それぞれについてちょっと具体例を挙げていきたいんですけど、
まず時間的比較については、この間こんなことをAIと議論しました。
最近、試列矯正をする人って、最近でもないか、この10年ぐらいなのかな、試列矯正をしている人を結構見るなと思って、
で、ぱっと見にはすごい綺麗、歯が整っているように見えるんだけど、矯正しているような人って結構増えたのかなと思ってます。
それで、試列矯正についての考え方というか、試列矯正というのは人々がどう思っているのかというのを時間的に比較するような議論をしました。
そうしてきた中で見えてきたのが、昔は噛み合わせを改善したいよね、みたいな。
要するに鼻並びがガタガタなのを直したいみたいな、そういう動機で試列矯正ってしてたけれども、
最近だとインビザラインとかそういう技術的な革新があって、昔みたいに負担ができるだけ低いような、そういった技術革新があったりとか、
あるいはその鼻並びが噛み合わせみたいな物理的な話だけじゃなくて、
それによって姿勢が悪くなるとか、虫歯が出やすくなるとか、そういう話とか、予防医療的な、そういう文脈によって試列矯正した方がいいよね、みたいな。
そういうふうに考え方が変わってきた、みたいな話を知りました。
こうやって時間的にある考えが時代の変化とともにどういうふうに変わってきたのか、みたいな比較をするっていうのも面白いことなのかなというふうに思います。
空間的な比較の例を挙げると、昔大学の授業のときに印象に残ってた言葉があって、
例えば歴史を学ぶときに重要なのは、よく歴史を学ぶときってこういうことがありました、こういう事件がありました、こういう出来事が起こりました、みたいな話を基本的には学ぶわけですけど、
それだけじゃなくて、ある国とある国の歴史を比較することが大事なんじゃないかっていうふうに先生が言ってたんですね。
今ちょっとなんか変な音が流れ出したんで、何だろう。
いや、いいや、関係ないか。
その先生が言ってたのは、日本と中国を比較したときに、例えば科挙、試験を受けて完了になるやつ。
中国では科挙っていうのはずっと行われてきたんですけど、日本っていうのは中国からいろんなものを輸入したけど、科挙っていうのは結局定着をしなかったよねっていうようなことがあって、
何があるかを見るだけじゃなくて、何がなかったのかっていう見ることによって、文化の違いみたいなこととか、何でそういうことが起こるのかっていうことから本質的な問題っていうのが浮かび上がってくるよねみたいな話をしていて、それがすごく印象に残ったっていうことがありました。
これが空間的な比較です。
大体的な比較の例を挙げたいんですけど、例というか考え方みたいな話なんですけど、例えばある種の学術的な理論とか、あるいは政治的な主張とか、社会的な意見とかいろいろありますけど、そういったものを僕たちもそれぞれ持ってるし、
例えばXとかでいろんな議論がされたりするわけじゃないですか。一見というか、自分的にはそうだよなとか納得できるとか正しいみたいなことがあったとしても、実際には世の中には常に多様な考え方があるし、いろんな立場の人がいるんで、どれか一つだけが正しいみたいなのはやっぱり良くないんじゃないかなと思うわけです。
つまり、どの主張も言ったら仮説にすぎない、といえばすぎないわけなんで、常に大体的な仮説っていうのがあるんじゃないかなという視点が大事なんだと思います。
例えば、科学技術に関する主張であったら、オッカムのカミソリの原理みたいな言葉がありますけど、つまり複数仮説があったら、どの仮説がシンプルに現象を説明できるかっていうのがどの仮説がいいかの判断基準になるよねみたいな話だと思うんですけど、
そうやっていろんな仮説っていうのが常に大体的な選択肢があるんで、それらを比較、検討することが大事だよねって話なんだと思います。
最後にアナロジー的比較っていう切り口を挙げたんですけど、これはちょっと分かりにくいかもしれないですが、一見関係なさそうだけど、なんか似てるようなみたいなのを比較してみると面白いんじゃないかなっていう話です。
例えば生物学に修練進化っていう概念があります。これは全然違う種が同じような環境にいると、例えば体つきとかが似たような感じになっていくよねみたいな話です。
具体的にはイルカとサメって、イルカは哺乳類だし、アメって魚類じゃないですか。だから全然種として違うんだけれども、海の中を泳ぐみたいな環境が同じなんで、体つきも似てますよね。
どっちも魚っぽいと言うとちょっと変ですけど、泳ぐのに適した形になってるじゃないですか。そういうの修練進化って言うんですけど、例えばそういうのって言語とかでも同じようなことがあるのかなというふうにちょっと思ったことがあったんですね。
例えば言語にはいろんな特徴があり得るわけですけど、成長っていう言語の特徴があります。これは例えば中国語とかでよく一番最初に習うやつだと思いますけど、
マーっていうのをマーとかマーとかそういう感じで、音の高さで、日本人からしたらそれはマーっていう何か単語なのかなと思うけど、音の高さが違うと全然違う意味になるんだよみたいな、そういうやつを成長って言うんですけど、
この成長っていうのも言語の系統としては全然違う言語なんだけれども、別々の国というか別々の地域で独立に成長っていうのが発達したみたいな事象があるらしくて、これっていうのもある種の生物学の修練進化みたいなのと似てるなと思ってですね。
そうやって生物学、生物の体つきとか進化っていうのと言語の特徴っていうのは全然関係ない話に思えるんですけど、何か似てるよなってことで比べてみると面白い発見があるかもしれないなとかそういうことを考えたりしました。
というわけで比較について、比較というものを比較をするにはどういう軸があるのかなという話をちょっと具体例も込めて話をしてみました。
AIっていうのは情報収集や整理までは効率よくサポートしてくれます。
だけど、比較をすることでどんな新しい問題を見出すかっていうのはやっぱり人間にしかできない部分なのかなというふうに思ってます。
もちろん比較自体は、僕がさっき例に出したようにAIと喋りながらこんな比較してみたらどうみたいな議論してるんで、比較自体はサポートしてくれるんですけど、ただどういう比較をすると面白いのかとか、
あるいはそこから比較した中で何か新しい興味深い問題を見出すとか、あるいはそれがもしかしたらインパクトがあり得る問題かもしれないし、未解決の問題かもしれないんですけど、そういったものを見出すっていうのはやっぱり人間にしかできないのかなというふうに思ってます。
そんなわけで、比較っていう軸を意識してAIを使うことで、情報収集整理を効率よくできるというのはもちろん便利なんですけど、それを超えて新たな問題発見とかインサイトを得るとか、そういったことができると、よりAIの使い道としていいんじゃないかなというふうに思っております。
さて、今回も回り道をお聞きいただきありがとうございました。
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では、また次の回り道でお会いしましょう。さようなら。