思い出の品と喪失感
喪失感は突然に、第25回目の配信です。
今回は、思い出の品を手放した先についてお話ししたいと思います。
例えば、私別だったり、離別だったりした後に、
その人、もしくはペットだったりするものの、痕跡というものが、自分の周りに残る場合が多いかなと思うんですけども、
そういったものたちを、手放してしまったというのが、今まで何回もあって、
あの時どうして捨ててしまったんだろうって、父が亡くなって30年、兄が亡くなって、もうそろそろ8年になるんですけども、
なんであの時、手放してしまったんだろうって思うことが、たまにこうやってくるんですね。
それで、今回思い出したのが、父が亡くなった後に、引っ越しをしなければいけなかったので、数年後なんですけど、
全部持っていくことはもちろんできなかったから、選んだはずなんですけども、
父が誰かからもらった手紙が、ごそっとあった箱があって、その中に父が書いた、何か紙みたいなものがあったんですよ。
それを母と見つけて、母曰く、昔母の前に付き合ってた人との手紙だったみたいな話が、チラッとその時した気がして、
すごい居心地が悪い、見つけちゃいけなかったものを見つけちゃったな、みたいな感じだったのを覚えていて、
もしかしたらそういう思いがあったから、処分してしまった気がするんですけど、
あのことをすごく思い出すことが何回もあって、
どんなふうに父が他の人に思われていたかみたいなことを、今の歳になって読んでみたかったなとか、
父が書いた何かも確かあったはずで、今ね、文字が残ってないんですよね、書いたもの。
ちょっとあるかな、いやない気がする。
今、パッと思い浮かぶのは、父が持った運転免許証と、あとゴールドになった時のね、ゴールドとシルバーになった時の証にあって、
それは持ってたりとか、あと私が父にあげたボールペンを私が持ってるとかあるんですけど、
なんかそういえば字が見てみたいなっていうのをね、私結構手帳とかで文字書くの好きで結構書くんです。
それで兄が亡くなった時は、さらくその父の時に書いた筆跡のものがないことを後悔してた記憶が多分あったのか、
兄の筆跡のものは極力持ってきたんですよね。
それでも兄の時も部屋を片付けるのに、母の知り合いの人が来てくれて、片付ける時間が多かったから、
私は他のことをやってたり、仕事も行かなきゃいけないみたいなのもあって、全部立ち会えたわけじゃないから、
今思うとあれもなかったこれもなかったっていうのはすごく思うんですが、
持って帰りたかったもの、私ガンダム好きなんですけど、兄も好きで、兄の影響なんですけどガンダムのプラモデルじゃないな、
なんかこう出来上がってるやつだったりとか、あと拳銃もあってBB弾の、
それ私小さい頃割と拳銃とか男の子が好きなもの結構好きで、それ全部兄の影響なんですけども、
そういうのは持って帰ってきたんですけども、
使ってたものとかも、今思うとあれもこれも持ってくればよかったのに、
そういえばその母の知り合いの人が持って行っちゃったなぁとか思って、
ただ亡くなったすぐって、もうすぐ引っ越し賃貸住んでたんで、
あの、残しておくわけにいかないっていう気持ちがすごく強くて、
今思うと貸し倉庫みたいな色々なサービスが今あるから、
そういうのに預けられてたのに、なんか早くもう処分しなきゃみたいのでやってしまったんですよね。
ああいう時って本当、亡くなったすぐとかっていうのはすごい混乱をしていたりとかするから、
あまりこう大きな決断だったりとか決め事しない方がいいっていう風に言われていて、
分かってたはずなんですけども、でもそういうの考えられなくて、
知識として知っていても冷静にはなれないものなんだなっていうのをね、後から色々思ったりしました。
記憶とデータの重要性
次に持って帰ってきたもの、残したものを数年後、数十年後に処分したものもありました。
それは小さい頃よく写真撮ったりビデオカメラ撮ったりとかというので、
写真と8ミリビデオテープがたくさんあったんですね。
それを私一時パソコンに全部取り込んだから、もういらないと思って捨ててしまったんです。
でもその後にパソコン壊れて全部データが飛んだっていうことがあったんです。
なぜパソコンが壊れるっていうことを考えなかったのか、
はたまたバックアップも撮ってたと思ったんです、外付けのハードディスクとかで。
実はでもそれもなくて、ある一時期の時の記憶がちょっとごっそり抜けてて、
気づいたら、そういえばビデオテープのデータはバックアップも撮ってなくて、
パソコンが全部データ飛んでなくなってしまった、そういえば、みたいなことになって、
一緒に旅行に行った時の映像だったりとか、おそらくほとんどないと思うんですよ。
今認識してるのは、ビデオテープがどっかにあった気もしないんだけど、何回か引っ越しするうちに紛失してしまっているものも実はあって、
その辺も把握してない時点で、それまでなのかなとも思ったりするんですけど、
でもふと、私はお父さんの声って覚えてるのかなって思う時があるんですね。
記憶しているこういう声っていうのを、頭の中でなんとなくこう流れたりはするけども、
それは本当にお父さんの声だったのかっていう確証が持てない。
だからビデオだったら確実にその声が聞けるはずなんですけど、どこにもないっていうのを、
記憶の持ち方の違い
今30年ぐらい経ってすごく寂しく思う時があります。
兄の場合はもう大人になってから一緒にビデオで映るなんかっていうとこはほとんどなくて、
一回だけお墓回り行った時に撮影してる動画があって動いてるお兄ちゃんいたけど、
喋ってなかったんですよ。
だから声は入っていなくて、
亡くなってから兄の友達にちょっとしか映ってませんけどって言って動画もらったやつがあったりとか、
兄のスマホの中にほんのちょっとだけ誰かに映してもらった動画があって、ほんのちょっと笑ってる声が入っているぐらい。
で、兄の声もたぶんこんな感じっていうのはもちろん覚えてはいるんですけど、
きっとこれから忘れていくんだろうなと思うんですね。
この間ちょっとアニメのソウソウのフリーレンの話をしたんですけども、
その中でもあるドワーフがもう自分の妻の声も顔も思い出せないっていう風にいうシーンがあって、
でもドワーフって何年生きるのか知らないんですけどね、人間よりは全然長い寿命で、
相当の年月が経ってるのかもしれないんですけど、
逆にフリーレンは1000年以上生きた魔法使いなんだけども、
おそらくいろんなことを覚えてて、たぶん記憶の持ち方が全然違うのかもしれないんですけど、
だからその写真があるから顔とかは自分の記憶の中にある顔というよりも、
父がこうだったっていうような記号みたくなってしまうのかもしれないけど、
その認識、識別ができる。
けど声はね、再現が不可能だから、
それもあって、母のことはね、結構動画で撮ってるんですよ。
最近ちょっと使わなくなってしまったんだけども、
Osmo Pocketっていうスティック型のビデオカメラ持ってて、
ちょうどコロナ禍ぐらいだったかな、買ったの。
母が転倒しちゃって、それで病院に行くようになったりとか、車椅子乗ったりとか歩行器とかって、
思い出を振り返る
そういったいろんなちょっと変化があった時で、たまたまだったんだっけな。
それでその動画撮って、後で訪問介護の人に見てもらって、
こういうふうにつまずくんですよねとかで、そういうふうに役に立ったりもしたし、
結構母は動画いっぱいあるかなって。
あと、空間ビデオ。
いつかApple Vision Proで、30何万とかだから今はすぐに買えないけど、
空間ビデオ撮っておけば、ゴーグルつけて立体で、
過去の思い出に辿れるなぁと思うものの、
いつその空間ビデオが見れる、ヘッドセットみたいなのが買えるかどうかわかんないから、
まだ撮影してないっていうね。
でも、しとかないと、あの時やっとけばよかったなっていう、絶対思うと思うから。
なので、1回だけお母さんと一緒に東京駅行って、アップルウォッチ買いに行った時があって、
あの時は1回だけちょっと撮った。
なんかこう、思い出のものをいくつか手放したことによって、
あの時って思うものの、もう仕方がないかと思える時間が経っていて、
正直、今会ってどうするのかって言われても、特に、
多分あるだけだし、もしかしたら見ないかもしれないし、あるだけで。
そういったことでビデオテープとかおそらく捨てたんですよ。
データにしたし、これあっても再生できる機械がないし、
いつでもどこでもパソコンで見れればいいと思ったのもあるし、
気持ちもおそらくそこで一旦整理、区切りを私はつけたんじゃないかな。
だから捨てられたと思うんですね。
だからその気持ちを私は忘れちゃっているから、今物がないっていうだけで、
なんであの時捨てちゃったんだよ、みたいなのしか残ってない。
なんか不思議やね、ここまで喋ったら、
なんで捨てたんだよって思ってた数十分前の私から、
いやいやいや、でもちゃんと区切りがつけられたから捨てれたんだよ、
っていうふうに思える気持ちも芽生えて、良かったなと思いました。
写真との向き合い
過去を振り返った時に割と辛かったとか、混乱してたみたいなことを、
今はね、いろいろ過程を得て、以前よりは客観視できるようになってるなっていう実感もあって、
でもそれは兄が亡くなってからのこの8年ぐらいで、
それ前までは、なんかこういうふうにうまく整理できてるっていうふうに感覚がなかったんですね。
ビデオテープしてたのは確か20代だったので、
今から考えると20数年前で、父が亡くなってから10年後ぐらい。
なのでだいぶ月日が経ってるから、その時どういうふうに考えたかってもだいぶ忘れてしまってはいるけども、
ただこのことに関して、なんであの時私は捨てたんだ、しか思ってなかったから、
区切りをつけて捨てられたっていうふうな思いは、割と新しい発見かもしれないな。
まあとはいえ、さっきね、昔の写真を探してるものがあって、見てて、
その写真って結構膨大で、何の写真が入ってるか毎回いつもわかんなくて、
自分の高校生の時だったりとか20代の頃もあれば、私が生まれる前のお父さんお母さんの写真があるとか、
小さい頃家族で出会った写真もあれば、すごい雑多な感じの箱があるんですけど、
その中に私が小さい頃お父さんとよく、まあお兄ちゃんもいたけど、スキー行ってた写真だったりとか、
旅行行った時の写真とか見てたら、割と来るものがあって、
このままこの続き、全部を見続けたらちょっと危険だなと思って、
音声収録をしようと思ってたから、ちょっと気持ちが落ちてしまいそうだと思ってやめたんですよ。
でもやめた後に、この辺の写真ってそういえば動画があったよなと思って、
そこで、なんで私あの時してたんだろうかという憎たらしい気持ちを思ったわけですよ。
写真はたくさんですよ。私が3歳ぐらいからスキーやらせてもらったから、
そのちびの私がいたりとか、ちょっと大きくなっている私がいたりとか、
もうちょっと大きくなっている私もいるみたいな、すごい成長過程がわかるんですよ、スキーの写真って。
あ、せっかくその整理した私っていうのを出会ったのに、結局まだ文句になってしまった。
なので、絶対おそらく捨ててないビデオテープがあったはずだから、
これを機に文句ばっかならずにね、残してた私偉いってなるように、
もうそろそろ衣替えの時期でもあるので、探してない段ボールがいくつかあるから、そこを探してみようと思います。
ではこのあたりで今日は終わりにしたいと思います。またねー。