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  2. V.67 NPO法人おせっ会理事長・..
2024-01-15 43:36

V.67 NPO法人おせっ会理事長・八代健正さん「すべてにおいてあきらめない」

今回は、NPO法人おせっ会理事長・八代健正さんにお話を伺いました。
千葉県館山市で、移住の促進や、房総の魅力を発信するNPO法人、おせっ会の運営をされ、そしてキャンプ場と食堂「富崎館」の経営をされている八代さん。「館山が大好き」と仰る八代さんに、まずは今に至るお話から伺いました。
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【50代男性】
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ゆいなわさんの聞く人ラジオ。皆さんこんにちは、ゆいなわさんの聞く人ラジオのお時間です。今回は、NPO法人おせっ会理事長、八代健正さんにお話を伺いました。
千葉県立山市で移住の促進や暴走の魅力を発信するNPO法人おせっ会の運営をされ、そしてキャンプ場と食堂
富崎館の経営をされている八代さん。 立山が大好きとおっしゃる八代さんに、まずは今に至るお話から伺いました。
今、お仕事として、このNPO法人おせっ会もしながら、食堂。食堂っていうのは、そのメラの富崎館?
そうです。富崎館。富崎館自体は、令和元年の平成の最後の年に、実は一旦休館したんです。
僕がそんなわけで、ちょっと体壊したりもして、経営ができなくなって、母も高齢だったので、もうやめようかってなって、また1年くらいの間に何か考えようっていう話で、一旦休館したら台風で飛んでいっちゃったんです。
富崎館自体が屋根がそっくりなくなって、もう全然建物を使えなくなって、僕の親族はもう手放そうって、景観のいい場所だし、誰か買うんじゃないっていうことで、売りに出そうかって話もちょっとあったんですけど、
台風が来て、おせっかいとして、あの地域の復旧作業をボランティアセンターを作って、活動を約1年半くらいやったんですけど、
初めて1ヶ月、2ヶ月経っていくうちに、要は地域の人たちが、僕が昔よく知っていたメラの人たちっていうのが、みんなすごい年老いていて、若い人もいないし、これ富崎館手放す。
富崎館っていうのは元々地域の人が宴会やってくれたりとか、人が使ってくださる。だいたいメラに来る人たちは、あの富崎館の坂を下ってとかっていう、一つの目印みたいなのを言ってくれていて、そういった意味で、富崎館を看板を下ろすみたいなのがすごい心苦しくなってきていたんですね。
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そんな時に、人口の話、お節介にもつながるんですけど、人口がピークの時からすると4分の1くらいになっていて、要は災害の被害調査とかもやったんですけど、本当に2軒あるけど1軒は空き家くらいの勢いで。
地域の区長さんとかに聞くと、人口がどんどん少なくなっているのももちろんなんだけど、高齢者比率が、立山市が41%か2%くらいなんですけど、70%くらいになっているんですよ。
限界集落どころじゃないというところで。しかも、そのうちの70%の高齢者人口のうちの65%とかが独居なんですって。
つまり、平均寿命からすると、あと20年もすると、それ全部空き家になる。
富崎小学校は消えてしまったし、これで人もどんどん災害を機に引き取られていった人がいたりとか、
家をそこで解体しちゃうと、そこに縁のある人自体もいなくなっていくし、いよいよ富崎がもしかしたら地図から消えるかもみたいな気持ちも現実が見えてきて。
そんな中で、かといって僕は何かできるわけじゃないなと思ったんですけど、できることをやらないことに対しての罪悪感がものすごくなっちゃったんです。
じゃあ、せめて富崎館を何の形でもいいから再建しようと。看板を上げ続けようと思って。
で、唯一できそうだったのが食堂だなって。食堂にしたんです。
富崎館を壊した後の広い敷地ができたので、どうしようかなと思ったんですけど、ちょうどキャンプもブームだったりしたので。
キャンプだったら意外に安易な考えで、お空の下で寝る富崎館にしようと思って。
富崎館のキャンプ場は、サイトも元々あった旅館の時のお部屋の名前も全部つけてあるんですよ。
え〜、そうなんですね。
藤の間だったので藤とか、奈美塵とか、大島、新島とかって名前つけてるんで。
なるほど。
それで初めて、今度の2月でちょうど丸2年になるんです。開業してから。
はいはいはい。
そっかそっか。
元々お生まれとして。
えっとね、僕生まれは千葉市の稲毛海岸っていうところに。
ああ、わかる。そうなんですね。
父が公務員だったんですよ。
そちらで稲毛。
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公務員だった父が山形に転勤した時に、公務員辞めるって言い出して。
転勤してから。
で、お母さんの実家に帰って旅館をやるって言い出して。
それで中学2年生になる時、13歳の時に立山に来たんです。
もちろんそれまでも遊びには来てたんですけど、母の実家だったので。
夏休みとかお正月とかは来てたんですけど。
へえ。
まさか住むことになると思ってなかった。
そっかそっか。
じゃあそれで立山に来てっていう感じなんですね。
そうですね。
中学高校とかそういう感じ。
そうですね。で、中学2年間だけいて、高校は岸原村の拓大高齢高校って。
ああ、そうなんですね。僕私学館だったんです。
ああ、そうですか。
僕が入る前の年に私学館ができたのかな。
ああ、そうかもしれないですね。まだ新しかったので。
そうなんですね。だから私学館は僕らの一つ先輩しかいなかった。
ああ、そんな感じだと思います。
僕も高齢の7期生で。
へえ。
僕はその頃野球少年だったので。
おお。
それは小学生の頃からの夢で。
へえ。
山形の中学校は東北大会とかで優勝するぐらいのチームだったんです。
でも山形の中学校に来たら一勝もできない悲しい野球部で。
ああ、そうか。
でもどうしても甲子園に行きたくて。
この辺で甲子園に行ける高校ないのかなと思ったら、ちょうど僕らが高校受験するときに関東大会で準優勝だったのかなと思って。
へえ。
来年の春は高梁が甲子園に行くっていう話があって。
じゃあ高梁行きたいです。
へえ。
ああ、すごいですね。
野球部入って。
もう3年間野球付けで。
正直僕は地方を転勤してはいたんですけど、父の転勤にくっついてたんですけど。
だいたい父は農林水産省の職員で。
うーん。
だから県庁所在地に行くんですよ。
ああ、そういうことですね。
だからだいたい都市部に暮らしちゃったので。
ああ。
エラーに住んだ時になんで田舎に来ちゃったのって。
遊びに行くのとちょっとわけが違いますね。
そうですよね。
住むってことになると。
で、木更津行ったらここよりもちょっと都会で居心地が良くて。
もう建物には帰らないと思っていたんですけど。
で、高校卒業して、まあこんな余談で大丈夫なんですけど。
野球部の監督に教員になりたかったんです、僕。
ああ、そうなんですね。
で、大学進学を目指したいですって言ったら。
いや、お前は実家が旅館なんだから。
もう代々続いている旅館で。
それをやらなきゃならんって。
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今で思うと恩師なんですけど。
もう亡くなっちゃったんですけど。
小枝監督って、最終的には全日本のアンダー18の監督をやってたんですよ。
その小枝監督に相談したら。
教員とか言わないで。これから子供も減るし。
とにかく大学は拓大系列のところとか紹介してあげるから。
人名簿を作って経営者になりなさい。
小枝監督は本当に僕のことを思って言ってくださったんですけど。
どうしようなといかなくて。
そしたら野球部のOBの先輩とかが社会人とかもいて。
そういう方たちに大学行って教員になりたいって言ったら。
教員になりたいのはなぜかというと、いずれ某南中学校に帰ってきて、某南中学校を勝てる野球部にしたかったんですよ。
そういう動機というか、そこがあったんですね。
とにかく勝てなかったので。
そこをやりたいから。
高齢で学んだ野球をさらに大学でも学んで野球をやって。
って思ったら、大学を監督とか紹介してくれる先輩たちがいっぱいいて。
そしたらどういうわけか、アメフトとかラグビーとか、そっちの方ばっかりの推薦を取りに取り付けてくれる先輩がいて。
僕野球ダメですか?そんなに僕野球ダメですか?っていう話が。
とどのつまり、あまりそこで粘ってたら進路なくなっちゃったんですよ。
その時に、もう10月くらいになっちゃって。
当時の進路、推薦で行こうとした時に、10月ってもう遅いんですよ。
困ったなって言ってたら、旅館にニュージーランド人のお客さんが、固定客でいて、東京に住んでらっしゃるんですけど。
その方が、じゃあ進路なくなっちゃったんだら、お袋のとこ1年くらい行ってこいよとか言ってくれて、ニュージーランドにワーキングホリデーで行ってきました。
面白い。
1年間行ったんですけど、当時日本人も全然いなくて。
高校にちょこっと入ったら、同級生。同級生というか同じクラスになった子が、ニュージーランドのマオリ族っていう原住民の生徒さんっていうお家の子で、学会に立ったんですけどね、彼に。
彼が、僕が住んだところってナルワヒアっていう場所で、女王の家っていう意味なんですって、ナルワヒアっていうのが。
そのナルワヒアの、普通は外部の人間入れないっていう宝物殿みたいなところに連れて行ってくれたんですよ。
すごい。
そこに、おばあさんが1人、限りみたいなおばあさんがいて、お前どこから来たんだ?
いや、日本から。
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天皇家からもらった、日本の天皇陛下、ロイヤルから頂いて、銀牌だとか言って。
え?
すごいときちゃったなって。
そしたら、そのおばあさんが、マオリの子たちは、僕の友達はノールっていう名前の子だったんだけど、ノールもそうだし、みんな私たちの伝統のタトゥーも入れなくなったと。
みんなオーストラリアに渡ったり、シドニーとか、アメリカに行く子もいるし。
みんな、マオリであるということを言わないって言うんですね。
それは、我が一族にとって非常に恥である。
マオリは、マオリの伝統をちゃんと受け継いで生きていってもらいたいのに。
あなたも日本人だから、英語を学ぶっていいかもしれないけど、もっと日本の大切な文化を継承しなさいねっていう話を説かれます。
そのおばあさんに言われたんです。
伝統的なそのおばあさんも、女性のやるここにちっちゃいタトゥーが入ってて、カモンみたいなのを体に入れるんですよね。
そういうのも入っているおばあさんで、今の若い子、見てみなさい。
汚い絵柄のタトゥーが入れちゃって、本当は伝統的なものをやるべきなんだということをおっしゃってたんですけど。
僕はその時まだ18歳とかだったので、ポカンとなってたんですけど。
帰ってきて、なんだかんだ証拠会議所とかで地域の先輩とかと触れ合うようになっていって。
なんとなく僕も、しょうがない旅館やらなきゃいけないのかなってなって。
旅館の仕事を始めた頃に、ふとそのおばあさんがフラッシュバックしてきて。
旅館をついたことがきっかけでフラッシュバックしてきて。
あれもしかしたら、何かを受け継ぐって大事なのかもしれないって思っちゃったんですよ。
で、そのおばあさんの言葉が何年後なんだ?だから5年とか6年後、突然フに落ちたというか。
確かに大事かもって思ったのが、もう本当に今に至るっていうところなんですよ。
そうなんですね。じゃあそのおばあさんに出会ってなかったらっていうところは。
かもしれないですね。
そうですよね。ひとつきっかけと言いますか、なんかなってる感じ。
かもしれないですね。
最初だからニュージーランド帰ってきたら、カモガワのシーワールドあるじゃないですか。
で、ああいうところに勤めたくて。海がもともと好きだったんですけど。
で、シーワールドの幸とかの飼育員とかいいなとか。
で、一回帰ってきて、そのままちょっとお金貯めて、オーストラリアの世界で何番目に大きいとかいうシーワールドみたいなのがあって。
そこにもう一回行こう。英語もちょっとできるようになった。
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で、そこで就職しようって思ったんですけど。
そしたらなんだかんだ旅館を継ぐようになっちゃって。
継いじゃったらそんな気持ちになって。
これは俺もう数えたら6代目だったので。旅館の継承して。
6代目としてちょっとやらなきゃいけないかなっていう気持ちがそこで芽生えちゃったというか。
で、それをやってるうちにバブルはじけて湾岸戦争が起きて、時代が平成になりみたいなことがずっと起きていく中で。
思いもしなかった人口減少とかも起きてきて。
地域の職工会議所の先輩とかがやっぱり会社が倒産したとかっていうのがかなり深刻になりつつある頃で。
我が社もやっぱり一時期のバブルの頃の観光経済とは全然違っていて厳しくなってきてたし。
僕が経営を引き継いだのは27歳の時だったんですけど。
帳簿広げたら億単位の借入金があって。
どう考えても返せないってなって。
そこから不動産を切り売りしたりとかやりながら、銀行に最終的にいわゆる今でいうリスケを、要は返済の延長をちょっと申し込んだんです。
これやれないかって。
そしたら銀行の本部から乗り込まれちゃって。
もう富坂にやばいってなって。
26歳の時に銀行の回収係みたいな人たちとやり取りして。
当時やっとパソコンが普及し始めた頃だったので、資料を一生懸命作って。
こういう計画でやるからなんとかしてくれみたいな。
最終的に銀行がすごいバックアップしてくれて。
じゃあ応援するから、富坂さん再建頑張ってねみたいな。
そんなことをやりながら、俺はもうこれなんとか引き継いで、富坂さんもう一回復活させるというか元気にしようと思ってやってたんですよね。
そんなことを言っているうちに、50周年の記念事業を商工会議所の青年部でやろうということになったんですけど。
その時に40年の時は先輩方がこれからの観光の形を作るって言って、アウトドアフェスタみたいなことをやったんです。
すごいそれも盛り上がったんですけど、50年の時どうしようか。
50年って本当の節目だしね。
吉木呼ぶかみたいな話とか。
立山出身とかちくら出身の芸能人呼んでなんかやろうかみたいな話とかしたんですけど。
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いや待てと、そんな上っついたことを言っている場合じゃない。
次の50年を考える事業にしようということで、まさか人口が減っていくなんて想像もしてなかったんですけど。
今後30年40年の中で立山市の人口が3万人減っていく、3万人切っていくみたいなデータもあるよみたいなところもあって。
じゃあそしたら我々食っていけないし。
同時にちょうど平成18年、17年、18年、19年ぐらいで僕らがその計画を立てたんですけど。
ちょうど団塊の生産の大量退職時期が当たったんです。
そうするとその人たちが田舎に住もうみたいなことを言いたい人がいて。
お、待てよこれ呼び込めんじゃないのか、最初のアイデアは。
当時経産省が出してた数字で東京都内にいる労働者世代の人たちの年間の旅行にかける日数っていうのが1.8日とかしかなかったんです。
意外だったんですけど。
一方で実家に帰るっていうのは9日から10日だったんですよ。
なるほど。
ボンクで帰るみたいなの。
お、待てよこれ、退職者が立山に家を買うとかってことにしたときに実感なるんじゃないのか。
子どもたちがその当時2.3人とか4人とかの平均出所率が団塊の世代にあったので、かける日それだぞ。
10日間それ来るぞっていうことで。
そうすると経済効果が大きいなっていうのもちょっと考えて。
じゃあまずその退職者世代を呼び込もうっていうところから始まったんです。
そうなんですね。
2年間でとにかく立山住んでいいところ、素敵なところみたいな快適ですよ、あったかいですよみたいな。
実際そんなあったかくないんですけど。
でもそんな取り組みをし始めたところ、意外に反響がなかったんです。
あまりに立山知られてないということで。
で、出会ったのがミクシーって当時。
ありましたね。今も。
あるんですね。ミクシーのコミュニティっていうのがあって、その中にそうだ立山に住もうってコミュニティを作ったんですよ。
もろにJRのパクリだったんですけど、京都駅にそうだ立山に住もうって言ったら、ものすごい勢いで人が増えて。
出たてのSNSに集まる人が若い世代だったんですよ。
そっかそっか。
東京で、今月もちょっとあるんですけど、いわゆる移住相談会みたいなのが、当時は大手祭りの産経ビルでやってたんですけど、
1年目は立山のブースに来た人3人しかいなくて、うち2人は僕がその辺歩いてくる人を引っ張ってきたというだけだったんです。
21:00
で、そのミクシーをやった翌年は立山のブースだけ行列ができたんです。
わーすごい。
並びに新潟県とかがいて、新潟県は10時からお米配りますとか言って、お米を配り始めたんです。
お米を持って立山にならないという現状が起きて、うちは何も配ってなくて。
とうとうその年は10時から4時までだったんですけど、1回もトイレも行けず、ご飯も食べれず、ずーっと移住相談。
これは可能性があるということで、しかも若い人。
この人たちは学校のこと、就職のこと、家のこと、いろいろある。
退職者の人は不動産さなきゃいいよねって話もあって、
じゃあNPO法人化して、とにかく移住者におせっかを焼くんだっていう団体を作ろうと。
で、商工会議所の方向性を一気に変えて、NPO法人を作るという活動に切り替えた。
平成21年からおせっかを登録して、千葉県に登録して、それからずっとやり続けてるっていうことですね。
平成25年からかな、立山市の移住相談業務の委託を受けて、窓口をずっと設置してるんです。
なるほど。
伊京山ってアキアバンクとかも作ったんですけど、なかなかあれは素人に手に負えるものじゃなくて。
去年の8月から、結局不動産協会と立山市が連携をして、アキアバンクを大きく作り変えたんです。
それで今は公的なアキアバンクに、ちょっとハイブリッドかな、完全公的ではないんだけど、
立山市が窓口になって不動産協会に投げるっていう形に収まって、僕らは広報係になったんです。
でも依然として、僕らは年間で300組くらいの移住の相談を受けて、
多いとして30組ちょっとの人たちを移住を手伝いしてるんですけど、それでも人口はどんどん減っていて、
今も4万4千人。僕らは初めた頃5万ちょっとかけるくらいだったんで、ものすごい数が減っている。
大きな問題としては高齢化がどんどん進んでいて、今2024年になっているんですね。
2045年とかには高齢者比率立山でさえも50%ぐらいになるし、人口も3万5千人とか3万2千人とかっていう、その辺の数字になっているんですよね。
そうするともう地域って成り立たなくなるよねっていうところもあって、そこを何とかしたいっていう活動を今もしぶとく続けているという。
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それなりに長いと言えば長くやっていて、長くやっているって経緯とか変化とかそういうことはありますよね。
明らかにありますね。
明らかにあります。
最初は若い人ターゲットに、僕らがしたのはあるんですけど、本当の子育て世代か、もしくは退職した人たちの二極で、その人たちの多くがどちらかというと都会の暮らしをこっちに持ってきて、都会行ったり来たりしながらのんきに暮らしたいみたいな感じがあったんですね。
子育て世代の人たちも、子育てはこっちでしたいんだけど、なんかどっぷり田舎暮らしというよりはみたいな特徴があったんですね。
今はどちらかというと、本当に地域の人になりたくてくれるっていう人がすごく増えましたね。
そうなんですね。
そうか。
だから地域にどうしたら参加できるのかっていうのをすごく求めている。
そういうところの導きをしたりとかっていうのも。
地域まで行ける方からですけど、地域のキーパーソンにつないだりとか。
その人がやりたいことって、いろんなやりたいことがある人たちがいるので、その人たちにニーズに応じて必要なところをつないでいくということをやるっていう。
立山って、実は他にあんまりない田舎で、例えば僕も数年前に企業に関わらせてもらったんですけど、企業主体って言ってもそこそこのマーケットがあるんですよ。
立山は。
立山の巣って12万人人口があって、今田に。
その12万人人口のうちの3人に1人、だから4万人ぐらいが立山、船方、宝城、八幡あたりにだいたいギュッと住んでるんですよ。
そしたらそこにある程度のマーケットがある。
でかい事業はちょっと難しいと思うけど、小垣内は全然できるっていうマーケットがある。
人手不足でもあるので、就職普通にしようって言ってもできる。
一方で漁業に関わりたい、農業に関わりたいも全然できる。
なんなら東京の勤めそのまま通う人も出てくるわけですよ。
なかなかそういう田舎って実はなくて。
田舎暮らしって言っても、いろいろ可能性が潰れるっていう。
何かはちょっとできないみたいな。
それが意外に選択肢が広い田舎っていう。
そうすると、移住希望の内容もいろんな方向性の人たちが集まってくる。
受け皿が広いと言いますか、いろんなニーズに応えられるってことですね。
面白い移住先なんだなっていうのを最近認識してまして。
それをやりながら気づいてきたことってことですね。
僕らがお手伝いする形っていうのも、いろんな形にやらなくてもならないというか、やらせてもらうっていうことができるっていう。
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いろんな人と連携しながら、何なら多団体とも連携しながらやってます。
ってなるとすごくいろんなことされてる感じですか、日々。
そうですね。
ただ言っても、一人でやってるわけではないというか、おせっかいだけでやってるわけではない。
こっちのケースの場合は、ちょっと話聞いてあげてくれるとか。
こっちのケースの場合は、ちょっとじゃああそこの人に会いに行ってみましょうとか。
役所のこの部署に行ってみましょうとかっていうのを振り分けをするっていう作業なので。
相談自体はものすごい数。
そうですね。一人じゃ当然無理ですし。
そこはもう、医療現場でいうとトリアージって言いますけど、そこがちゃんとできるように機能しようということは今考えてますね。
そっかそっか。そうなるとやっぱり今までそれをやってきてるから、いろんなつながりがちゃんとあって。
そうですね。
じゃあこのケースだったらここっていうのが、社長さんがお分かりになってるからできることであって。
あと、僕らのアドバンテージってこの活動のスタートから役所とスタートしたんですよ。
そっかそっか。
役所ってやっぱり何でもやではないんでしょうけど、いろんな分野と連携というか、いろんな分野の事務局的なところがいわゆる市役所なので。
そっかそっか。
それは非常にアドバンテージだったなと思います。
なるほど。
スタートから役所を使って仕事ができたっていうところはありますね。
そっかそっか。面白い。そう思うと長年やってきて、今じゃあまさに課題感みたいなこれからっていうのは、
当然人口減が非常にあって、森市長もそのことをおっしゃってたんですけど、人が減ってるっていうことに関して。
やっぱり移住者だったりとか、人が増えてほしいっていうのがあると思うんですけど、それに対して具体的にこれしてるとか、
正直決めてはないと思ってます。
ただ、根本的な話、日本の人口ももう減り始めてますよね。
一番の大きな課題はやっぱり子供が生まれてこないということなんだと思うんです。
本当に当たり前のことなんですけど、そこをやっぱり官民に連携して、本当にちゃんとやらないと、本当に亡くなっちゃう街になっちゃうっていう。
何年だったっけな、2008年とかだったかな。
マスダレポートって大学の先生が、マスダ教授っていう人が消滅可能性としてデータを出したんです。
当然立山も入って。
実は発表されたときすごい頭きて。
人のふるさとを捕まえて、消滅可能としては何事だと思ったんですけど、今思うと、本当にほっとくとそうなるよっていう警鐘を鳴らしてくれてるんですよね、当然。
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なので、僕らは消滅しないっていうことを意地ではなくて、やっぱりロジックを持ってちゃんとやらないといけないなというふうにすごく今思ってます。
なので、うつては本当に決め手はないんですけど、一つは、例えば今都会で暮らしている20代の後半とか30代の前半の人たちが、ちょっとでも地元に意識を持っても、場合によっては日系居住でもいいと思いますし、
地元に関わろうという思いっていうのがやっぱり必要だなと思って、そういうのを普及するっていうのはすごく大事だなと思っているのと、
地域にいる若者に結婚するということを、結婚してその思想を残すっていう動物的にすごく大事なことだと思っているので、その行動に興味を持ってもらっているから。
なので、コロナの前8年間、アワコンってちょっと出遅れたんですけど、街コンをずっとやってて、災害でストップして。
あれもそうなんですね。
その災害の年明けからコロナじゃないですか、とっても200人ぐらいの街コンをやってたので、ちょうど200人を街中に集めるのは無理だなってなって、今ちょっと形を変えようと思っているんですけど、また来年あたり婚活事業を復活させていきたいなと思っていて。
あれ以外に、20何組結婚してるんですよ。
すごい。
残念ながらってこともないんですけど、こっちに出会いがあって、旦那さんとどっかに転勤しちゃったみたいな人も結構いるんですけど。
でもそれでもね、対局的に見ればいいことだと思って。
なので、そういった活動も地道ではありますけど、できたいし、それがお祭りごとではなくて、定期的にそういうチャンスが作れるっていうことを企んでいきたいなと思ってますね。
僕らだけではできないことを地域内連携で、例えば他のNPO法人とか、他の場合によってはお店でもいいと思うんですけど、南坊主を恋活リーグみたいなのを作って、1月から12月まで毎月どっかで婚活ありますよみたいな若者が結婚するチャンスを作るっていうのがすごくいいなと思って。
あと、Uターンを促進するっていうのをやりたいなってずっと思ってますね。
まだされてはないけど、これからやっていきたい。
最近、Uターンの相談が増えてきました。
本当ですか。
だからそれは、Uターンした人たちに、今回のユニバーサルの聞く人じゃないですけど、聞きに行ってヒントを得ようかなと思うんですね。
なるほど。
なぜふるさとへっていう。
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YouTubeでも、「あなたはなぜふるさとへ?」って。これもどっかのテレビの番組のパクリみたいな。
あなたはなぜふるさとへっていう特集も組みたいな。
面白い。
今、YouTubeもだいぶ力をつけてきたので、YouTubeとかを使っての広報力っていうのをもっと上げていきたいし、やっぱりできることって限られるんですけど、できることをやらないで終わるっていうのはやっぱり嫌だなと思って。
できることは全力でやろうと思ってますね。
すごい。
忙しいって言ったらあれですけど、やりたいことはいっぱいあって。
そうですね。
すごいですよね。
僕ね、365日1年があって、2023年は完全にお休みしたっていうのが5日ぐらいしかないんですよ。
みんな、周りの人が、「いや、それは体に良くない。ちゃんと定期的にお休みをした方がいい気がする。でもね、やりたいことしかやってないんだよね。」っていう。
それはまたひとつの幸せじゃないですか。
そうなんですよ。
やりたいことやってるから休む。当然ね、休みっていう休みはあるけど、でもやりたいんですよ。
そうなんです。だから、今唯一火曜日がちょっと開くんですけど、その火曜日もなんか、「じゃあこの火曜日開いてっからYouTube撮っちゃおうか。」
みたいなことになるっていう。それが決して嫌ではないというか、むしろ、「ここチャンスだね。」みたいな感じになっちゃう。
それはやったほうがいい感じがします。
だから心身ともに健全で。
素晴らしい。
お仕事としては食堂をつけるっていうことが。
お給料源は今、食堂の経営と役所の委託事業をいただいているので、移住相談の業務と現場の業務と管理業務ということで、NPO法人の運営をしながらお給料もちょっといただいてっていうことでやってます。
それをご自身でスケジュールというか、立てながら全部やっていく感じですよね。
やっぱり50、今度6歳になるので、だんだん体力もどうだろうっていう。
そこはあると思います。
でもさっきやりたいことというか、好きなこと何?みたいな話をしたんですけど、僕、下手の横突きでスポーツも好きで、
和菓子屋村さんのまもなくなんですけど、あれも今追い込み中。
そうなんです。もうすぐですもんね。僕も毎年出てて、今年エントリー忘れてた。
そういう人多いんですよね。
そうなんです。今年あれも終わっちゃってたって言わなくて出ないんですけど、去年とかも出ましたし、前はフルも1回出たことがあって。
そうなんですか。
結構毎年出てたんですよね。出られるんですね。
あと、5月に立山和菓子をトライアスロンに出て、僕は立山で行われるスポーツイベントは片っ端から出てやろうと思って。
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え、すごい。
柑橘水芸以外をやろうと思って。
柑橘水芸、もうすぐ。
あれはね、そういう割には下手なので。
寒いなって。
なんですけど、立山のサップレースをやったりとか、オープンモータースイムレースってあるんですけど、海の水芸大会、ああいうのも出てたりとか。
え、すごい。
そんなのも、自分の時間を作ってやるっていうことも。
楽しいというか、それが目標になって、モチベーションになってやっていく感じですね。
立山大好きバカなんです。
立山大好きバカって初めて聞いたワードですけど。
だから、僕マラソン大会って今回で和菓子ショーが4回目になるんですけど、他のランニングイベント一回も出たことないんです。
和菓子ショーだけなんですね。
和菓子ショー専門ランナーなんです。
面白い。
そうなんですね。
トライアスロンも去年デビューしたんですけど、立山のトライアスロンしか出ないつもりなんです。
あとは興味がわからないんです。
立山のイベントだけでいいんですっていう。
もう立山大好きっていうのは本当にそうなんですね。
立山プライドを持って。
立山プライド。
立山の自分のふるさとの継承をしていくっていうことで、ちっちゃくでも役に立つんなら出張っていこうって。
自分が表に立って、前に出て走るなり泳ぐなりして。
欲しいよってみんなが言う。
そういうことですよね。
めっちゃいい。
でもなかなかないと思うんですよ。トライアスロンができて、オープンオータステムレースができて、フルマラソンのコースが取れて。
街なかなかない。
確かに。
多分千葉県でも唯一くらいかもしれない。
それって言ってるんですかね。
みんな言ってると思います。
表立って立山ってそういうとこだよみたいなフルマラソンもできるし。
僕は言います。
あんまり知らないんですけど、まだそこまで浸透してないんですかね。
そこまで浸透してないですね。
やっぱりスポーツやってる人口って増えてるじゃないですか。
そうですね。
そこに対してとか、立山確かにおっしゃるようにいろんな懐の深さもあるし、例えばキャンプっていう文脈もあるし、いろんな意味でアピールというかできる感じがするので、すごくいろんなターゲット層に当たるというか。
そうだと思うんですよ。
そんな気がしますよね。
だからそれを僕がいいですよって言うんじゃなくて、僕もやったんですけど。
拝見者ですもんね。
いいですよって言えるじゃないですか。
確かに。
最初はそのつもりだったんですけど、やったらハマっちゃったっていう。
面白いなこれなんて。
面白いですよね。
だんだん体力がね。
そうですね。
大人くなってきたので。
そこはお付き合いしながら。
今、50歳から強くなるっていうアメリカ人のトレーナーの書いた本があって、それを一生懸命和訳しながら読んでます。
そうなんですね。
強くなるんですかね。
39:01
まだなってないです。
本当ですか。
でもね、とにかく諦めたくないというか、自分のふるさともそうだし、自分のこともそうだし、諦めたら終わりだなと思っているので、全てにおいて諦めないっていう。
それって前からですか?
いや、そんなのかもしれない。
ある時から?
もともと若い頃?
お節介を始めてからかもしれないですね。
途中でやっぱり諦めたら終わりっていうのは、今すごく思いますね。
お節介を始めて、だんだん地域の深刻さがわかってくるにしたがって、諦めちゃいけないっていうところは、諦めてすぐ怖いじゃないですか。
だから、ふるさと諦めちゃったら、もう取り返しつかないというか。
だから、最後の一人の悪あがきを、でもいいからやるっていうつもりではいます。
だから、自分についても諦めたくないなっていう。
だから、僕、80歳まで合唱マラソンで続けようと思ってるんですよ。
おお、いいですね。
一応する目標なんですけど、クリアしたら次90歳になるっていう。
そうですよね。
もうやめろって言われるかもしれない。
やめろって言われるまでやろうかなと思って。
素晴らしい。
だから、途中で諦めたりくじけたりするのは、非常に僕にとっては本望ではないというか、って思ってるんですね。
僕、50歳にして極真空手の黒ビンを取りましたしね。
50歳で初めて。
始めたのは30歳なんですけど。
そっからずっとやってて。
それも途中で辞めちゃう人が多くて。
なんですけど、辞めないで、これも諦めなければなんとかなるっていう。
お節介に鍛えられたところがすごいあると思います。
お節介自体がそもそもヤシロさんの発案というか、発信というか。
そうですね。言い出しっぺっていう。
言い出しっぺ的なところ。
でも、やっぱりそれが自身も変えていくみたいな感じ。
そうだと思います。
それがだから言ったら、自分から発信しなかったら、今のヤシロさん自身の生き方みたいなところにも変わってくるところではあるでしょうし。
自ら言って、やったことによって帰ってきたもので自分も変わっていくみたいな。
そのつもりで言います。
そうか。
で、それによって仲間の人たちというか、繋がりもいっぱいできてきてっていう。
そうですね。
でも本当にみんなが裏方で支えてくれるからやってられるんですけど。
それだけにやっぱり僕が投げ出すわけにはいかないっていう気持ちもありますし。
そうですよね。
でも、そう言って言うとすごいあれですけど、はなはだ自分の喜びのためにやってるって感じがあるんですけどね。
そういうことですね。
やってて楽しいですよ。
そうですね。
そっか。
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でも、だいぶそれのヤシロさんの楽しいっていう思いがみんなに広がっていってるというか。
いいなと思いますけどね。
そういう感じがしますね。
YouTubeとかちょっと見させていただいた中でもなんか出てくるものみたいな。
そうですか。
溢れてくるものみたいなのがやっぱり伝わってくるので。
よかった。
なんか楽しそうというか楽しんでるみたいな感じ。
そういうのすごく大事だと思うので。
やってる本人楽しいのが見てる側からいいなみたいな風に思ってしまう感じ。
ひたすら楽しい。
それも面白いなと思ったんですよね。
縦山の暮らしを大変な事態ではあるんですけど。
いかに縦山を楽しみながら幸せに暮らすかっていう。
その最先端になきゃいけないなと思ってるんですよ。
その最先端。
だから縦山で幸せであるというお手本にならなきゃいけないと思ってるので。
そっか。
めっちゃいい話ですよ。
楽しいなと思います。
素晴らしい。
いかに縦山を楽しみながら幸せに暮らすか。
その最先端にいなきゃいけない。
とおっしゃる八代さん。
縦山愛あふれるそのパワーと熱量がお話からビシビシと伝わってきました。
八代さんありがとうございました。
それではまた次回。
ユイナワさんの聞く人ラジオでお会いしましょう。
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