったわけじゃないんですよ
そうですよね
そうなんですよ時間的に言いますと
見本がないわけですよね
見本がないですから見本がない
だけども先ほど言いましたように真ん中に立ちがありまして
というわけで三本刃を作っているんですよ
偶然の一致とは思えませんよね
ですからそれを作った人は七使徒の存在を知っておったと
そうですよね
ですから七使徒を普通の人が作る場合は
真っ直ぐ一本にじゃなくて
内輪みたいに六本七本つける可能性がありますよね
なんとなく
じゃなくて真っ直ぐした刃に
三本ずつ刃を引きつけているということですからね
技術的には同じ発想なんですよ
磯野上の七使徒と
ですから三山市の伝来する七使徒というのは
ある意味では必然的なものなんですね
偶然の一致ではなくて
しかも明治以前ですからね
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それと一つは共通しているのが
物部氏ですね
物部氏はこの辺
そうですね
荒野の宮の近くにはたくさんおかしいたということがありまして
伝理師の武器を保管していた人たちというのは
物部氏なんか共通しているなという感じがするんですね
浮上郡にも物部の里がありますけどね
あちこちあるんですよね
戸塚田にも物部神社とかありますしね
ですからやっぱり
物部氏が衰退した後なのか前なのか知りませんが
全国的にあちこちに物部のそういう痕跡が残ってますよね
もちろん宮本市も残ってます
ですから物部氏がやってきまして
当然武器庫は必要ですからね
そのお守りとして
そういう七使徒をもしては刀を納めたということもあり得ますが
これ家庭ですもんね
まずはやっぱり鑑定してもらって
そしてそれがルーツはどこなのか
日本なのか朝鮮なのか
日本とした場合にいつ頃の政策なのか
ある程度それが分かればですね
物部集団が自分たちのウジ神として
守り神としてあの刀を作ったと
像を作ったと言えると思いますね
宮本市の小さな祠の中にある
七使徒を持った人形の謎について伺いました
この謎はシーズン7でも解明していきます
代わって川村さんに神宮皇后の足跡について
伺っていきます
神宮皇后は朝鮮出兵から戻って
海八幡宮で出産します
それからの話を伺います
まず一つはですね
なんて言いますかね
日本書で言いますと
8ヶ月ぐらいの宮本の体ですね
朝鮮に渡って
そして帰ってきた瞬間にはもう
海月を迎えるとこういう状況なんですね
非常にそんな宮本の体で
本当に行けたのかどうかという問題ありますけどね
もう一つはカシーグで到着された
カシーグでお産になってもいいんでしょう
ああそうですね
ところがわざわざ海八幡まで行かざるを得ない
理由があったんですよね
その昔ですね
ジム天皇が当選されましたときに
どうもここに立ち寄ったと
海八幡に
そしてそこで猿女性と出会いましてね
カザナミコという子供さんをここで
お産になったとその相手の女性がですね
そのカザナミコさんがですね
代々の海八幡の宮司さんの系譜なんですね
本来の
そうなんですか
だからそれにあやかってですね
神宮皇后が会えてですね
海八幡に行かれたんじゃないかと
いう気がするわけですね
そうですか
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やっぱりなんかあの
ジム天皇があやかって
天皇の後継を思うと
思わなさったんじゃないでしょうかね
そしてそこで無事
まあ海八幡に行く家庭でも
カヨイ町とかですね
中原とか旅市とかいろんな伝承はずっとありますけどね
ご出産されました
その海八幡でもいっぱい伝承残ってますよね
あの小安石とかありますよね
あれもその神宮皇后伝承に由来するんですね
安山の守り石ですから
で無事お産になりましてね
それからどこをとって帰られたかと言いますね
やはり鎌群から武全能に向かってるんですよ
極端に言いますと
当時の大きな港は行く橋にあったんですよね
ああなるほど
だから行く橋に向けて出発されるんですよ
ああ行く橋へ向けて
そうだからあの
まずあの海八幡から
まあ河北郡に入るには
坂道しかありませんからね
ですから小桂越えを越えられたと
この小桂越えというのは
お産になった大神殿の赤ちゃんをですね
小桂に入れて
籠に入れて運んだからということで
小桂越えなんですよね
そういう名前になったと
途中父の飲ませられたが血飲み坂
あるいは大きな野原があったから王の内従
そして大武八幡に立ち寄っておられるんですね
ですから大武八幡というのは非常にそういう意味では
あの歴史的な神社でございましてね
そこから出産の時にいろんなものが
派生して出ますけども
それを箱に詰めてですね
福岡の赤田の箱崎宮に送って
箱崎宮の境内の下に埋めたということで
箱崎宮というんですよね
ですから箱崎宮の元宮が
この大武八幡とも言われてますよね
あるいはウサ神宮の元宮とも言われてますから
非常にこれは格式の高い場所
あるいは神社じゃなかったんでしょうかね
そうですよね
ここは将棋越えからかなり深い山道を
入ったところにありましたね
この大武八幡が
竹尾町にあたりますけどね
やっぱり険しいですよねあなたには
そうですね
そういうところに由緒ある大武八幡というのがあって
そこから今度は飯塚あたりにお出になるんですね
大武と言いますのはですね
これは音読みでございまして
本来は大別れみたいな名前なんですね
そこで兵死した人別れになったという意味があるんですよ
朝鮮を渡った人だと
ということは
召集された兵隊たちがかなりその窯
竹尾地帯からやってきてると
いうことも言えるかと思いますね
そこでもう解散したというような意味合いで
大武八幡なんですよ
そのあたりから兵隊が来てたと
そして飯塚方面に行かれます
穂川波打ってるところから穂波と言われたと
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ということを伝承ございましてね
そして農曹八幡というございますよね
そこにも立ち寄られたということが伝承が残ってます
農曹というのは本来税金を納める役所だったんですね
農曹というのは
農は納める 曹は曹勢の曹ですから
そこにやっぱりそういう役所があったんでしょうかね
そこにお立ち寄りになって
柏の森ございますよね
当時あったそうでございまして
素晴らしい柏の森だと勘断されたという
そういう伝承も残ってます
そしてずっと
じゃあそこから
飯塚からどっちがここに行かれたかと言いますとね
そうですね
釜峠方面に向かってあるんです
釜峠方面ですね
ですから途中
綱脇八幡
当時は出産するときに
綱を枝から垂らして握ってということですが
その綱を村人たちが非常に優しくしてくれたものですから
片身の品と残したという意味で
綱脇八幡っていうんですね
それからただ有安漆雄
こういったところを通られましてね
宮吉
宮吉にはですね
昔のこれ稲月町ですが
赤ちゃんが鳴くもんですからね
村人が柳の木に串団子を刺して差し出したと
こういうような伝承も残ってます
そして鎌峠からですね
彦山に登ってあるみたいですね
やっぱりあのこれは天狗ゆかりの
そういう山ですからね
例えば高見結びとか
それから天寺の子の雨の星を
耳の巫女と祀ってますので
やっぱりこれは
お昔から祭山として
礼山としてあやめられてたんですね
そこに残られましてね
そして鎧兜を舗乗されたと
こういう伝承が残ってます
今はございませんけどね
そして彦山から今度はですね
田川方面に向かわれるんです
彦山側を下って
田川それから河原町ですね
田川には風知八幡がございますでしょ
その入口境台近くに
腰掛け寺というのがありましてね
神宮皇后がそこに腰掛けられたと
腰掛けたんじゃなくて
それでお祭りごと行われたんでしょうけどね
だから川渡り神宮祝八幡が川渡りますよね
ひょっとすれば神宮皇后に由来するのかな
という気もしないでもないんですけどね
発揮したら分かりませんけど
そして河原町には
もちろん河原神社には
神宮皇后が祀られてますけどね
そして近くに鏡山がございますね
そこにも鏡を奉納されたから
鏡山というようになったと
そういうことを言われています
鏡山大神宮がありますかね
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そしてところがですね
それから赤村方面に行くときにですね
妙なことに中藍峠というのがあるんです
中藍峠
ありますね
菓子具で亡くなったはずの中藍天皇ですね
現在は中藍トンネルとかですね
新中藍トンネルとか
中藍天皇の名前がいっぱい残ってるんですよね
中藍谷とかですね
中藍神社まであるんですよ
中藍天皇行かれたはずないんですよね
ただ考えますに
やっぱり九州を離れにあたってですね
ご主人の天皇をお祭りするような一族を
ここに残された可能性もありますよね
このあたり
河村さんの話では
亡くなった中藍天皇の名前が
このあたりになぜか集中しているという話でした
この後神宮皇后は
下関の豊良宮を目指して旅をしますが
無事に豊良宮へ着いた後に
戦いが待っているという話へ移っていきます
そのあたりの話は
シーズン7に詳しくご紹介します
お話を神宮皇后の謎を解くの著者
河村哲夫さんに伺いました
ここで古代の福岡を歩く
リポーターの中島梨恵さんです
こんばんは
人気のオルレコース
九州オルレ三山清水山コース
ここを題材にしたクイズができました
クイズができた
というよりも作りました
作ったのは三山市立清水小学校の
5年生21名の子供たちなんですよ
この21人8グループに分かれて
それぞれ3問ずつ
24問の問題を作ったんですね
題して清水の良いところクイズ
清水の良いところクイズ
問題作っただけじゃなくて
これ実際にオルレで歩いてる人が
分かりやすく楽しめるようにということで
オルレのコース内清水山や
清水寺など各所に掲示してるんですよ
なるほど
それでさあ飾ろう
おこうということで
3月22日月曜日に
地元の公務運転手さんが作ってくれた
飴置付けの立派な盾看板
これをですね
地元のおじいちゃまおばあちゃまたちと
一緒に設置しに出かけました
なかなか立派な看板なので
針金でギュッと結ぶのは大人が担当して
子供たちは位置の調整だとか
あと錆止めのねじ込み
錆止めのボンドを塗るという作業をしたんですね
こんな風に一生懸命みんなで作業してます
ギュッていくギューってもっともっと
ギューってオッケー
もっともっとギューっていかんと
いやダメダメ
いかんやんと
ダメダメダメ
しやんとって
24:00
いいですね
現場の感じがよく伝わってきます
みんなでああでもないこうでもないと
頑張ってたんですけど
これはクイズの問題を作る時に
パウチした問題シートがあって
これをピローンとめくると
下にお答えシートがあると
なるほどその場で答えも見られる
そうなんですよ
せっかくなんで
坂田さんもちょっと問題やってみます
いいですね
この清水寺本望庭園からの問題
この庭園は何時代に作られたか
次の3つから選んでください
1番鎌倉時代
2番室町時代
3番江戸時代
これはいい問題ですよ
1番鎌倉時代
あ違った
正解は2番の室町でした
じゃあせっかくなんでもう一問
この庭園に訪問者が多いのは
次の2つのうちどっち
1番4月と11月
2番7月と8月
これはね夏と思わせておいて
季節のいい1番4月11月
正解です
実は今年ちょっと桜早かったんですけど
間もなくボタンが咲いてきますし
11月は紅葉が綺麗なんですね
ボタン園80種類のボタンがあるんですが
これも問題になってます
さてボタン園にあるボタンの本数は
次の3つのうちどれ
1番約80
2番約1500
3番約2500
これは一番多い2500
答えは現場でぜひ見てください
この取り組みをした清水小学校の
5年生の担任の倉成正宗先生が
この活動をこんな風に振り返ってくれました
清水のいいところを見つけて
見つけてくれたらいいかなと思っていたんですけど
それを発信するとなった時に
より良いものを見つけてくれたので
それがこうなってくれたらいいなということを
超えたところかなと思います
地域の方というもそうだし
いろんな方に支えられたところが
大きかったかなと思います
いい取り組みですね
でもやっぱり途中でね
ちょっとおっと一瞬ドキッとするような
困難もあったみたいです
清水の自分たちの地元のいいところを
調べるんですけど
インターネットの調べ方であったりとか
調べた情報が間違っていったこともあったので
その正しい情報を自分たちで選択するのが
すごい難しかったみたいです
これまた学習ですよ
とっても大事なポイントですよね
なるほどと思いました
あとインターネットでは調べられないこともあったりして
直接お店に質問しに子どもたちが行けないので
先生が預かって代わりに聞きに行ったりと
なかなかコロナの中の取り組みなので
大変なこともあったそうです
こんな中子どもたちの様子を見て
こんな変化を先生感じられたそうです
やはり子どもたちが実際に山に登ったこととか
27:03
先ほど看板を立てに行った後に
終わりの言葉を言った子が
自然をこれから大切にしていきたいといったことが
変化だったんじゃないかなと思っています
やっぱりこういうとこがあるよ
こういうとこがあるよというところを
最初は言っていたんですけど
その心境の変化が自分たちの街である清水を
大切にしていきたいというところに
行き着いたのはすごい良かったかなと思います
地元への思いが深まりましたね
そうなんですよ
そんな思いぜひ九州オールで
三山清水山コースを巡りながら
清水小学校のご伝授の気持ち受け取ってください
中島リエさんでした
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道の駅村方
餃子の山端の提供でお送りいたしました
シーズン6は今日でお別れです
シーズン7が始まる10月を期待してお待ちください
ご案内は坂田周大でした