1. 古代の福岡を歩く
  2. 「古代の福岡を歩く」17回目は..
2026-01-25 30:30

「古代の福岡を歩く」17回目は継体天皇です。

磐井の乱で磐井が戦った相手は継体天皇です。

継体天皇は応神天皇五世孫といわれる人物で、謎の多い天皇です。

古事記、日本書紀によりますと、越前の国又は近江の国から迎えられた天皇だといわれます。

即位後20年程も都に入らなかったといわれ、没年もはっきりせず、謎だらけですが、生前は磐井と仲がよかった証拠もあるとか
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00:10
古代の福岡を歩く遥かな昔。 海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました。
その足跡を尋ねる古代の福岡を歩く。 この番組はJA福岡屋根
道の駅村方 餃子の山鉢の提供でお送りいたします。
JA福岡屋根の直売所ヨランノの餌頭です。 博多天皇の季節です。赤くて丸くて大きくてうまい。
今年もいいのができました。おいしいです。 屋根の博多天皇ぜひ食べてください。
こんばんは、佐方周代です。 今週もイワイノランの話です。
イワイノランの時代、他にどういう豪族がいたのか。 特に火の黄身の動きを詳しく紹介しています。
火の黄身の系統の中で、イワイと仲が良かったのが、 火の中の黄身であったところまで伺いました。
その続きです。 お話を、屋根の古墳に詳しい屋根氏の職員大塚啓治さんに伺います。
この火の中の黄身は、主に今の行政区でいうと、 熊本県の山ヶ市とか、和町とか、その辺りを中心にした、
その火の中の一派というふうには考えています。 そしてこの火の黄身というのは、最終的には、
糸島に名前が出てくるというのがありましたよね。 途中、どういうふうな活躍があって、名前が上がってくるのでしょうか。
火の黄身というふうに、一回まとめてしまいますが、 火の黄身自体は、確かにイワイノランが起こるまでの間は、
本宗家も含めて、つくしの黄身との繋がりというのは、 それなりに強かったんだというふうには思います。
ただ、ランが始まった時、じゃあ火の黄身全体で つくしの黄身を支えたのかというと、どうもそうではないだろうなと。
03:01
イワイノランの時に、全面協力というふうな形を取ったのは、 おそらく火の中の黄身だというふうには考えています。
本宗家はどうしたのかというと、これは記述も何もないので、 実際のところはわからないんですけど、
おそらくランに直接的な加担というふうなものはしなくて、 生還をしていたのかなというふうには思います。
生還をしていた火の黄身の本宗家の人たちが、 ランの後をどうしていたかというと、
これがどんどん北部九州の方に上がってくるといいますか、 移住も含めて北部九州、
特につくしの黄身が影響力を予防していたところに、 どんどん入っていくというふうな形になると思います。
その中の一つが先ほど今お話ありました、 畜然の国の戸籍に島群の戸籍があるんですけど、
その島群の中に火の黄身の猪手という名前が出てきます。
今の糸島半島のところにあるんですが、 糸島半島に火の黄身が入ってくるという形が文献の中には出てきますので、
岩井のランの後、つくしの黄身の力が相対的に落ちていく中で、
中央豪族主導の下で火の黄身が北部九州の方、 もちろん鹿児島の方にも行っている一派があるんですが、
北部九州の方にもどんどん入ってきて力を伸ばしていくという、 そういう種族でもあるみたいですね。
今の力を伸ばしてきたのは火の中の黄身でしたっけ?
火の中の黄身ももちろん入っているとは思うんですが、 基本的には本宗家の方だと思います。
本宗家。本宗家の方がランの後は力を伸ばしてくるという。
だいたいそういった豪族がいたということですね。
それでちょっと話が進みますが、
景泰王権の方の側ですね。
景泰天皇は王道の王気味、王道というふうなことを言われていますけれども、
この人の即位するまでが非常に大変だったと。
その辺の戦いをちょっと教えていただきたいと思います。
景泰大王、景泰天皇とも言いますが、
正式な名前としては一つは王道の王というふうに言われている人物です。
王陣天皇ご生孫というふうに日本書紀の方には書かれていますが、
どこで生まれた、どういう人がご両親だったかというふうになると、
お父様にあたる方というのが、今でいう滋賀県かな。
06:02
大井地域に拠点を持っていた彦牛王という方がいらっしゃるんですが、
これはお父さんですね。
王陣天皇よん生孫というふうに言われていますが、彦牛王という方がいらっしゃると。
そしてお母さんの方は越前の国の御国というところにおられた振姫という方がいらっしゃいまして、
この振姫を彦牛王が奥美の方に呼ばれて、そこでご夫婦になられて、
そこで生まれた人物が王殿、後の景泰天皇になる方ということには記録の方には残っている。
そして即位しますけども、即位した後大和の方に入らないということですけども、これはどういうことだったんでしょうか。
そうですね。本当にここは諸説があって、何が正しいというのはわからないんですが、
とりあえず日本書紀に基づいてお話をすれば、
507年ですね。西暦507年に草派の宮、大阪の平方市になるかな。そちらの方でまず即位したと。
その後511年には山城の篤之宮、それから518年には御国の宮、526年にいわれの多摩方の宮、今でいう奈良県の桜井市になるんですけど、
ここでようやく大和の方に入って明治すともに大王になるというふうな形で語られているというふうにはあるんですね。
その間に20年間期間が空くんですけれども、20年間一体どうして大和に入らなかったのかというのは、これがいろいろお話があって、
中央豪族の中に今までと系統が違う、いわゆる忍徳系の人ではない、いわゆる外部の人。
応神天皇御聖母と言ってもですね、御聖も離れるとほとんど他人に近いような状態になってしまうので、
そういう人が大王になっていいのかというふうなことも話はあったんだろうと思うんですね。
それでも系統が完全になくなるよりは何かの手立てをちゃんと打たないといけないので、
応神天皇の血が入っている王殿に白羽の矢を手手で大王として迎えていくというふうなことになるんですね。
ただその時でもやはり中央豪族の中に王殿を後押しバックアップしましょうという人がそんなにたくさんはいなかったようなんです。
なのでいきなり大和の中に入っていくとちょっとすると暗殺されるかもしれないので、
09:00
そんな簡単には入っていけないということで宮を転々としていったというふうなことが言われています。
それで形態天皇の領ですけれども大阪高槻氏の忌露塚御本太というのが有力だそうですね。
ここから出てきている石缶の破片ですから、これに阿蘇のピンク石というものが使われているということで、これは一体どうしてなのかなというふうに思うんですが。
熊本県の北部、それから中部、南部と言ってもいいんですが中南部ですね。
もう5世紀代からすでに大和の方に向かってもしくは黄尾の国ですね。
黄尾の国の方に向かって九州産の石缶が、阿蘇溶結業界なんですが、九州産の石缶が有力古墳のところに入っていくというのは事実としてあるわけです。
その中の一つとしてというふうには思うんですが、形態大王は九州の岩井の君と戦ったと。
つくしの君岩井と戦ったというところはありますが、九州とのつながりはどうも深かったみたいなんですね。
もう形態天皇とというよりも、天皇家とですね。
王党を継いでいる天皇家というふうに、今では天皇家と言うんですが、天皇家につながるようなところに日の君が入り込んでいっていると。
これまた日の君。
非常に海上交通の得意な種族でもありますので、その利を生かしてですね。
大和王権の方と力を合わせながら、自分の支配領域というものを確実にしていくということで、
その中で石棺を作って、有力豪族とか大王家の方に石棺を送ってですね、つながりを強化していくという。
そういう政策の中で、大殿が葬られたというふうに言われている今城塚古墳の中にも、ピンク石というのが使われた石棺が元々はあったというふうなことで、理解していいと思います。
今夜は、やめの古墳に詳しいやめ氏の職員大塚圭司さんに話を伺っています。続けます。
景大天皇のお墓、今城塚古墳、これはお墓の形ですね。形は岩戸山古墳とよく似ているというふうなことを聞くんですけれども、これはどういったことが言えるんですか。
12:08
形が似ているというよりも、いわゆる鍵形、前方御苑墳はよく鍵形と言われますが、その鍵形の部分のところについてのみの話になるんですが、今城塚古墳を70%縮小した大きさが岩戸山古墳だというふうには言われています。
70%。
これは一つの案と言いますか、論文には書かれているんですけれど、久留米氏の小沢さんという方が、論文でしたためられているんですけれども、今城塚の規格性と岩戸山古墳の規格性というものを比較したときに、大きさとしては70%縮小なんですけど、細かく言うとやっぱり規格というのは非常に大事で、
ある設計図に基づいて古墳というものは作られるんですけれども、その設計理念を照らし合わせたときに、今城塚のその設計理念が岩戸山古墳にも反映されているというふうなことをですね、小沢さんの方は論文の中には書かれていますね。
はい。設計理念と言いますと、その前方の部分と御苑墳の部分、その形ですか?
そうですね。形というより比率であるだとか、例えばちょっとわかりやすく言うと、前方部の角っこの作り方とか、位置づけとかですね、持っていくとかいろいろあるんですが、そういう設計を、今城塚を設計するにあたってここが注意点ですというふうなものがあるんですね。それがちゃんと岩戸山にもフィードバックされているというふうなことなんですね。
ああ。このよく似ているというのは、これはどういうことか?
そうですね。私たちはそれを相似墳というふうに呼ぶんですね。
相似墳。はい。
大きさ、例えば幅を70%縮小したとか、長さを70%縮小したというだけではなくて、段の作り方とかですね、御苑墳と前方部の接合の仕方とかですね。
はい。
全体的なプロポーションも含めてなんですけれども、そういう規格性というのがあるんです。
その規格性は、前方御苑墳全てが同じかというと実は違うんですね。
例えば、前方部は2段だけど後苑部は3段とかですね。後苑部も前方部も2段ずつだと。
後苑部前方部2段ずつって言ったら全部同じかと言われるとそうではなくて、例えば前方部の幅が違うとかですね。後苑部と前方部の幅の比率が違うとかですね。
そういうのがいろいろあるんですけれども、相似墳というのは、そういう規格というふうなものが基本的に一緒で、
大きさだけがギュッと、例えば70%縮小とか50%縮小とかですね。そういうふうなものを相似墳と呼ぶんですが、
15:07
今城塚と岩手万古墳の関係性というのは、その相似墳の関係にあるというふうに大沢さんの方は説かれているんですね。
はい。ということは岩井と経済、非常にどこかでつながっていたということは言えるんですか。
私はもうざっくり言ってしまうと、岩井さんと経済大王はですね、非常に仲が良かったというふうに。
仲が良かったというと、ものすごく友達的な感覚に聞こえるかもしれないんですが、もう少し政治的に話をするとですね、
経済天皇が擁立される時、先ほどの話に少し戻りますが、やはり経済大王が即位する時にですね、反対勢力というのは当然いたんだと思います。
その反対勢力がいる中で、九州から推挙するのは経済大王ですよというふうなことを岩井さんは言ったんだと思うんですね。
九州としては経済大王が即位することを推し進めると。
支持する。
いわゆる協力者ですよね。
協力する。
そういう関係性だったんだというふうには思っています。
経済天皇の誕生の時って本当にゴタゴタしたというのはあって、そういうゴタゴタよりも岩井さんが推薦してくれたと。
味方してくれたということでしょうか。
はい、それで私はいいと思っています。
面白いですね。
経済大王と岩井さんの関係性というのは古墳の掃除系というものももちろんあるんですが、
私が一番注目しているのは石人石馬の中に石馬というですね、馬を意思化した石馬というのがありますが、
その石馬にですね、掘られているもの、まあ飾り馬、石馬は飾り馬なんですけれども、
その着飾っているいわゆるバグと言われる部分ですね。
そのバグの中にですね、山葉紋系行様というのがあるんですね。
山葉紋という、三角の葉っぱが伸びているようなものなんですが、
その山葉紋というふうに言われているデザインがその施された行様という、その飾り馬を飾るためのアイテムがありますね。
で、これはあの経済大王と非常に仲がいいと言いますか、繋がりが深い古墳にですね、よく服装されていたりするんです。
それは貰い物なんですよね。経済大王のほうが貸しされた貰い物。
18:00
ただ違うというふうに、私が違うというか違いがあるというふうに思っているのは、
あの石人石馬は岩井が作るものなので、岩井側の人間が作るものなので、
経済大王とそのつくしの君は非常に仲がいいんですよというふうなこと、特に岩井とですね。
経済大王と岩井は仲がいいんですよというふうなことを岩井が自ら示していると。
というふうなところに非常に大きな違いがあるんですね。
貰い物というのは、貰って嬉しくないことはないんだろうけれど、
自分から欲しい欲しいと言ってもらっているというふうな、そういうふうなものでもないとは思うんですね。
でも石人石馬、特に石馬に刻み込まれているものというのは岩井が自ら望んで作っているものなので、
やはりその形態との仲の良さというのをアピールしているんだというふうには思うんですね。
そうですか。面白い話ですね。
そうですね。なかなかそういうのはですね、あんまりないというかですね。
バー君の方が写真撮ってくれなかったな。
山陽門デザインですね。
ちょうど石馬のお尻の側面ですね。
お尻あたりの側面にぶら下がっているような形で、硬い方が3つあるかな。
そうですか。そういうデザインに注目ですね。
そうですね。形態代用はですね、形態よりも前の代用が石人材として用いたものを結構大きく変革させているんですね。
その中の一つに山陽門行様というのがあるんですが、それ以外にもですね、二山式兜といって山が2つあるような兜があるんですけれども、
兜というか冠ですね。冠があるんですけれども、二山式の兜を用いたりだとか、ねじり冠刀立ちというふうに言うんですが、
ワイヤーみたいなねじったようなものがくっついている和製の立ちがあるんですね。
この二山式の冠帽とねじり冠刀立ち、それから山陽門行、山陽門が入った行様ですね。
大体この三つが揃っていると、非常に形態とつながりが非常に深い人というふうに認識されるんですが、
そのうちの二つは今石人の中に刻み込まれているので、いわゆるもう一つ、いつか見つかるだろうとは思うんですが、
その三点セットというふうなものを自らが望んで石人に刻み込んだということは、やはり形態とのつながりが非常に強いんだということを自らアピールしているんだろうというふうには思っています。
21:03
そうですか。非常に面白いんですけれども、大体岩井の墓は西禅に作ったんじゃないかと言われていますよね。
西禅に何らかが良かったかをどう示そうとしたということですかね。
そうですね。先ほどの話がありました通り、掃除墳で今城塚の70%という大きさで岩手山古墳を作る。
そして石人石場には慶大大王が徴用した三点セットというふうなものを何とか自分の手で刻み込もうとしているというところから考えると、
岩手山古墳を作っている段階までは慶大が考えている政治的な方向性というものと、岩井が目指している政治的な方向性というものはある程度一致していたんだろうというふうには思うんですね。
なるほど。
だからそんなに大きな問題になっていないというか、対立しないといけないような問題には当然なっているはずがないというところなんですね。
ここからどう変わっていって岩井の乱に発展していったのかというのは、詳しくお話をするとものすごく長くなっちゃうので、今日はちょっとお話はできないと思うんですけれども。
その辺の話が面白い話ですね。非常に興味のある話でした。
お話を、やめの古墳に詳しいやめ氏の職員大塚刑事さんに伺いました。
ここで古代の福岡を歩くリポーター中島理恵さんです。
こんばんは。
今日はやめの伝承儀句のお話です。
夜もハウスがぽーっと明るく照らされているのを見た記憶。
きれいですよね。
ありますよね。
あの伝承儀句のことを、やめ伝承儀句部会の部会長坂田時雄さんに聞いてきました。
あの電気、私、花を咲かせるためにつけてると思ってたんです。
違うんですか?
はい。
逆です。花を咲かせないために、花芽を咲かせないために電気をつける。
これがついたら、もう短く咲いてしまうんで、長くするために電気をつけて、花芽抑制ですね。電気をつけるの。
びっくりしました。
そうなんです。背を高く、ずっと昼はまだ昼間ねって言って、一日が終わってない錯覚をさせて、背丈を伸ばしていくための電気だったんですね。
24:03
このやめの伝承儀句なんですが、全国にもしくは参院ぐらいの出荷量で、年間およそ2500万本。
九州だけじゃないです。関西がメインで、あと関東地域も結構出てて、北海道まで出荷されてるんだそうで。
基本は葬儀で使われることが多いんで、白がメイン。でもね、黄色とか赤とかもある。そして年十作の出荷されてるんですって。
育ててらっしゃる方の中の一人、やめ伝承儀句部会の副部会長大塚貴之さんのハウスに行ってきました。
ハウスって言うんですけど、巨大な温室です。
金属とガラスでパチッと作ってある大きなハウスの中、整然と並ぶ濃い緑の菊。
緑のコンテナが並んでる感じなんですが、思わずテンションが上がります。
えー、霊綺麗じゃないですか、これ。
菊自体が大人のおへそあたりまで高さ。高いときは胸まであるかな?
一応ですね、うちの企画として90センチという企画があるんですよ。
だからそれ以上に伸ばさないと出荷できないんで。
五弦まっすぐとは思わんかったです。
そうですね、選別作業するとそれでも曲がってるのがあるんで外すんですけど。
パッと見たときはまっすぐ見えるんですけどね。
機械にかけたりして出すときはちょっと曲がってるのも入ってますね。
かなりこのJF航海屋の伝承菊部会の企画というのは厳しいらしくて、
今74人いらっしゃるんだそうですが、みんなで研修開いたりとか、
青年版の先輩の見学に行ったりして、とにかく品質を一定にして出すというのを大切にしてらっしゃるんですね。
さらに大塚さんにどんなことを楽しみに育ててらっしゃるのか聞いてみました。
成長の過程とか、咲いたときの綺麗さというのは楽しみになりますけどね。
どういうのを思い描きながら作りを仕上げるんですか?
姿があるじゃないですか。一般的に言うとおかしいですけど、
菊のシュッとして、花が綺麗について、そういう姿が一番凛としているというかですね。
そういうのはちょっと心がけて作ってますけど。
倫理句だけにですけど。
倫理の形はね、倫理句は和ですけれども、凛としての感じは違いますけど、
軽く親父言語を出していただきましたけど、
出荷先、葬儀場の需要がメインなんですけど、
今の葬儀の形態が変わってきてて、ちょっと減ってはいるんですけど、
やっぱりプロからやめの菊を使いたいという好評感をもらっている菊なんだそうですよ。
誇らしいですね。
福岡県内で買えば大体菊の8割はやめさんだと。
やめで買えば100%やめさんなので、
27:02
ぜひ祝い研究の散歩の後には、やめの伝承菊を連れて帰っていただければなと思います。
ぜひ綺麗なお花をですね、家で楽しんでいただきたいんですが、
仏様のお花としてはもちろんですけど、
玄関先とかに、結構ひんやりしたところに飾っている場合は長持ちするらしいので、
こまめに水を変えること、あと、茎の下の方が黒くなってくるので、
そこを切って刺すと、かなりの時間楽しめますよとおっしゃってました。
JF福岡やめのやめ伝承菊おすすめです。
中嶋理恵さんでした。
番組ホームページのご案内です。
これまでの放送内容と番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
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また、ラジコ、アップル、スポティファイ、アマゾン、ユーチューブなど各ポッドキャストでもお楽しみいただけます。
この番組はJA福岡やめ、道の駅室方、餃子の山鉢の提供でお送りいたしました。
ご案内は佐方周代でした。
地下鉄祇園駅から徒歩2分、RKBスタービル博多祇園スタジオは、
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