作品の紹介
カランコローン、いらっしゃいませ。喫茶クロスロードへようこそ。
この音声配信は、本好きな人たちがフラッと集まり、みんなが友達になれる喫茶店をコンセプトに、店員たちが気ままにゆるーく話してまいります。
5月5日、第94回の配信です。
本日はナッシー・オハギの2名で営業しております。ナッシー、よろしくー。
よろしく、オハギさん。
今回は、立松和平さんの【海のいのち】という小説を紹介していきたいと思うんだけど、ナッシーはこのお話って見たり聞いたりしたことってある?
いや、これはオハギさんに紹介してもらって初めて知りました。
なんか他にも、【街のいのち】とか【田んぼのいのち】とか【〇〇のいのち】っていうタイトルがつく本を多く書かれている筆者さんなんだね。
そうそう。
命シリーズとしてたくさん作品があるみたいなんだけど、まだ【海のいのち】しかオハギ読んだことないから、そのうち他の作品も読んでみたいなーって思ってます。
で、今回の作品【海のいのち】は、オハギが小学6年生の国語の授業で知った話なんだけど、当時読んだ時に自分史上初めて難しい作品だなーって思った題材でもあったんだよね。
すごい印象が深くて、私の経験上の話なんだけど、小学5年生までの国語の教科書って楽しい作品が多かったり、読んでる時はちょっと難しいけど教訓としては分かりやすいものが多かったりした印象があって、
でもこの作品だけは伝えたいことがうまくつかみきれないまま複雑だったなーって思ってて、授業とかでも結構やってくれたんだけど、最後まで納得感が薄いまま終わっちゃった記憶があって。
なんかすごいね、そんなに印象深い作品というか、授業としてももやもやしたまま終わったなっていう記憶が残ってる作品なんだね。
そうそう、先生も黒板とかに色々書いてくれたりとか、ここはこういう狙いがあってみたいな、教えてくれたんだけど、最後までよくわかんないなーって授業を受けて、テストもなんとなくといったまま終わって、次の作品へっていう感じに進んじゃってさ、
で、その海の命が載ってる教科書の最初のページに学習の狙いが書いてあるんだけど、その狙いには人物の言葉や行動に目を向けて生き方や考え方を読み取ろうって書いてあって、すごい難しいことを小学6年生に求めるなって、当時幼心に思ってて。
だからね、今回はこの海の命を奏して、小学生当時に思ったことを振り返りながら、なっしーと一緒に改めてこの作品を深めていけたらいいなーって思いますので、よろしく。
太地の成長
はーい、よろしくお願いします。
いやでもさ、はぎさんの当時の作品に出会ったときの気持ちまで覚えてるのって、ほんと素敵だなーって今、なっしーは聞いてて思った。
あ、ほんと?
いや、だって、私そんなに印象深い国語の授業ってあったかなーって思って、でもすごいもやもやしたからこそ、すごく記憶に残ってるのかなっていう。
そうね、もう楽しかったで終わりきれなかった作品の一つで、今でも記憶にすごい残ってるから、今、同心に戻ってじゃないけど、もう一回この作品を、この作品に触れていきたいなって思います。
はい、じゃあ私もおはぎさんと一緒に小学生の気持ちに戻って聞いてみたいと思います。
はい、じゃあ早速始めていきます。
はい。
まず主人公は太地っていう少年です。
で、太地のお父さんが出てくるんだけど、太地のお父さんは腕のいい潜り漁師っていうのをしてて、海に潜って魚を盛りでついたりとかするのを潜り漁師って言うんだけど、
すごい腕のいい人だったから、誰も潜れない場所でも大物を仕留めて戻って来れる地元の中でも結構一目置かれてた人だったのね。
一流の潜り漁師ですね。
はい、そうそうそうそう。
で、そんなお父さんを尊敬してた太地は将来の目標として、自分も漁師になってお父さんと一緒に海に出るっていう目標を掲げて過ごしてたのよ。
でもそんなある日、太地のお父さんは漁の最中に命を落としてしまいます。
あらま。
そう。漁に行ったんだけど、ある日帰ってこなかった。
で、潜り漁師の仲間が一生懸命探したら、海の中で太地のお父さんの遺体を見つけるんだけど、
その近くには太地のお父さんと首都を繰り広げたであろう大型の生きたクエっていうお魚もいたわけ。
魚と戦った形跡があって、お父さんは潜り漁中に命を落としてて、遺体が沈んでたんだけど、
その近くにはお父さんの森を体に浸した状態で、じっとしたままクエがそこにいるのよ。
そのクエもすごい大怪我をしている状態でじっとしてたってことだよね。
そうそう。
で、とりあえずお父さんを岸まで持ってって、で、そのクエもどうしようってなった時に、とりあえず仕留めたり捕まえようってしたんだけど、
すごい大物だったから捕まえることができなくて、森が刺さっているのにも関わらず引き抜くこともできないし、
持ち上げることもできなくて、結局その森についているロープを切って逃がすっていう方法しか取れなくて。
えー。
お父さんを見つけて、その背の主と言われている大方の生きたクエも一緒に引き上げることはできずに、逃がすところから物語はスタートしていきます。
ここが冒頭なのね。
そう、ここが冒頭。
ちゃんと森が刺さって、ロープもあって、ここにつなぎ止めておけるけど、でもそれ以上どうしようもないから、しょうがないから、もう逃がすことしかできないってなって逃がすんだ。
そうそうそうそうそうなんです。
え、じゃあもうあれなんだよね。とはいえあれだよね。タイチとしては、かっこいいお父さんは亡くなってしまい、その敵というか、仇役みたいなクエは逃げてしまったっていう状態から物語がスタートしてるんだよね。
そうそうそうそう。結構暗いスタートなんだよね。
暗いし、なんかちょっと悔しいとか、くそーみたいな気持ちから始まりそうなスタートだね。
そうそうそうそう。
で、時は流れ。
タイチはちょっと成長して、地元漁師の弟子になりに行きます。
はい。
で、地元漁師のよきじじいさっていうおじいさんがいるんだけど、このよきじじいさは、タイチのお父さんが死んだせに毎日出て、一本釣りをしている漁師で、そこにタイチは弟子入り志願をするのよ。
おー、あの因縁の場所のね、因縁の場所で漁をしているよきじじいさに弟子入りをすると。
そうそうそうそう。
で、タイチはよきじじいさの動きを見学したり、雑用仕事をこなす日々をしていって、っていうシーンがずっと続くんだけど、
当時、小学6年生で読んでいる身としては、変わり映えしなくてちょっとつまんないシーンだった。
修行シーンはあんまり面白くないと。
修行シーンはあんまり面白くないし、暗いスタートから始まって成長して、弟子入りして、で、修行シーンって、物語が淡々と進んでいくし、ずっと暗い感じだなーって首をかしげながら読んでた。
でもここからちょっと深い話になっていくんだけど、
タイチが弟子としてよきじじいさの下で経験を積んでいく中で、
そのよきじじいさとタイチの父の言動がたびたび重なるシーンがあるんだよね。
例えば、タイチの父が大物を勧めた時、自慢することなく、これは海の恵みだからってみんなに言ったり、
そのよきじじいさが漁の最中に、1000匹いるうちの1匹を釣ればずっとこの海で生きていけると呟いたりするシーンがあって、
今改めて読めば、海に対して敬意を払う描写があって、魚の命をいただく立場としての心配りをどう持つかっていう教えのシーンが、
タイチのお父さんとよきじじいさでそれぞれあるよっていう教えのシーンになっていくんだけど、
ここも小学6年生で読んだ時に、これは何を伝えたいのか全然わからんと思って、
戸惑いのシーンで、私の中では、このシーンの真意を知れたのが本当大人になってからで、
この題材が小学6年生で、はい、教科書に載りますってなった時に、すごい判断だったなっていうのも最近思ってて、
なるほどね。でも確かに、今大人になった身でとか、いろんな経験を積んだ上でだったら、
海が広くて、自分たちが大きな自然の中で生かされているんだよみたいな、多分そういう教えとして、
よきじじいさとお父さんがそれぞれ言っている台詞は、そういう思想が背景にあるんだなって、今だったら確かにわかるけど、
確かに私も小学生なしだったら、この台詞、いきなり出てきたぞみたいな、
どういう文脈でここの台詞が出てくるんだ、みたいな気持ちになりそうだなって思ったし、
やっぱり冒頭からのシーンの流れを考えるのと、もうちょっと背の主を倒すためのアドバイスとかをもうちょっと大事にしてあげてよみたいな、
そういう気持ちになりそうだなって。
そうなんだよね。小学生だとどうしても敵がいて、お父さんが亡くなってて、どうしてもやっぱり仇討ちとか、
さあ、倒すための修行だみたいなのを想像させるかなって思ったけど、
特に倒すための修行シーンじゃなく、ただただ仕事をこなすシーンだから、
この作品の面白みを知るのは、小学6年生には結構ハードルが高いな。
物語の深い意義
そうだよね。そういう頭でちょっと読んでる感じもあるけど。
なるほど。
この作品って、物語の中で大地の独白のシーンっていうのかな、
心の中で大地実はこう思ってるよとかっていう表現がほとんどないから、
当時は余計にどういう風に読んだらいいのか、どういう風に自分の中で落とし込んだらいいのかっていうのをすごく考えさせられた話で、
だからこそ今こうやってまた大人になっても振り返って語りたいなって思える作品に、
自分の中でなったのかなとも思うんだけどさ、
ちょっと物語にまた戻ってくんだけど、
大地がよきじじいさの下でずっと修行してて、何年も経ったある日、大地はもう青年になってるんだけど、
よきじじいさは浪水で亡くなってしまいます。
その時大地のセリフで、
ああ、海に帰りましたかよきじじいさっていうのがあって、
語り部として今の大地は自然な気持ちで顔の前に両手を合わせることができた。
父がそうであったようによきじじいさも海に帰っていったのだっていう語り部が入ってきて、
もうすごい今考えると深いんだけど、
ここも当時の私の混乱シーンの一つでさ、
小学生おはぎ混乱しました。
小学生なりにすごいこれ考えてて、
どういう意味なんだろうって当時思っててさ、
亡くなった背景も年齢もお父さんとよきじじいさは違ってて、
大地のお父さんはいわゆる自己死で、
きっと人生まだまだあったのに若くしてきっと亡くなってしまった中で、
よきじじいさは長年漁師をしていて、
年をしっかり重ねていって浪水で亡くなってっていう、
亡くなった時の恐ろしさのイメージとかも背景も年齢も違ったのに、
同じところへ帰っていくってどういうことなんだろうっていうのをすごく考えさせられたなって、
ここも授業でちょこっと触った記憶があって、
最終的に納得感は全然ないまま授業は終わってしまったんだけど、
小学6年生向けの作品としてどう思うなし、
すごい難しいと思わない?
すごい難しいと思うし、やっぱり人が死ぬってことが、
そんなに身近じゃないと思うんだよね。
小学校6年生だと特にまだ12年しか生きない人生で、
おじいさんが死んでしまったとかがあるかもしれないけど、
そうなった時に、その死が同じものだって認識するのって、
やっぱり難しいよね。
状況が全然違うっておはぎさんが言ったこともそうだしさ、
これの出来事とこの出来事が同じじゃっていうふうにはあんまり考えられないよなって確かに、
それは確かに小学生おはぎさんは混乱するよなっていうのを思ったし、
私の今の話を聞いている印象だと、
大地は青年になったことで急にすごく成長するんだなって思って、
大地の成長
独白とかがないから、余計さ、
大地はこう思ったからこういうふうに考えるようになったとかは描写されてないわけじゃん?
そうそうそう。
なんかその成長に小学生だと追いつけないよね。
たぶんその章がさ、物語が進んでいっても、
あれ?みたいな、大地いきなりなんかめっちゃ成長したみたいなさ。
そうなんだよね。
読者をさ、すごく置いてけぼりにする題材だったんだよ。
読者というかもしかしたらおはぎだけだったかもしれないけど置いてけぼりにされたのは。
なるほどね。おはぎさんはその成長についていけなくて、
あれ?大地と考えが合わないぞみたいになったんだね。
そうそうそう。
でも小学6年生の時に海の命っていう本に触れたことによって、
自分が大人になってこうして配信で語るくらいに思い出深く残ってるってことは、
なんだかんだ言っても海の命に触れるのにとても適した時期だったんだなっていう証明にもなってるから、
本のタイミングって不思議だなって思う。
じゃあ今そのタイミングが適切だったとおはぎさんは思うんだね。
そうそう。
こんだけすごい話してて、ずっと海の命、小学6年生には早いんじゃないかみたいなのをずっと提唱みたいなことをしてるけど、
なんだかんだでもこんだけ語りたいくらいには印象に残ってて、
海の命、好きか嫌いかって言ったら好きだし、
好きなんだね。
思い出として強く残ってて、その思い出も楽しかったというか、
分からないなって悩んだ時間も今思えばちょっと楽しかったような気もしてて、
なんで慣れ親しんだ作品を改めて味わえてるんだなってちょっと思えてるから、
小学6年生っていうタイミングでちょっと背伸びした作品に触れるのはちょっといいのかもしれないって、
今語りながら思ってる。
いやでもそれはおはぎさんが小学6年生の時にそれだけ真剣にこの作品と向かい合ったからなんだろうなっていうのもらしいわ。
いやー、だと嬉しいな。
それからどうなるんですか?
そうそうそうなんですよ。
それからですね、よきじじいさの死を乗り越えた大地はさらに時を得て、
嵐さえも跳ね返す屈強な若者に成長していきます。
よきじじいさが亡くなる前に、ゆいごんみたいな形で、
大地お前は村一番の漁師だよっていう言葉を残してて、漁の腕ももう確かでピカイチなんです。
そんな漁師生活を続けていた大地は、ある日から父の死んだ瀬に潜るようになっていきます。
潜り漁として父の死んだ瀬をわざわざチョイスして潜るようになっていきます。
で、とうとうその海の中で瀬の主だと思われる大型のクエに遭遇します。
ついに、ついに敵と遭遇するわけですね。
そうです。もう150キロを超えるであろうその風貌を見て、
大地は、やつはきっと自分の父を破った魚だと直感して森を突き出して威嚇するんですけど、
クエはまた一向に動こうとしないんです。
クエは暴れるどころか、全く動こうとせずに大地をじっとこうやって見つめているばかり。
そんなクエの様子を見た大地は、この魚を捕らえなければ本当の一人前の漁師にはなれないのではと泣きそうになりながらも、
硬着状態が続いて、ずっと大型のクエと大地が森を突き出している状態でじっとしているシーンがずっと続くんですよ。
すごい緊張の瞬間が、というか緊張のみなぎるシーンなんだね。
そうそう。
こっから衝撃のシーンがずっと続くんだけど、
その硬着状態が続いた後に、大地は水の中でふっと微笑みます。
その後に、「ああ、お父さん、ここにおられたのですか。また会いに来ますから。」と大地はこう思うようにしたんです。
こう思うことで、背の主クエを殺さずに済んだっていう描写があって、
硬着状態が続いて、きっとお父さんを殺したであろう背の主クエがいるのにもかかわらず、殺さずに終わるっていう話になってて、
これを読んだ時に、てっきりお父さんの仇討ちみたいなストーリーになるのかなって思ってたから、
当時読んで、えー戦わないの?って思って。
ごめん、私もまさにおはぎさんとそういうストーリーじゃなかと思って、今想像してたよ。
なるほど。
それも戦わないで終わったし、また会いに来ますからの後に、この大魚が海の命だと思えたっていう文も書いてあって、
何を思って、自分のお父さんを殺したであろうクエを、この大魚が海の命だと思えたのかと思って、最後の最後まではてなはてなはてなで終わる小学生おはぎっていう感じで、
今思えばなんだけど、大人になったおはぎ的にの観点なんだけど、大地なりに何かしらの迷いを振り払ったりとか、自分の中で踏ん切りがつくようなところがあったんだろうなっていうシーンなのかなって思うけど、
ここを自分なりに読み解けるようになるまですごく時間がかかったし、今もちょっと迷いがありながらの考察になってて、
どう思った?この話の終わりというか。
いや、なんかね、でも最後の大地のセリフ、「弟、ここにおられたのですか?」っていうセリフを今聞いて、あれ、私やっぱりこの作品、何かで読んだのかもしれないなっていうのをちょっと今思い出して、
多分、まあでも多分教科書とかじゃなくて、多分試験の問題とかだったかもしれないんだけど、
なんかここは読んだ気を、このシーンは読んだ気がするぞっていうのを今唐突に思ったよっていうのと、今までそのことを忘れていたから、
やっぱり小学生なっしー的には、おはぎさんと一緒でさ、あれ、仇を引き散らないの?みたいな。
そこは戦って勝って、俺が一人前の漁師だぜってなるとこじゃないの?って思う気はするんだけど、
でもなんかあれなんだよね、もっとその100匹のうち1匹をとっていれば生きていけるみたいな話とかそういうのを考えると、
この大魚を倒すことで得られる名誉とかではなくて、
なんかその自然の中の一部みたいな気持ちに、大地はやっと到達できたみたいな、そういう描写なのかなっていうのを、
今大人なっしーだったら思うけど、やっぱり小学生なっしーは、やっぱりわかんなかったかなって思う。
そうなんだよね、なっしーのその見解めちゃめちゃいいな、そこに大地もようやく到達できたっていう、大地の成長。
命の真の意味
確かに今聞いて、わーすごい良い。
これでもだってね、だって、試験問題だったからきっと答えはあったかもしれないけど、
でもなんかその答えも覚えてないし、やっぱりね物語の読み方は人によって違うから、多分いろんな答えがあっていい話だしね。
この作品のタイトルにもなってる海の命っていう文がここで初めて出てくるんだけど、
最終的にじゃあこの海の命は何なのかっていう答えも抽象的なままで物語が終わっちゃうから、
自分が読んだ小学生の時は本当に最後の最後まで謎の作品だったんだけど、
その小学6年生の題材として読む海の命と、
そのなっしーがちょっと年を重ねてからの試験問題として触れた海の命って同じ作品だけど見方がきっと変わるだろうなって今話聞いてて思ってて、
その試験問題での海の命の問題文とかちょっと読んでみたいなって思っちゃった。
どういうことが書いてあるんだろうって。
何かヒントが書かれているかもしれないと思って。
いやでもそこまでは全く覚えてないな。
ちょっといつか試験問題とか探してみてみようかな。
でも小学生の時に全くわからなかったのが少しだけわかるようになってきたとか、
自分がもう少し年を重ねていけば感じ方が変わったり、
わかるところも増えていくのかなって海の命に関しては思ってて、
小学生と大人の視点の違い
この作品と一緒に年を重ねる感じちょっといいかもって思っててさ、
あんまり本に対してこういう楽しみ方ってしたことがなくて、
その一回読んだだけでまるっと理解できるわかりやすい特徴を今まで多くしてきたけど、
ちょっと深い自分よりも大人な本と過ごす時間もいいなって、
この配信とこの海の命を通してちょっと思えるようになったかもしれない。
小学生の時の国語の授業とかでもさ、
そんなにじゃああなたはこれについてどう思うっていうディスカッションをした記憶とかもなくてさ、
これについてどう思いますか書いてみんなでちょっと発表する終わりみたいな授業だったかなと思って、
あれって結構一方通行っていうかさ、
それってどういうことみたいな話とかにはならないから、
今ね、おはぎさんとこういうことかなとかっていう風に話せるのもやっぱり面白いなって思ったし、
試験問題だったらしかも答えを書かなきゃいけなくて、しかも一方通行じゃんそれもとかっていうのではなくて、
本当に話して味わえるのはすごい楽しいし、
小学校の教科書の話でもこんなに楽しめるのって、
やっぱり物語っていろんな面で考えるとすごく楽しいね。
そう楽しい、確かに授業だと結構答えがあって決め打ちで全部進んでっちゃうから、
昔みんなが読んだことあるやつを持ち寄って実際これどう思ってたっていうのをディスカッションじゃないけど、
それで雑談をしてみると面白いかもしれないね。
それ面白そうだね。
それちょっといつかやりたいな。
やろっかやろっか、やりたい。
やりたいな、ちょっといつかの配信でやりたい。
でもあれだよね、もちろん今の授業どうなってるかわかんないからさ、
私とおはぎさんの20年ぐらい前の教育は、
学校だとそうだったけどっていうところではもちろんあると思うけどさ、
そういう意味でも教科書の話をもう1回話してみるのはすごく楽しそうだなって思いました。
物語の多様な視点
ありがとう。
今回ちょっと話の兼ね合いで割愛しちゃったんだけど、
海の命の中で大地の母の描写も結構細かく描かれてて、
母も登場するのね。
母も登場するんですよ。
その大地があまりにも海に執着するので、
それに対して母が大地のことを心配する描写があって、
そこも味わい深くていいので、
もし読む機会があったらそこも注目してほしいです。
今度は母サイドの話もあるわけですね。
そう、母サイドの話もあります。
めちゃめちゃいろんな視点で見られる物語じゃないですか。
そうなんですよ。
ぜひ読んでみてください。
はい、ありがとうございます。
次回は何かな?
来週は新井悠希さんの
感情の海を泳ぎ言葉と出会うというエッセイを紹介したいと思います。
この本、今回の話と海つながりと思うかもしれませんが、
ちょっとそういう海ではない海の話になります。
どんな本になのかなって気になる方は、
ぜひ次回をお楽しみに。
おー、楽しみだ。
はい、ここまででトークテーマは終了ですが、
キサクロではいつでもお便りを大募集しています。
トークのご感想や本にまつわるお悩みなどをぜひご投稿ください。
ポッドキャストやノートにお便り投稿フォームのリンクをご用意しておりますので、
そちらからご投函いただけると嬉しいです。
今後もキサクロスロードは、
毎週月曜日夜21時よりゆるゆる営業していきます。
本日はお越しいただきありがとうございました。
またお待ちしております。
バイバイ。