1. 古代の福岡を歩く
  2. S5 2回目も太宰府を歩いてい..
2019-10-13 30:50

S5 2回目も太宰府を歩いています。

令和にちなんで太宰府から歩いています。太宰府といえば「遠朝廷」と言われている場所ですが、この言葉を初めて使ったのがのが柿本人麻呂だとか。そして、「都府楼」は菅原道真の不出門という詩の中で初めてでてくる言葉だそうです。

その都府楼は三期に分けて作られました。現在都府楼跡にあるのは三期の礎石だそうです。

その都府楼跡の東の方にあるのが蔵司。昔、九州各地から税を集めたところだとか。

小さな丘になっています。ここから北の方に延びる延長線上に坂本八幡宮があります。

ここは、梅花の宴が行われた大伴旅人の屋敷が近くにあったのでは、と見られる場所です。

旅人の歌にしばしば登場する岡という言葉がこの蔵司からのびる岡ではないかと考えられているからです。

梅花の宴が行われた場所の候補が3つあります。そこを探してみるのも面白いと思います。



※写真は坂本八幡神社の御朱印
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

00:08
古代の福岡を歩くシーズン5 遥かな昔
海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました その足跡を尋ねる
古代の福岡を歩くシーズン5 この番組は宮間市の企画協賛
道の駅村方 餃子の山鉢の提供でお送りいたします
道の駅村方 営業部長の工藤です 村方の新鮮な海の幸山の幸がたっぷりです
いつも旬のものをお届けします 世界遺産神和蔵島村方おひの島と関連産群を私たちの手で守っていきましょう
おはようございます坂田周大です 先週から古代の福岡を歩くシーズン5をお送りしています
今年5月から令和の時代が始まりました その令和という言葉の出典元は
太宰府の売下の縁で歌われた万葉集の序文です そこでシーズン5はその舞台になった
太宰府市徒露にある太宰府展示館からスタートしています お話をごと太宰府保存協会の学芸員
田中健一さんに伺っていきます 今朝は徒露跡からのスタートです
この太宰府というのをですねパソコンで聞きますと
太宰府の太が大という字と太いという字と両方あるんですけども これは何か違いがあるんですか
よくですね太宰府って書いた時に大きいと太いが2つあるんですかというお話があるんですが
実はこれですねもともと太宰府この場所にできた訳書というのは大御徒餅のつかさというふうに言われてますし
字としましては大きい方がどうも正式だったようなんですね 古い時代に残されている印鑑
太宰の印があるんですがそれは大きい方が何点か残ってますのでもともとは大きいと書く太宰府だったようなんです
ところが時代が下ってきますとこれに太い太宰府というのが書き方として混ざってまいりまして
03:00
最終的にですね大きいと太いが混在するような形になってしまったんですが今から50年ほど前からですね
それの使い分けをしようということになりまして現在はこの軌跡でありましたりあるいは奈良平野にあった役所を指すときは大きい方の太宰府を
そして現在の地名とかですね 天のない方の大きい方を昔は使いまして
現在の太宰府市であったり太宰府天満宮であったり 現在の地名などを表す場合は太い方の太宰府を使うというふうな使い分けを今している形になります
それからですねここは塔の帝という言い方しますけれどもこの塔の帝は誰かが作ったんじゃないかという話を聞きましたが
そうですねいろいろ太宰府をですね表現する言葉というのがありまして今おっしゃいました塔の帝というような表現もありますし
天下の一都会というような表現もあるんですけれどもこれは当時ですね都以外ではやはり最大の役所がありました
太宰府の都会街並みを示すそしてまあ太宰府の役所が都以外では大変大きな任務を背負う役割を担っており ましたのでまあそういうところから塔の帝あるいは天下の一都会というようなあの
太宰府の繁栄ぶりをですね示すような言葉が使われたようなんですが 柿の元の人丸が
使ったんじゃないかというふうに例えられたというですね もう一つあのトフロウという言葉ですねこれは道真が作ったんじゃないかと言われているのを聞きましたが
それはどうなんでしょうか 太宰府県庁と地域の皆様はトフロウの方とのですね
相性の方が親しまれているんですけどもこれはあの 菅原の道真公がですね901年にまあ太宰府の方に流されてきまして
でたくさんの漢詩を太宰府で残していますけれども その一つの密室も門を入れずの中でまぁ
このトフロウという言葉が使われましてそれ以降ですね たくさんの文化人がやはり道真公を仕立てですねこの成長後を道真公が呼んだ
トフロウというふうに呼び呼んでまいりましたのでまぁ今に至るまで 愛称としてトフロウという名前が残っております
はい それからもう一つあのここにはですね
今ちょっと道路整備のための音が聞こえておりますので できるだけちょっと離れたところに立つようにしてますが昔城坊っていうのがあって
まあ今でもその名残が残っているというふうに言われますけれども いつ頃あったんですかその城坊って
そうですねあの太宰府にはですねあの今5番の目のような形で 現在の発掘調査の成果などでは一辺が一区画が90メートル90メートル90メートル
地方の一区画が 一区画が90メートル四方の街並み
城坊性が広がっていたというふうに考えられています この街並みにつきましてですね
太宰府の整備のどの段階できちっとですね 計画されて設計されたのかっていうのは今まだ専門家の皆様の間でも議論が続いて
06:08
いるんですけども 太宰府政庁が2期目大変立派な組織立ちの建物になる頃その頃に合わせて
太宰府の街並みも整備されたというふうに現在考えられております そうですか
えっと今この近くには五条とかね 三条とか一名が残ってますけどその名残りでしょうね
そうですねあの城坊性と言いますので 城という列と都立の坊という列のですねあの違いがあるんですけども
現在太宰府市に残っている五条という地域はですね どうもその地名城坊性の名残りではないかと言われているんですね
ところがあの三条地区というのは実はその城坊性から外れた場所になっておりまして これ三条はですね実はもともと山の上の方の山頂というですね三条
それがどうもなまって関数字の三条になって実は 五条と三条があるんですけど五条はちゃんと城坊の中にあるんですが三条ちょっと
外れたところにあるのでどうもあの同じ関数字を現在使ってますけども どうもちょっと違いがあるような感じで
そういえば三条はこの裏側ですよね 少し北側になりますよね 離れたところになりますね
五条はこの近くですけどね そういう意味があるんですか
それから 城坊の城ですけどこれは南北を表す
区画ですよね そうですね いくつぐらいあったんですか
太宰府の場合はですね 南北にですね22条あったんです
太宰府県庁を中心としまして東側に12坊 西側に8坊の合計20ですね
というのが現在のところ一番有力で考えられている説でございますね
それがこの太宰府県庁から南の方へずっと街が開けているということですかね
はい 太宰府県庁を中心に南側に今お話した城坊の街の意味が広がっていたというふうに考えられています
そしてこの太宰府県庁ですけど 太宰府県庁ができたのはいつ頃になるんですか
そうなんですね この太宰府県庁というのがいつ頃できたかというのがですね
はっきりした記録文献等には出てきませんので分かりづらいんですけども
大野城や水城が築かれた時代 おそらく7世紀後半頃になるだろうというのが
今考えられている時代になります
663年に日本軍が朝鮮半島へフタラの応援に行ってやられてしまうという事件がありまして
その後向こうから白城島等の党が 連合軍が攻めてくるんじゃないかということで
水城とかいろんなものを作ったんですね その後ぐらいですか
そうですね 今お話も663年の白村港の戦いで大敗しまして
それを受けまして翌年660年に水城 そして次の年に大野城 紀伊城が整備されるんですけども
09:05
時代的にはその時期と同じ頃 博多周辺からこの太宰府の地へと組織が移ってきて
太宰府という役所 組織が整備されていったというふうに考えられておりますね
ここに組織がたくさん残ってますけども
ここに建物があったのは1基2基3基というふうに 分けられるというふうに書いてありましたが
要するに8世紀頃から作られて これは1基なんです どういう建物が建てられたんですかね
はい 今ご覧になっていただいている太宰府にお越しいただくと 建物の跡が整備されているんですけども
こちらは最終的な時期の太宰府を再現しております
実は太宰府は3基3基の時代に分けられておりまして
一番最初が今お話ししましたように 白村江の戦いが終わった後
7世紀後半頃から8世紀の前半にかけての1基目
一番最初の太宰府成長というのは どうも組織立ちではなくて
掘ったて柱に柱をそのまま建てる そういうような建物だったということが各地方でわかっております
その後8世紀の前半から10世紀の後半にかけては2基というふうに太宰府をしておりますけど
この頃に組織を使った組織立ちの建物 瓦 そして手縫いの柱というような再現した模型などでも
ご覧になっていただいている方が多いかと思うんですけども
太宰府成長の建物というのが整備されたようなんです
いわゆる町道院風という建物ですか
はい 当時の建物は中央に広場がありまして
そしてその脇に建物が並ぶという 都になられた町道院形式の建物というのが整備されました
そして藤原住友蘭というのがありますよね
そうですね 今2基で整備された建物なんですけども
藤原住友蘭で太宰府成長の建物が焼け落ちてしまいまして
ただその後にまた再建されまして
ほぼ2基と同じような構造規格で建てられた
それが3基目になりました
その建物がまた太宰府成長がいつ終わったのかというのも
なかなか難しいところなんですけれども
発掘で出るような遺物ですね
当時期などから見まして12世紀の前半ぐらいまではどうも機能していて
その後使われなくなって
荒廃していったんだろうというふうに現在の
そうです 考えられていますね
その一番最後に第3基ですね
第3基に建てられた建物の組織ですね
組織がこれですね 現在見ていただいている状況ですね
この目の前に30ぐらいの組織の跡がありますけども
それが3基の建物の跡ということですね
今朝は太宰府徒露跡を歩いています
12:00
お話を故都太宰府保存協会学芸員 田中健一さんに伺っています
太宰府徒露跡の一番西の方に離れたところに
倉塚というところがありますが これは一体何をやってたんですか
はい 太宰府県庁の左右 実は東西に丘陵がありまして
東側が月山 そして西側にですね
地元では倉塚と呼ばれる丘陵がございます
こちらですね 現在の九州歴史資料館さんがですね
発掘調査をしておりまして
大きな建物の跡 そして倉庫の跡と考えられるようなものが
数多く見つかっております
このことから地名の倉塚さ そして倉庫の跡というのが出ておりますので
太宰府に数多くあった 約20ほどあったと言われる役所の一つ
倉塚というですね
九州各地から太宰府に収められた 税などを管理した役所が
この丘陵にあったのではないかと考えられます
それで太宰府の機能なんですけど
どういう仕事をここでやったのか
ここに置かれた太宰府なんですけども
重要な大きな役割として3つございまして
一つが九州全体ですね
当時9つの国と3つの島国がありましたので
その9国3島を管理する これが一つ大きな役割としてありました
二つ目がですね
海外との交流 また外国への対応というものがございまして
中国大陸朝鮮半島から来た死者の受付
もてなしですね
そして寮に出て遭難した漂流したような方の
向こうへ送り届けるという
さまざまな外国と関するような仕事も
やはり一つ太宰府の役割として大きなものがございました
そして3つ目がやはり交流の窓口
外国と近いということは緊張関係が高まりますと
やはり戦争の最前線になるということですので
やはり対外的な防衛国防の役割
そしてまだまだ当時南九州の方は治安政府に従わない
勢力もありましたので国内九州間内の治安の維持
そういった防衛軍事の役割がありまして
この3つが太宰府重要な役割としてありました
九州各国の統括とそれから外国への対応ということですね
九州各国の統括の中に税を集めるという機能もあって
それで倉塚さんっていうのはあったんでしょうかね
そうですねこの太宰府が管轄する9国3島の税に関しまして
一度太宰府の方に収められまして
そこからまた都に送られるということで
まず九州各国から太宰府に収められた税
それがこの倉塚さんなどで管理されていたようです
税金には蘇養帳と教科書で習ったことがありますけれども
そういう蘇養帳がここに集まってきたということです
15:00
集められていただろうと思います
はいわかりました
そしてドフロワトの中央部に立つ3つの石標を通り過ぎて
左の奥へ歩いていきますと坂本八幡神社へ出ます
先ほど白梅ってお話していましたけど
ちょうど坂本の皆さんがあちらとかこちら植えてる
梅の木を植えていらっしゃるので
2月頃に来ていただくと
白梅が綺麗にあちらとこの南木が付きますんで
2月にお越しいただくと
ちょっと梅花の縁というと大げさかもしれませんが
大変梅の花が咲いて綺麗な風景が楽しめますんで
お待ちしておりますが
よかったらぜひまた2月に来ていただいて
2月頃来ると白梅がこの辺
坂本八幡宮の近くで楽しめると
いうことですね
ここはですねあまり知られてないんですけど
桜の花がものすごく綺麗なところですよね
そうですね
太宰政町あとは桜も大変名所として知られてますけど
実は周辺には梅の木もたくさんございますので
ぜひ梅の時期
そしたら桜の時期お越しいただければと思います
私もこの近くに住んでますが
桜の時期来ますと
もう本当に見事な桜が
このトップフロアといっぱいに見られます
これも一つおすすめですね
それと2月は白梅が楽しめるという
坂本八幡宮にやってきました
八幡宮という古い片岳がある
鳥居をくぐりまして
正面に本殿があるということですね
ここでちょっとお参りを
5月1日にご支援をいただきに来たんですが
それからずっともすごい混雑で
藤子さんもね大変だったと思いますね
そうですね
藤子の方々も急にですね
一夜にして大変な方が襲い出されて
来られる形になって
もう本当にゴーデンウィーク1日から連休中
大変また人が多かったので
体調崩して倒られる方も多かったんですけども
ゴーデンウィークが終わって
1回お休みされたんですけど
皆様日本各地からたくさんの方が来て
お参りの方が多いので
藤子さんたちでお話しして
無理のないようにということで
現在月曜日と木曜日はお休みされてますけども
それ以外の日は対応されてるという形でございますね
ちょっと休んでいただいたね
無理のない範囲でですね
この坂本八幡宮が一気に
ゆかりの地として注目されたのは
大人の旅との定宅がこの辺りにあったんじゃないかと
昔から伝えられてきたんですけども
実のところこちらの方も福岡県九州歴史資料館さんが
発掘調査をこの八幡宮さん周辺をされたんですけども
18:04
発掘調査の結果からは
長官の住まいであるような
大規模な建物というのは見つかってないんですが
掘った手柱の建物などあるいは
家事の工房などなどそういったとこが見つかっておりまして
奈良時代そして平安時代もここは役所であって
建物として機能はしていたようなんです
ただ旅と定というのはまだ見つかってませんので
もしかするとこの後今後ですね
発掘調査が進んでいく中で見つかってくるかもしれませんね
なるほどこの坂本八幡宮ができたのは
いつ頃になるんですか
こちらの八幡宮さんがいつ頃かっていうのは
なかなかはっきりわからないんですけれども
こちらの八幡宮さんの縁起によりますと
公治年間頃いわゆる戦国時代頃にですね
どうも勘定されたという記録がありまして
それから江戸時代を通じましたこの地元坂本地域のですね
ウジ神として大切に祀られてきたという形になっております
それでここにも花碑がありまして
これは大友の旅人の花碑ですね
これが大変難しくてですね読み方が難しいんですけども
とりあえず読んでみますと
石碑の大きさがですねそうですね
3メーターぐらいの大きいまんじゅう形の石ですね
高さが1メーターちょいありますね
そこに書いてある歌です
わが丘にさおしかさなくあつはぎの
花つまといにさなくさおしかと
ということですね
わが丘にこの辺がひょっとしたら丘だったのか
っていうようなことを考えるんですが
それは違うんですか
そうですね八幡宮さんの形態に
旅人の歌があるんですけど
実は旅人さん何首かですね
太宰府で読んだ歌に
わが丘に自分の家のそばの丘に
鹿が来たとか
そういう歌を読んでおりまして
でも大友の旅人さんの家の長官の家のそばには
丘があったらしいと
それが一つ手がかりになってるんですけども
坂本地域で言いますと
先ほど倉塚さんのお話をしましたけど
この給料がその丘に当たるんではないかな
倉塚からずっと続いているところですね
推定もされていまして
この場所に旅人手があったとしたら
鹿が来た丘は
どうもやらこの倉塚さんの丘ではなかったか
というようなことも考えられております
面白いですね
いくつか説がありまして
もう一つ説があるんでしょ
はい今実はですね
旅人の館と長官の館が
どこにあったかというのは
三つございまして
一つが今坂本八幡宮さんの南側の
倉塚さんの一帯が丘と一つですね
そして先ほど月山にありました
21:00
月山の丘と月山東地区の建物
そして三つ目がですね
菅原の三田猫が窒挙されました
江の岸周辺
そのそばから実は
打財布では長官しか着けられないような
ベルトの玉の飾りが出ておりまして
貴重なやつですね
その周辺から貴重なそういうものが出ておりまして
すぐそばにはですね
三田猫の息子さんの熊室湖を祀る
小さな給料がございますので
もし江の岸周辺にお住まいだったら
熊室湖が眠っていらっしゃる丘
それが旅人が鹿が来ると歌に呼んだ丘ではないか
というふうに考えられてまして
坂本八幡宮さん
もしくは月山そして江の岸のそばと
今のところこの三つが候補と
そしてどこかなということで考えられております
面白いですね
ここか別のところか
興味あるところですけども
この坂本八幡宮
ぜひお参りに来ていただきたいと思いますね
興味ありますね
先週と今週の2回にわたり
令和で一躍全国的な注目を浴びるようになった
太宰府の徒浦尾跡から
坂本八幡神社へと歩きました
お話を故都太宰府保存協会学芸員
田中健一さんに伺いました
ここで古代の福岡を歩くリポート
中島リアさんです
おはようございます
坂田さん
太宰府天満宮の名物といえば
まあ梅貝餅
はい正解
簡単でした
あの米粉
うるち米ともち米のお餅がソフトで
中にあんこが入っていて
こう薬品がこう梅の花をちょっともしてるところがあるんで
こう模様がついてて非常に美味しいんです
たくさんお店があってね
よくあの食べ比べもしてますよ
私も
やっぱりね
じゃあそんな坂田さんに問題です
あの梅貝餅の色が違うものが出る日がある
ご存知でした?
あーなんか聞いたことありますね
あーでも何でしたっけ
あれれ?
あのよもぎとは違いますよね
正解です
一つはよもぎ
毎月25日
そしてもう一つあるんです
それはわからない
毎月17日には古代米を使った
紫色のお餅が出るんですよ
見たことあります
すっごい綺麗な
結構色がね紫色
ささやかに出ますよね
そうなんですよ
私今回初めて知ってびっくりしたので
一体どんなことなのか
このダザイフ梅貝餅共同組合っていうのがあるんですが
代表の株式会社カサノヤ取締役の栗山優香さんのところに行って聞いてきました
この紫色の古代米
この古代米の粉を作って
これ何とか商品にならないかなーっていう時に
24:02
いいタイミングが訪れた
それが最初のきっかけ
今から4年前でした
27年の10月17日が
九州国立博物館の10周年記念っていうのがあって
これはこの日にお出ししたらどうかなっていう
ちょうどそのきっかけになって
お出ししたっていうことがきっかけで
では17日は休白の日ということで
毎月古代米の梅貝の地を提供しようではないか
ということになったそうです
そういうことだったんですね
17日は休白の日
じゃあよもぎに入りになるのは
緑色になるのは毎月25日なんですが
答えはこれです
菅原道座猫天神様のお誕生日と
明日が25日なので
それを記念して25日は天神様の日ということで
昔よもぎのお餅を作ってたんですけど
その日はちょっと復活させて
提供するようになりました
生まれた日と亡くなった日が同じ25日だったんですね
せっかくなんで
いろいろ食べ方ありますが
食べ方として古包装でお家に持って帰ると
結構もっちりしっとりした感じが楽しめる梅貝餅なんですが
この段階で焼きたてみたいなのを食べたかったら
ほんの数秒間レンジでチンして
オーブントースターで焼く
これがおすすめっておっしゃってました
その日食べない分は
速攻冷凍庫に冷凍してくださいと
冷凍なんですね
さらにこの梅貝餅の意外な食べ方を教えてくれたんです
キッチンバサミで切っちゃうんでしょ
お湯に入れて前菜作るんです
ちょっと塩入れたらおいしい
やってみてください
しょうがない
初めて聞きました
梅貝餅で前菜ができる
でも考えたら安定のお餅と安定のあんこでしょ
めちゃめちゃおいしいのができるはずなんですよ
これ私もやってみようと思ったんですね
そして古代の福岡はあるくですから
やっぱり由来は大切にしたい
結構有名なお話ですけど
この梅貝餅の由来
これはもちろん菅原道真子が
京から太宰府に左遷されて
不遇の日々を送っていた
その時のエピソードが元になっています
太宰府の猪木社に左遷されたんですけれども
その際に罪人同様の扱いをされて
大変不遇な生活をされてたんですね
その時に近くの老婆が
お餅を梅の枝に刺して
その腰のドア越しにそっと差し上げてあったそうなんですよ
それが一つ由来となっております
そんなドラマを思い浮かべながら
27:01
食べるのもいいかと思うんですが
もう一回おさらいしておきましょうね
毎月17日が古代米の紫の梅貝餅になる日
だから今度の木曜日がそうなんですよ
25日がよもぎになりますので
今月は金曜日25日ですよね
いずれも個数限定なので
亡くなり次第終了です
ですから出会えたらラッキー
その日の早い時間に
ぜひいつもと違う色の梅貝餅チャレンジしてください
高島理恵さんでした
ここで番組からのお知らせです
番組のホームページのご案内です
これまでの放送内容と番組を1回目から
じっくり楽しむことができます
RKBラジオのホームページの
古代の福岡を歩くシーズン5の
バナーをクリックしてください
またラジオクラウドという
無料のアプリをダウンロードすれば
スマートフォンやタブレットでも
お楽しみいただけます
この番組は宮間市の企画協賛
道の駅村方
餃子のヤマハチの提供でお送りいたしました
ご案内は酒田秀内でした
ガールズパンチ!
×少女隊の×ラジオ隊
×少女隊の春野木梨奈と
青井梨奈です
RKBラジオでお送りしている
ガールズパンチ!×少女隊の×ラジオ隊は
ポッドキャストでもお楽しみいただけます
ラジコ、スポティファイ、アップルポッドキャスト
アマゾンミュージック、YouTubeミュージックで
×ラジオ隊と検索してフォローお願いします
30:50

コメント

スクロール