00:00
和歌山市のアウトドアショップ、キセンラ&トレイルの白石です。 kisenradio presentsArcade RADIO第5回です。
2023年9月19日、和歌山県那智勝浦町のmanifact jam楓さんで収録しました。 今回のゲストは、10月7日、8日の2日間、
勝浦漁港で開催されるアーケードにも出展する 和歌山県那智勝浦町で木工製作生活用品展を運営している
manifact jam 楓の古橋治人さんと古橋真理子さんです。 今回はARC上田さん単独でのインタビューです。
古橋さんの生まれから現在に至るまでのルーツや現在の活動のこと、 これから計画していることについてお聞きしました。
それではお聞きください。
自己紹介していただいてもいいですか?
那智勝浦町で木工製品を作っている古橋と申します。
はい。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい。私は、うちの古橋が作る木工品と、 あと全国の作家さんの器とかバッグお洋服なんかご紹介するお店
でmanifact jam 楓をやっております。古橋真理子と言います。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
今日は古橋春人さんの旦那様の方のお話を中心に聞かせていただいて、
ところどころ真理子さんももちろん登場すると思うので、 その辺も一緒に話していただければ、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
古橋さん早速なんですけど、生まれはどちらですか?
生まれたのは関東で、生まれた病院は東京なんですけれども、すぐに東京のすぐ上の県の茨城県。
そこがうちの母親の田舎で、そっちでずっと育ちました。高校が終わるまで。
03:03
古橋さんの家庭環境的にはどんな感じだったんですか?
うちの家庭環境的には、うちは母子家庭で、ずっと父親も家にいないんで、母親が働きに出て、ぽつんと一人で家にいるみたいな。
兄弟とかは?
一人っ子なんです。
子供の時の古橋さんってどんな人だったんですか?
子供の頃は何の変哲もないというか、家がそんな感じだったんで、例えばご飯はよその家で食べさせてもらったりとか、近所の家にすごくお世話になって育った感じです。
ちなみに子供の時好きだったこととか?
子供の頃は何してたかな。
よく僕みたいな作り物してる人は、みんな手先が器用で、子供の頃からそういう作るものが大好きで、みたいな人が多いんですけど、
一切そういうことはやらず、少年野球をやったり、サッカーをしたりとか、
あと茨城県だと、これ言ったら怒られるな多分。言ったら怒られるんですけど、芝畑っていうのがあるんですよ。
芝畑?
芝生を販売するための畑なんです。
一面見渡す限りの芝生があって、それを切り出して販売するっていう芝畑っていう。芝が名産なんです。
そうなんですか?
そうなんです。
で、その芝畑でこっそりゴルフクラブ持って行ってゴルフをするっていう。
そういう遊びは?
はいはい。そんなばっかりですね。だから体を動かすようなことばっかりしてましたね。
結構活発な子供だった感じですか?
そうですね。あんまりインドではなかったけど、でもやっぱりファミコンみたいのがちょうど流行りだしたんです。
僕今年で51なんですけど、ちょうど小学校の時に、家の中の遊びはファミコンとガンダムのプロモデルわかります?ガンプラが流行りだした時で。
でもあんまりそういうことよりも、やっぱり外で体を動かしている方が楽しかったですね。
06:00
小学校そんな感じで過ごして、中学校で部活とか?
中学校も同じような感じです。部活はスポーツでサッカー部に入って、同じような感じです。もう家の中にはいない感じですね。
何か作ることに興味が出てくるのはいつぐらいからなんですか?
作ることに興味が出てくるのはだいぶ後で、そのまま普通に高校に行って、浪人して大学に入るんですけど。
大学の学科を受ける時に、学科を決める時に何科に入るかっていうので、建築学科にしたんですけど。
その時は何で建築学科にしたかというと、理系だったんです。とりあえず文系理系に入るときに。
理系だけれど、例えば数学科とか物理学科とか、そういう理学部に行くほど、別に理系、そういう計算が得意なわけでもなく、
何となく絵が描けたりしたんです。
だけど、美大に行くほど絵が上手なわけでもなく、何となくいろんなことが人の6割ぐらいできるような器用貧乏的なものが一番合ってるのって建築なのかなと思って。
それを自分で考えて建築学科に?
そうです。建築が好きっていうよりも何となく。
誰かに影響を受けてとか、そういうこともなく?
そうですね、そういうこともなく。
どこの大学に行かれるんですか?
大学は日大に行ったんですけど、東京で一勝投げれば日大戦に当たるっていう。
日大に行って、建築の勉強を4年間。
だけど、1年生、2年生の頃は全然興味がないこともないですけど、
何となく建築学科に。何となく大学生活をバイトしながらとか、3年生まで終えて。
建築士になりたいっていうのはずっとあったんですか?
それも4年の時に一生懸命とりあえずやらないとまずいなと思って、一番厳しい研究室に入った。
09:02
4年の時にゼミを決めるんですけど、その時に一番厳しいって言われてる。
これヤバいな。
ちょっとヤバいかもしれないですね。
一番厳しいって言われてる、あそこに行ったらヤバいよって言われてるゼミがあって、
そういうとこ行かないと、強制的にやらないとやらないなと思ったので、
そういうとこに入ってみたら、建築の学問に対して厳しいっていうよりも、
多分これもカットになると思うけど、そこのゼミの先生がめちゃめちゃ麻雀が好きで、
延々麻雀にやらされるっていう、そういうゼミだったんです。
でもやる気はあった。やる気はあったというか、一生懸命やらなきゃいけないと思ってたんで、
先生の目をかいくぶり、一生懸命勉強するみたいな。
先生に会っちゃうと麻雀にやらされるみたいな。
それ厳しいっていうのはどういう厳しさだったんですか。
厳しいっていうのは普通は、研究室っていうと、校舎に研究室の教室があって、
そこでいろんな活動を卒論したりとか、卒業政策をしたりとかするんですけど、
そのゼミの先生がちょっと変わってる人で、
学校の外にアパートを借りて、そこを研究室みたいな感じにして、
他の学部の人たちと隔離された感じで、そういうことをするっていう。
麻雀とかは。
入ってみたら、隔離されて厳しく勉強するんじゃなくて、隔離されて麻雀をさせられるっていう。
そういうところだった。
なんとなく自分でそういった勉強をいろいろ一生懸命やってみて、
あんま向いてないなと思って一生懸命やってみたんですけど、
その時に机が子供の頃からやっぱりインドアよりアウトドアというか、
外に出て運動するほうがあれだったんで、
設計するよりも作るほうが向いてるんじゃないかなと思って、
職業訓練校っていう学校あるの知ってます?
何でしたっけ?
本来は職のない人に手に職をつけさせて、また社会を送り返すっていう学校なんですけど、
12:02
若い人にも開放してる学科があって、職がないっていうよりも就職する前に手に職をつけさせて卒業させようっていう、そういう学科があって、
僕はそこの木工科っていうところに、木工科っていうところか大工さんになるようなのとか、
いっぱいあるんです本当に、職業訓練校って。ありとあらゆる学科があって、そっちに行こうかなと思った。
大学を卒業するときに。
大学を卒業してから職業訓練校に?
に行こうかなと思って、ずっといろいろ調べてたりしたんですけど、
一回見学に行ってみて、いろいろ調べてみたりしたら、職業訓練校っていうのは一回勤めてから入ると、失業保険がもらえるんです。
そのまま学校を卒業して職業訓練校に入ると、授業料はないんです。
だけど、失業保険はもちろんもらえる。
働いてから入ると失業保険がもらえる。
で、建築士の試験っていうのがあるんです。
建築士になるための、一級建築士になるための試験があって、
その受験資格が、大学卒業して実務経験を2年積むと受験してもいいですよっていう受験資格があって、
それを考えたら、2年どっかに勤めて、もう一回職業訓練校に行った方がいろいろといいんじゃないかなと思って、
で、たまたま学校の先生、その当時の大学の入った研究室とはまた違うゼミの、
非常勤講師で来ていた先生のところに、たまたま入れてもらえることになったんで、
それも多分4年の2月とか1月とかギリギリ。
非常勤講師の先生がやってる設計事務所みたいな。
やってる設計事務所があって、そこにとりあえず勤めることになって、
2年やってみて、もしそのままやれるようだったらやってもいいし、
ダメだったらやっぱり予定通り辞めて、職業訓練校に入ろうかなと。
15:07
やってみたらやっぱりダメだったみたいで、それで職業訓練校に入って、
その木工科っていうところに入って、いろいろ家具を作ったりとかそういうことを教えてもらって。
建築の仕事はどういうところがあってなかったんですか?
建築の仕事は図面描いたりとか、デザインしたりとか、そういうのはすごく得意というか苦にならないんですけど、
設計の仕事って、要はそういうところよりも調整の仕事のほうが大切なんですね。
予算をどう割り振ったりとか、職人さんを手配したりとか、建設会社にお願いしたりとか。
それが猛烈に嫌で。僕が一番嫌いな仕事が打ち合わせなんです。打ち合わせと電話。
そうすると建築の仕事って致命的で、打ち合わせと電話ができなかったら何もできないんで。
自分一人だけで完結できる仕事じゃないんで。
それとやっぱり机の前にずっと座っているのが苦痛だったっていうのがあって、
それでやっぱり作るほうが向いているかなと思って、それで職業訓練校に来ました。
そこに至るまでも中学・中高時代の活発なスポーツとかが好きっていうところから、
ものづくりに行って結構間が飛んでいるような感じがあるんですけど、その間何かあったんですか?
それはやっぱり大学の時に建築の勉強をするようになって、建物が出来上がる過程とかで、
いろんな職人さんのことをちょっと勉強したりとかしている中で、
やっぱり図面を描いている人よりも作っている人のほうがなんとなくかっこいいなっていう憧れみたいな、
そういうのがだんだん多分出てきて、それでちょっとずつ、ちょっとずつというかそっちにシフトしていったんだと思います、多分。
なるほど。職業訓練校はどうでした?
職業訓練校はもうめちゃめちゃ丁寧に教えてくれるんですよ。
18:03
それどこにあるんですか?東京ですか?
はい。品川技術専門校っていう、今名前変わった気がするんですけど、当時はそういう名前で。
東京に住みながら品川通って、1年教えてもらって、家具を作る会社に就職しようと思って、
就職も決まってたんですけど、ちょっと家庭の事情で家に戻らなきゃいけなくなって、
家に戻って、なんとなく自分で作るのも初めて。
そうなんですか。
そうなんです。
茨城の実家で?
で、なんとなく、周りがみんな建築関係の人が多かったんで、図面描いたりとか家具作ったりとか、
家具もそんな設備がちゃんとしたのがあるわけじゃないんで、簡単なものを作ったりとか、
なんとなくそれで食いつなぎながら、茨城の地元でどこか就職できればなと思って、
就職先を探したりしているうちに、なんとなく自分の仕事が増えていって、そのままみたいな感じです。
すごいですね。
すごくないです、全然。もう本当に流れるままというか。
最初は頼まれた仕事というか、依頼を受けて作ってっていう。
そうです。
何を最初は作ってたんですか。
その頃は最初は家具、テーブルとかそういうのが多かったんですけど、そういうのを作ったりとか、
あとは本当に、図面を1枚くらいで描いてとか、そういう仕事をやってました。
結構そういう仕事って自分で初めて、なかなか食べていけるようになるのが難しかったりとか。
でも実家だったし、それ以外にバイトとかもしてました、その頃は。
ちょうど大学出て、2年勤めて、1年学校に行って、初教訓練校に行って、向こう帰ってっていうので、たぶん27か28くらいだったんですね。
なんとなくそういうアルバイトしたり、図面描いたり、家具作ったりみたいのをしながら、茨城県の上に福島県っていうところがあるんです。
21:06
福島県に、小民家を解体して、それを移築するっていう、ブローカーみたいなことをやってる人がいて、
ちょうどその頃、わりと小民家とかの小材っていうのが、わりと注目されてた頃で、
僕も学生時代に、アルバイトみたいな感じで勤めてたインテリア設計事務所があって、
そこが日本で一番小材を使うのが上手というか、小材を広めたみたいなデザイン事務所があって、すごく影響を受けて、
それちなみになんていうところなんですか?
そこはスーパーポテトっていう、杉本さんっていう方がやってたような、みんな泊まり込みで、給料も大してもらえずみたいな、
そっちのほうがよっぽどゼミよりもだったんですけど。
だいぶ鍛えられて。
でもそっちは本当に勉強になって、アルバイトさせてもらえるだけでも。
インテリアの設計って店舗設計ですか?
そこ店舗が多かった。その時は、無印。無印ってたまに小材貼ってあるの、わかります?
貼ってますかね。
小材の柱とかがあったり、そういうのを使い始めたのがスーパーポテト。
今のデザインは違うのかな?
ちょうどその頃そういうのをやり始めて、
自分でやり始めた頃に、福島でブローカーみたいな人がいるっていうんで、
その人は若い子を集めて、解体を体験させるみたいな。
手よく働かせてるんですけど、
そこに行かせてもらって、小材をそこで買わせてもらって、
持って帰って、小材で家具を作るみたいなのをやるようになったの。
ちょうどその頃に。
それでいろいろ作ったものを雑誌とかに載せてもらったりするようになって、
なんとなくだんだん仕事になっていったみたいな。
それ雑誌に取り上げられたのは何でなんですか?
雑誌に取り上げられたのはホームページを見たりとかかな。
24:01
その頃ちょうどみんなホームページみたいなのを少しずつ、
まだSNSは全然なくて、ブログとかもなくて、
ホームページみたいなのをなんとなく作ろうかな、作らないかなみたいな。
だからホームページを作る仕事みたいなのもやってました、その頃。
2000年前後ぐらいですか?
そうですね。28ぐらいだから、ちょうど2000年ぐらいで。
僕が設計事務所に、ちょっと話が飛んであれなんですけど、
設計事務所に入ったときに、
僕の一番の仕事は、
その頃ってみんな紙にシャーペンで図面を書いてる時代だったんです。
ちょっとずつ、CADって言って、
コンピューター上で設計をする、ちょうど過渡期。
過渡期というか始まりぐらい。
僕が設計事務所に入ったときに、
僕が入った事務所がコンピューターを導入して、
CADに移っていくみたいな。
すごいちっちゃい事務所なんで、何人いたかな、8人ぐらいかな。
誰もできないです、それ。
お前が勉強して、周りに教えろみたいな。
それで、割とコンピューターみたいなのが得意だったんで。
もともと得意だったんですか?
もともと得意というか、
みんながコンピューターを持つようになったのが、ちょうどその頃なんです。
それまではコンピューターを持ってる人なんてほとんどいない。
ちょうどMacだったら、何だろう、覚えてないな。
覚えてないけど、iMacとかよりちょっと前なんです。
もう何年か経つとJobsがAppleを追い出される。
ちょうどその前ぐらい。
で、みんなちょっとずつ、個人でもコンピューターを持ってる人がいるかな、みたいなのがちょうど働き始めた。
なるほど。
じゃあそのCAD係を任されたことで、スキルが身についていったっていう。
それでいろんなコンピューターみたいなのが詳しくなって、
ホームページみたいなのも自分で作ったり、他の人のも作ってあげたりして、
で、たぶんちょうどインターネットがバーッと盛り上がって、
27:02
みんなが見始めるようになった頃に、
たぶんもうこうやってる人でそんなことやってる人あんまりいないんで、
ちょっと目立ってたんだと思います。
なるほど。そこからはもうずっと作家としてっていう感じじゃないですか。
そうですね。作家といえば、
でもやっぱりその頃はちょうど家具が多かったんで、
まあ作家、そうですね。
まあ作家ってあれなんですけど。
でもそれで独立できて、みたいな感じでした。
ちなみに独立したときはどんなものを作ってたんですか。
独立したときは、独立しましたって感じじゃないですよね。
なんとなく頼まれてない、誰にも何にも頼まれてないときに
自分の考えているものをそうやって小材を使って作って、
小材を使うと一般的に家具で使うような大きな加工機械があるんです。
家具作るときって。
ただ木材の片側を平面にするだけの1トンもあるような機械とか、
そういうのが使えないんです、小材は。
釘が入ってたり、そういうのがあるんで、
刃が欠けちゃうんですよね、大きい機械を使うと。
だから手加工が中心になるんで、
ちょうど機械もその頃買えなかったんで、ちょうどいいというか、
それを手加工で作って、またホームページに出して、
またそれが雑誌に載せてもらってみたいな感じで。
それはどうやって売ってたんですか?
その頃は知ってる人が買ってくれたり、
ホームページなんでメールで注文があったり、そんな感じでした。
何かあったかな?
あとクラフトフェアの走りみたいなのがだんだん始まってる頃で。
クラフトフェアって言ったらどんな?
クラフトフェアってその頃は出てないんですけど、
松本クラフトフェアがガラガラだった頃ですね。
松本クラフトフェアって多分今日本で、
今はどうなんだろうな、一番有名なというかがあるんですけど、
30:01
それがちょうど木工をやってる人で三谷さんっていう方が、
僕らからしたら神様みたいな人がいるんですけど、
その人と周りの方たちが長野県の松本でそういうのを始め出した頃なんだと思いました。
松本にはその頃は僕は出てないんですけど、
新宿にオゾンっていう都庁の隣にあるオゾンビルっていうのがあって、
そこに建物の中であるクラフトフェアみたいなのを応募して審査されて、
それに出れるみたいなのがあって、そういうのを出したりとかして、
そういうのをちょこちょこ他の人の頼まれた仕事をしたり、
それが口コミで広がったり、そういうクラフトフェアみたいなのに出たりしてたら、
だんだん仕事ができるようになってたっていう感じです。
仕事ができるようになったっていうのは、
依頼されてっていうんじゃなくて、
古橋さん自身で作りたいものを作ってやっていけるみたいな。
その頃は両方やってました。
自分でちっちゃいものを作って、
ホームページに載せて販売したりとか、
頼まれて家具みたいなのがあったりとか、
あとは内装の工事をしたりとか、
あとは設計の仕事とか。
そこからどうなっていくんですか?
そこから、その後に、
栃木県に橋小町っていう養業地。
養業地っていうのは焼き物。
焼き物のことを養業って言うんですけど、
焼き物の町があって、
今まで実家の車庫みたいなところで作ってたんです。
コツコツコツコツしながら。
どっか作業場借りれたらいいなと思って、
いろいろ探してるうちに、
橋小町でちょうど作業場を貸してもらえることになって、
橋小町に引っ越しをして、
マリコとは橋小で会うんです。
マリコさんは橋小で何をされてたんですか?
その時はスターネットにいたのかな。
33:03
橋小町にスターネットっていうお店があって、
割と有名なお店で、
カフェと器とか、物販をするお店があって、
マリコはそこでウェイトレスをしていて、
僕は定期的にそこに呼ばれて、
図面を描いたり、アルバイトみたいな感じ。
そのお店の図面ですか?
お店の図面を描いたり、
あとそのお店がよく頼まれたりしてたんで、
有名なお店だったんで、
お店を作りたいんですみたいな。
頼まれたりしてたんで、
お手伝いみたいなのをしたりとか、
そのお店のホームページを作ったりとか。
それが一番あれだったかな。
定期的に行って、
ホームページを直していくみたいな。
橋小で工房を持って。
橋小って洋行地で周りがみんな陶芸家なんです。
今までは家具を作ってたんですけど、
だんだん小さいものの方が羨ましくなってきて、
だんだん小さいものを作るようになって、
今はスプーンとか、
そういうふうに変わって、
そこからほとんどあんまり変わってない気がします。
作ってるものは。
羨ましくなってっていうのはどういう部分?
楽しそうなんですよね、単純に。
家具とか大きいものを作るよりも、
小さいものを手の中に収まるようなものを作ってるのが、
なんとなくいいなと思って、
影響されてというか。
それでそんな感じ。
その時、矢号とかってどんな感じでされてるんですか?
矢号はマニュファクトジャムっていう矢号を。
もうすでに。
そうです。いつだった?
橋小屋を移るときか、ちょっと前ぐらいから、
自分が家具を作ったりとか、
家具を作るときに鉄を使ったりもしてたんです。
溶接をして。
とか、いろんな材料が混ざっていくといいかなと思って、
それでマニュファクチャーと混ぜていくみたいな感じで、
36:01
そういう名前をつけて、
今はすごい後悔してるんですけど。
なんでですか?
若気のいたりでそんな名前をつけてみたいな。
いや、めっちゃいい名前だと思うんですけど。
領収書をもらうときに恥ずかしくて恥ずかしくて。
絶対聞き換えされるんで。
確かにちょっと珍しい名前でもありますよね。
それで、そのまま独立して、
そのぐらいからちょうど本当にクラフトフェアが
最盛期になっていって。
何年ぐらいですか?
何年ぐらいだろう。
結婚した頃なんで。
何年ぐらい?
18かな。
18年前ってこと?
2018とか。
それぐらいの頃に。
本当に各地、各地というか、
マシコはマシコで、
陶器市っていうのが年に2回あって、
生にも来るんですよ、人が。
で、ゴールデンウィークの頃には
松本クラフトフェアがあったり、
秋には大阪でともし人の集いっていうのがあったり、
そういうの各地で出るようになって、
だんだん今に繋がっていくようになって。
で、そのマシコの後に、
筑波に移動されて、
名前を出されるんですけど、
これはどういうきっかけで?
それは、
マシコにいる頃に結婚して、
うち母子家庭で母親が1人なんで、
1回筑波の隣なんですけど、
そこに1回帰ってきたんです、2人で。
で、またちょっと家の中直しながら、
作り物をそこでして、
販売してっていう生活をしてたんですけど、
たまたま筑波市の中心の方に、
よく行ってたコーヒー屋さんがあって、
その方が移転する。
で、その移転先が古い木造アパートの
1階部分が店舗になっていて、
2階が人が住んでるみたいな。
で、筑波大学っていうのがあって、
目の前が筑波大学で、
その学生さんが上に住んでたりとかしたのかな。
で、下が、
2階が4部屋か5部屋あって、
下も同じ仕切りで店舗になってるんですよ。
39:03
シャッターが閉まってて。
そこは全部空いてて、
あ、1軒だけ入ってたのか。
電気屋さんが入ってて、
それ以外はもう全部空いてるんです。
そこにコーヒー屋さんが入るんだけど、
移転するんだけど、
知ってる人全部空いてるんで、
しかも格安で割と入れてもらえるっていう話があって、
みんなで入ったら楽しいんじゃないかって。
で、そのコーヒー屋さんと、
うちと古本屋さんと居酒屋。
で、同時ぐらいに本当にオープンして、
そこでお店をするようになったんですよ。初めて。
そうなんですか。
その時にマリコがお店をやって、
僕は家で作り物をして。
その時はもう結構100%自分の作品でやっていけてるみたいな感じなの?
その頃はそうですね。
作風的にも今と同じ流れでっていうか。
その頃は割とそうかな。
そうですね。
でも家具も作ってたかな。
家具も作ってたか。
でももう本当にだんだんちっちゃいものになってきたような頃で、
お店を借りて、
でも全然自分のものだけじゃ足りないんで、
最初は家にある、
昔から割と古いものとかが好きで、
古刀品みたいなのが家にたくさんあったんで、
お店を借りてフリーマーケットをしてるみたいな。
そんな感じだったんですけど、
だんだん自分のものも販売して、
あとそういうクラフトフェアをやったり、
お店で個展とかそういうことさせてもらえるようになってたんで、
いろんな人とつながりが、
創芸家の方とか、
そういう作り物をしてる人のつながりができてきてたんで、
そういう方の作品を販売するようになったりして、
ちょうど今みたいな感じのお店の感じに。
お店それ始まって最初どんな感じだったんですか。
最初はフリーマーケットです。
売り上げとか経営的に順調な感じで最初から。
経営的、本当に格安だったんで、
10坪で3万円とか。
筑波の結構都会で。
だから他にそんなところで借りれないんで、
42:03
経営っていう感じじゃ全然ないんですけど、
なんとなくそこでやっていけるみたいな、そういう感じでした。
お店の立ち位置としたら、
マニファクトジャムのアンテナショップ的な、
見てもらう、展示する場所とか、
なんでもないんですかね。
実質そんな感じではあるんですけど、
それよりも知ってる人が連なってお店してるんで、
お店を頑張って経営してるっていうよりも、
部活に行ってるみたいな、物質みたいな作りなんで、
そんな感じでした。
それはどれくらい続くんですか。
それはどれくらい続くの。
6年半だね。
そんなにやったの。
今年はあそこ10周年だか、4月でね。
それやってるうちに、
他にも作業場を借りたりしていて、
家と作業場とお店が全部別々にあって、
めんどくさいなと思ってたんです。
1個にできる場所がどっかにあるといいのになってずっと思っていて、
茨城県内で探したり、
たまにネット見ていろんな所の物件見たりとかあるんで、
そういうのをつらつら見てるうちにここが見つかって、
それまで和歌山県に来たことなかったんですけど、
この物件を見に初めて和歌山に来て、
最終的にここに決めて、それで引っ越してきた感じです。
ここは楓旅館っていう昔旅館された場所で、
先ほど聞いたんですけど、30年ぐらいずっと空き…
もっとか、40年ぐらい。
最初見に来た時の状態はどんな感じだったんですか?
見に来た時の状態は今もそうなんですけど、
とにかく色んなところが崩れ落ちてたり、
今ここはこんな感じですけど、ほんとジャングルみたいな感じ。
木もいっぱいね、生い茂って。
生い茂っていて、荒れ放題な。
足の踏み場がない庭だったよね。
そうだね。
なんでここに決めたんですか?
とりあえず一回ここに見に来て、
敷地が結構大きさがあって、温泉があるんです。
45:03
旅館の建物があって、庭も。
その時はすぐ荒れてたんですけど、庭もあって、すごくいいなと思いつつ、
ちょうどその頃に、物件を見に来た時に、
後ろくんのオロちゃんのワイクマに泊まって、
色々話を聞いたりして、色んなところこの辺回って、
みんながみんなものすごい親切で、すごくいいなと思い。
ワイクマのはたまたま泊まったんですか?
ワイクマのはたまたま泊まって、
でもその時に、九十マーケットっていうのを後ろくんがやってる。
九十マーケットが次の日にある日で、本当だったらクローズにしてたんですよね。
九十マーケット関係者の人たちだけが泊まれる。
だけど間違えて出しちゃってたみたいで、ネットの予約サイトに。
でも予約しちゃったんで、仕方なく泊めてくれたんで。
行ってみたらやっぱすごい楽しくて、色々話聞かせてもらったり、
その九十マーケットにもちょっと行ってみたりして、
ここだったらやっていけるかなと。
物件見に来て、あの辺って山の斜面なんです。
ちょっと暗くて全然見えないんですけど、
その斜面のとこにものすごいでっかいサルがいて、見に来た時に。
ものすごい威嚇してきたんです。
サルが日本に入ってきた時に。
多分そのサルは、ここは自分のテリトリーに人間が入ってきて、
それでものすごい威嚇したんだと思うんですけど、
それがすごく綺麗で、いいなと思っちゃったんですよね、その時に。
それが決め手になって、決めたみたいなとこがあるんですけど、
その頃はサルの脅威を全然知らなかったんで。
サルがこんなに迷惑なもんだっていうのを。
そうなんですか。
茨城にいた、ここってサルもいるし、イノシシもしかも。