1. たねと暮らす Living with Seeds
  2. #27霜降の巻!「おくさまちゃ..

霜降ってこんなに寒いんけ!?でも、ホットすぎるゲストと話して大盛り上がり♪

たねと暮らすの二人が敬愛する村マダム、あわのまちこさんをゲストに迎えました〜

今回はこんな内容でっす〜


・まちこさんは「そとさま」ですねん♪

・がんこじいさんと長女まちこの物語

・夫婦別住み、まちこ流

・村の空気が変わってきた!ロビンくんと伝説のイベント「むらキャバ」

・野望は北向き!まちこさんと村のこれから♪


まちこさんたちの「おかん弁当」「しいたけコロッケ」をここでゲット↓

「道の駅 お茶の京都 南山城村」

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「南山城村フリマ むらむらマーケット」

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たねと暮らすでは、おたより・感想を募集しています♪

どんなふうに聞いてくださったかな?

何か響くところがあったかしら?

よかったらフォロー&感想を聞かせてください。 

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tanenotoshukan@gmail.com



00:05
あわのまちこと たねと くらす
うまくいきましたよ!
ようこそ、お越しくださいました。
今回もですね、村人ゲストでございます。
やったー!
うち、南山城村の本郷地区というところに暮らしているんですけれども、
すぐご近所にお住まいの方なんですが、
結構すぐぐらいかな、お知り合いになることになって、
世代を超えたお友達というか、結構お世話になっている方。
もういつかラジオに来ていただきたいと。
何回喋っても、今のなんでラジオに撮ってなかったの?ってなる。
そう、本当にそう。まち子さんのお話はでもそうで、
面白いと思ってたので。
生き方も。
この村でね、生まれ育って、結婚して外に出られたりとかされている方なんですけれども、
今は一応半分は南山城村、半分は兵庫県の板見市という2拠点で居住されておりまして、
村ではですね、村マダムというかね、奥様方を集めて、
加工食品、ジャムとか鹿肉の加工の製造販売をされてたり、
道の駅でお弁当を作られてたりとかっていうような。
おかん弁当。
はい、おかん弁当のおばちゃんです。
いやー、おいしい。
そういうふうにされてる方なんですけれども、
2拠点居住をされてると思うんですけど、これはまち子さんいつぐらいからというか、どういう経緯で。
もうかれこれ10年以上前からになって、
最初のきっかけは、両親だけで村で暮らしていたんですが、
年とともにやっぱりあちこち不具合が出てきて、
2人だけで住むのはちょっと難しいなーっていう時期が来た時に、
じゃあどうするって言って、痛めに引き取るっていうことは居住的に無理だから、
じゃあ私が通いをしようかなっていうことで、通うという形を取りました。
それが10年前か。
旦那さんは痛みにずっと暮らしてて、
同居っていう道はなかったんですね。
なかったんです。
旦那さんはシティボーイなんですよ。
03:03
っていうか、明るい光がないと、夜暗いところでは俺は生きていけない。
村暗いからね。
あんな暗いところで俺は生きていけないし、寒いって言われて、
じゃあまあいいよっていう感じで。
ちょっと大変なイメージがあるんですけどね。
行ったり来たり。
だけど旦那さん夫が言うには、長女をもらったという宿命があったから、
はちこさんが長女だから、
もらったから、本来ならば自分も村に帰ってくるべしところを帰らないで痛みに続ける、
実家の面倒を見るっていうのは必然というか、飲み込まないと仕方がない現実っていう感じを持ったみたい。
そこのことは詳しくは話してないけど、お互いがそれで了解したっていう感じかな。
私も家事の手は抜かないで、食べることはきちっとしてからこっちに来ようと思って。
そういう暮らしを始めたんですね。
村に来てる間はそういうふうにお勤めされてますよね、今現時点。
道の駅の方に。
村に通いで来てるときは、痛みで友達とやってた仕事をもうクローズして、
自断絡させて、もうこっちに来ることに専念して、
そこから村で1年ね、全く何もしない介護だけの1年を過ごしたんですよ。
父親が濃厚職をしたので、
今まで私は痛みでも1日家にいることをそんな長い期間続けたことがなくて、
だいたい旦那さんには外様と言われて、
奥様ではなくて外様やなって言われてたぐらい、
家にはあまりいなかったので、
家にずっといてて、だから両親の面倒を見つつ、
母親がデイサービスに行ってる間に自分の用事でちょっと奈良の方にいるとかしても、
もう2時には帰ってこないと、お迎えせなくて。
父親は家で一人でいてくれるけど、母親はデイに行ったりしてるから、
もう2時がリミットで、だんだんだんだん詰まっていくんでね。
気持ちがひどい。
仕事もしてない、遊びに行っても詰まらないということが1年続いてたときに、
06:01
学年先輩の村の、それこそその方も養子娘さんやねんけど、
ずっと地べたりなんで、地元の人なんだけど、
まだ今も元気になるけど、その人が、
まっちゃん、仕事せえへん?私そんなのできるかなとか言ったら、
給食センターで一つ空きができてんとか言ってた。
時間帯を聞いたら、8時半出勤、3時上がり。
それってめちゃくちゃええじゃん。
8時すぐにお迎え来てくれはって、母は3時に帰ってくるねん。
だからその行ってる間に、ちょっとした働けるやつ。
お仕事できるし。
フルじゃなくて、パート3やから、休みたいときは仕事で休めるっていうのがあって、
これはラッキーと思った。
1年経った後に働きだして、丸9年働いた。
給食センター。
それがあったから煮詰まらずにいけたかもしれない。
おかげでね。
村のマダムたちと一緒にいろいろ加工食品を作られてたり、
そのタイミングってちょうど勤めてるときだったんですか?
いや、勤めてるときは勤めてるだけで、
勤めてる後半、最後のぐらいの年に道の駅の構想が立ち上がって、
道の駅ができるんやったら、何か作ったものが出せたらいいねっていうことで、
知り合いとか親戚とかで集まってグループを作って、
そのタイミング。
今からで言うと、6、7年ぐらい前?
7年ぐらい前。
そのときから場所の設定とか、どんな風な店づくりをするかとかいうのの、
ワークショップ的なことがあったり、
そこに自分も参加したいという人ばかりが集まって、
コレイナ会議っていうグループができて、
そこに私たちが細々とジャムとかクッキーとか作って、
村の単発にある村行き行き祭りとか、
そんなところにだけ出してたんやけど、
やっぱり出口がないとものづくりって煮詰まってくるから、
さあどうするっていうときに道の駅ができることが分かって、
じゃあそこに乗っかっちゃえみたいな感じ。
そこがオープンしたら、
ごっつい売れたら儲かるやん的な発想で楽しめるし、
出口があるとすごく明るくそっちに向かっていけるからね。
やったんですよ。
コレイナ会議にも入って、
道の駅立ち上げのときのメンバーにも入って、
っていう感じで、
今日に至るという感じで。
元から作りたい人だったということなのかな?
09:05
私あんまり食品はそうでもなくて、
ご飯とかおかずとか作るのは大好きやけど、
クッキーとか、ジャムぐらいはあるやけど、
クッキーとかケーキとかいうのは、
あまり得意分野じゃなかったんやけれど、
けど物作りは好きで、
伊丹にいるときはお友達と染色のグループを立ち上げて、
染色。
染めですか。
染めです。
それもやってたんで、
物作ることはとても好きやった。
染色は何で染めるんですか?
顔料。
顔料?
岩絵具か。
岩絵具っていうのかな。
それを、けどもそれは、
岩絵具だけだと定着しないから、
やっぱりちょっと化学的なものが入っててね。
自然の草手止めではないんやけど、
一応元になるのは顔料なんですよ。
岩、岩。
何で顔料ですか?
何か、
だからやっぱり、
手に入りにくくないんですか?
専門店がある。
やっぱりほら、
すごい化学繊維で染めて、
赤しいとか、
青は惜しいとかいう色は嫌だから、
自然な色で何かできたらいいなっていうところの発想。
そういうことだね。
それも長いことしてたんですよ。
友達3人と立ち上げて、
リシーが新しいもの好きなんやけどね、
女性のグループの、
自分たちで活動するグループに、
お金を貸してあげましょうっていう、
補助金。
補助金なんやけど、
くれはらへんねんね。
かやさなあかんねん。
かやす?
かやすの。
かやさなあかんねんけど、
かやさなあかん。
しばが無利子で貸してくる派でね。
だから、
かやしてねえやねんけど、
リシーはいらないです。
何年かかってもいいですっていう。
同じだけ返してくれる派で。
全然お金のないものが立ち上げたから、
そのお金がすごく欲しくて、
申し込んだらね、
一人目、第一回目に当選者果たした人は、
今流行りのヘルパーステーション、
立ち上がった看護師さんが第一号で、
私たちCで第二号やったんですよ。
それはなぜかっていうと、
障がい者の人を雇用して、
染色をする。
それをするだけじゃなくて、
バッグとか服とか、
そういうものに加工して、
それをいろんなところで販売する。
それは福祉の切り口じゃなくて、
アーティストとしての切り口。
めちゃくちゃ先進的じゃないですか。
今いっぱいやってる人もいるけど。
早くも。
それをしたのが阪神大震災の年。
12:03
おもろい。
それだけでもだいぶ話できるけど。
結局3人しかいないから、
一人の人は学校の先生をしながら
参加してくれたかったから、
パターンとったり、
デザインしてくれたね、服の。
あとおじさんみたいなおばちゃん2人が、
日に日に色を塗って、
それを蒸して、色のめして、
洗って、糊落として、
おじさんみたいな仕事をして。
おじさんもせえへんで。
その日はアーティストさんを探して、
遠くは福山まで行った。
福山、小山、
松坂にもお得意さんができて、
季節代わりに、
その出来た商品を持って行って、
そこで展示会をしてもらって、
そこにお客さんを呼んでもらうんでね。
それは五福屋さんやったんやけど、
五福屋さんも着物はもう売れない時代になってたから、
なんかちょっと変わった切り口をしたいと思ってある
五福屋さんに行き渡って、
そこで展示会をしてもらうんだけど、
1泊2日とか2泊3日で行くんだよ。
おばさんは。
30年前からやってます。
こっちのご飯は作り置きしておいたら、
娘が大きくなってたからご飯のことしてくれて、
お母さんはおっさんになって営業に行って、
そこで採水したり、
発注をもらって持って帰ってきたら、
もう一人の人がパターン取ってくれて作って、
それを納品してっていうことです。
ものづくり。
それを止まるとね、
毎月返していこうかねって返せなくなる。
そういうこともあるんですかね。
安く売りすぎなんちゃうかな。
場所もね、古くなった平屋のお家を借りてて、
そこのお家賃払い、
死に返すお金で、
決まった金額毎月出ていこうって。
それを年出するために、
消化者の人たち4人か5人いてくださったけど、
そういう人たちには、
ある程度安定してきたらお払いするから、
ちょっと今は通ってきてくれて、
仕事してくれるだけにしてほしいっていうことを
親御さんと相談して話して、
いついつ何日、何時間来ましたっていうのを、
ずっと長い年月、長年取って、
後々生産してお金払うようにしたんやけど、
その間は私たちも無休やし、
彼らも無休で、
なぜ家賃と死に返すお金だけは、
とりあえず年出していかなかったのか。
だから手弁当で、子供で福山走って行ったり、
多摩農で2泊3日とかで、
15:02
おご飯を食い屋さんで支度してた。
話から脱線しますが、
それをしてたんやけど、
その事情が大変になったので、
それを一旦解散しましょうってこと。
そうだったんですね。
にしても昔から物作りと、
あとそれをビジネスとしてっていうのは、
市子さんずっとやってたことやね。
今に始まったわけじゃない感じがしたね。
新しいこと立ち上げるとか言うのも、
そんなんとか言うのは全然ない。
やろうやろうって思うんですね。
あかんかってもいいやん、やったらいいやん。
村の中でもそういうことをね、
声を出して、
じゃあ何か村にあるものを売っていこうみたいなのを、
賛同してくれる人が何人かいらっしゃったってことですね。
それかけっていうのは道の駅だったんですかね。
声かけ始めたのは私じゃなくて、
村のお茶をね、
今の駅で社長が東京へ持って行って、
物販の促進に行くんやけど、
それでお茶だけどうぞ、お茶だけって言っても、
ピンと気張らへんから、
そこでお茶入れて飲んでもらうときに、
ちょっとしたお菓子、手作りのお菓子みたいなのがあったら、
人も寄って気張るから、
何か持って行くもんないかなって言って、
山並のところにある直売所しかなかったから、
そこのおばさんたちに声かけて、
お菓子を持って行ったんね。
そのときは私たちはしてなかった、
出発前で。
そこで預かっていたやつを持って、
私のおばさんがいか張って、
そのときは村の手作りのお茶の混じったかりんとうですとか言って、
渡すんやけど、
ちょっとこれ違うよな、
もっと質のいいものを、
誇れるようなものを作ったものを、
持ってきたかったよなって思って、
帰りに新幹線の中で立ち上げようって思われたらしくて。
おばさんが思い張った。
そのときに、
仲間を集めたいって思ったときに、
の一人やったらしくて、
出発で。
まち子さんは痛みでもね、
村に来られても、やっぱり自由に好きな、
やりたいことをやり続けている感じはする。
今現在そうされてるなってのが分かるんだけど、
生まれ育ったときっていうかね、
昔の村の状況、
以前ちょっと保守的だったりとか、
っていうことを聞いたことがあるんですけど、
18:02
そのときはどういう状況でしたか?
やっぱりね、私は昭和29年生まれで、
戦後がまだ引きずられていた時代やね。
昭和29年って何年ですか?
1954年。
戦争終わってからは、
9年ほど経ってるから、
だいぶ復興はしてたと思うけど、
やっぱり人間の考え方とかいうのも、
外部からの人の出入りも、
交流もそんなにないから、
保守的は保守的やったしね。
長女、長男がね、
家、お墓、仏壇を守っていくっていう、
そういうこともね、今実際そうされてるし。
そうやね。
田舎やから特にかもしれないし、
守っていかなあかん山があったりとか、
土地がいっぱいあるとかいう、
お家以外の普通のお家でも、
やっぱり長男、長女が後を継ぐという風習は、
もう無視できない。
それを守り続けていかなあかん、
どうするねんっていう感じで、
今となったら、
男の長男さんでも家ポンと出て行って、
東京のほうで仏壇建てて、
お家がザラやけど、
その当時はもう絶対それを守らねばならない、
の中で大きくなって。
やっぱり長女と次女とは全く違うかったんですね。
そうですね。次女はね、
自由奔放に好き嫌いがあってもいい感じやったけど、
私はもう絶対好き嫌いは許されない。
お箸の持ち方とか、
背筋伸ばしてご飯食べるとか、
母親と父親じゃなくて、
そのもう一個上の世代、大きいおじいさんおばあさん。
おばあさんはもうそんな言わない。
お家は頑固なおじいさんがいたから、
そのおじいさんが私の横に座ってて、
一番の主の座に座って、
必ずそこが私の席やねん。
妹はちょっと、
お魚の食べ方とか、
ひじなんかついた日にはとんでもない怒られるし、
そういうことの教育は、
その大きいおじいさんがしてた。
そんな少女時代を過ごしまして。
それに対して反発みたいなことはあった?
その時はご飯の時間がとても嫌やったけど、
そんな逆笑えるような雰囲気では全然なかった。
絶対的なおじいちゃん。
おじいさんも絶対主義ってね。
うちは女の人の家系で、
私のそのおばあさん、
その怖かったおじいさんの嫁、
おばあさんも、
このおじいさんは養子に来たはねんね。
21:01
三重家の告げから。
私の母は、この二人の本当の子供じゃないけど、
幼女にもらってて、
産いた男の子がいない。
二人とも外から来た。
私も女やったから、
養子を取るっていう立場で、
三代続くべしやった。
昔は女の子が養子さんもらって、
もうそこの家の苗字を継いで、
行くっていう風習があったから、
男の子はもちろんやけどね。
やっぱりちゃんときちっと育て、
しつけをしとかなあかんっていうのが、
おじいさんの考えやった。
それはどうやって変わってったっていうか、
抜け出せたんですか?
案外ね、早くそのおじいさん、
ボケてしまった。
変わってしまったんですね。
認知が始まって、
私が高1のときに亡くなってるから、
小学校ぐらいの間だけ、
結構わーってしつけされたけど、
あとはもう全然、
かわいいおじいさんになってしまわなかったから、
大丈夫でしたよ。
ショックはなかったの?
おじいさんもそんなに、
小学6年生ぐらいまでいろいろ言われたけど、
あんまり言わなかった。
一番大切なときに言ったと思えるよね。
ここで仕込んだらもう染みつくもんね。
そんなに長く言わなくても、
お魚もきれいに食べれるし、
残さないし、肘つかないし、
やっぱり三つ子の魂じゃないけど、
それぐらいのときに一人いてもらうと、
それが普通でいけるから、
あとなっては感謝してます。
おじいさん。
おじいちゃんが、
かわいくボケてしまったために、
わりとまち子さんは自由になれたんですか?
そうやね。自由になれたね。精神的にね。
何の拘束も染みつきもなかったから、
自由に。
私の両親は両友とも稼ぎでやったから、
おばあちゃんといることが長かったけど、
全然その三人はすごく大事にしてもらえたし、
家を出られたのは結婚されてからですか?
結婚の前に、
高校までは家から通ってたんやけど、
大学行くときに4年間、
外宿をするという冒険に出ました。
どこに行ったんですか?
京都市内の下宿ってすごい憧れ。
24:01
学生の街やから。
母親も父親も、
別に家から通える学校にしたら?
って言われて、
まあねとか言いながら、
作戦でちょっと遠いところの学校にして、
ちょっと通うの大変かもみたいな。
出たろ。
出るぞ私は、みたいな。
作戦がまんまと成功して、
4年だけ京都市内で住んでて、
長い休みとかお正月とかは、
帰ってきたりして、
卒業と同時にまたこの村に帰ってきて、
そっからは結婚で出るまでは、
村にいました。
それが苦難の時代だったんですかね。
割とおじいさんはいないけど、
今度は村の空気感っていうか。
いつまで一人でいるんやって、
早く養子をもらえよお前はみたいな。
あちこちに突き刺さるような。
親は思ってるけど、あんまりね、
目と向かって言わないけど、
近所の人とか親戚の人とかが、
いつまであの子何したの?みたいな。
そういう空気感の中で暮らしてる。
なかなか保守的な村だったな。
その時代とかね、
いろんなことも関係するなと思うんだけども、
僕たちもこの村に移住してきて、
すごく移住者もたくさんいらっしゃるし、
いろんな才能があることがたくさんいる。
りんださんなりみちこさんなり、
インタビューさせていただいたんですけど、
そういうふうに移住者がすごく盛り上がってきたっていうのは、
大体いつぐらいからなんですかね。
年数で聞かれるとあれなんやけれど、
一番最初は移住者っていうか、
銅線棒にね、清水さんっていう陶芸家の方が来られて、
あの方が一番最初だったと思うんですけど、
結構自分と焼き物して頑張って、
一緒に働いて、
一緒に焼き物して頑張って張って、
それと関連があったかどうかはわからないけど、
ぽつぽつと人が、
外部から移住の方が来られるようになって、
私はすごく思うのは、
この場所、この京都の一番南の橋、
東の橋のここって、
なんかパワーがあって、
人を引き寄せるようなパワーがあるんじゃないかなと思って、
それは道の駅でもそう思うんやけど、
別に誰かが何か努力をしたわけではないのに、
すごい素敵な人たちが集まって、
自然発生的に集まってきはる、
27:01
地場のような、
かなーって時々思う時があって、
この人を選んで、この人に来てもらいたいとか、
言ったわけじゃなくて、
なのに、なんて素晴らしい人がいっぱいいるのか、
来てくれてはるんやろうと思うんですよ。
そうだね。偶然。
偶然で、
お友達のお友達って言って来てはるね、
方たちもいはるけど、
それを私すごく感じてる。
確かに。
なんか聞いてると、
移住失敗した人の話とか、時々聞くと、
いいと思って行ったけど、やっぱり地元の人と
馴染めないで、馴染めないまままた
町に帰っちゃったとかいう話を聞いたりするけど、
ここはなんか、結構受け入れ側も、
来たんやったら、そこでいてたらいいや、
みたいな、そういうちょっと広いというか、
無関心を装ってるようでもないねんけど、
自由にどうぞしてちょうだいみたいな、
雰囲気をみんなが、
村人が持ってるかなーって。
ありますあります。
なんか興味はあるけど、
好きなことしたらいい雰囲気はある。
なんかすごい声かけてくれる人はめっちゃ多いし、
なんかこんなんやってるんですって言ったら、
そう言って、他の人にも話してる、
みたいなことはすごいある気がする。
だから、誰々から聞いたけどとか、
みんなこんなんやってはるんでしょっていうのを、
自分たちから言ってへんのに、
なんか知ってて、なんか受け入れられてる感じは、
すごくあること。
だから、来た人がみんな定住してるかっていうと、
会わなくて出た人もやはるけど、
今ずっとこうして居続けてくれてはる人っていうのは、
相性が良かったというか、
受け入れる方も、すごくフレンドリーになれて、
接点があったりとかして、
住み続けていけるかなと思うから。
今まで移住の人が来ないで、
私たちが育った時は、
この住みっこの子なんか嫌な感じっていうのが、
すごく淀んだ空気感を感じて、
私は大きくなって、
20代も嫌いなと思ってたけど、
それとも、今とは空気感が全くゴロッと、
真逆になった感じがする。
だって私が20代を過ごしてた頃は、
外部から誰も一人一人して、
人は入ってきてはらへんかったからね。
出ていくことはあってね。
出ていくばっかりで、新しく誰かが、
結婚してお嫁さんとして、
気張るような人があったとしても、
30:00
外部で気張るような人が全然なくて、
何が変わったのかな?
それが不思議だし。
人も変わったと思う。
古い感覚の方がいなくなって、
まだ若かった人が、
中心的な年代になった時に、
全然受け入れOKみたいな風潮が生まれた、
みたいな感じだし、
根っから農業だけしてある人もいるけど、
大唐という本郷という地域は、
みんな大阪とか奈良とかへ、
働きに行ってた人とかがいるから、
外部の人との接触も多いし、
反応で農業を占って働きに行ったりとか、
JR国鉄に勤めてたりとかして、
街の人に対する拒絶感とか、
そういうのがない地域だったかな。
高本山にしても、
全く専業農家もあったけど、
おじいちゃんが農業している間は、
息子さんはちょっと半分働きに行きながら、
おじいさんが弱ってきたら仕事を辞めて、
専業農家に変わるとか、
そういうパターンの仕事の仕方をしていたから、
外部の人との接触に抵抗がなかったかな。
県境ですしね。
奈良、三重、滋賀、京都。
私が学んでいる、
ファーマカルチャーという考え方では、
エッジって言って端っこっていうのがすごいパワーがある。
ものすごくいろんな要素が集まってきて、
入れ替わったりとか、
新しく生まれてくる力が生まれる場所で、
そういう意味では、
端っこになりかけているときは、
もしかしたら何かが死んでいったりとか、
よどむときがあるかもしれないけど、
接点だというところが、
繋がる瞬間があると、
一気にそこが盛り上がってくるというか、
いろんな力が交わって、
また面白いものが生まれてくるという考え方がある。
まさしくエッジパワーだなと思う。
そういうのが開けた感じはあるよね。
それがここ2,30年というか、
もっと最近なのかなと。
もっと最近かもわからないですね。
10年、15年くらいかな。
そうやね。
単体で移住してきてくださって、
そこで創作活動を続けている人がいたり、
今はちょっとぬすがちだけど、
田山にロビン君が来たときに、
そこは何かを作るんじゃなくて、
音楽とかそういう形にはならないけれど、
そういうものを突き詰めていくために、
33:01
お父さんとお母さんが先にね、
土地を買って、
そこに掘ったて小屋みたいなのを作ってあって、
そこにロビンが来て、
自分の仲間を東京の方から呼んできて、
ガーデナーズクラブかな、
っていう団体を作って、
いろんなイベントを仕掛けたりしてくれて、
一気にワッてなったような気がする。
村キャバもそれなの?
村キャバも。
芸術家で来てくれなかったら、
自分の芸術を突き詰めていかれるから、
あんまり他の人との接触が少ないけど、
ロビンが来たことで、
イベントことをやろうっていうことが基本になって、
そこで自分も作曲したものを発表したりとか、
そういう場を作るようになったからね。
そこでまた一気にワッて広がっていった気もする。
この間、村キャバのお話を聞いたときに、
お父さんは、
地元の方、もともと住まわれている方も
やっぱり一緒になっているっていうのが、
そこがすごいよなって思って。
異住者だけが集まっていっちゃわない。
だから、歌山の旧の小学校でするけど、
近所のおばちゃんがエプロンのままででも来て、
みんな踊っているから、
私も踊ろうかなみたいな感じで。
村キャバは元々、
どういうコンセプト?
何がきっかけ?
村キャバって何なんですか?
ロビンという音楽活動をしている子が来て、
そこで茶農家の若い子と、
それからその嫁たちと、
楽しいことをやろうやって、
イベントをしようやって。
それだったら、小学校の体育館を使ったらいいんちゃう?
ということになって、
そこからどんどん話が広がっていって、
演奏する人を募りましょうとか。
音楽イベント。
音楽複合イベントみたいな感じで。
それに伴って、食べ物も出しましょう。
みたいな感じで。
お茶のカクテルとかがあったのかな?
ウェルカムドリンク。
そういうこともやってた。
茶農家の男性たちが、
普段は偉い格好でお酒をしてるけど、
その時だけはピシッとして。
黒服っぽいのを演出して。
あとドラッグクイーンというかね。
ドラッグクイーンの人を、
ダンサーを呼んで。
それも大盛り上がりで。
すごい、ちょっといかがわしいラジオ体操。
本当に。
36:00
ヤッターポークっていうのは面白いんだけど。
そういうのとかもね。
まち子さんは、そこにはどう関わってたの?
食べ物で出たり、
観客として踊ったりしてたりとか。
そうだね。
誰でもがスーッと入っていける空気感やった。
面白いね。
私、そんなこと嫌とか言うでくれ。
嫌嫌行こうや。
ちょっと興味あるよね。
わーっとはできないけど、
ちょっと体を動かしてる人がいたりとか。
まち、栄館でも楽しめるやんみたいな。
本当ですね。
今はちょっと違う方向になっちゃったから、
また村キャンバーもやってくれると思うけど、
また手洗ったら参加したいなと思って。
本当ですね。見てみたいね。
いや、出るんですよ。
何で出たらいいのか驚く方。
練習します。
言っちゃった。
離れててもいいし、場所が離れててもいいし、
夫婦やからって常に一緒におらなあかんことはなくて、
別に住んだらいいじゃないですかって。
時間帯もずらしたらいいし、
それだけどどっかでコミュニケーション取る時間取って、
昼間ご主人は2階に出て、私は下。
お昼どうするって、私は今から出るから、
自分が食べなさいよとか言って、作らないでね。
自分が食べるのは自分で作る。
そういう暮らしもありですよっていう自分に乗っててね。
これやと思ったらしい。
だからずっといるから嫌なとこも見えるし、
喧嘩もするし、くそーと思わなあかんけど、
自分のペースで動いてたり、向こうも自分のペースで動いてて、
どっかで接点があったらそこで一緒に映画行ったりとか、
ご飯食べに行ったりとかできたら、
そういう関係なんだろうと思って、今ね。
じゃあマチ子さんと旦那さんの重なるとこっていうのは、
どういうとこなんですか?
人間として、子供の娘が結婚するときの動向とか、
そういうときは、ちゃんと勝手にしたらええやんではなくて、
一緒に考えようやーって。
そういう風になるし、
必要以上にベタベタはしない関係かな。
それでバランスが取れてるってことだしね。
それで私が押し切ったかもしれない。
でも旦那さんもそれは承知したってことね。
そこでまた出てくるのは、
よし娘をもらった宿命やと思ってる風なことを時々チラッと言う。
39:04
ちょっと寂しいってことね。
まあそうやろうね、きっと。
ああ、そっか。
見ないフレーズ。
でも一応毎週変えるわけやからね。
ほんまそれがすごいよ。
そこはちゃんとしてる。
それは私が自由を得るための手段。
ご飯も作らない、一遍も帰ってこないやったら、
もう本当に別境で悪い方にしか進んでいかないけど、
そこを回避するために、
コミュニケーションを取り、がてら栄養補給をしに帰る。
向こうは迷惑と思ってるかもわからないけどね。
それはないじゃん、やっぱり。
もう丁寧にしてしまって、旦那も。
家にいる時間が長くなったら、
やっぱりずっと一緒にいるよりは、
時々ぐらいの方がいいと思う。
うまいね、確かに。
てな感じで。
腰を折りました。
とんでもないです。
じゃあまち子さん、お聞きします。
まち子さんの野望。
野望って言うと大きいけど、
ワクワク考えてること。
今一番楽しいこと。
考えてて楽しいこと。
やってることでもいいよ。
野望はまたそれだけね。
あと2、3時間くらいですよ。
今ね、とりあえずまだ年齢にもかかわらず
頑張って働いてて、
いずれは夫とも一緒にね、
最後はね、
どっちがどうなるかわからないけど、
それは最初に別住みした時の約束で、
どっちかが体調を崩したり、
介護が必要になったりした時は、
一緒にベッタリっていうかね、
必要だから一緒に住もうねって言ってるんだけど、
それのタイミングはどうなるかわからないし、
どっちが先にこの世とお別れするかもわからないけど、
そのタイミングを測りながら、
私は北海道に移住します。
出たー。これですよ。
北海道移住計画。
北海道移住計画が私の野望。
じっとね、言わないでいると、
崩れてしまうから、
みんなに言って歩いてる。
私は行きますよと言ってて、
言っとけばね、実現しないとあかんからって。
移住っていうほど大したことじゃなくて、
最低でも1ヶ月とか2ヶ月くらい、
最小限の荷物を持って、
42:01
北海道行って、そこで自分の機能を向くままに、
うろうろして、気が済んだら帰ってきて、
また元の暮らしに戻って、
家族になり、介護をしてっていう感じに。
夫が来ないとあかんけど、
夫がいなくなるのを待ってたら、
私は行けなくなるかもわからへん。
どのタイミングで行こうかなとは思ってる。
それはまずは一人で行きたい。
もちろん一人で。
絶対に一人でも、
そんなに機能を向くまま、
1ヶ月でも。
ここが気に入ったら、
ここに3日くらい行っててもいいし、
また次の目的地を見つけて、
1日電車で移動かもわからへんけど行って、
そこで思うように、
いろんなところを見てる感じで。
なぜ北海道ですか?
北海道は、
大学の2回の時、
3回の時か。
2回の時かな。
同じ学科の友達5人と、
昔言っても、
たぶん2人は若いからわからへんけど、
カニ族って言われた。
聞いたことあるよ。
リュック背負って。
カニって背中にね。
改札を横向きで通るからって聞いた。
リュックっすよ。
今時のようなスーツケースじゃないね。
昔はリュックなの。
旅行はリュック。
でっかいリュックって言ってた。
そう。
夢の星とかのリュックに、
必要なものを集めてリュックにして、
それこそ改札を通せんと通られへんぐらいの荷物で、
カニ族が北海道には、
夏になるとうわーって、
全国からカニ族が。
その時はね、
なんと学生にもかかわらず、
1週間も行ってきた。
ちょっと早めに、
自主的に夏休みを取り、
で、そこから1週間。
それがものすごく自分の中では、
原点やね。
楽しかったし、
この山の中で暮らしてるけど、
北海道の雄大さにも、
ノックアウトされたというか、
なんてすごいんやろうと思って。
日本にこんなところがあるんやと思って。
だって外国とかも行ったことがないんやから。
だからすごい雄大な景色とかいうのに、
本当にノックアウトされて、
北海道が頭にインプットされてしまう。
そこから何回か、
何回も旅行とかには行ってるけど、
それは旅行で行ったら、
帰ってこなあかんの。
だから住むということを一度、
自分が命を収めるまでに一回したい。
いいことを、
だからそれは若い時には、
やっぱりしがらみがいろいろあるし、
できないから、
かといってもっと汚いもんなったら、
体がついていかないから、
元気なときで移動も可能で、
ボケてないでって思うと、
もう近々にそれを実現したいなと思うけど、
45:00
やっぱりなんかいろいろ考えるとね、
決心は、
いつとはまだ決めてないけど、
仕事ももうちょっとしたいし、
とは思って。
まち子さん、
必要な方もたくさんいらっしゃるからな。
いやいやいや、
そうでもないかもしれないけど、
まだ今のところ、
もうちょっと道の駅も見届けたいなと思うし。
まち子さんやったらね、
すぐに、
でもそういうことができそうやのに、
あえて膨らませて、
取っておいてる、
なんかね、
乙女の夢の感じが、
おもしろいっていうか、
あえてやらずに取ってるけど、
まだその、
だってね、
お金があって時間があったら、
明日にでもすぐパッと飛び出そうと思ったら、
飛び出せるけど、
もうそこをこう、
じくじくじくじく、
考えていく楽しみ。
で、我が家には、
北海道の全部の地図がある。
で、それに、
あのー、
なんかテレビで見て、
あ、ここすごいなって思ったらこう、
開いてこう、
書き込む。
書き込んで。
書き込んで。
書き込んで。
あ、じゃあここはそんなに。
書き込んで。
勉強してる、ちゃんと。
勉強してる、ちゃんと。
ほんで私たちが行った時は、
まだあのー、
線路っていうか、
JR、あの時はもうJRになってたんかな、
かな、
の時で、
ほとんど移動して、
あとはバスとかぐらいやったけど、
今もう北海道、
配線のとこがいっぱいできてるから、
なかなかその移動が大変なんやけれど、
それの地図を見ながら、
ここ行く時はこうしてとかいうか、
物の中でね、
作ってるというか、
温め続けてて、
そうそうそう。
わー、いつこれ、
行くで。
行くで。
行くで。
明日から行くわ、
とか言うてね。
そうそうそう。
行きます。
あのー、
手島さんの青い家で、
何年か前に、
あのー、
彫刻家の人がね、
1週間、2週間かな、
彫刻の展示をしはった。
その人なんて、
北海道のアシベツの人だった。
ちょうど真ん中の辺りのね。
そこからね、
自分の作品を車に積んで、
運んできはった。
すっごいパワフルやろ。
で、その時に、
現地で、
手島さんのご主人に、
木を調達してもらわはって、
チェーンソーで、
牛か何かを掘らはったんですよ。
それをパフォーマンスしはって、
その時たまたま、
うーで、
お昼のランチを提供するタイミングやってね。
めっちゃよくお話ししてくれはって、
実は私、
こう思ってるんですよ。
ぜひぜひ来てください。
市役所とか問い合わせたら、
そういう短期の、
人用の住宅とかの、
アッセンとかも、
あっちのこっちでやってはるよ、
教えてくれはって。
その人と、
フェイスブックを今も交換してて、
その人がずっと、
移動するたんびに、
いろんな写真を撮ったのを、
アップしはるじゃないですか。
それと更新しながら、
夢はどんどん膨らむ。
48:02
膨らみすぎて。
すごい、
すっごいその方も魅力的な方で、
そうなんですよ。
彼にも会いたいし、
彼の作品も見に行きたいし、
彼がいいっていう景色も見てみたいし、
写真だけではね、
やっぱり現実的に、
自分の目で見たいなと。
まーちこさん、
1ヶ月じゃ絶対帰ってこないのかな。
半年以上やな。
お薬の加減があるので、
そういうこともあるんですね。
3ヶ月。
今やっと伸びてね。
3ヶ月に1回の検診で良くなって、
その3ヶ月はもらったお薬を持っていけば、
自由にできるんだなーっていうのが、
分かったからよし、
3ヶ月。
と思ってました。
じゃあ、いつぞや夫に言ったら、
えー?とか言われて、
えー?とか言われて、
え、言ってなかったっけ?とか言われて、
私行くよ。
えー?とか言われて、
そやけど、
申し訳ないけど、
多分あなたがいなくなってるかもしれないけどね、
とか言って、
これはいつでもいい前提やなーとか言って、
いつも言ってたけどね。
残念、そこはね。
そうなんです。
なんとは。
お外様の。
外左右。
で、合遊なんかはあんまり好きじゃないし、
ホテルもいいかもわからへんけど、
だから野蛇さんの協力を得て、
ゲストハウスのピックアップをして、
そこで3泊4日とか1週間とか、
約束させてもらって、
そこに荷物を置いて、
行けたらなーとか。
なるほど。
膨らみますね。
膨らみますし。
もう一つだけ聞いていいですか?
はい。
この村ね、
僕たち引っ越して今もないんですけど、
半年ぐらいかな。
この先どうなっていったら、
まち子さんとっていいかなーって思ってますか?
村のこの存在がですか?
今現在もね、
先ほど話してたように、
すごく盛り上がってる感じがある。
そうだね。
だからもう、
人口はどんどんどんどん少なくなってきて、
消滅集落の何年か前に、
全国の発表があったときに、
17位あった。
ここの村ね。
人口の少ないところから。
消滅するランキング。
もうすごく上の方にね、
やったんやけど、
お年寄りはもちろん減っていかはるけど、
新しくね、
ぐっちゃん達のように来てくる方たちでも、
プラマイでだいたい今、
2600人ぐらい?
だけども、
人口は増えていく可能性は少ないと思うけど、
51:05
魅力的な村で生き続けてほしいって思うから、
やっぱりそのものづくりする人であったりとか、
きっかけは道の駅に来て、
そこから村のことを知りたくて、
あちこちいろんなところに分け行ってくださって、
いいとこも悪いとこもそこで見えていくからね。
やっぱり、
より多くの人に、
知ってもらい、
来てもらい、
体験してもらい、
みたいな村になれれば、
地元からいえはる人と、
後から来た人が、
理想的な言い方かも分からないけど、
仲良くできるのが一番、
何のわらかまりもなく、
すっと溶け込めるような、
雰囲気がある村だったらいいかなと思う。
20代の娘自分はとっても憂鬱な、
鬱陶しい村だったっていうイメージしかなかったのが、
どんどん歳を重ねることによって、
結構この村面白いやんって思う。
いろんな人がいるし、
でも、
きっかけは道の駅かも分からないけど、
いろんなものを作る人が増えてきたし、
一般の人たちでも、
あんなして出せるんやったら、
自分らも、
蜂蜜の農家さんがね、
蜂蜜、
今までは自分で作って、
それを誰かお友達にあげたりしてたのを、
瓶に入れて売るようにならったりとか、
りんなさんみたいな人が来はって、
いろんな体験を村のあちこちで、
試みてみたり。
今年の夏は、
カブトムシをね、
探しに行こうツアーを、
隣のホテルがシャハあったら、
すっごいたくさん募集があって、
そういうことされたんですね。
それの、
ふろってる人が、
そこ泊まった人を集めて、
現地に連れて行って、
この木にいますよ、みたいなところ。
だからそんな結構、
田舎ならではの面白い見方ができるように、
だんだんなってきた。
昔の私が20代の時から思うと、
ものすごい差があると思う。
村人もそうやって楽しんでるし、
外部から来た人も、
いやあそこ行ったら結構なんか、
面白いことしてはるやん、みたいな。
感じてくれてはるから、
このままの感じで、
もっともっと奥深いところがあるから、
もっともっと開発して、
広がっていけばいいなとは思う。
そうですね。
この間、熊本商店のりょうごさんの、
サバ寿司作りとか、
本当においしいサバ寿司だったし、
ああいう風に教室というか、
教えていただける。
そういう元々、
たぶんポテンシャルがすごい高かったのかもしれないなと。
そういうものを引っ張り上げてる、
引き出してる感じが最近は特にする。
特にね、山の中で、
ももちゃんが一生懸命やってくれてて、
54:01
そういうのがヒットしてるなっていう感じでしたね。
それこそ昔、南山城音頭も、
水の駅で流れるだけで誰も、
ああ、そうやったなみたいなやったのが、
また復活しそうな気配やから、
コロナが収まったら、
大盆踊り大会みたいなのが開催されるか、
踊るねーって言って。
だから、
そこら辺からもまたね、
楽しい村になっていくような気がする。
昔も踊りってね、
ここの本郷区やったらね、
夜中2時まで踊ってた。
大分踊ったね。
それは私らだけじゃないよ。
私らの母親の時代、
だからその時に、
50代のおばさま方、
帰らへんもん。
すごい。
ずっと。
そんな人がね、端からのき並み、
あのおばちゃんも、
もう今は亡くなっているけど、
生きている人もいらんけど、
あのおばちゃん、
もうみんな、
ずっと踊ってあった。
大好き。
大好き。
血が踊るわけですよ。
そうそう。
それがまた復活できるかもしれない。
楽しみ。
楽しみ。
だからなんかね、
ワクワクするような、
今は村になってきているかなって。
確かにワクワクはするね。
それは一重に、
元いる人たちだけじゃなくて、
一重で来られた人が、
やっぱり自分たちの持っていることを、
発信してくれてはるんやん。
ただ自分がものづくりするだけじゃなくて、
そういう発信力も持ってはるから、
それがもう大事やと思う。
ただ来てさ、
じーっとしてはるん。
家だけそこに住んでて、
じーっとしてはるんっていう人じゃなくて、
みんなそれぞれ発信力がすごいから。
そうですね。
そうそうそう。
私は村が嫌で、
仕方がない時期もあったけど、
今は村が面白くて、
好きで、
いれていいなと思う。
村の一員であることがね。
いろいろ希望とか、
いろいろ言いかけたら、
どこに住んでてもあるから、
自分がどう楽しむか。
町に住んでたら町の楽しみ方、
田舎に住んでたら田舎の楽しみ方をすれば、
自分はそれでハッピーになれるんだなと思う。
しかも今どっちもやってるからね。
町行ったら町でね。
パトロール行くとこがたくさんあるんで。
どこでも楽しんであるからね。
振り向いてるからね。
みんなにも振り向いてるからね。
一緒におれて楽しいわ。
間違えた。
ありがとう。
ご迷惑になるかもしれないけど。
とんでもない。
ずっと遊んでください。
お願いいたします。本当に。
今日はありがとうございました。
57:01
あわにまちこさんでした。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
あっぱれでしたね。
ねえ。
まちこさん、まちこ節全開で。
実はまだまだね、
話し切れてないエピソードがたくさん。
村伝説というか。
村伝説。
やっぱり昔のことを知ってるっていうのは本当にすごくて。
本当に面白いことばっかりで。
そうなんですよ。
まずはシリーズ第一弾ということで、
まちこシリーズの第一話と思っていただいて。
伝説のサンバさん話とかさ。
めちゃくちゃ面白い。
サンバグッズを後ろに担いでね。
満月に。
夜をさまようじゃないけど。
全然意味わからんと思うけど、
素晴らしいお話なんで。
これもね、ちょっと
次回以降のまちこシリーズ
リクエストいただいたらね、
案外早く実現するかもしれないので。
なんて楽しい人なんでしょうか。
しかもいつもめっちゃオシャレやねんな。
とても素敵。
ベレー帽をね、ちょっとかぶって。
素敵なお飯物をいつも着てらっしゃってね。
遊びに行くのとかって言って。
そう、車でピューンってな。
出かけて行くみたいな。
軽やかにこう。
だってまちこさんの真似してベレー帽買ったもんね。
なられへんけどね。
素晴らしいです。軽やかです。
本当に街と村行ったり来たり、
移住者と地元の人行ったり来たり、
みんながみんなこう、
村に行ったら声かけるっていう。
そういう方でね。
まちこさんのお料理をね、
いつも本当に上手なんやけど、
そのまちこさんの作って貼る、
仲間たちと作って貼るおかん弁当は、
道の駅南山城村で作って貼るし、
ジャムとかね、
作ってるし。
なんか振り間とかでもね、出店して貼るときあるね。
そうやね。
なのでそれを調べて、
狙って会いに行ってくれたら嬉しいなと思いますね。
聞いてる人もちょっと。
そうだね。
種とクラス聞きましたって言っても、
1:00:00
何も得点はつきませんので、
私たちが嬉しいだけです。
ですけどね。
そんなわけで、
実はこれは10月の23日、
そうこうという、
24世紀で、
お送りする予定ですね。
そう。本当に、
小読み通りとても寒い。
うん。
この間は全然小読み通りじゃないねって言ってた。
寒楼っていうのに、
めっちゃ半袖やんって言ってたのに、
いきなり来たね。
突然ね。
日も降ってきたの。
毎日朝寒い寒い言ってんの。
13度ぐらいやった。
もっと寒くなってた。
昨日一昨日ぐらいかな。
ほんと?
ひえーってなるんですよ。
霜降りと書いて、
そうこうですけど、
冬が始まって、
始まったね。
秋が全く感じれない。
感じれなかったわけじゃないけど、
気温としてはそんなに秋っぽい。
いきなり夏の後、
もう小枯らし吹きそうみたいになったって感じやね。
そうですよ。
なんか、
感じる秋の気配ありますか?
庭とかはないですか?
庭ですか?
まだ紅葉も始まってないしね。
そうやな。
柿がたくさん取れてる。
どこ行っても柿だらけ。
今日とかも。
集まるたびにね、
全員柿持ってくるみたいな。
待ってますって。
持って帰ってみたいな。
帰ってきちゃったみたいなね。
そう。
柿にまみれております。
そうですね。
次回は、
はい、次回は11月の、
11月になるんですね。
11月7日に立冬、
冬立ちなを迎えますね。
うん。
今はね、
秋の土曜入りをしてて、
立冬まではね、
ちょっといろいろ、
季節の変わり目で不安定な時期になるかな。
そうだね。
体調崩しやすかったりとかするしね。
うん。
でも畑はまた、
冬越しの種まきの季節っていうか、
なので、
米が終わったから麦まいたりとか、
豆類で、
遠藤とか、
空豆とか、
巻く時期なんで、
実は種の会、
南山城村でやってる種の会が、
次回山の中でやる日が決まったので、
お知らせしたいな。
1:03:00
はい、どうぞ。
11月の10日の水曜日、
午後1時半から4時まで、
出入り自由で、
また種取りをしてみようの、
第2回って感じなので、
種取ってみたいものがあれば、
持ってきてもらったり、
その場で種の交換会とかをしようと。
そしてもう、この間から、
いろんな人が種を持ってきてくれて、
預けていくので、
種の図書館もやっちゃいます。
オープンというか、
オープンデイっていう感じで、
なるほど、プレオープンみたいな感じなのかな。
そうやね。
って感じなんで、よかったらね、
お近くの方は、
お時間あったら、
来てくれたら嬉しいなと思います。
そうやね。
今度もあれね、
農家さんっていうか、
そうやね。
どうせん坊の農家さん、
訪ねる旅をしますので、
それをまた報告できるかなと思います。
うん。
わかりました。
ということで、今回も濃厚でしたね。
そうですね。
素敵なゲストでした。
これからもたぶん楽しいお友達として、
お付き合いしていけるかなと。
目指せシリーズ化。
ということで。
カコつけて、
一緒に遊んでもらおうっていうね。
そう。
近所ですし。
というわけで、
これまで。
またねー。
またー。
01:04:39

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